【第三部 鎖が解けるまで】第03話 名代の朝
リヴィアは、父の足を数えていた。
朝の寝所だ。窓は開いていて、草を煎じた匂いが、外の風と入れ替わっていく。坂の下から、朝の荷車の音が上がってきた。
父のフラヴィウスは、寝台を下りて、窓際の椅子へ歩いている。秋には、椅子は寝台の脇にあった。三歩で着いた。歩けるようになったぶんだけ、父は椅子を遠くへ動かさせる。侍従が一人、脇についていた。手は出さない。出すな、と父が言ってある。
五つ。六つ。
七つ目で、父の手が椅子の背をつかんだ。
「七つだ」
座ってから、父は言った。乾いた声が、少し弾んでいる。
「七歩でございました」
リヴィアは、数えたとおりに言った。
「書かせるなよ。王が七歩で褒められては、名が安くなる」
「書記は、戸の外に置いております」
寝所の内のことは、父が書かせないかぎり、書かれない。リヴィアが、書かれずにものを言える所は多くない。ここは、その一つだった。
この戸口から広間の椅子までは、四十歩ある。名代になった日に、自分の足で測った。一度に四十歩を歩ける日が来れば、父は広間の椅子に座る。王が自分の足でその椅子に座る日まで、とリヴィアの務めの証文にはある。春の初めには、五歩だった。
「川べりは、幾つになった」
「四千百です」
「ガイウスは、六千と言っておったな」
「六千には、いたしませんでした」
父は、黒い目でリヴィアを見た。それから、椅子の肘を指で一つ叩いた。
「蔵は」
「底が見えました」
「蔵の家が、何か言ってきたそうだな。侍従長が、ゆうべ枕元で咳払いを三度した」
「今日、広間で聞きます」
「条は、そなたが読め。わたしは、七歩ぶんしか口を出さぬ」
それで、朝の用は済んだ。リヴィアは、父に礼をして、戸を出た。
戸の外で、書記が二人、筆を持って待っていた。
◇
広間へ行く回廊は、奥の庭の脇を通る。
庭には、朝の日がまだ半分しか入っていない。泉の縁に、弟のパウルスが板を載せて座っていた。板の上に葦の紙を置いて、何か書いている。黒い髪が、あちこち跳ねていた。梳かした者の苦労が、朝のうちに無になっている。
リヴィアは、書記に手で待てと示して、庭へ下りた。
「姉上。父上は、今朝は何歩」
パウルスは、顔を上げるなり訊いた。
「七歩だ」
「では、あと三十三歩だ」
「引くのが早いな」
「四十から引くだけだ。広間の椅子は、ぼくは見たことが無いけど」
十一になる。王の子は、十四になるまで広間に出ない。名を書いて証文を結べるのは、十四からだ。名の書けない者を、書く場には座らせない。この国の決まりだった。
「何を書いている。見せてみよ」
紙には、同じ名が、上から下まで並んでいた。パウルス。パウルス。パウルス。十四になったら証文に書く名を、いまから稽古しているらしい。
「終わりの一画が、長い」
「姉上のを、まねた」
「……あと三年ある。稽古には、足りるであろう」
リヴィアは、膝を折った。目の高さを合わせるのは、この弟の前でだけだ。墨のついた小さな右の手を取って、手巾で拭いてやる。
手の甲に、薄い青の紋がある。リヴィアの手にあるのと、同じ紋だ。
王の家の名を負って生まれた子の手に、この紋は浮く。輪が二つ絡み合った、鎖の形だ。亡くなった伯母の手にも、終わりまであった。父の姉で、嫁いで王の家を出た人だ。その伯母の子の手には、無い。向こうの家の帳簿に書かれて、生まれた子だからだ。
母は、この弟を産んだあとに亡くなった。この弟の世話は、十一年、リヴィアの役になっている。
「姉上。今日は、何か嫌なことを決めるの」
「なぜ、そう思う」
「歩くのが速かった。回廊の角から泉まで、いつもは二十数えるのに、今日は十四だった」
見たままを言う子だ。数えたままも言う。
「蔵の話だ。嫌な話ではない。条の話だ」
「条の話の日は、姉上は速く歩かない」
「……よく見ているな」
