↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/126

【第二部 風と鎖】第40話 いちばん最初に暖かい日


 ——町の、粉屋の裏の空き家に移った。屋根は、レイフが直した。


 ——王都の祖母へ、文を出した。継ぎます、と書いた。


 ——山の道の、二つ目の沢に丸太を渡した。雪よけの杭を三十本。代官殿の山の帳簿は、二冊目に入った。


 ——真冬。セシルが二十四になった。祝いの文を、町から出した。


 ——セシルから返事。前庭で、七人が唱えた。五人、浮いた。浮かなかった二人は、聞く役になる人に頼まないまま、名を入れていたそうだ。聞く役のほうも承知していないと、浮かないらしい。南の王女殿下への知らせも、出したとある。


 ——祖母から返事。宛名に、私の名が書いてあった。


 ——マグダは、エーリクの宿の裏で、樽と寝床を数えている。上の湯へ上がるのは、雪が消えてからだ。


 ——主は、朝の給金を、まだ払っている。多い。


 ——レイフが何と書いても、払います。


  ◇


 エルドは、軒から落ちる雫(しずく)の音で、帳簿から目を上げた。


 きのうまでは、落ちてこなかった。軒の氷が、昼まで凍ったままだったからだ。今朝は、日が屋根に届く前から、ぽたり、ぽたりと落ちている。戸を開けると、冷たい空気の底に、土の匂いがした。


 レイフの帳面で読んだ日だ。冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日。それを、レイフの生まれた日と決める。決めたのは十二の子どもで、暗い杣道(そまみち)の途中だったという。


 井戸のほうから、レイフが桶(おけ)を提(さ)げて戻ってきた。今朝のぶんは、もう済んでいる。今日も、お願いします。今日も。右の手の結び目は、冬のあいだに、見なくてもそこに在ると分かるようになった。


