↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/126

【第二部 風と鎖】第38話 あと百


 エルドは、沢の石の雪を手で払って、ヴァルドの隣に腰を下ろした。


 隣といっても、石を一つ空けてある。沢の音が、いつもより遠い。雪が音を吸うのだと、上がってくる道でレイフに聞いた。水の上に落ちた雪は、落ちたそばから消える。岸の石に落ちたものだけが、白く残っていく。上手(かみて)の岩場からは、湯気がまっすぐ上がっていた。


 林の石の前で答えを言ってから、二日になる。次の朝には、もう山へ向かっていた。ユリアンが、雪の日の湯を見たがった。ヴァルドは、村に残した槍を引き上げなければならない。それに、自分の用がある。冬も通える道を、と代官に言った。雪の日に通れる道かどうかは、雪の日に歩かないと分からない。初雪のうちなら、まだ上がれます、とレイフは言った。根雪になれば、道は閉じる。


 歩いてみて分かったのは、二つ目の沢の渡りが、凍ると危ないということだ。頭に入れてある。町へ下りたら、山の帳簿の次の行になる。


「釣れますか」


「釣れん」


 ヴァルドは、竿の先を見たまま言った。鉄色(てついろ)の髪に、雪が載っている。払おうともしない。その後ろで、オーラフが外套の襟を立てていた。


「雪の日に竿を出す者は、東にもおらん。魚のほうが利口だ」


「では、なぜ出しておられるのですか」


「明日の朝、槍を連れて下りる。雪が道を塞ぐ前に、東へ戻る。この沢で竿を出せるのは、今日までだ」


 仏頂面(ぶっちょうづら)のまま、ヴァルドは続けた。


「倅(せがれ)の文が、十通を超えた。母親のほうは、数えるのをやめた」


 夏に王都で聞いたときは、三通と七通だった。この人は、ひと秋、東を空けて山の村にいてくれたことになる。


「後見は、隣におらんでも務まる。おぬしの後ろには、もう代官がおる。ディルクがおる。大男もおる」


「はい」


「一つ、訊(き)いておく」


 竿の先が、少し下がった。


「誓わせん家、と石の前で言ったな。おぬし自身は、どうだ。この先、何も誓わんのか」


 答えが出るまでに、少しかかった。石の前で言ったのは、人に誓えとは言わない、ということだ。王家に臣従は誓わない、とも言った。自分が何を誓って、何を誓わないのかは、あそこでは言っていない。言えるだけのものを、まだ持っていなかった。


「人に誓えとは、言いません。私が何かを誓うかどうかは、別に量ります」


「量って、どうだ」


「量りたいものが、一つあります。それが、まだ並んでいません」


「騎士の口上か」


「はい」


 ヴァルドは、鼻を鳴らした。それで済んだらしい。


 竿の先に、雪が載っては落ちる。しばらくして、ヴァルドは言った。


「雪が消えたら、境の川の検分をする」


「検分、ですか」


「岸の検分なら、代官と済ませた。あれは、勅でもらった岸の検分だ。その岸は、川に返した。あいつの言った検分は、まだ済んでおらん」


「父が、そう言ったのですか」


「宴の卓でだ。春には川の検分を、と言った。わしは、いい川だ、と答えた。……それきりだ」


 境の川のことは、春に、城の裏の沢でこの人から聞いた。父と並んで釣った川だという。その川の検分を父が言い残していたことは、いま初めて聞く。


「春に、御館様(おやかたさま)と境の検分に行く、とエルド様は言いました」


 後ろで、レイフが言った。


「宴の晩です。俺も来い、と。俺は、魚を焼く係でした」


 魚を焼く係。レイフの帳面に、何度も出てくる言葉だ。春に、と言いつかった係だとは知っていた。何の供で焼くはずだったのかを、訊いたことが無かった。


「……検分は、ありませんでした」


 低い声は、そこで止まった。


 雪が、沢に落ちては消えていく。八年前の春に、行くはずだった川がある。行くと言った子どもを、自分は覚えていない。それでも、北の家から行くはずだった三人のうち、二人はいまここにいる。