答えには、ならなかった。パウルスは、それ以上は訊かずに、板へ目を戻した。訊かずにおくことを、この子はもう覚えている。
◇
広間の机に着くと、書記が二人、筆を取った。
ここから日の入りまで、リヴィアの言うことは、みな書かれる。名代とは、そういう務めだ。
机の向こうに、長い衣の侍従長が立っていた。名代の裁きの日に、宮廷の席から、北の当主に断ちを願い出た老人だ。国のためになると思えば、誰にでも頭を下げる。
「名代殿。川べりの数が、上がって参りました。四千百でございます」
去年の秋には、三千と少しだった。祭りが明けて、雇いの結び直しで、新しく二千が放された。冬のあいだに、リヴィアは千を元の家へ戻した。雇い直した家には、王家の蔵から麦を付けた。蔵の底が見えたのは、そのせいだ。
「祭りが明ければ、また結び直しでございます。放される者が、また出ましょう」
「分かっている。夏の日雇いのあるうちは、川べりも食える。冬は、越せぬ」
「そこで、蔵の家でございます」
侍従長は、老いた書記へうなずいた。老いた書記が、封を切った葦の紙を取り上げて、読んだ。
——蔵の家は、川べりの者に、この冬の麦を出す。
——代は、来年の祭りまで待つ。
——縁組が成れば、麦は持参に替える。代は取らない。
——跡取りのステファノを、王の家へ出す。
南の平野で、いちばん大きな蔵を持つ家だ。申し出のあることは、春の初めに聞いていた。祭りには顔合わせを、という話も、そのころから宮廷じゅうが口にしている。条が届いたのは、今朝になる。
「跡取りを、出すと言うのか」
「はい。三十の手前で、十五の年から蔵の帳簿を付けておられる方です」
侍従長は、指を折らずに訳を並べた。
「陛下は、まだ七歩でございます。お世継ぎは、十一。兵を預かる方の席は、空いたまま。蔵は、底でございます。名代殿のお隣に、蔵の帳簿の読める方が要ります」
「わたしが、蔵の家へ嫁ぐ手もあろう」
「それは、困ります」
老人は、すぐに言った。
「陛下の姉君は、嫁いで出られました。王の家の帳簿に、嫁ぐ、と一行書き足されて、それきりでございます。名代殿に出ていかれては、宮廷は立ちませぬ。婿を、迎えていただきたいのです」
筋は、通っていた。穴を探したが、見つからない。蔵の家は、麦と跡取りを出す。王の家は、冬を越せる。川べりの四千百は、飢えずに済む。
「条としては、立っている」
若いほうの書記の筆が、それを書いた。
「顔合わせは、祭りにいたします。習いでございますので。三日のうちの、いずれの日に」
「初日だ」
「二日目のほうが、町も賑わいますが」
「初日だ。書け。蔵の家には、名代の名で返事を出す。条は読んだ。顔合わせは、収穫の祭りの初日。その先のことは、祭りが明けてから、卓で話す」
筆の音が、二つ重なった。済ませるものは、先に済ませる。祭りの日に言うことは、どうせみな風になる。
侍従長は、深く頭を下げた。上げた顔が、少し緩んでいる。
「名代殿。年寄りの申すことではございませんが。蔵の跡取りは、条で話のできる方だと聞いております。話の合う方が、お隣におられるのは、よいものでございますよ」
「聞いておく」
この老人を、悪くは思えない。この国の冬のことを、リヴィアと同じだけ案じている。
「次だ。文を読め」
名代に届く文は、書記が封を切って、声に出して読む。読み終えたら、綴りに綴じる。名代ひとりの目で読む文は、この国には無い。
関の役人の文が一通。川べりの見回りの文が一通。三通目の封を切って、老いた書記は言った。
「アルデンの北の家より、でございます」
——メリディアの王の名代、リヴィア殿下。
——十一の名を、受け取りました。畑に六人、道に五人で迎えます。
——雇うのは、北の家です。着いた日に、一人ずつ名を訊いて、証文を結びます。
——王の歩数が増えますように。
老いた書記は、読み終えた文を持ったまま、待っている。綴じよ、と言われるのを待つのが、この書記の作法だ。
