【第二部 風と鎖】第38話 あと百
エルドは、沢の石の雪を手で払って、ヴァルドの隣に腰を下ろした。
隣といっても、石を一つ空けてある。沢の音が、いつもより遠い。雪が音を吸うのだと、上がってくる道でレイフに聞いた。水の上に落ちた雪は、落ちたそばから消える。岸の石に落ちたものだけが、白く残っていく。上手の岩場からは、湯気がまっすぐ上がっていた。
林の石の前で答えを言ってから、二日になる。次の朝には、もう山へ向かっていた。ユリアンが、雪の日の湯を見たがった。ヴァルドは、村に残した槍を引き上げなければならない。それに、自分の用がある。冬も通える道を、と代官に言った。雪の日に通れる道かどうかは、雪の日に歩かないと分からない。初雪のうちなら、まだ上がれます、とレイフは言った。根雪になれば、道は閉じる。
歩いてみて分かったのは、二つ目の沢の渡りが、凍ると危ないということだ。頭に入れてある。町へ下りたら、山の帳簿の次の行になる。
「釣れますか」
「釣れん」
ヴァルドは、竿の先を見たまま言った。鉄色の髪に、雪が載っている。払おうともしない。その後ろで、オーラフが外套の襟を立てていた。
「雪の日に竿を出す者は、東にもおらん。魚のほうが利口だ」
「では、なぜ出しておられるのですか」
「明日の朝、槍を連れて下りる。雪が道を塞ぐ前に、東へ戻る。この沢で竿を出せるのは、今日までだ」
仏頂面のまま、ヴァルドは続けた。
「倅の文が、十通を超えた。母親のほうは、数えるのをやめた」
夏に王都で聞いたときは、三通と七通だった。この人は、ひと秋、東を空けて山の村にいてくれたことになる。
「後見は、隣におらんでも務まる。おぬしの後ろには、もう代官がおる。ディルクがおる。大男もおる」
「はい」
「一つ、訊いておく」
竿の先が、少し下がった。
「誓わせん家、と石の前で言ったな。おぬし自身は、どうだ。この先、何も誓わんのか」
答えが出るまでに、少しかかった。石の前で言ったのは、人に誓えとは言わない、ということだ。王家に臣従は誓わない、とも言った。自分が何を誓って、何を誓わないのかは、あそこでは言っていない。言えるだけのものを、まだ持っていなかった。
「人に誓えとは、言いません。私が何かを誓うかどうかは、別に量ります」
「量って、どうだ」
「量りたいものが、一つあります。それが、まだ並んでいません」
「騎士の口上か」
「はい」
ヴァルドは、鼻を鳴らした。それで済んだらしい。
竿の先に、雪が載っては落ちる。しばらくして、ヴァルドは言った。
「雪が消えたら、境の川の検分をする」
「検分、ですか」
「岸の検分なら、代官と済ませた。あれは、勅でもらった岸の検分だ。その岸は、川に返した。あいつの言った検分は、まだ済んでおらん」
「父が、そう言ったのですか」
「宴の卓でだ。春には川の検分を、と言った。わしは、いい川だ、と答えた。……それきりだ」
境の川のことは、春に、城の裏の沢でこの人から聞いた。父と並んで釣った川だという。その川の検分を父が言い残していたことは、いま初めて聞く。
「春に、御館様と境の検分に行く、とエルド様は言いました」
後ろで、レイフが言った。
「宴の晩です。俺も来い、と。俺は、魚を焼く係でした」
魚を焼く係。レイフの帳面に、何度も出てくる言葉だ。春に、と言いつかった係だとは知っていた。何の供で焼くはずだったのかを、訊いたことが無かった。
「……検分は、ありませんでした」
低い声は、そこで止まった。
雪が、沢に落ちては消えていく。八年前の春に、行くはずだった川がある。行くと言った子どもを、自分は覚えていない。それでも、北の家から行くはずだった三人のうち、二人はいまここにいる。
「では、八年遅れです」
エルドは言った。
「行きます。北の家からは、私が。レイフ、あなたも来てください。係は、そのままで」
「……謹んで」
聞いたことのない返事だった。この男の返事は、たいてい、はい、の一語で済む。振り向くと、レイフは、いつもの顔でこちらを見ていた。声だけが、いつもと違っていた。
ヴァルドが、竿を上げた。糸の先には、何も付いていない。
「竿は、二本出しておく。……あの川は、釣れんぞ」
「伺っています」
糸を巻いて、ヴァルドは立った。膝の雪を払って、沢を一度見下ろす。
「……また来る」
