【第二部 風と鎖】第37話 初雪までに
エルドは、林の入口で、後ろを振り返った。
山を下りて、町に荷を置いて、その足で来た。楢の葉は、あらかた落ちている。枝のあいだの空が低くて、灰色だ。風は無いのに、耳が痛い。雪の前の冷え方です、と、道でレイフが言っていた。
コンラートが、林の手前で足を止めていた。
「ファーレン殿。この先は、私が参ってよい所でしょうか。七年、聞かずにおいた所でございます」
塚の場所を、町は、この人にだけは言わずにきた。言わずにきた町の者が、いま、林の入口に立っている。鎌を提げた、左の耳の欠けた男だ。春に、石を頼みますと言って、町に残ってもらった。
「ディルク。代官殿を、石の前へお連れしてもよいですか」
ディルクは、コンラートを見た。長いこと見ていた。
「……書かれても、もう暴かれんのですか」
「暴かれません。黒い館は、門を閉じました」
「なら、俺が止める訳はありません」
太い声で言って、ディルクは先に立った。コンラートは、その背中に深い礼をしてから、林に入った。
◇
石は、枯れた草の中にあった。
人の腰ほどの高さで、少し傾いでいる。字は無い。春には膝まであった草が、いまは霜に倒れている。石の周りだけは、きれいに刈ってあった。
ゆうべ、杣小屋の火の脇で、マグダに言われた。
「継いだら、あんたは動けなくなるよ。領ってのは、持って歩けない。八年、歩いてきた子がだ」
「置いてよそへ行く気には、なりません」
マグダは鼻を鳴らして、杯に戻った。それきり、何も言わなかった。
エルドは、石の前に立った。
春には、胸が痛むかどうかを確かめに、ここへ来た。痛まなかった。今日も、痛みはしない。それでも、春とは違う所に立っている気がする。石の下にいる人たちの名を、全部、何も見ずに言える。
後ろに、レイフがいる。マグダは、道の見える所に。セシルは、ディルクの脇に。ヴァルドは石の向こう側に立ち、オーラフがその後ろに立った。コンラートは、いちばん端にいる。ユリアンは、石のすぐそばまで来ていた。春には、十歩手前で足を止めた人だ。供の三人は、林の入口に残してある。
「春に、ここで名を読みました」
石に向かって、言った。
「初雪までに決める、と言いました。申し上げます。——北の領を、継ぎます」
言ってみると、短い言葉だった。春から半年かけて、口に出すのは一息で済む。
誰も、声を出さない。ディルクの鎌の先が、草の上で少し下がった。石の向こうで、ヴァルドが目を閉じて、開けた。
「訳を、三つ申し上げます」
耳の痛さは、もう気にならなかった。
「一つ。春に読んだ六十余りの名は、どれも初めて口にする名でした。いまは、四冊目を見ずに、どの人の名も言えます。この人たちが仕えた領を、九年目も、誰のものでもないまま置きたくありません」
ハインツ。ベルント。アンナ。オットー。口の中で言うと、ベルントの所で、山道を一緒に上がった髭の若い兵の顔が浮かんだ。
「二つ。城が焼けてから、山のことは誰も決めませんでした。代官殿は、命に従いました。東の当主は、借りだと言って、槍を上げてくれました。借りで守られたままの村を、そのままにはできません」
「借りは、まだ返し終えておらん」
ヴァルドが、石の向こうから言った。
「では、残りは、隣の家としてお願いします。借りではなく」
鉄色の眉が、少し動いた。返事は、無かった。それが返事らしい。
「三つ。南で、約束を一つしました。川べりにいる兵の行く先を、春までに書いて届ける、と。継いでいない者の約束は風だ、と言われました。風にしないためには、継ぐほかありません」
息を、一つ入れた。
「ただし、誓いません」
ユリアンのほうを見た。
「王家に、臣従は誓いません。勅に、誓わせぬ、とあります」
