【第三部 鎖が解けるまで】第02話 めでたい知らせ
レイフは、町の南の口で、街道の埃が近づいてくるのを見ていた。
夏の入りの昼だ。道の両側の畑で、麦の穂が出そろっている。風が吹くと、青い匂いがした。
埃の中に、人の列がある。先頭は、小太りの男だ。板を三枚も抱えて、歩きながら額を拭いている。そのうしろに、十一人いた。
十一人の足は、そろっていた。
誰も、号令を掛けていない。それでも、右の足が同時に出る。槍を持って、並んで歩いてきた者の足だ。槍は、国境の橋に置いてきたと聞いている。足のほうは、置いてこられなかったらしい。空いた両手を、どこへ下げればいいのか分からずにいるように見えた。
通りで、戸の閉まる音が幾つかした。
粉屋の女房は、戸口で腕を組んでいる。通りへ出かけた子どもが、後ろから襟を掴まれて、戸の内へ引き戻された。この町は、兵が城を焼く夜を一度見ている。九年前の冬だ。
道の脇には、ディルクが、町の兵を四人連れて立っていた。五人とも、槍を持っていない。エルドが、そう頼んだ。置いてきた者を、立てた槍で迎えるのは筋が合わない、と言っていた。
そのエルドは、道の真ん中にいる。レイフは、半歩うしろだ。代官のコンラートが、帳簿を抱えて脇に立っていた。
「北の当主!」
小太りの男が、列を離れて小走りに来た。ドナートだ。去年の夏には、レイフを断ち手と取り違えて、縁談を持ってきた。いまは、南の名代の使いをしている。
ドナートは、右の手のひらを上に向けて差し出した。エルドが、同じ形で返す。
「十一人、一人も欠けずに連れて参りました。橋から、二十六日でございます」
「遠い所を、ありがとうございます」
十一人は、二十歩ほど手前で止まっていた。止まったまま、懐から紙を出している。葦の紙だ。一人に一枚ずつ、両手で胸の前に持った。国境の関で、役人に証文を見せる者の持ち方だった。
エルドは、列のいちばん端まで歩いた。若い男の前に立つ。
「名を、聞かせてください」
「……証文に、書いてあります」
若い男は、紙を少し持ち上げた。言葉の尻が、歌うように上がる。南の訛りだ。
「読みました。当人の口から、聞いておきたいのです」
「……テオ、です」
「テオ。十九で、葦刈りの家の三男だと、文にありました。畑を用意してあります。家の屋根は、残っています」
テオは、口を少し開けたまま、エルドを見ていた。その目が、下へ落ちた。エルドの右の手だ。甲に、薄い青の結び目がある。
テオの肩が、硬くなった。隣の男も、その隣も、同じ所を見ている。誓いの国へ行けば誓わされる。川べりでは、そう言い合ってきたのだろう。
「これは、私が自分で結びました」
エルドは、手を隠さずに言った。
「人に結ばせるものでは、ありません。北の家は、誰にも誓わせません」
「……証文だけで、いいんですか」
「証文だけです。解く条があることも、読みました」
十一人の目が、今度はレイフのほうへ上がってきた。レイフは、右の手を外套の外に出したまま立っていた。何も無い手だ。従士の手に、紋が無い。それを見て、テオの肩が少し下りた。
隣は、四十がらみの、手の大きい男だった。
「ルチオ。石を積んでた」
「山の道に、丸太を渡してある沢があります。石に替えたいのです。お願いできますか」
「……槍のことは、訊かんのですか」
「槍は、橋に置いてきたと聞きました」
「置いてきた」
「では、訊くことがありません」
ルチオは、紙を持ったまま、短く笑った。
四人目からは、エルドが前に立つより先に、向こうが名を言った。
エルドは、聞いた名を口の中で一度言ってから、次へ進む。十一人ぶん、同じことをした。紙は、一度も出さなかった。
役所へ歩きだしたとき、十一人の足は、もうそろっていなかった。
◇
役所の机に、証文が十一枚並んだ。
条は、どれも同じだ。雇うのは、アルデンの北の家。年限は、一年。解く条は、どちらからでも、証人の前で告げれば解ける。雇われる者の名は、南でもう書いてある。空いているのは、雇う者の名の所だけだった。
証人は、南からドナート、北からコンラートが立つ。
エルドは、一枚ずつ読んでから、名を書いた。十一枚とも同じ条だと分かっていても、読む。読まずに名を書かない人だ。十一人は壁際に並んで、自分の証文に北の名が入るのを見ていた。レイフは、戸口の脇に立っている。墨の匂いがした。
十一枚目に、ペンが下りたときだった。
「それから、北の当主。めでたい知らせを一つ、預かって参りました」
ドナートが、額を拭きながら言った。
「伺います」
エルドは、書きながら答えた。
「この秋の収穫の祭りに、名代の顔合わせがございます。お相手は、南の平野でいちばん大きな蔵をお持ちの家の、跡取りの方で。宮廷じゅうが、喜んでおります」
ペンの先から、墨が一つ落ちた。
証文の、名の脇だ。名は、終わりの一字がまだ書かれていない。
コンラートが、黙って布の端を当てて、墨を吸わせた。
エルドは、終わりの一字を書いた。それから、顔を上げた。
「お相手の方の、お名前は」
「ステファノ様と申されます」
「ステファノ殿」
口の中で、一度言った。名を覚えるときの、いつものやり方だ。今日のは、いつもより少しゆっくりだった。
「……めでたいことです」
声は、ふだんと変わらない。
顔のほうは、変わっていた。エルドは、顔を作らない。口はめでたいと言って、顔は別のことを言っている。
