【第二部 風と鎖】第39話 四十三回目
セシルは、寄り合いの小屋の前で、帳面の新しい頁に、四十三、と書いた。
雪は、夜のうちに上がった。朝の日が、屋根と畑の雪に当たって、目が痛いほど明るい。炭を持つ指は、かじかんでいる。息を吹きかけて、数の下に口上を写した。言葉も、並べる順も、前の冬から何度も変えた。足して、削って、入れ替えて、四十二回、違う、と書いた。残ったのは、結局、いちばん初めに書いた言葉だ。この秋に、そこへ二つだけ足した。聞く者の名と、その人に告げるまで、という一句だ。
畑の下の道では、東の槍が荷をまとめている。今日、山を下りる人たちだ。小屋の前には、村の者が出てきていた。杖をついたベルタ。眉の白いハルド。子どもらは、雪の上を走り回っている。ユリアンと供の三人に、町の兵が何人か。エルドとレイフは、戸口の脇にいる。マグダは、石積みの雪を払って、腰かけていた。
ヴァルドが、小屋から出てきた。後ろに、オーラフがいる。
「聞く」
仏頂面のまま、それだけ言った。
「ありがとうございます」
「礼は、早い。一つ、訊いておく。わしが先に死んだら、どうなる」
ゆうべ、同じことを考えた。答えは、教本にある。
「前提が、消えます。告げる相手のいなくなった誓いは、焼けずに薄れます。破れるのではありません。……父の紋と、同じ消え方です」
「では、わしが生きておるあいだの盟か」
「はい。ですから、長く、お願いします」
ヴァルドは、しばらくセシルを見ていた。
「年寄りに頼むことではないな。……手回しの悪い騎士だ」
オーラフが、咳払いを一つした。
頁を、もう一度見た。四十三。口上の下は、まだ白い。
この頁の前に、人を立たせるつもりだった。丘の前庭でも、王都の詰所でも、そうしてきた。唱えてもらって、手を見て、浮かなければ、違う、と書く。四十二人が、私の前に立ってくれた。四十二人とも、嘘の無い声で唱えて、何も浮かない手を下ろして帰っていった。
浮くかどうか分からないものを、四十三人目に頼むのは、もうやめる。
「私が、立ちます」
帳面を、マグダに差し出した。
「立会を、お願いします。口上を、一句ずつ、先に言ってください」
「あたしがかい」
「そこに書いてあるとおりに、読むだけです」
「記章は、外したよ」
「私の手にも、紋はありません。それでも、冬から四十二回、立会に立ちました」
マグダは、差し出された帳面を、長いこと見ていた。
「……人の誓いに付き合うのは、十年ぶりだよ」
受け取って、石積みから下りてきた。
セシルは、ヴァルドの前に立った。背筋を伸ばして、両手を体の前で組む。叙任の壇に立ったのは、四年前だ。あの日は、団長を見て唱えた。今日は、岩のような仏頂面を見ている。
マグダが、一句、読んだ。低くて、平らな声だった。セシルは、そのあとを追った。
「——二度と戦を起こさぬために、我らは、わずかを預ける。承知の上で。いつでも引き取れると、定めて。引き取りは、グレンツのヴァルドが聞く。その人に告げるまで、この盟を結ぶ」
声は、雪の畑へ出ていった。
唱え終えたとき、右の手の甲を、何かが通った気がした。気がしただけかもしれない。組んだ手を、解けなかった。右の手は、左の手のひらの下にある。
成った誓いの紋は、唱え終わった端から出る。出なければ、何も無い手が、そこにあるだけだ。四十二回、人の手でそれを見てきた。自分の手を見るのに、これほど息が要るとは知らなかった。
十、数えた。子どもが一人、雪の上で足を止めて、こちらを見ている。
手を、解いた。
あった。
薄い青の、小さな結び目だ。細い線が回って、結んで、片方の端だけが長く残っている。父の手にあったのと、同じ色をしていた。形は、父のものとも、叙任の紋とも違う。引けば解ける結び方だ、と思った。
「……浮いた」
誰かが言った。ハルドの声だったかもしれない。
預けたのは、わずかだ。戦を起こす側に、この手は立てなくなった。賊を縛るのは、戦ではない。引き取りたくなったら、丘から馬を何日か走らせて、あの人に告げればいい。
手が、震えていた。かじかんでいるせいにしておいた。
マグダが、帳面を、開いたまま突き返してくる。口上の下は、白いままだ。
「違う、とは書けないよ。あとは、自分で書きな」
炭を受け取った。指が、うまく曲がらない。それでも、書いた。
——並んだ。
冬から、四十二回、別の一語を書いてきた。その字より、大きくなった。
「セシル」
顔を上げた。
マグダは、こちらを見ていた。外套の前を合わせて、いつもの顔でいる。
「……並んだね」
ここは、湯の中ではない。足の下は雪で、私は制服を着ている。
「……いまは、湯の外です」
「知ってるよ」
「もう一度、お願いできますか」
「一日に一度だ」
