【第二部 風と鎖】終話 今朝も
——春。町の家で書く。五冊目の、最初の頁だ。
——最初の頁は俺が書け、と主に言われた。冬の終わりのことだ。雪が消えるまで、待った。
——雪が消えた。
——南から文が来た。国境の橋を最初に渡るのは、十一人。名が、書いてあった。着くのは、夏の前だという。主は、十一の名を、もう覚えた。
——文の終わりに、南の王女殿下の名がある。そこだけ、当人が書いている。お変わりないようです、と主が言った。字で分かるらしい。
——騎士様から文。前庭の紋は、三十を超えた。南の王女殿下から、騎士様へ返事が来たそうだ。帳簿に、欄を一つ足す、とあったという。
——文の終わりに、マグダさんへ一行。文は、一日に一度のうちに入りますか、とある。
——今朝のことを書く。
◇
レイフは、水を汲む前に、決めた。
今日も、仕える。決めてから、桶を取った。あの夜のあとから、ずっとこの順だ。逆にした朝は、一度も無い。
井戸は、家の裏にある。粉屋の壁とのあいだの、狭い所だ。縄は、もう凍っていない。通りの雪は、三日前に消えた。粉屋の裏口から、朝の粉の匂いが流れてくる。
戸が開いて、エルドが出てきた。
「今日も、お願いします」
「今日も」
エルドは、小さい袋から銅貨を二枚出して、レイフの手のひらに載せた。多い、とは、もう言っていない。言っても、払う人だ。
載せた手の甲に、紋がある。
薄い青の、小さな結び目だ。端が一本、長く出ている。雪の村で浮いて、ひと冬を越した。
聞く役は、レイフだ。引き取る、とエルドが言えば、聞いて、聞いた、と言う。それで、あの結び目は解ける。エルドは、何も払わずに、元の何も無い手に戻れる。
今朝も、エルドは言わなかった。
言わないと決まっているものを、待っているのではない。言うかもしれないと思いながら、レイフは毎朝、桶を提げてここに立っている。エルドのほうも、今日は結ばない、を聞くかもしれない戸を、毎朝、自分で開けて出てくる。
同じ所に、二人で立っている。
それが、気に入っていた。
今日、境の川へ発つ。八年前の春に、行くはずだった川だ。籠は、ゆうべのうちに詰めてある。
きのう、村の見張りからラルスが下りてきた。エイナルの連れてきた槍と一緒に、東から戻っていた男だ。山羊はまだ下を向いている、と言った。春は、まだある。去年の春、エルドは、春はいつ終わるのかと訊いた。今年は、訊かれていない。
裏口から、マグダが出てきた。外套を引っかけて、荷を背負っている。
「あたしは、上へ上がるよ。最初の客が、あさって来る」
「どなたですか」
エルドが訊いた。
「エーリクだよ。自分の客を上げる前に、自分で浸かってみるとさ。あの男から宿賃を取る日が来るとはね」
マグダは、荷を揺すり上げてから、レイフを見た。
「でかいの。白いのへの返事に、一行足しときな。文は、一日に一度のうちに入らない。聞きたきゃ、湯へ来な、ってね」
「……宛名は、騎士様、と書きますが」
「好きに書きな」
それから、エルドの右の手と、レイフの何も無い手を、順に見た。何も言わない。鼻を一つ鳴らした。
「ちび。川で冷えたら、上がってきな。客の値で泊めてやるよ」
「払います」
「知ってるよ」
外套の背中が、粉屋の角を曲がっていった。
「行きましょう」
エルドが言った。
「はい」
エルドが、先に通りへ出た。右の手は、外套の外にある。朝の日が、その甲に当たっていた。
レイフは、籠を担いで、半歩うしろについた。
今朝、自分で決めた場所だ。
◇
境の川に着いたのは、次の日の朝だった。
東の関で木の門を抜けると、その先はもう河原になる。レイフがこの川を見るのは、二度目だ。前は、城の荷運びの供で来た。十年ほど前になる。川は、そのときと同じに見えた。広くて、浅い。砂の中洲が幾つも顔を出していて、その上を鳥が歩いている。雪解けの水は冷たそうなのに、河原の石は、日を受けてもうぬるかった。
ヴァルドは、先に着いていた。供のオーラフが、少し離れた所で馬を三頭見ている。一頭の背には、削った杭が束にして括ってあった。
検分は、昼までに済んだ。
エルドとヴァルドが、関から上手の瀬まで、河原を並んで歩いた。レイフとオーラフは、その後ろについた。途中で、ヴァルドが柳の並びを指した。大水の前は、あの向こうを流れていたのだという。いまの流れは、そこから河原ひとつぶん動いている。
「次の大水で、また動く」
ヴァルドは、仏頂面のまま言った。
「杭を打っても、川は杭を見ん。……どう決める」
「決めません」
エルドは言った。
「川が動いたら、また二人で歩いて見ます。魚はどちらの岸からでも釣れます」
「誓わんのだな」
「はい。書きもしません」
エルドは、少し考えてから足した。
「南の王女殿下が聞かれたら、証人は誰だ、と言われそうですが」
南の話は、誰もしていない。レイフは、川を見ていた。