「あります」
ユリアンは、うなずいた。
「それから、北の家は、誰にも誓わせません」
鎌を提げたディルクが、顔を上げた。
「私の従士は、誓っていません。毎朝、決めています。南の王女殿下に、それは主従といえぬ、と言われました。四十日かけて、主従で足ります、と答えてきました。その私が、北へ戻って、ほかの者に誓えとは言えません」
「誓いの無い家か」
ヴァルドが、仏頂面のまま言った。良いとも、悪いとも言わない。東の家には、紋を負った家臣が大勢いる。
ディルクが、一歩出た。
「……若様。では、俺は、どうすれば」
春に、宿の前で、誓わせてくださいと膝をついた人だ。あのときは、誓わせません、ここにいてください、としか言えなかった。
「毎朝、決めてください」
「何を、です」
「石の草を、刈るかどうかをです」
ディルクは、手の鎌を見下ろした。
「あなたの紋は、八年前に三日で薄れたと聞きました。それから八年、誰にも命じられずに、あなたは毎日ここへ来ました。……あなたは、とうにそうしています」
太い喉が、一度動いた。声は、出てこない。
「町の兵は、あなたの知っている者たちです。代官殿の下で、まとめる役をしてもらえますか。命ではありません。頼みです。明日の朝、決めてください」
「今朝、決めました」
ディルクは言った。早かった。
「若様が何と言われても、石と町にいる、と。……まとめるほうは、明日の朝のぶんに回します」
「城は、建て直しません」
エルドは、続けた。
「私は、あの城を覚えていません。覚えていないものを、元のとおりには建てられません。元のとおりでないものを建てて、城と呼ぶのも違います。町に住みます」
「焼け跡は、どうする」
ヴァルドが訊いた。
「そのままにします。厩のあった所を通ると、沢へ下りられますので」
後ろで、レイフが息を抜いた。笑ったのだと思う。
「若様」
ディルクが、言いにくそうに口を開いた。
「継がれるなら、もう、若様ではありません。御館様、と」
「若様のままで、お願いします」
石を見た。
「御館様は、この下にいます」
◇
「最初にするのは、山の村です」
エルドは、コンラートのほうを向いた。
「冬のあいだも通える道と、峠の見張りを。山の帳簿の次の行に、書いてください」
「承りました」
コンラートは、懐から小さな手控えを出して、書いた。書き終えるのを待って、エルドは訊いた。
「もう一つ、伺います。南の川べりに、行く先の無い兵が三千います。春から、北は何人なら食わせられますか」
炭が、止まった。口は、止まらなかった。
「帳簿の上では、百二十人でございます。この一年で、町へ出た者の空けた畑が三十四。道直しは、四十人で三年ぶんの仕事がございます。——ただし、申し上げます。町の者は、よその兵を恐れます。兵を恐れる訳は、この町には八年前の冬からございます」
黒い装いの兵のことだ。この町は、兵が城を焼く夜を、一度見ている。
「兵としては、迎えません」
エルドは言った。
「槍を置いて、雇いの証文を一枚持って、一人ずつ橋を渡ってくる者だけです。北の家が名を訊いて、一人ずつ雇います。それでも恐れる人がいるなら、その人の話も聞きます」
「三千のうちの、百二十でございます」
「はい。足りません。百二十は書けます、残りは書けません、と書いて南へ届けます。書けぬときは書けぬと書け、と言われましたので」
コンラートは、少しのあいだ、エルドの顔を見ていた。それから、手控えに目を落とした。
「……七年、できぬことを、できぬと書いてまいりました。そちらは、慣れております」
ユリアンが、外套の内側から、白い書状を二通出した。どちらにも、鞘に納めた剣と冠の印が押してある。片方の封に、小さく目印が付けてあった。
