【第二部 風と鎖】第40話 いちばん最初に暖かい日
——町の、粉屋の裏の空き家に移った。屋根は、レイフが直した。
——王都の祖母へ、文を出した。継ぎます、と書いた。
——山の道の、二つ目の沢に丸太を渡した。雪よけの杭を三十本。代官殿の山の帳簿は、二冊目に入った。
——真冬。セシルが二十四になった。祝いの文を、町から出した。
——セシルから返事。前庭で、七人が唱えた。五人、浮いた。浮かなかった二人は、聞く役になる人に頼まないまま、名を入れていたそうだ。聞く役のほうも承知していないと、浮かないらしい。南の王女殿下への知らせも、出したとある。
——祖母から返事。宛名に、私の名が書いてあった。
——マグダは、エーリクの宿の裏で、樽と寝床を数えている。上の湯へ上がるのは、雪が消えてからだ。
——主は、朝の給金を、まだ払っている。多い。
——レイフが何と書いても、払います。
◇
エルドは、軒から落ちる雫の音で、帳簿から目を上げた。
きのうまでは、落ちてこなかった。軒の氷が、昼まで凍ったままだったからだ。今朝は、日が屋根に届く前から、ぽたり、ぽたりと落ちている。戸を開けると、冷たい空気の底に、土の匂いがした。
レイフの帳面で読んだ日だ。冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日。それを、レイフの生まれた日と決める。決めたのは十二の子どもで、暗い杣道の途中だったという。
井戸のほうから、レイフが桶を提げて戻ってきた。今朝のぶんは、もう済んでいる。今日も、お願いします。今日も。右の手の結び目は、冬のあいだに、見なくてもそこに在ると分かるようになった。
「レイフ」
「はい」
「軒の雪が、落ちています」
「はい。今朝からです」
「きのうより、暖かいですね」
「……はい」
返事が、遅れた。何を言われるのか、分かったらしい。
「この日を決めた人を、私は覚えていません」
桶の水が、揺れた。
「十二の私が決めて、十八の私が祝った、と頁にあります。どちらにも、会ったことがありません。……では、今年も私が決めます。今日です」
「……はい」
「二十五です。今日は、座っていてください」
「座って、何をすれば」
「何も。水も、薪も、帳簿の箱運びもです」
レイフは、桶を提げたまま、長いこと立っていた。
「……座っていられません」
前のときは、言われて座っていたそうだ。命令だ、と言われたからだろう。いまの自分は、この男に命じない。命じなければ、この男は座らないらしい。
「では、何なら、していられますか」
「鍋なら」
「あなたの祝いの鍋です」
「火を見るのは、俺のほうが確かです」
そのとおりだった。秋に、国境の手前で魚を焦がしたのは自分だ。
「……火と鍋は、お願いします。ほかは、座っていてください」
「はい」
桶が、やっと竈の脇に下りた。
◇
買い出しは、自分の受け持ちだ。
籠を提げて通りへ出ると、いくらも行かないうちに声が掛かった。
「若様。今日は、大きいのは」
粉屋の亭主だ。この冬、後ろに誰も連れていないエルドを見た者は、町に一人もいない。
「家に、座らせています」
「座って、いるんで」
「いるはずです」
亭主は、信じていないようだった。エルドも、あまり信じていない。
鹿は、猟師がおととい獲ったのを分けてもらった。生姜と胡椒は、市で買った。
市の角の役所にも寄った。今日の帳簿を明日に回す、と言うためだ。コンラートは、机の向こうで立って、いつもの遅い礼をした。
「承りました。……何か、ございましたか」
「レイフの生まれた日です。祝います」
コンラートの手が、手控えへ伸びた。聞いたことは、書く人だ。
「何日のお生まれで」
「日付は、ありません。冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日です」
ペンの先が、宙で止まった。
「……日付の無いものは、書けません」
「毎年、違う日になりますので」
「では、今年は、今日の日付で書きます。どの帳簿にいたしましょう」
町の帳簿でも、山の帳簿でもない。
「北の家の帳簿は、ありますか」
「まだ、ございません。当主がお決まりになったのが、初冬でございますので」
「では、それを一冊目にしてください。今日が、一行目です」
コンラートは、エルドを見た。それから、新しい綴りを一冊出して、表紙に、北の家、と書いた。開いて、細かい字を一行並べる。
——従士レイフ、二十五。祝う。
「家の帳簿の一行目が、これでよろしいので」
「はい。いま、北の家に仕えている者は、一人だけですので」
コンラートは、もう一度、遅い礼をした。
◇
家に戻ると、屋根の上で金槌の音がしていた。
北の隅の、板が一枚浮いていた所だ。レイフが、そこに膝をついて釘を打っている。
「レイフ」
音が、やんだ。大きな体が、梯子を下りてくる。
「座っていてください、と言いました」
「座っていました」
レイフは、屋根を指した。
「あそこで。膝をついて」
朝に自分が言ったことを、思い返した。火と鍋は、お願いします。ほかは、座っていてください。どこに座るのかは、言っていない。
条の穴だ。南の人がそこを突くのを、去年、見ている。北で通されるとは、思っていなかった。
「……私の言い方が、足りませんでした」
「はい」
はい、と答える所ではないと思う。
香りの実だけは、北の市に無い。南から来る品だからだ。エルドは、革袋の底から、小さな包みを出した。
「十粒あります。南の市で、マグダに買っておいてもらいました」
レイフは、包みを見た。
「頁に、十粒、とありましたので」
