【第三部 鎖が解けるまで】第01話 半分、とだけ
第三部「鎖が解けるまで」は、エルドの恋愛が主軸となります。
よろしくお願いいたします。
エルドは、裏の戸を開けて、井戸の脇に出た。
粉屋の壁とのあいだの、狭い所だ。レイフが、桶を提げて立っている。粉屋の裏口から、挽いたばかりの粉の匂いが流れてくる。朝の井戸端で息が白くならなくなって、十日ほどになる。北の春が、終わりかけていた。
「今日も、お願いします」
「今日も」
小さい袋から、銅貨を二枚出した。役所の帳簿を手伝った手間賃だ。上を向いた大きな手のひらに、載せる。載せた自分の手の甲で、薄い青の結び目が朝の日を受けた。
レイフは銅貨を握って、懐に入れた。多い、とは、もう言われない。
桶の水で顔を洗って、濡れた手で髪を撫でつけた。襟の合わせを直す。役所へ出る日も出ない日も、朝はそうしている。
「今日は、役所で割りを決めます。決まったら、南へ返事を出します」
「はい」
南から文が来たのは、通りの雪が消えたころだ。王の名代の名で来た文だった。国境の橋を最初に渡るのは、十一人。着くのは、夏の前だとあった。
すぐには、返事を書けなかった。迎える畑を、まだ見ていなかったからだ。雪の下にあった畑のことは、見てからでないと書けない。境の川の検分を済ませて、町へ戻ってから、代官のコンラートと空いた畑を一つずつ見て回った。最後の一つを見たのが、きのうだ。
「南の文を、持っていきます」
机のほうへ戻りかけると、レイフが言った。
「懐です。ゆうべ、入れていました」
外套の内側に手をやると、あった。四つに畳んだ、葦の紙だ。そうだった。ゆうべ、寝る前に読んで、そのまま入れた。
この男は、よく見ている。
「きのう、山の村のステンが下りてきました。マグダの言づけがあります」
「何と」
「道は通った。客も通った。酒が通らない、と」
言った当人の声まで、聞こえる気がした。上の湯の宿は、この春に開いた。冬のあいだに沢へ丸太を渡した道を、客が上がっていく。村の麦の酒は、壺で出している。喜ぶのは、物好きな客だけだ。あとの客には、下の町の樽が要る。樽を担ぎ上げる手のほうは、足りていないらしい。
「道に入る人が着けば、樽も上がります。そう返してください」
「ステンは、今朝、発ちました」
「……では、次に下りてきた人に」
「はい」
レイフは、桶を井戸の縁に置いて、縄を取った。
◇
役所は、市の角にある。
コンラートは、机の向こうで立って、いつもの遅い礼をした。官服は、春に届いた新しいものだ。もう黒くない。襟は、喉の下で折ったままにしている。
机の上に、町の帳簿が開いてあった。
「この夏から人を入れられる畑は、六つでございます」
座り直してから、コンラートは言った。
「屋根の残っている家が付いているのは、そのうち四つ。あとの二つは屋根を直す所からになります」
「屋根は、道に入る人たちの初めの仕事にできますか」
「道直しの費えから出せます。……帳簿の上では」
帳簿の上では、とこの人が言うときは、帳簿に載らないものが別にある。
「町の人たちのことですね」
「はい。よその兵を恐れる訳が、この町にはございます。それは、着いてからのことになりましょう」
「着く前に、私が話して回ります。槍は橋に置いてくる人たちです」
コンラートは、小さな手控えに何か書いた。聞いたことは、書く人だ。
それから、割りを決めた。
畑に六人、道に五人。南の文には、名と、歳と、槍を持つ前に何をしていたかまで書いてあった。書く国の文だ。エルドは、十一の名を上から順に言った。文を見なくても言える。テオは十九で、葦刈りの家の三男だという。畑がいい。ルチオは四十がらみで、石を積んでいた。山の道の、沢の渡りを頼みたい。樽を待っている人が、上にいる。
コンラートは、言われた順に帳簿へ書いていった。七つ目の名で、ペンが止まった。
「この方は、槍の前は何とございましたか」
帳簿から顔を上げて、訊いてくる。
塩の荷運びだ。覚えている。覚えているが、確かめてから答えるほうが筋だと思った。懐から文を出して、開いた。