「叔母は、二通書いて、私に持たせました。どちらを開けるかは、あなたの答えで決まる、と」
ユリアンは、目印のあるほうを取った。
「こちらです」
封を切って、ユリアンは読み上げた。
「——エルド=ファーレン殿。北の領を、そなたに返す。誓わせぬ、は変わらぬ。代官コンラートは、王宮の任で一年、北に残す。そののち代官を置くか否かは、そなたが決めよ」
コンラートが、顔を上げた。一年残ることを、本人はいま聞いたらしい。
「叔母は、書状の外で、こうも言いました」
ユリアンは、書状を畳んだ。
「誓わぬ北の当主を、王宮は初めて持つ、と。初めてのことは、一年、隣で見ている者が要る、と」
あの人は、やはり、先に決めていた。こちらがどちらを言っても返事があるように、王都を発つ前に書いてある。何が足りないかまで、見越してだ。
「もう一通は」
「読まずに焼け、と言われています」
レイフが、火打ち石を出した。刈った草をひとつかみ、石から離れた所に置く。火は、すぐについた。ユリアンが、封を切らないまま、もう一通を載せた。白い書状が、端から丸くなって、黒くなった。
何が書いてあったのかは、訊かない。開けなかったほうの返事だ。
「エルドどの」
セシルが、一歩前へ出た。
「誓いが無いのなら、いまの答えは、どこに残るのですか」
「四冊目に、書きます」
「書いたものには、証人の名が要ります。書いた名は、あとに残ります」
「……お願いします」
四冊目を開いた。炭で、短く書いた。北の領を継ぐ。王家に誓わず、誰にも誓わせない。城は建てない。最初の仕事は、山の村。
その下に、名が並んだ。初めは、ヴァルドの角ばった遅い字だ。名の上に、後見、と書き足してある。
「おぬしが要らんと言うまでだ」
炭を次へ回しながら、ヴァルドは言った。
ユリアンの、整った字。セシルの字。コンラートは、細かい字で、代官、と肩書きまで書いた。ディルクは、炭を持ったまま、困っていた。字が書けない人だ。
「俺が、書きます」
レイフが、炭を受け取った。
「名を、言ってください。言ったとおりに書きます」
「……ディルク」
四角い字が、五つ目の名を立てた。
炭を返してから、レイフは、石の前へ出た。
言われていないときには、動かない男だ。その男が、自分から歩いて、石の正面に立った。頭を下げて、上げる。いつもの礼だった。
「御館様」
低い声が、枯れた草の上に落ちた。
「そばに、います。……あの晩は、言いつけでした。いまは、毎朝、自分で決めています」
エルドは、その背中を見ていた。この男が石に向かって何かを言うのを、初めて聞いた。
言いつけ、というのが何なのかは、知っている。夏に、王の前で、この男が口にした。明日は終始、エルドのそばにいろ。八年前の、宴の前の晩の言葉だ。八年たって、返事が石に届いた。
頬に、冷たいものが当たった。
見上げると、枝のあいだから、白いものが落ちてくる。一つ、二つ。石の肩に載って、すぐには溶けない。
「……九年目です」
レイフが言った。
初雪までに、と言った答えは、初雪より、ほんの少し早かった。
雪は、石の上に、少しずつ積もりはじめていた。
◇
林を出るころには、畑の刈り株が白くなっていた。
「八年、歩かせたんだ」
マグダが、隣で外套の前を合わせた。前を向いたままだ。
「座る所ができたんなら、あたしに文句は無いよ」
返す言葉を探すより先に、うなずいていた。
ユリアンが、反対の隣に並んだ。肩に、雪が載っている。
「エルド。雪の中の湯というものを、私はまだ知りません」
「私も、まだ知りません」
去年の冬は、川の町にいた。湯桶の冬だ。岩のあいだから湧く湯は、春に知った。雪の日のあの湯は、まだ知らない。
「湧きます。冬も」
後ろで、レイフが言った。
足が、少し速くなった。