「……秋から、ですか」
「秋からです。冬の終わりに要る物は、秋のうちに買っておくものでしょう」
レイフは、何も言わずに竈の前へ行った。薪を組む手が、いつもより遅い。
鍋は、頁のとおりにした。粉屋の女房に借りた、いちばん大きい鍋だ。火は、レイフが見た。香りの実は、エルドが十粒数えて入れた。入れる前に、レイフは小さい鍋へ取り分けている。誰のぶんなのかは、訊かなくても分かった。
煮えるのを待つあいだに、訊いた。
「レイフ。二十五の祝いに、欲しい物はありますか」
「ありません」
早かった。考えた様子も無い。
「一つくらいは、あるでしょう」
レイフは、火を見たまま、しばらく黙っていた。
「……砥石が、減っています」
「それは、要る物です。欲しい物を訊いています」
「では、ありません」
要る物と欲しい物のあいだに、この男は線を引いていないらしい。引いているのは、自分のほうだけだった。
◇
マグダは、日が傾いてから帰ってきた。
片手に酒の壺、もう片方の手に、布でくるんだ物を提げている。鍋の大きさを見て、鼻を鳴らした。
「でかいの。手を出しな」
布の中から、灰色の石が出てきた。新しい砥石だ。
「あんたのは、もう半分も残ってないだろ」
レイフは、両手で受け取った。重さを確かめて、指の腹で面を撫でる。
「……ありがとうございます」
「マグダ。それは、要る物です」
「だから持ってきたんだよ」
「祝いの品に、なるのですか」
「なるさ。……あんた、この男に欲しい物を訊いたね」
顔に出ていたらしい。
「訊くだけ無駄だよ。この男は、要る物しか欲しがらない。長いこと見てりゃ分かる」
長いこと。自分が見てきたのは、そのうちの一年半だ。
机に、椀が三つ並んだ。エルドの椀にだけ、小さい鍋の汁が入っている。辛くない。鹿の肉が、やわらかく煮えている。生姜の利いた汁が、喉から腹へ温かく下りていく。うまい、と思った。
一杯目のうちに、マグダが、レイフを上から下まで見た。
「二十五かい」
「はい」
「あんた、あたしがあんたらを拾った歳を、もう越えたんだよ」
レイフの匙が、椀の上で浮いた。
「……そうなりますか」
「なるよ。拾ったほうは、まだ拾った歳のつもりでいるのにね」
「マグダは、三十一です」
レイフは、真顔だった。
「言わなくていいんだよ、そういうことは」
三杯目で、マグダが酒を注いだ。
「日付の無い祝いってのは、決めた奴が覚えてるかぎり、なくならない。昔、そう言ったんだよ、あたしは」
マグダは、杯の中を見ていた。
「外れたね。決めた奴が忘れても、なくならなかった」
「決めた者は、ここにいます。覚えていないだけです」
マグダは、こちらを見た。しばらく見ていて、それから、杯を空けた。
「……そうだね。いるね」
しばらく、匙の音だけがした。
四杯目のあいだに、エルドは、脇に置いてあった包みを取った。要る物なら、一つ用意してある。
包みを、机に置いた。革の表紙の、紙を綴じたものだ。四冊目より厚い。
「五冊目です。四冊目は、あと九枚しかありません」
レイフの匙が、もう一度浮いた。
「……半分は」
「今日は、全部、私が払いました。祝いですので」
レイフは、匙を置いて、表紙に手を載せた。開かない。載せたまま、動かずにいる。
「要る物じゃないか」
マグダが言った。
「はい。訊かずに選んだら、要る物になりました」
「最初から、そうしな」
エルドは、レイフのほうへ向き直った。
「最初の頁は、あなたが書いてください」
「……はい」
ふだんの返事より、低い声だった。
レイフは、五杯食べた。数えたのは、自分だ。
鍋の底に、匙が当たる音がした。マグダが、残りをさらっている。
戸が叩かれたのは、そのときだった。
開けると、ディルクが立っていた。その後ろに、馬を引いた男がいる。三十を過ぎたくらいで、鉄色の髪に、岩のような肩。顔のつくりは、初冬に別れた人とそっくりだ。違うのは、目が合ったとたんに笑ったことだった。
「北の若君でいらっしゃいますか。グレンツのヴァルドの倅で、エイナルと申します。父の代わりに、見張りの槍を十人、連れて参りました。東の峠は、きのうから馬が通れます」
よく喋る人だった。
「父は、川の氷が割れたら参ります。冬じゅう、暦ばかり見ておりました。母が呆れております。それから、これは母からです。北の若君は辛い物が駄目だと、父が申しますので。蜜で煮た林檎です」
「東の当主が、そう言われたのですか」
「はい。冬じゅう、北の話ばかりでした。……あ。これは、言うなと言われております」
後ろで、マグダが、机に伏せて笑っている。
エルドは、胸から上を傾けた。
「エルド=ファーレンです。遠い所を、ありがとうございます。鍋があります。辛いほうは空ですが、辛くないほうなら」
「いただきます。父からは、北の鍋は辛いから気をつけろ、と」
それも、言うなと言われていそうだった。
◇
夜、戸を開けて、外を見た。
軒の雫は、止まっている。夜は、まだ凍る。それでも、風が違った。土と、水の匂いがする。
北の春は、雪が消えるより先に、風が来る。
去年、この町へ上がってくる道で、同じ風に吹かれた。あのときは、レイフの帳面の頁と比べるしかなかった。頁にあるとおりだ、と思った。
今年は、去年の風と比べられる。
一年ぶんしか無い。それでも、比べる元が、自分の中にできた。
後ろで、レイフが、五冊目を膝に置いている。まだ、開いていない。
「最初の頁は、いつ書きますか」
「春に、書きます」
「もう、春の風です」
「風だけです」
レイフは、戸の外を見た。通りの雪は、まだ白い。
「雪が、消えてからです」