マグダは、石積みへ戻っていった。明日も一度は呼んでもらえる、ということだろうか。帳面の端に、それも書いておいた。
戸口の脇で、レイフが、革の表紙の帳面に炭を動かしていた。書き終えるのを待って、そばへ行った。
「レイフ。読ませてもらえますか。いつか読む、と言いました」
レイフは、頁をこちらへ向けた。四角い字が、一行立っている。
——朝。騎士様が、自分で唱えた。紋が浮いた。並んだ。
「読めます」
一字も、迷わずに読めた。
「騎士様、とあります」
「はい」
「名でも、構いませんが」
「騎士様は、騎士様です」
真顔だった。こちらは、明日も変わらないようだ。
◇
エルドは、セシルの右の手を見ていた。
薄い青の、小さな結び目だ。端が一本、長く出ている。靴の紐と同じで、あの端を引けば解ける。引くのは、結んだ当人だ。
量りたいものが、並んだ。
「セシル」
呼ぶと、セシルは帳面から顔を上げた。
「四十四回目を、私に唱えさせてください」
小屋の前が、静かになった。走り回っていた子どもまで、足を止めている。
「ちび」
マグダの声が、低い。
「黒い館の式官が言ってたのは、それじゃないのかい。鍵を繋げ、ってやつだ」
「違います」
夏の坂から、量ってきたことだ。
「あの人が求めたのは、断たない、と誓うことでした。それは、誓いません。断つときは私が決める、と南で言いました。変わっていません。この口上が言っているのは、戦を起こさない、のほうです」
自分の右の手を見た。何も無い手だ。
「一年前の秋に、この手は、戦を封じていたものを断ちました。覚えてはいません。それでも、断ったのは私です。この秋には、国境の川べりで旗を見ました。私の手を借りて、あの橋を兵に渡らせようとした人がいました」
マグダは、黙って聞いている。
「北の家は、兵を持つ家になります。その家の主が、戦を起こさない、を自分の手に持ちます。承知の上で、です」
「誓わせん家、と言ったのは、おぬしだぞ」
ヴァルドが言った。
「はい。誰にも、唱えろとは言いません。ディルクにも、町の兵にもです。これは、人に誓うものでもありません。私が自分で結んで、自分で持つものです」
「いつでも引き取れるものを持って、何になる」
「引き取れない誓いなら、持っているのは、誓いのほうです。引き取れるのなら、持っているのは、私です」
鉄色の眉が、上がった。返事は、無い。
戸口の脇で、レイフが口を開いた。
「御館様は、誓えぬことを軽々しく口にするな、と言われました」
一冊目の頁で、読んだ言葉だ。宴の前の晩に、十三の自分が、誓ってしくじりません、と言って、父にそう叱られている。頁の字としては、知っていた。いまの自分に向けて言われたのは、初めてだ。
叱った人は、同じことを、今日も言うだろうか。
「誓えることだけを、誓います。戦を起こさない。これは、言えます。夏から量りました」
レイフは、うなずいた。
「聞く役は、レイフにお願いします」
レイフの目が、こちらへ来た。
「……俺が、聞くのですか。エルド様が、引き取る、と言うのを」
「はい。聞いたら、聞いた、と言ってください」
「聞きたくは、ありません」
したくないことを、この男が口に出すのは珍しい。
「私も、あなたの、今日は結ばない、を聞きたくありません。それでも毎朝、聞こえる所に立っています」
レイフは、黙った。それから、息を一つ吐いた。
「……聞いたら、言います」
「聞く役が先に死ぬと、紋は薄れるそうです。先に、死なないでください。頼みです」
「それは、誓えません」
間を置いて、足した。
「務めます」
頁にある言葉だった。叱られた十三の自分が、そう言い直している。
「……それは、私の言い直しです」
「はい。借りました」
石積みの上で、マグダが鼻を鳴らした。
「聞く役が二人いて、言う奴がいないよ。暇な役だね、どっちも」
レイフは、戸口の脇から出て、エルドの正面に立った。さっき、ヴァルドがセシルの前に立っていた所だ。セシルが、帳面を開いて、脇に立つ。今度は、この人が立会になる。
エルドは、背筋を伸ばして、両手を体の前で組んだ。セシルが一句ずつ先に言う。そのあとを、大きな男を見上げたまま追った。
「——二度と戦を起こさぬために、我らは、わずかを預ける。承知の上で。いつでも引き取れると、定めて。引き取りは、この村のレイフが聞く。その人に告げるまで、この盟を結ぶ」
自分の名の所で、レイフの目が、一度だけ動いた。
組んだ手の中で、右の手の甲を、何かが通った。冷えた手に、そこだけ、ぬるい水を一筋かけられたようだった。
手を解いた。線が回って、結び目になっている。端が一本、長く残っていた。
紋だ。