ドナートは、板に何か書いていた。
「北の当主は、めでたいことです、と。申されたとおりに、名代へお伝えいたします」
満足そうに、板を重ね直している。
コンラートの手控えは、机の端で閉じたままだった。今日は、ペンを取らなかった。
壁際で、テオが、隣のルチオに小さな声で訊いた。
「めでたい話なのに、なんで眉が寄ってるんです」
「知らん。黙ってろ」
◇
十一人を宿のエーリクに預けて、役所を出た。今夜は宿で、明日から畑と道に分かれる。
家までの道で、エルドは一言も口をきかなかった。
その晩、エルドは机で役所の帳簿を開いた。十一人の、初めの十日ぶんの入り用を出す。パンと、塩と、屋根に葺く板だ。三つの数を足せば済む。
一度目の答えを書いて、エルドは手を止めた。消して、足し直した。二度目の答えは、一度目と違っていた。三度目は、前の二つのどちらとも違った。
レイフは、向かいで見ていた。
「レイフ。足してもらえますか」
「はい」
帳簿が、机の上を回ってきた。指で列をたどって、足した。
「二百六です」
「私のは、二百十六と、百九十六と、二百七でした」
「三度目が、近いです」
「近くても、合っていなければ帳簿になりません」
エルドは、二百六と書いた。書いた数を、長いこと見ていた。見ているのは、たぶん数とは別のものだ。
◇
夜半に、床板が鳴った。
レイフは、目を開けた。寝床は、戸口の脇にある。この家に移った日に、自分でそこへ敷いた。
エルドが、戸の前に立っていた。
外套を着ている。夜回りに羽織る短いほうとは違う。旅の外套だ。
「用は、何ですか」
訊いた。行き先と用は、供が知っておくものだ。
エルドは、戸の閂に手を掛けたまま、少し黙っていた。
「……南へ、行こうと思いました」
「南の、どこですか」
「王都です」
「歩いて、三十三日です。用は、何ですか」
二度、訊いた。同じことを二度訊くのは、めったに無い。
長い間があった。閂から、手が離れた。
「言える用が、見つかりません」
「朝まで、探しますか」
からかったつもりは無い。探すのなら、付き合う気で訊いた。
「……座って、探します」
エルドは、外套を着たまま、戸口の脇の床に腰を下ろした。レイフの寝床の、すぐ隣だ。膝を抱えて、戸を見ている。床板は、夏の初めでも夜は冷える。レイフは、自分の毛布を半分、そちらへ寄せた。
しばらくして、エルドが言った。
「レイフ。あなたは、顔合わせを一度しています」
「はい。去年の祭りです」
「私は、葡萄棚の外にいました。声は、届きませんでした。……どういうものでしたか」
レイフは、あったとおりに言った。
「向かい合って、黙っていました。長いことです」
「長いこと」
「首が痛くなった、と言われたので、しゃがみました。それから、魚を焼きました」
エルドは、少し黙った。
「……王女殿下の相手の方は、魚を焼くでしょうか」
「分かりません。蔵を持つ家の人だと、聞きました」
「蔵の人は、焼きませんか」
「焼く所を、見たことがありません」
暗がりで、短く息の抜ける音がした。笑ったのだと思う。それきり、エルドは何も言わなくなった。
寝息が聞こえはじめたのは、だいぶたってからだ。
レイフは、眠らずにいた。
エルドに、想う人ができた。
それは、分かっていた。四冊目の同じ頁を、春から毎晩のように開く人だ。
恋のことは、レイフには分からない。顔合わせを一度して、分かったのは、向かい合って立つと相手の首が痛くなる、ということまでだ。
それでも、いいことだと思う。七年、追われて歩いた人だ。王都の朝からは、会う人ごとに名を訊いて、一つずつ覚えてきた。そのエルドが、帳面に書かずに持っていたいものを、一つ持った。
怖いのは、別のことだった。
南の王女の手の甲には、紋がある。蔵で、灯りを持って聞いた。求めぬ、と誓った家の紋だ。解く条は無い。外せる手は、この大陸に一つしか無い。その手は、いま隣で、膝を抱えたまま眠っている。
外せば、払う。何を払うかは、選べない。
南の門で、一人ぶんの浅い紋を断った次の日に、名が三つ出てこなくなった。何百年ぶんの紋なら、何が出てこなくなるのか。レイフには、見当がつく。王都の朝を、一度やっている。あなたを知っている気がします、と言われる朝だ。
もう一度やれと言われれば、やる。一冊目から、また読む。
やるが、したくはない。
去年の祭りで、エルドの襟を掴んで止めた人は、いまは山の上にいる。レイフは、襟は掴まない。それは、供のすることと違う。訊く。用は何ですか、と訊く。用があるのなら、ついて行く。
用が、あの紋だったときは、どうするのか。
そのときも、訊く。断たずに通る道は、ほかにありませんか、と。
窓が、青くなった。
レイフは、水を汲む前に決めた。答えは、きのうと同じだった。
桶を取って、戸の閂を外す。その音で、エルドが目を開けた。壁に背をつけて、外套を着たまま眠っていた。肩に、毛布が半分掛かっている。
エルドは、毛布を見て、戸を見て、それから立ち上がった。外套の皺を、手で一度払う。
「今日も、お願いします」
「今日も」
銅貨が二枚、手のひらに載った。
◇
——夏の入り。南から、十一人が着いた。主は、十一の名を当人の口から聞いた。
——めでたい知らせがあった。主は、めでたいことです、と言った。
——主は、夜半に旅の外套を着た。用は、朝になっても見つからなかった。
——南の祭りの初日まで、九十二日ある。