開くと、目が下へ行った。
書記の揃った字が、紙の終わり近くまで続いている。そのいちばん下に、一行だけ、別の手の字があった。
——メリディアの王の名代 リヴィア
名の所だけは、当人が書く。あの国では、そう決まっている。速くて、迷いの見えない線だ。終わりの一画が、少し長い。
「ファーレン殿」
コンラートの声は、低くて丁寧だった。
「名の並びは、上のほうでございます」
「……はい」
目を、上へ戻した。七人目。塩の荷運び。合っていた。
返事は、その場で書いた。紙と蝋は、役所のものを借りた。
——メリディアの王の名代、リヴィア殿下。
——十一の名を、受け取りました。畑に六人、道に五人で迎えます。
——雇うのは、北の家です。着いた日に、一人ずつ名を訊いて、証文を結びます。
用件は、三行で済んだ。
ペンを、置けずにいた。
終わりに、もう一行足したい。足す用は、見当たらない。畑のことも道のことも、もう書いた。
去年の秋に、南の王宮の門で、リヴィアから聞いたことがある。父上は今朝、寝台から椅子まで歩かれた、三歩だ、と。広間の椅子までは、あと四十歩ある、とも。名代の務めは、王が自分の足でその椅子に座る日まで続く。
——王の歩数が増えますように。
書いてから、読み直した。病の床にある王を案じる一行だ。よその国の当主が書いて、おかしい所は一つも見当たらない。
名を書いて、コンラートに渡した。コンラートは、封をする前に、役所の控えに写しを取った。出した文は、控えを取る。代官になってから、ずっとそうしてきた人だ。
細かい字が、終わりの一行の所で、少し遅くなった。
「……歩数、でございますか」
「南の王は、去年の秋に三歩歩かれました」
「承りました」
ペンは、また同じ速さで進んだ。終わりの一行も、用件と同じ太さの字で写されていく。控えの上では、四行とも用件に見えた。
蝋の溶ける匂いがして、封が押された。文は、王都を通って南へ行く。二十日かかる。
コンラートは、机の引き出しから銅貨を二枚出して、帳簿の脇に置いた。
「本日の手間賃でございます。割りの書き出しが、一枚ぶん。文の控えは私が取りましたので、数に入れておりません」
「いただきます」
明日の朝のぶんだ。小さい袋に入れた。
◇
役所を出ると、市が立っていた。
買い出しは、自分の受け持ちだ。パンを五つ買った。三つは、レイフのぶんになる。
塩の台の前で、ディルクに会った。鎌を提げている。林の石の草を刈って、戻ってきた所らしい。左の耳の欠けた顔が、こちらを見て、頭を下げた。
「若様。南の文は、今日は来ていません」
訊く前に、答えられた。
南から届く文は、町から半日下った詰所に着く。市の日に、町の兵がそれを取りに行く。兵をまとめているのは、この人だ。
「……まだ、訊いていません」
「市のたびに訊かれますので、先に言うことにしました」
太い声は、真面目だった。からかっている声とは違う。手間を一つ省いてくれたのだ。
「ありがとうございます」
礼を言って、パンの包みを抱え直した。
十一人の着く日が決まれば、南から知らせが来る。迎える側が日取りを知りたがるのは、当たり前のことだ。歩きながら、そう考えた。考えてから、気づいた。着くのは夏の前だと、初めの文にもう書いてある。
◇
夕飯は、魚だった。レイフが、昼のうちに城の裏の沢で取ってきた。五つのパンのうち三つが、魚と一緒に、向かいの皿から消えた。
竈の火を落とすと、レイフが、戸口の脇に寝床を延べた。
この家に移った晩から、そうしている。それまでは、王宮でも旅の宿でも、戸口の脇で壁に背をつけて座り、膝に剣を置いて夜を越す男だった。帳面を読むかぎり、その前の年月もだ。移った晩に、座らないのですか、と訊いた。
「戦は起こさない、と聞きました。聞いたのは、俺です」
それが答えだった。剣は、いまも寝床の頭の所に置いてある。
それから、エルドは棚の四冊目を取った。
書くのは、春から五冊目だ。四冊目に、開く用は無い。塚に眠る六十余りの名も、いまは見ずに言える。