こちらを見ずに言った。沢にか、石にか。それから、上手の湯気のほうへ顎を向けた。
「冷えた。わしは、先に入る」
「入られるのですか」
「ひと秋、おったのだ。日に一度は入る」
仏頂面で言われると、返す言葉が無い。岩のような背中が、雪の岩場を上がっていった。
◇
下の湯は、雪の中でも、手を入れて十まで数えられる熱さだった。
岩の縁に雪が積もって、湯の面からは湯気が立つ。落ちてくる雪は、湯に届く前に消える。濡れた髪にだけ、冷たいものが載っては溶けた。肩から下は熱くて、耳だけが痛い。妙な具合だ。妙だが、気に入った。
春に知った湯を、冬にもう一度知った。
ユリアンは、湯に入る前に、雪を手のひらに受けて長いこと見ていた。王都にも雪は降るが、湯気と一緒に見るのは初めてだという。入ってからは、落ちてくる雪がどの高さで消えるかを、指で差して確かめている。供の三人は、岩の向こうで、雪の中に立っている。
ヴァルドは、いちばん奥で肩まで沈んでいた。仏頂面は、湯の中でも変わらない。その隣に、眉の白いハルドがいる。雪の日の湯は腰に効く、と言って、村から一緒に上がってきた。
レイフは、エルドの隣で肩まで沈んでいる。言わなくても、そうするようになった。
「レイフ。お願いします」
「はい。……一」
低い声が、同じ間で数えていく。沢の音は雪に吸われるのに、この声は吸われない。
数を聞いているうちに、南の湯屋が浮かんだ。あそこでは、百が済むと、壁の向こうから声が掛かった。ここではリヴィアだ、ならば呼べ、と。定めだから、呼んだ。その名が、ふいに口の中へ戻ってきた。ここには、定めも壁も無い。声には、出さなかった。
四十で、ユリアンが立ち上がった。顔が赤い。
「先に、上がります。……エルド。これは、叔母に話しても信じてもらえません」
「何がですか」
「頭に雪が積もるのに、のぼせるのです」
真面目な顔で言って、ユリアンは岩の向こうへ歩いていった。供の一人が、外套を広げて走ってくる。
数は、続いた。七十。八十。レイフの声は、止まらない。
「九十九。百」
百が来た。
来たのに、体が動かない。肩の上には雪が降っていて、肩の下には湯がある。出れば、濡れた体でこの雪の中に立つことになる。出る訳が、一つも見つからなかった。
「……九十九、九十八」
自分の口が言った。
隣で、レイフがこちらを見た。
「戻るのですか」
「はい。百は、済みました」
「一まで戻ると、合わせて百九十九です」
「足してはいません。戻っているだけです。九十七」
奥で、湯が動いた。ハルドが、白い眉を上げている。
「若様。あと百、とは、おっしゃらんのですな」
「言いません。それは、父の言い方だと伺いました」
春に、この人から聞いた。父は長湯で、呼びに行くと、あと百だ、と言ったそうだ。父の言い方は、父のものだ。借りるつもりは無い。
「九十六」
ハルドは、隣のヴァルドを見た。
「御館様は、あと百だ、とおっしゃって、もう百、浸かっておられました。若様は、戻る、とおっしゃる」
「出てこんのは、同じだ」
ヴァルドが、湯の面を見たまま言った。
「同じでは、ありません。私は、足していません」
「……あいつの倅だ」
ヴァルドは、それきり口を閉じた。ハルドが、声を立てずに笑っている。
「九十五」
「……九十四」
レイフの声が、重なった。
「あなたまで、戻らなくていいのです」
「数えるのは、俺のほうが確かだと言われました」
「熱くは、ないのですか」
レイフは、少し考えた。左の肩を、湯の中で一度回す。
「雪の日は、ここが痛みます。湯の中では、痛みません。……今日は、上がる訳がありません」
同じことを考えている者が、隣にいた。
そこから先は、レイフが数えた。ハルドは、途中で上がっていった。呼びに行った槍の衆の気持ちがいまごろ分かりましたわい、と言い残して。ヴァルドは、七十で黙って立った。
残ったのは、二人だ。雪は、少し小降りになっている。
「二。一」
一が来た。
「……零は、ありますか」
「ありません」
「では、上がります」
立ち上がってみると、雪は、思ったほど冷たくなかった。
◇
その晩の鍋は、寄り合いの小屋で囲んだ。