ヴァルドは、しばらく流れを見ていた。
「あいつの言った検分は、一度で済むはずだったぞ」
「川が動かなければ、一度で済みます」
鉄色の眉が、少し上がった。
「……杭を、馬一頭ぶん持ってきた」
「山の道で、使わせてください」
それで、決まったようだった。打つはずだった杭は、馬の背に括られたまま、北の家へ来ることになった。
昼を回って、レイフは河原に火を起こした。
魚は、浅瀬で取った。串に刺して、火の周りに立ててある。皮が音を立てるまで、まだ間がある。川風が、煙を下手へ流していく。
エルドは、流れの中ほどの中洲にいた。靴を脱いで浅瀬を渡っていって、ヴァルドに借りた竿を出している。平たい石に座った背中が、ここから三十歩ほど先に見えた。昔、御館様が座った石がどれなのかは、ヴァルドにももう分からないそうだ。大水で、中洲ごと変わった。
ヴァルドは、自分の竿を岩に立てかけて、火のそばへ来た。向かいの石に腰を下ろして、手をかざす。
しばらく、どちらも口を利かずにいた。レイフは、黙っているのが苦にならない。ヴァルドも、そうらしかった。
中洲では、竿の先が流れに引かれて、少しずつ下がっていく。引いているのは、魚でなく水だ。エルドは、気づいていないようだった。顔は、竿の先でなく、南の空のほうを向いている。
「あれでは、釣れん」
「はい」
「さっきは、訊いてもおらんのに、南の王女が出た」
レイフは、串を一本回した。答える問いでは、なかった。
「あいつにも、ああいう日があった」
ヴァルドは、火を見たまま言った。
「一日だけだ。一尾も釣らなかった。竿の先を見ずに、南の空ばかり見ておった。口を利かん男が、その日は訊きもせんのに喋った。王都から戻ってすぐのころだ」
御館様の話だ。レイフは、串から手を離した。
「王都で娘に訊かれたそうだ。北には何があるのか、とな」
「御館様は、何と答えたのですか」
「川がある、と答えた」
岩のような顔の中で、口の端が歪んだ。
「その川に座って、川を見ておらんのだ。それでは娘は来んぞと言ってやった。川があると聞いて北まで嫁に来る者が、おるものか」
「来られました」
レイフは言った。北の城には、奥方様がいた。
「来た。……わしの見立ては、釣りでも嫁でも当たらん」
火が、小さくはぜた。
「大男。おぬしは、何か知っておるな」
こちらを見ずに、ヴァルドは言った。
知っている。去年の秋に、南の踏み場で、三歩うしろにいた。
「エルド様の話です。俺からは、言えません」
「……そうか」
ヴァルドは、鼻を鳴らした。
「訊かん。見たものを言わずにおくのは、わしの得意だ」
少し、間があった。
「今度のは、悔いずに済む」
レイフは、黙っていた。ヴァルドが七年、何を言わずにいたのかは、前に川べりで聞いている。
「当人は、どうだ。分かっておるのか」
レイフは、少し考えた。
「分からないことがあると、エルド様は俺に訊きます。まだ、訊かれていません」
「訊く所まで、行っておらんのか」
「はい」
「長くかかるぞ。あいつも、長くかかった」
「文は、二十日で着きます」
ヴァルドの顔が、こちらを向いた。
「……そういう話は、しておらん」
「はい」
魚の皮が、音を立てはじめた。レイフは、火に近い串から順に、少しずつ遠ざけた。
「いまの話は、あれには黙っておけ」
ヴァルドは、中洲の背中を見ていた。
「聞けば、あれは竿を見るふりを覚える」
「……はい」
呼ぶ前に、エルドのほうが竿を上げた。糸の先には、何も付いていない。
エルドは、靴を提げて浅瀬を戻ってきた。
「釣れませんでした」
「見ておった」
ヴァルドが言った。
「竿の先を見ておらん者は、後ろからでも見て取れる」
エルドは、少し黙った。
「……南の国境の川のことを、考えていました。あの川は深くて、歩いては渡れません」
「川か」
「はい」
ヴァルドは、レイフを見た。
「川だそうだ、大男」
「はい」
エルドは、二人を順に見た。何か訊きたそうにして、やめたようだった。焼けた魚の匂いのほうが、先だったのだろう。
◇
——境の川。検分は、昼までに済んだ。川が動いたら、また二人で歩いて見る。主と東の領主様が、口でそう決めた。
——杭が、馬一頭ぶん、北の家へ来る。山の道に使う。
——南の川のことを考えていた、と主は言った。主の魚籠は、空だった。
第二部の終話までお読みいただき、ありがとうございます。
次話からは、エルドの恋愛を主軸とした 第三部「鎖が解けるまで」です。
エルドの恋路を温かく見守っていただければと思います。
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最後に、お願いです。
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