「レイフ」


「はい」


「軒の雪が、落ちています」


「はい。今朝からです」


「きのうより、暖かいですね」


「……はい」


 返事が、遅れた。何を言われるのか、分かったらしい。


「この日を決めた人を、私は覚えていません」


 桶の水が、揺れた。


「十二の私が決めて、十八の私が祝った、と頁にあります。どちらにも、会ったことがありません。……では、今年も私が決めます。今日です」


「……はい」


「二十五です。今日は、座っていてください」


「座って、何をすれば」


「何も。水も、薪も、帳簿の箱運びもです」


 レイフは、桶を提げたまま、長いこと立っていた。


「……座っていられません」


 前のときは、言われて座っていたそうだ。命令だ、と言われたからだろう。いまの自分は、この男に命じない。命じなければ、この男は座らないらしい。


「では、何なら、していられますか」


「鍋なら」


「あなたの祝いの鍋です」


「火を見るのは、俺のほうが確かです」


 そのとおりだった。秋に、国境の手前で魚を焦がしたのは自分だ。


「……火と鍋は、お願いします。ほかは、座っていてください」


「はい」


 桶が、やっと竈(かまど)の脇に下りた。


  ◇


 買い出しは、自分の受け持ちだ。


 籠を提げて通りへ出ると、いくらも行かないうちに声が掛かった。


「若様。今日は、大きいのは」


 粉屋の亭主だ。この冬、後ろに誰も連れていないエルドを見た者は、町に一人もいない。


「家に、座らせています」


「座って、いるんで」


「いるはずです」


 亭主は、信じていないようだった。エルドも、あまり信じていない。


 鹿は、猟師がおととい獲ったのを分けてもらった。生姜(しょうが)と胡椒(こしょう)は、市で買った。


 市の角の役所にも寄った。今日の帳簿を明日に回す、と言うためだ。コンラートは、机の向こうで立って、いつもの遅い礼をした。


「承りました。……何か、ございましたか」


「レイフの生まれた日です。祝います」


 コンラートの手が、手控えへ伸びた。聞いたことは、書く人だ。


「何日のお生まれで」


「日付は、ありません。冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日です」


 ペンの先が、宙で止まった。


「……日付の無いものは、書けません」


「毎年、違う日になりますので」


「では、今年は、今日の日付で書きます。どの帳簿にいたしましょう」


 町の帳簿でも、山の帳簿でもない。


「北の家の帳簿は、ありますか」


「まだ、ございません。当主がお決まりになったのが、初冬でございますので」


「では、それを一冊目にしてください。今日が、一行目です」


 コンラートは、エルドを見た。それから、新しい綴(つづ)りを一冊出して、表紙に、北の家、と書いた。開いて、細かい字を一行並べる。


 ——従士レイフ、二十五。祝う。


「家の帳簿の一行目が、これでよろしいので」


「はい。いま、北の家に仕えている者は、一人だけですので」


 コンラートは、もう一度、遅い礼をした。


  ◇


 家に戻ると、屋根の上で金槌(かなづち)の音がしていた。


 北の隅の、板が一枚浮いていた所だ。レイフが、そこに膝をついて釘を打っている。


「レイフ」


 音が、やんだ。大きな体が、梯子(はしご)を下りてくる。


「座っていてください、と言いました」


「座っていました」


 レイフは、屋根を指した。


「あそこで。膝をついて」


 朝に自分が言ったことを、思い返した。火と鍋は、お願いします。ほかは、座っていてください。どこに座るのかは、言っていない。


 条(じょう)の穴だ。南の人がそこを突くのを、去年、見ている。北で通されるとは、思っていなかった。


「……私の言い方が、足りませんでした」


「はい」


 はい、と答える所ではないと思う。


 香りの実だけは、北の市に無い。南から来る品だからだ。エルドは、革袋の底から、小さな包みを出した。


「十粒あります。南の市で、マグダに買っておいてもらいました」


 レイフは、包みを見た。


「頁に、十粒、とありましたので」


「……秋から、ですか」


「秋からです。冬の終わりに要る物は、秋のうちに買っておくものでしょう」


 レイフは、何も言わずに竈(かまど)の前へ行った。薪を組む手が、いつもより遅い。


 鍋は、頁のとおりにした。粉屋の女房に借りた、いちばん大きい鍋だ。火は、レイフが見た。香りの実は、エルドが十粒数えて入れた。入れる前に、レイフは小さい鍋へ取り分けている。誰のぶんなのかは、訊(き)かなくても分かった。


 煮えるのを待つあいだに、訊いた。


「レイフ。二十五の祝いに、欲しい物はありますか」


「ありません」


 早かった。考えた様子も無い。


「一つくらいは、あるでしょう」


 レイフは、火を見たまま、しばらく黙っていた。


「……砥石(といし)が、減っています」


「それは、要る物です。欲しい物を訊いています」


「では、ありません」


 要る物と欲しい物のあいだに、この男は線を引いていないらしい。引いているのは、自分のほうだけだった。


  ◇


 マグダは、日が傾いてから帰ってきた。


 片手に酒の壺、もう片方の手に、布でくるんだ物を提(さ)げている。鍋の大きさを見て、鼻を鳴らした。


「でかいの。手を出しな」


 布の中から、灰色の石が出てきた。新しい砥石だ。


「あんたのは、もう半分も残ってないだろ」


 レイフは、両手で受け取った。重さを確かめて、指の腹で面を撫でる。


「……ありがとうございます」


「マグダ。それは、要る物です」


「だから持ってきたんだよ」


「祝いの品に、なるのですか」


「なるさ。……あんた、この男に欲しい物を訊いたね」


 顔に出ていたらしい。


「訊くだけ無駄だよ。この男は、要る物しか欲しがらない。長いこと見てりゃ分かる」


 長いこと。自分が見てきたのは、そのうちの一年半だ。


 机に、椀が三つ並んだ。エルドの椀にだけ、小さい鍋の汁が入っている。辛くない。鹿の肉が、やわらかく煮えている。生姜の利いた汁が、喉から腹へ温かく下りていく。うまい、と思った。