村の者と、あす発つ東の槍と、町の兵が、一つの火の周りにいる。ユリアンは、ハルドの隣で、山羊の乳を固めたものを珍しそうに食べていた。鍋は、山羊の煮込みだ。ベルタが、杖を膝に立てかけて鍋の番をしている。その前に、マグダが座った。杯は持っていない。この人が杯を持たずに人の前に座るのを、あまり見たことがない。
「婆さま。上の湯の小屋は、誰のものだい」
「村のだよ。傷の者が泊まる小屋だ」
「あれを、あたしに貸しとくれ。建て増して、宿にする」
火の周りが、少し静かになった。エルドは、椀を持ったまま、マグダを見た。
「……宿を、やるのですか」
「やるよ。あんたが座る所を決めたんだ。あたしも決める」
マグダは、指を折りはじめた。
「町のエーリクの宿に泊めて、次の日に上へ上げる。上で三晩。傷の者も、腰の悪い年寄りも、湯の好きな物好きも来る。湧いてるものに、値は付けない。取るのは、寝床と、湯上がりの一杯だ。客が落とす銭で、村に塩と布が上がる」
春に、町の宿の帳場で、この人は湯桶の値を三枚まけさせた。勘定は、あのころから頭にあったのだろう。
「帳場ってのはね、戸口の見える所に座るのが仕事だ。あたしは、あんたらを拾ってから、そういう所にばかり座ってきた。同じことをして、銭が取れる」
「なぜ、いまなのですか」
「あんたを見てる目が、増えたからだよ」
マグダは、火の向こうを顎で示した。レイフがいる。町の兵がいる。東の槍と、村の者がいる。
「町にも、山にも、もうある。あたし一人の目は、空いたんだ。空いた目で、客の顔でも見てるさ」
何と返せばいいのかを、探した。上の湯と町とは、一日半ある。王都で目を開けた朝から、この人は、いつも手の届く所にいた。
「一日半、離れます」
「道を通すんだろ、あんたが。冬も通える道を」
マグダは、こちらを見て、口の片側で笑った。
「客が上がれなきゃ、あたしの宿は潰れる。早いとこ頼むよ、若様」
若様、とこの人に呼ばれることは、めったにない。からかわれている。からかわれているのに、頼まれてもいる。
「……二つ目の沢の渡りから、直します」
「それでいい」
ベルタが、杖で床を一つ突いた。
「借り賃の話が、まだだよ」
「塩で、年に二袋」
「三袋だね」
「二袋だ。婆さま、あの小屋は、いまは年に何人も泊まらないだろ。客が来りゃ、山羊の乳も麦の酒も売れる。空いてる小屋に二袋なら、いい値だよ」
ベルタは、マグダを下から長いこと見ていた。
「二袋でいいよ」
「……早いね」
「そのかわり、客の飯は、うちの鍋から出す」
「飯は、あたしが町から——」
「町から担ぎ上げたんじゃ、村には塩しか落ちないよ。客がうちの鍋を食えば、麦も山羊も、村のが売れる」
マグダは、口を開けて、閉じた。
「……鍋を運ぶ手は」
「うちの者に、持って上がらせる。上がった者には、あんたが日当を払いな」
火の周りで、誰かが笑った。マグダは、しばらく天井を見ていた。
「一袋まけさせて、麦と山羊と日当かい。……値切りすぎたね、こりゃ」
「二袋と言ったのは、あんただよ」
どちらが勝ったのかを、エルドは決めかねた。二人とも、機嫌がいい。
セシルは、火から少し離れた所で、帳面を膝に置いていた。椀は、空になっている。帳面を閉じて、立った。ヴァルドの前まで歩いて、背筋を伸ばす。
「グレンツのご当主。お発ちになる前に、お願いがあります」
「用か」
「はい。今度は、用です」
ヴァルドの眉が、動いた。春に、この人は、用の無い立会の書状でセシルを北へ呼んでいる。
「私の口上に、聞く役が要ります。唱えた者が引き取りたいと思ったときに、それを告げに行く相手です。口上の中に、その方の名を置きます。ご当主に、お願いしたいのです」
「わしにか」
「はい」
ヴァルドは、椀を置いた。
「わしは、見たものを、七年、見なかったことにした男だぞ」
「存じています。川べりで、伺いました」
セシルの声は、まっすぐだった。
「それを、ご自分の口で言われた方です。ですから、お願いするのです。聞いたときに、聞いた、と言ってくださる方でなければ、この役は頼めません」
薪が、はぜた。
「……一晩、考える」
「はい。明日の朝、伺います」
セシルは、礼をして、元の所へ戻った。帳面を開く。炭の先が、新しい頁の上で、少しのあいだ動かずにいた。
「白いの。明日かい」
マグダが訊いた。
「明日の朝、並べます」
セシルは、帳面から顔を上げずに言った。四十二回、違う、と書いてきた人の声だった。




