【第三部 鎖が解けるまで】第04話 成らない訳
エルドは、畑の石垣に腰を下ろして、テオが鍬を振るのを見ていた。
十一人が着いたのは、おとといだ。六人は畑に、五人は道に分かれた。この畑は、去年の秋に町へ出た者が空けていった所だ。ひと冬で、草の根が土をつかんでいる。鍬が入るたびに、起こした土の匂いが上がってきた。
テオの鍬は、深い。葦を刈る家の子は、根を切るのに慣れているのだろう。
石垣の向こうは、町の者の畑だ。朝から、男が一人、麦のあいだの草を抜いている。こちらが顔を上げると、背を向ける。テオが鍬を止めて頭を下げても、同じだった。
「見てもらえないもんですね」
テオは、額の汗を腕で拭いた。
「槍は、持ってないんですが」
「はい。持っていません」
それでも、背を向けられる。訳を知っていて、まだ手を打てていない。それは、こちらの落ち度だった。
◇
昼に、粉屋の前でディルクに呼び止められた。
粉屋の亭主が、一緒に立っている。石臼の音が、裏から聞こえていた。亭主の前掛けは、粉で白い。
「若様。夜は、あの者らは、どこで寝るんです」
亭主が訊いた。
「畑の家です。六人は畑の家に、五人は道具小屋の隣に」
「戸に、閂は」
「内から掛けます。外からは、掛けません」
亭主は、前掛けで手を拭いた。拭いても白い手だ。
「若様の言われることは、分かります。槍は橋に置いてきた。証文も結んだ。分かっちゃいるんです」
そこで、少し声が低くなった。
「九年前の兵も、足をそろえて、きちんと来ました。行儀のいい兵でしたよ。通りで、子どもに道を譲った者までいた。その晩に、城が燃えたんです」
王都から下ってきた、立会の護衛のことだ。帳面で読んだ。そろいの黒い装いで、足並みに乱れが無かった、とある。
おととい、町の南の口で、十一人の足はそろっていた。それを、町じゅうが戸の陰から見ていた。
「私は、その夜を覚えていません」
エルドは言った。
「覚えていない者が、覚えている人の恐れを、要らないものだとは言えません。恐れるな、とは言いません」
亭主は、黙って聞いている。
「一つだけ、お願いがあります。恐れるかどうかを、顔を見てから決めてもらえますか。畑にいるのは、テオといいます。十九です。明日、麦を持って、ここへ挽きに来させます」
「……麦を挽きに来るなら、会いますよ。粉屋ですんで」
亭主は、それだけ言って、裏へ戻っていった。石臼の音が、少しして、また回りはじめた。
ディルクは、その場に残った。
「若様。夜の見回りを、二人増やします」
「南の人たちを、見張るのですか」
「逆です」
太い声が、短く答えた。
「町の者が、夜に畑の家へ行かないようにです。酒が入ると、九年前の話になる。話のうちは、いいんですが」
兵をまとめる役を頼んだのは、去年の初冬だ。頼んでよかった、と思った。
「お願いします。それから、あさって、道に入る五人が山へ上がります。沢の渡りを見に行くのです。上の湯へ上げる樽も、一緒に担いでもらいます」
「町の兵を、付けますか」
「付けません。私が行きます」
ディルクは、うなずいた。うなずいてから、欠けた左の耳のあたりを一度掻いた。
「……俺も、まだ、あの足の音には慣れません。慣れるようにします」
◇
次の日、テオは、麦の袋を担いで粉屋に来た。
エルドは、家の裏口の前で待っていた。粉屋の裏口とは、井戸を挟んで向かい合っている。レイフが、薪を割る手を止めて、こちらへ来た。
亭主が出てきた。その後ろに、女房が腕を組んで立っている。
「テオです。麦を、お願いします」
テオは、袋を下ろして頭を下げた。亭主は、テオの顔を見た。長く見ていた。それから、袋の口を開けて、麦を手のひらに取った。
「……乾いてるな。挽けるよ。そこで待ってな」
それで、済んだ。女房は、腕を組んだままだった。組んだまま、奥から腰掛けを一つ出してきて、裏口の脇に置いた。
テオは、腰掛けに座った。石臼が回りはじめる。
「北の当主」
座ったまま、テオが言った。
「紙を、一枚もらえませんか。川べりへ、便りを出したいんです」
「あります。何を書くのですか」
「川べりじゃ、北へ行けば誓わされる、と言い合ってました。おれも、そう聞いて来ました。違った、と書きたいんです」
テオは、そこで少し言いにくそうにした。
「まずいことも、書いていいですか。町の人は、おれたちを見ると戸を閉めます。それも、見たとおりなんで」
「見たとおりに、書いてください。あなたの便りです。私が直す所は、ありません」
紙と炭を渡した。テオは、麦の袋を載せてきた板を膝に置いて、書きはじめた。大きい字だ。右へ行くほど、少し上がっていく。
書き終えるまで、エルドは井戸のほうを見ていた。テオのほうから、紙をこちらへ向けた。
——川べりのみなへ。
——テオです。北にいます。
——誓えとは、誰にも言われません。証文に名を書いただけです。当主の従士の手には、何もありません。
——畑をもらいました。家に屋根があります。