 一杯目のうちに、マグダが、レイフを上から下まで見た。


「二十五かい」


「はい」


「あんた、あたしがあんたらを拾った歳を、もう越えたんだよ」


 レイフの匙(さじ)が、椀の上で浮いた。


「……そうなりますか」


「なるよ。拾ったほうは、まだ拾った歳のつもりでいるのにね」


「マグダは、三十一です」


 レイフは、真顔だった。


「言わなくていいんだよ、そういうことは」


 三杯目で、マグダが酒を注いだ。


「日付の無い祝いってのは、決めた奴が覚えてるかぎり、なくならない。昔、そう言ったんだよ、あたしは」


 マグダは、杯の中を見ていた。


「外れたね。決めた奴が忘れても、なくならなかった」


「決めた者は、ここにいます。覚えていないだけです」


 マグダは、こちらを見た。しばらく見ていて、それから、杯を空けた。


「……そうだね。いるね」


 しばらく、匙の音だけがした。


 四杯目のあいだに、エルドは、脇に置いてあった包みを取った。要る物なら、一つ用意してある。


 包みを、机に置いた。革の表紙の、紙を綴(と)じたものだ。四冊目より厚い。


「五冊目です。四冊目は、あと九枚しかありません」


 レイフの匙が、もう一度浮いた。


「……半分は」


「今日は、全部、私が払いました。祝いですので」


 レイフは、匙を置いて、表紙に手を載せた。開かない。載せたまま、動かずにいる。


「要る物じゃないか」


 マグダが言った。


「はい。訊かずに選んだら、要る物になりました」


「最初から、そうしな」


 エルドは、レイフのほうへ向き直った。


「最初の頁は、あなたが書いてください」


「……はい」


 ふだんの返事より、低い声だった。


 レイフは、五杯食べた。数えたのは、自分だ。


 鍋の底に、匙が当たる音がした。マグダが、残りをさらっている。


 戸が叩かれたのは、そのときだった。


 開けると、ディルクが立っていた。その後ろに、馬を引いた男がいる。三十を過ぎたくらいで、鉄色(てついろ)の髪に、岩のような肩。顔のつくりは、初冬に別れた人とそっくりだ。違うのは、目が合ったとたんに笑ったことだった。


「北の若君でいらっしゃいますか。グレンツのヴァルドの倅(せがれ)で、エイナルと申します。父の代わりに、見張りの槍を十人、連れて参りました。東の峠は、きのうから馬が通れます」


 よく喋る人だった。


「父は、川の氷が割れたら参ります。冬じゅう、暦(こよみ)ばかり見ておりました。母が呆れております。それから、これは母からです。北の若君は辛い物が駄目だと、父が申しますので。蜜で煮た林檎(りんご)です」


「東の当主が、そう言われたのですか」


「はい。冬じゅう、北の話ばかりでした。……あ。これは、言うなと言われております」


 後ろで、マグダが、机に伏せて笑っている。


 エルドは、胸から上を傾けた。


「エルド=ファーレンです。遠い所を、ありがとうございます。鍋があります。辛いほうは空ですが、辛くないほうなら」


「いただきます。父からは、北の鍋は辛いから気をつけろ、と」


 それも、言うなと言われていそうだった。


  ◇


 夜、戸を開けて、外を見た。


 軒の雫は、止まっている。夜は、まだ凍る。それでも、風が違った。土と、水の匂いがする。


 北の春は、雪が消えるより先に、風が来る。


 去年、この町へ上がってくる道で、同じ風に吹かれた。あのときは、レイフの帳面の頁と比べるしかなかった。頁にあるとおりだ、と思った。


 今年は、去年の風と比べられる。


 一年ぶんしか無い。それでも、比べる元が、自分の中にできた。


 後ろで、レイフが、五冊目を膝に置いている。まだ、開いていない。


「最初の頁は、いつ書きますか」


「春に、書きます」


「もう、春の風です」


「風だけです」


 レイフは、戸の外を見た。通りの雪は、まだ白い。


「雪が、消えてからです」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。