「では、八年遅れです」


 エルドは言った。


「行きます。北の家からは、私が。レイフ、あなたも来てください。係は、そのままで」


「……謹んで」


 聞いたことのない返事だった。この男の返事は、たいてい、はい、の一語で済む。振り向くと、レイフは、いつもの顔でこちらを見ていた。声だけが、いつもと違っていた。


 ヴァルドが、竿を上げた。糸の先には、何も付いていない。


「竿は、二本出しておく。……あの川は、釣れんぞ」


「伺っています」


 糸を巻いて、ヴァルドは立った。膝の雪を払って、沢を一度見下ろす。


「……また来る」


 こちらを見ずに言った。沢にか、石にか。それから、上手の湯気のほうへ顎を向けた。


「冷えた。わしは、先に入る」


「入られるのですか」


「ひと秋、おったのだ。日に一度は入る」


 仏頂面で言われると、返す言葉が無い。岩のような背中が、雪の岩場を上がっていった。


  ◇


 下の湯は、雪の中でも、手を入れて十まで数えられる熱さだった。


 岩の縁に雪が積もって、湯の面からは湯気が立つ。落ちてくる雪は、湯に届く前に消える。濡れた髪にだけ、冷たいものが載っては溶けた。肩から下は熱くて、耳だけが痛い。妙な具合だ。妙だが、気に入った。


 春に知った湯を、冬にもう一度知った。


 ユリアンは、湯に入る前に、雪を手のひらに受けて長いこと見ていた。王都にも雪は降るが、湯気と一緒に見るのは初めてだという。入ってからは、落ちてくる雪がどの高さで消えるかを、指で差して確かめている。供の三人は、岩の向こうで、雪の中に立っている。


 ヴァルドは、いちばん奥で肩まで沈んでいた。仏頂面は、湯の中でも変わらない。その隣に、眉の白いハルドがいる。雪の日の湯は腰に効く、と言って、村から一緒に上がってきた。


 レイフは、エルドの隣で肩まで沈んでいる。言わなくても、そうするようになった。


「レイフ。お願いします」


「はい。……一(いち)」


 低い声が、同じ間で数えていく。沢の音は雪に吸われるのに、この声は吸われない。


 数を聞いているうちに、南の湯屋が浮かんだ。あそこでは、百が済むと、壁の向こうから声が掛かった。ここではリヴィアだ、ならば呼べ、と。定めだから、呼んだ。その名が、ふいに口の中へ戻ってきた。ここには、定めも壁も無い。声には、出さなかった。


 四十で、ユリアンが立ち上がった。顔が赤い。


「先に、上がります。……エルド。これは、叔母に話しても信じてもらえません」


「何がですか」


「頭に雪が積もるのに、のぼせるのです」


 真面目な顔で言って、ユリアンは岩の向こうへ歩いていった。供の一人が、外套を広げて走ってくる。


 数は、続いた。七十。八十。レイフの声は、止まらない。


「九十九。百」


 百が来た。


 来たのに、体が動かない。肩の上には雪が降っていて、肩の下には湯がある。出れば、濡れた体でこの雪の中に立つことになる。出る訳が、一つも見つからなかった。


「……九十九、九十八」


 自分の口が言った。


 隣で、レイフがこちらを見た。


「戻るのですか」


「はい。百は、済みました」


「一まで戻ると、合わせて百九十九です」


「足してはいません。戻っているだけです。九十七」


 奥で、湯が動いた。ハルドが、白い眉を上げている。


「若様。あと百、とは、おっしゃらんのですな」


「言いません。それは、父の言い方だと伺いました」


 春に、この人から聞いた。父は長湯で、呼びに行くと、あと百だ、と言ったそうだ。父の言い方は、父のものだ。借りるつもりは無い。


「九十六」


 ハルドは、隣のヴァルドを見た。


「御館様は、あと百だ、とおっしゃって、もう百、浸かっておられました。若様は、戻る、とおっしゃる」


「出てこんのは、同じだ」


 ヴァルドが、湯の面を見たまま言った。


「同じでは、ありません。私は、足していません」


「……あいつの倅だ」


 ヴァルドは、それきり口を閉じた。ハルドが、声を立てずに笑っている。


「九十五」


「……九十四」


 レイフの声が、重なった。


「あなたまで、戻らなくていいのです」


「数えるのは、俺のほうが確かだと言われました」


「熱くは、ないのですか」


 レイフは、少し考えた。左の肩を、湯の中で一度回す。


「雪の日は、ここが痛みます。湯の中では、痛みません。……今日は、上がる訳がありません」


 同じことを考えている者が、隣にいた。


 そこから先は、レイフが数えた。ハルドは、途中で上がっていった。呼びに行った槍の衆の気持ちがいまごろ分かりましたわい、と言い残して。ヴァルドは、七十で黙って立った。


 残ったのは、二人だ。雪は、少し小降りになっている。


「二。一」


 一が来た。


「……零は、ありますか」


「ありません」


「では、上がります」


 立ち上がってみると、雪は、思ったほど冷たくなかった。


  ◇


 その晩の鍋は、寄り合いの小屋で囲んだ。


 村の者と、あす発つ東の槍と、町の兵が、一つの火の周りにいる。ユリアンは、ハルドの隣で、山羊(やぎ)の乳を固めたものを珍しそうに食べていた。鍋は、山羊の煮込みだ。ベルタが、杖を膝に立てかけて鍋の番をしている。その前に、マグダが座った。杯は持っていない。この人が杯を持たずに人の前に座るのを、あまり見たことがない。