それなのに、手に取ると、ひとりでに開く頁がある。
秋の終わりの頁だ。国境の関の宿場で、一行だけ書いた。
——南の王都の、坂の踏み場で、風の話を聞いた。半分、とだけ書いておく。
灯りの下で見ると、頁の角が丸くなっていた。
隣の頁の角は、立っている。前の頁も、後ろの頁もだ。この一枚だけ、指の当たる所が擦れて、紙が柔らかくなっている。擦ったのは、自分の指だ。この頁に用のある者は、ほかにいない。
一つ目だ、と思った。
何の一つ目なのかは、まだ決めていない。
二つ目は、文だ。名の並びは上のほうでございます、と昼に言われた。十一の名は、とうに覚えている。覚えたものを確かめるのに、文は要らない。それでも開く。開くと、目が下から入る。今日が初めてではないことを、自分は知っていた。南の文を待っていることは、ディルクにまで知られている。
三つ目は、言葉だ。
あの夕方のことは、書かずにおいた。風だと言われたからだ。書いたのは、半分、とだけだった。
書かなかった言葉が、呼びもしないのに出てくる。井戸端でも、帳簿の数を合わせている最中でもだ。冗談であった。……半分は。付けるな。聞けば、わたしは、求めたことになる。坂の下から上がってくる風と、石の継ぎ目に残った紫まで、一緒に付いてくる。
ほかの人の言葉は、呼べば出てくる。呼ばないのに出てくるのは、リヴィアの言葉だけだった。
ただ、三つ目に数えるなら、確かめておきたい。半年のあいだに、自分に都合のいい形へ覚え直しているかもしれない。書いていないものは、頁では確かめられない。
確かめる先は、一人しかいなかった。
「レイフ」
机の向かいで、炭が止まった。レイフは、五冊目を開いている。
「南の踏み場で、あなたは三歩うしろにいました」
「はい」
「王女殿下は、冗談であった、と言われました。そのあと、間がありましたね」
「ありました」
「息二つぶんだったと、私は覚えています」
レイフは、少し考えた。
「二つです。そのあとが、半分は、でした」
「終わりに、坂を上がりながら言われたのは」
「効きすぎるな、外では、です。言う前に、少し黙っていました」
合っている。間の長さまで、合っていた。
「あの話は、書かずにおく、と聞きました」
レイフは、炭を持ったまま言った。
「書いていません。確かめただけです」
「はい」
炭が、また動きはじめた。
三つ、並んだ。
角の丸い頁と、下から読む文と、呼ばないのに出てくる言葉。
秋から半年、気になる、と呼んできた。残りの半分が何なのか、あの踏み場で見当はついた。ついたのに、それをどう受け止めればいいのかを知らなかった。知らないまま北へ帰って、継ぐと答えて、ひと冬を越した。
三つを並べてみると、気になる、では足りない。
では、何と呼ぶのか。
語は、知っている。レイフの書いた三冊の中に、惚れられた、という頁があった。十六の秋の頁だ。当人は気づいていない、とも書いてあった。
惚れた、という頁は、三冊のどこにも見当たらない。王都で目を開けた朝からあとにも、そういう覚えは無い。
使ったことのない語だ。それを、初めて自分に当ててみた。
合う、と思った。
合うと分かったとたんに、椅子の上で、手の置き場に困った。帳面の上に置いて、膝に下ろして、また帳面の上に戻した。
南の王都までは、歩いて三十三日ある。文なら、二十日だ。今日の返事が向こうに着くころ、こちらには十一人が着く。
それに、リヴィアは、求めぬと誓った家の人だ。半分で止める、と自分の口で言った。成るか成らないかは、別のことだ。今夜分かったのは、自分の側のことまでだ。
四冊目を閉じた。
顔には、出ていないはずだ。出ていれば、マグダが黙っていない。そのマグダは、山の上にいる。レイフは、何も言わない。
向かいで、炭の音が続いていた。
◇
——春の終わり。南へ、返事が出た。畑に六人、道に五人。
——夜、踏み場のことを、主に確かめられた。答えた。中身は、書かない。風だと聞いている。
——主は、四冊目の同じ頁を、今日も開いた。