帳面には、二度あったと書いてある。宴の門と、離宮の門だ。どちらも、門を通るためのその場かぎりの紋だったという。どちらも、頁で知っているだけだ。自分の手に浮いた紋を、自分の目で見るのは、これが最初になる。
重さは、何も無い。それなのに、手袋を片方だけ着けたような落ち着かなさがあった。
この手は、紋を焼き切る手だ。その手の上に、紋が載っている。焼き切ることも、たぶんできる。試す気は無い。引き取りたくなったら、前にいる男に言えば済む。誰も、何も払わない。言うかどうかは、明日の朝も、その次の朝も、自分で決める。
我ら、と口上は言う。今朝まで、その中には誰もいなかった。さっきは、セシル一人だった。いまは、二人いる。
「レイフは、やらないの」
ニナだった。レイフの外套の裾を引いている。
「俺は、要りません」
レイフは、ニナに言った。子どもにも、同じ言葉づかいをする男だ。
「毎朝、決めているので」
それから、こちらを見た。自分の右の手を、少し上げる。何も無い手だ。
「前は、そろいました」
「前、というのは」
「宴の晩です。同じ紋が、二つ」
「今度は、どうですか」
「そろいません。……口上の中に、名があります。それで足ります」
「足りますか」
「多いくらいです」
この男の、多い、は、秋から何度も聞いている。
「それで、思い出しました。朝のぶんの付けが、六つあります。十二枚です。町へ下りたら払います。代官殿が、役所の帳簿を手伝う手間賃を出すと言ってくれました。領の銭ではありません」
「……多いです」
「払います」
レイフは、懐から小さな袋を出した。口の紐が、やっと結べるほど詰まっている。
「使っていません。南の湯屋の二枚のほかは」
「……秋からのぶんを、全部ですか」
「はい。飯は、エルド様が買います。使う所が、ありませんでした」
多い、というのは、そういう意味だったらしい。
「それに、エルド様からもらった銭です」
大きな手が、袋を懐に戻した。
◇
日が、屋根の雪の上まで昇った。
東の槍が、畑の下の道で待っている。ヴァルドは、馬の脇で、セシルの手とエルドの手を、順に見た。
「聞く役は、帰ってもよいのだな」
「はい。告げに行ける所におられれば」
セシルが答えた。
「告げに伺う日が来ないように、務めます」
ヴァルドは、返事のかわりに鼻を鳴らして、鞍に上がった。
ユリアンが、隣に来た。今日、一緒に山を下りて、町から王都へ発つ。外套の内側には、南へ届ける文が入っている。百二十は書ける、残りは書けない、と書いた文だ。
読むのは、リヴィアだ。書けなかった残りは、あの人の手に戻る。南の王が広間の椅子へ戻るまで、あと四十歩ある、と門で聞いた。そのあいだは、わたしだ、とも。あれから、王は何歩になっただろう。
「エルド。その手のことを、叔母にどう伝えればよいでしょう」
「見たとおりに、お願いします」
ユリアンは、右の手を持ち上げて、甲を見た。生まれたときからある、二つの輪だ。あの輪には、聞く役がいない。
「……選んで持つ紋を、初めて見ました。そう伝えます」
列が、畑の段を下りはじめた。
エルドは、右の手を外套の外に出したまま歩いた。指が冷える。それでも、今日は見ていたかった。
◇
二日あと、町の南の口で、セシルの馬の脇に立った。
ヴァルドと東の槍は、きのうのうちに東の道へ折れている。南へ下るのは、ユリアンと供の三人と、セシルだ。丘の下までは、同じ道になる。
白い外套の雪は、払ってあった。徽章も、拭いてある。右の手は、手綱を持っていても袖の外だ。紋が無かったあいだも、この人は、その手を袖に入れなかった。
「前庭に戻って、並べます」
セシルは言った。
「今度は、並べ方を知っています。立ってくれる人には、先に、聞く役を決めてもらいます」
「セシル。生まれた日を、伺っていませんでした」
セシルは、瞬きを二つした。
「……真冬です。日付は、あります」
「日付があるのなら、文が間に合います」
後ろで、レイフが、鼻から短く息を抜いた。日付の無い側の男だ。
「レイフ」
セシルは、そちらを見上げた。
「次の帳面も、読ませてください」
「はい。騎士様」
マグダは、道の端の石に腰かけていた。立ち上がりもせずに、言った。
「セシル」
今日のぶんだ。
「目の下が黒くなったら、上がってきな。春には、湯の脇に寝床ができてる」
「……休みに、ですか」
「用が無きゃ来られないんなら、用を書いてやるよ。手回しは、東の領主様に習っとく」
セシルは、声を立てて笑った。それから、鞍に上がった。
馬が、歩きだした。ユリアンが、馬上で一度こちらへ頭を下げる。セシルは、振り向かなかった。少し行ってから、右の手を上げた。手だけをだ。薄い青が、雪の照り返しの中に、小さく見えた。
北の峠は、もう白い。冬が来る。