「婆さま。上の湯の小屋は、誰のものだい」


「村のだよ。傷の者が泊まる小屋だ」


「あれを、あたしに貸しとくれ。建て増して、宿にする」


 火の周りが、少し静かになった。エルドは、椀を持ったまま、マグダを見た。


「……宿を、やるのですか」


「やるよ。あんたが座る所を決めたんだ。あたしも決める」


 マグダは、指を折りはじめた。


「町のエーリクの宿に泊めて、次の日に上へ上げる。上で三晩。傷の者も、腰の悪い年寄りも、湯の好きな物好きも来る。湧いてるものに、値は付けない。取るのは、寝床と、湯上がりの一杯だ。客が落とす銭で、村に塩と布が上がる」


 春に、町の宿の帳場で、この人は湯桶(ゆおけ)の値を三枚まけさせた。勘定は、あのころから頭にあったのだろう。


「帳場ってのはね、戸口の見える所に座るのが仕事だ。あたしは、あんたらを拾ってから、そういう所にばかり座ってきた。同じことをして、銭が取れる」


「なぜ、いまなのですか」


「あんたを見てる目が、増えたからだよ」


 マグダは、火の向こうを顎で示した。レイフがいる。町の兵がいる。東の槍と、村の者がいる。


「町にも、山にも、もうある。あたし一人の目は、空いたんだ。空いた目で、客の顔でも見てるさ」


 何と返せばいいのかを、探した。上の湯と町とは、一日半ある。王都で目を開けた朝から、この人は、いつも手の届く所にいた。


「一日半、離れます」


「道を通すんだろ、あんたが。冬も通える道を」


 マグダは、こちらを見て、口の片側で笑った。


「客が上がれなきゃ、あたしの宿は潰れる。早いとこ頼むよ、若様」


 若様、とこの人に呼ばれることは、めったにない。からかわれている。からかわれているのに、頼まれてもいる。


「……二つ目の沢の渡りから、直します」


「それでいい」


 ベルタが、杖で床を一つ突いた。


「借り賃の話が、まだだよ」


「塩で、年に二袋」


「三袋だね」


「二袋だ。婆さま、あの小屋は、いまは年に何人も泊まらないだろ。客が来りゃ、山羊の乳も麦の酒も売れる。空いてる小屋に二袋なら、いい値だよ」


 ベルタは、マグダを下から長いこと見ていた。


「二袋でいいよ」


「……早いね」


「そのかわり、客の飯は、うちの鍋から出す」


「飯は、あたしが町から——」


「町から担ぎ上げたんじゃ、村には塩しか落ちないよ。客がうちの鍋を食えば、麦も山羊も、村のが売れる」


 マグダは、口を開けて、閉じた。


「……鍋を運ぶ手は」


「うちの者に、持って上がらせる。上がった者には、あんたが日当を払いな」


 火の周りで、誰かが笑った。マグダは、しばらく天井を見ていた。


「一袋まけさせて、麦と山羊と日当かい。……値切りすぎたね、こりゃ」


「二袋と言ったのは、あんただよ」


 どちらが勝ったのかを、エルドは決めかねた。二人とも、機嫌がいい。


 セシルは、火から少し離れた所で、帳面を膝に置いていた。椀は、空になっている。帳面を閉じて、立った。ヴァルドの前まで歩いて、背筋を伸ばす。


「グレンツのご当主。お発ちになる前に、お願いがあります」


「用か」


「はい。今度は、用です」


 ヴァルドの眉が、動いた。春に、この人は、用の無い立会の書状でセシルを北へ呼んでいる。


「私の口上に、聞く役が要ります。唱えた者が引き取りたいと思ったときに、それを告げに行く相手です。口上の中に、その方の名を置きます。ご当主に、お願いしたいのです」


「わしにか」


「はい」


 ヴァルドは、椀を置いた。


「わしは、見たものを、七年、見なかったことにした男だぞ」


「存じています。川べりで、伺いました」


 セシルの声は、まっすぐだった。


「それを、ご自分の口で言われた方です。ですから、お願いするのです。聞いたときに、聞いた、と言ってくださる方でなければ、この役は頼めません」


 薪が、はぜた。


「……一晩、考える」


「はい。明日の朝、伺います」


 セシルは、礼をして、元の所へ戻った。帳面を開く。炭の先が、新しい頁の上で、少しのあいだ動かずにいた。


「白いの。明日かい」


 マグダが訊いた。


「明日の朝、並べます」


 セシルは、帳面から顔を上げずに言った。四十二回、違う、と書いてきた人の声だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。