——パンは黒くて、固いです。噛んでいると、うまいです。
——町の人は、まだおれたちを見ません。戸を閉めます。九年前に、兵が城を焼いたそうです。
——粉屋は、麦を挽いてくれました。
「……これで、出していいですか」
「はい。副使殿が南へ帰るときに、川べりまで運んでもらいます」
隣で、レイフが便りを見ていた。何か言うかと思ったが、何も言わない。一度うなずいて、薪のほうへ戻っていった。
粉屋の裏口から、亭主が袋を提げて出てきた。挽いた粉は、麦より軽い。テオは、礼を言って受け取った。
「次は、袋の口をもっときつく縛っておいで」
女房が、腕を組んだまま言った。
「麦が、道にこぼれてたよ」
テオは、目を丸くして、それから大きくうなずいた。この町の者がテオに掛けた、二つ目の言葉だった。
七行のうち、良いことが四つで、まずいことが一つだ。残りは、宛名と名乗りになる。川べりの者がこれを読んで、来る気になるかどうかは、分からない。それでも、良いことだけを書いた便りより、遠くまで届く気がした。
◇
その夜、エルドは五冊目を開いた。
机の向かいで、レイフが剣に油を引いている。灯りの芯が、小さな音を立てた。
書くことは、決めてあった。
三晩、南へ行く用を探して、三晩とも見つけられずにいる。見つからないのなら、逆から片づける。成らない訳のほうを、先に並べる。成らないと分かれば、用を探さずに済む。
盟の六行は、去年の秋に、南の蔵で声に出して読んだ。六行とも、頭に入っている。それを、行ごとに置いていく。
——盟の六行。成らない訳を、行ごとに書く。
——一。誓ったのは、二つの王の家。王女殿下は、王の家の人だ。だが、北の家は、どこにもいない。
——二。軍を進めぬ。関わりが無い。
——三。渡さぬ。アルデンの王の家は、私を国の外へ渡せない。だが、私が自分の足で橋を渡るのを、止めるものは無かった。
——四。求めぬ。入れぬ。娶らぬ、養わぬ、仕えさせぬ、と蔵で聞いた。王の家の名を負って生まれた者は、死ぬまでだ、とも。だが、招くことは止まらなかった。訊くことも、頼むこともだ。
——五。この盟は残る。解く条は無い。だが、断てる手が
そこで、炭を止めた。
断てる。去年、南の将軍に同じ紋を出されて、そのとき量った。何百年ぶんの、王の血の誓いだ。払うのは、たぶんいちばん奥になる。
いちばん奥にいる男は、いま向かいで、剣に油を引いている。
リヴィアを求めるために、毎朝の相手を忘れる。それは、道とは呼べない。断たずに済む道があるなら、そちらを取る。
——五。断つ、は道に入れない。
書き直して、六つ目へ進んだ。
——六。立会、アルドリック。祖は、ここまで用心した。
六行、並んだ。
読み返した。成らない訳を書くつもりだった。書いてあるのは、だが、のあとばかりだ。三つの行に、だが、が付いている。五つ目にも、付けかけた。付けたのは、自分の手だ。
成らない訳を、並べているのではない。抜け道を、探している。
気づいてからも、頭のほうは先へ進んだ。
三の行で、王の子は、先に立って橋を渡ろうとして足が止まった。あとについて渡るぶんには、止まらなかった。連れて出るのは駄目で、ついて行くのはいい。
四の行を、同じ形で読んでみる。王の家の人が求めれば、止まる。では、逆はどうか。この六行のどこにも、自分の名は無い。
そこまで考えたとき、炭が先に走った。
——入れぬ、は、王の家へ入れる話だ。あの人が、こちらへ来るなら
書いてから、読んだ。
名代だ。王が四十歩を歩く日まで、リヴィアは広間の机を離れない。離れる人でもない。書いた条は守る、と自分で言う人だ。
線を一本引いて、消した。
帳面を閉じようとして、手を引いた。これは、二人で書く帳面だ。今日のぶんを、レイフがまだ書いていない。
レイフは、布で手を拭いて、帳面を引き寄せた。
読んでいる。四角い字を書く男は、読むのも一行ずつだ。五の行の所で、目が長く留まった。それから、息を一つ吐いた。何の息なのかは、分からなかった。
終わりまで読んで、レイフは顔を上げた。
「成らない訳は、どこに書いてありますか」
「……初めの行に、そう書きました」
「書くと、あります。訳のほうが、見当たりません」
「書けませんでした」
言ってみると、そのとおりだった。六行を並べて、成らないと言い切れる行が、一つも無い。成ると言える行も無い。自分の頭で読めるのは、ここまでだ。
分からないものは、訊いて覚える。訊く先は、一人しか思いつかなかった。
「レイフ。明日の樽は、沢の渡りまで付いて行くつもりでした」
「はい」
「その先の、上の湯まで行きます。マグダに、訊くことがあります」
レイフは、炭を取った。今日のぶんを書くらしい。書く前に、一つだけ言った。
「消してある行は、読んでいません」
「……一本線です。読めたでしょう」
「読めましたが、読んでいません」
この男の理屈は、ときどき分からない。分からないが、ありがたかった。