「……綴じよ」
息一つぶん、遅れた。老いた書記は、顔を上げずに文を綴りへ重ねた。
「歩数、と申しますのは」
侍従長が訊いた。
「門で見送るときに、わたしが言った。父上は三歩歩かれた、とな」
「半年も前のことを。律儀な方でございますな」
「あの者は、誰の名も、歩数も覚える。川べりの十一人の名も、文が着いた日に覚えたであろう。そういう男だ」
言ってから、若い書記の筆がそれを書いているのに気づいた。訊かれてもいない訳まで、足していた。
「十一人は、いまごろ北に着いたころだ。畑に六人、道に五人。数は合っている。次の文を読め」
◇
日が傾いてから、リヴィアは証文蔵の石段を下りた。
侍女のノエミが、今日の綴りを抱えてついてくる。同じ乳で育った、同い年の女だ。口数は少ない。書記のように、筆も持たない。
蔵の鍵は、王の鍵だ。戸も、奥の箱も、この一本で開く。いまは、リヴィアの首に下がっている。綴りを納めるのも、自分の手でする。
戸の内は、涼しかった。乾いた草の匂いがする。高い窓から、細い日が棚に落ちていた。
北の棚に、綴りを納める。その下に、冬に納めた一枚があった。
アルデンの丘の騎士から届いた文だ。引き取れる誓いの口上が並んだ、とあって、写しが添えてあった。読んで、帳簿に欄を一つ足した。その訳として、ここへ納めてある。
文の終わりに、騎士は書いていた。同じ朝、北の当主も唱えた。聞く者の名の所だけが違う、と。
——引き取りは、この村のレイフが聞く。
指が、その行の上に留まった。
冬にも、ここで留まった。何にも縛られていなかった男が、自分で一つ結んだ。引き取るときに告げる相手に、レイフの名を置いた。毎朝、今日も、と言い合う相手だ。筋は、通っている。あの二人なら、そうするであろう。
なぜ指が留まるのかは、確かめていない。
確かめておらぬことは、言わぬ。言わぬことにして、筒の紐へ手を伸ばした。ノエミの手のほうが、先に紐を結んでいた。
◇
町の大湯は、夕方がいちばん混む。
リヴィアは、蔵の鍵をノエミに持たせて、入口の台で木の札を受け取った。脱いだ物は、胸の青い石まで、この札と引き換えに返ってくる。
前にいた女が、湯番に布の包みを渡していた。あとから来る娘に渡してくれ、と名を言っている。この町の女は、湯番に物を預けていく。湯番は、名を聞いて預かって、その名の者にだけ渡す。包みの中は見ない。書く国で、書かずに通っている約束の一つだった。
ノエミは、湯上がりの広間に残った。王宮の兵は、入口の外にいる。みな男だ。ここには入れない。
石の床が、裸足に温かい。油の石鹸の、青い匂いがした。
「リヴィア。今日は、顔が硬いよ」
洗い場から、ジュリアが桶を振った。
「名代の顔だ。湯で戻す」
「戻るといいね。祭りに婿さんが来るんだって? 辻で聞いたよ」
「耳の早い町だ。まだ、顔を見るだけの話だ」
「蔵持ちだってね。去年の花婿殿は、屋台で魚を焼いたよ。今度のは、何ができるんだい」
「蔵の帳簿が読めるそうだ」
「帳簿じゃ、腹はふくれないね」
洗い場が、どっと笑った。リヴィアも、声を立てずに笑った。
髪を布で高く巻いて、いちばん奥の隅で、肩まで沈んだ。
ここでは、誰も書かない。湯の中の約束は、風だ。朝の寝所と、この湯だけが、書かれずにいられる所だった。
区切りは、付けてある。
門では、名代として見送った。踏み場のことは、風にした。返事は、付けさせなかった。わたしは、求めぬと誓った家の者だ。半分で止める、と自分で言った。今日は、顔合わせの日まで決めた。どこにも、穴は無い。
——王の歩数が増えますように。
湯気の中で、口が動いた。声にはしていない。
一度、読み上げられただけの一行だ。それを、一字も違えずに言える。帳簿の一頁を息二つで読む者には、当たり前のことだった。
その当たり前のことを、なぜ湯の中でまで確かめているのか。
それは、考えぬことにした。




