【第三部 鎖が解けるまで】第05話 上の湯の客
マグダは、帳場の腰掛けから、沢沿いの道を見ていた。
宿の帳場は、戸口の脇に置いてある。座ったままで、下から上がってくる者が見える。客が湯につかっているあいだ、宿の主が見ているのは道のほうだ。夕方の岩場から、鉄と石の匂いのする湯気が、まっすぐ上がっていた。
その道を、四人上がってくる。
先頭は、ちびだ。そのうしろを、樽が歩いている。でかいのが背負っているので、樽に足が生えたように見えた。もう一つの樽は、見ない顔の男が二人、棒に吊って担いでいる。
樽が、二つ。
マグダは、まずそれを確かめた。それから、エルドの顔を見た。
「酒が通ったね」
「通しました。……マグダ。訊きたいことがあって、来ました」
荷も下ろさないうちに、エルドは言った。
顔に、全部出ている。山道を一日半上がってきた疲れなら、見れば分かる。疲れより先に、用が出ていた。帳簿の用とも、道の用とも違う。この子の顔にこういう用が出るのを、あたしは八年で一度も見ていない。
「今夜は、聞かないよ」
「……急ぎます」
「急ぐ話ほど、山道のあとの頭でするもんじゃない。湯に入って、食って、寝な。話は明日の晩だ。客が寝てからにしとくれ」
エルドは、何か言いかけて、口を閉じた。筋の通ったことには、逆らえない子だ。
樽を担いできた二人は、戸口の前で、どこへ立てばいいのか分からずにいた。南の訛りで、何か小声で言い合っている。
「あんたらが、槍を置いてきたって連中かい」
二人の肩が、そろって硬くなった。
「樽を、ありがとうよ。湯は、岩の向こうだ。上がったら一杯出す。宿のおごりだよ」
二人は、顔を見合わせた。それから、言葉の尻の上がる礼を言って、岩場のほうへ歩いていった。
「でかいの。樽は、帳場の裏だ」
「はい」
樽に生えた足が、裏へ回っていった。
◇
次の日の晩、客が寝床へ引き上げてから、マグダは炉に薪を足した。
南の二人は、朝のうちに沢の渡りへ下りている。ほかの客は、奥の寝床で寝息を立てていた。炉端には、三人しかいない。
エルドは、炉の向かいに座った。背筋が伸びている。膝の上に、革の表紙の帳面を置いていた。レイフは、戸口の脇に立っている。
「マグダ。教えてほしいことがあります」
「何だい、あらたまって」
「恋の、やり方です」
マグダの手が、酒の壺の上で止まった。
聞き違いかと思った。エルドを見て、そうではないと分かった。値を訊くときと同じで、どこまでも大真面目だ。
「……もう一遍、言ってみな」
「恋のやり方を、教えてください。根拠から、申し上げます」
「根拠」
「三つあります」
エルドは、帳面の上に両手を置いた。
「一つ。四冊目に、去年の秋の頁があります。その頁の角だけが、丸くなりました。二つ。南から来る文を、私は終わりの名から読みます。三つ。あの人の言葉が、呼ばないのに出てきます。帳簿の数を合わせている最中にもです」
息を、一つ継いだ。
「以上から、私は王女殿下に惚れている、と量りました。合っていますか」
合っていますか、ときた。
マグダは、壺を置いた。それから、両手で頭を抱えた。
八年、いろんなものを訊かれてきた。剣の引き方。値の付け方。嘘の見抜き方。惚れたかどうかの検めを頼まれたのは、これが初めてだ。
「……合ってるよ」
「よかった」
エルドは、本気でほっとしていた。
「確かめる先が、ほかにありませんでした」
「でかいの。あんたは、知ってたのかい」
「頁は、ゆうべで五十一度です。杣小屋でも、開いていました」
戸口の脇から、すぐに答えが来た。
「数えてたのかい」
「見たままを、書いています」
エルドが、膝の帳面の表紙を手で押さえた。
「……書いてあります。この中に」
声が、小さい。書かれる側に回ると、こうなる。
マグダは、頭から手を離した。笑うのは、あとだ。先に訊くことがある。
「先に一つ訊くよ。あの女の手の紋だ。断つ気は」
「ありません」
間を置かずに、答えが出た。エルドは帳面を開いて、こちらへ向けた。
「道に入れない、と書きました。ここです」
細い字で、盟の六行が並んでいる。南の蔵で、あたしも横で聞いた六行だ。行ごとに、何か書き足してあった。だが、が三つある。五つ目の行には、断つ、は道に入れない、とあった。一本線で消した行が一つ。そっちは、飛ばしてやった。
肩から、力が一つ抜けた。払わせるために拾った子ではない。それを、この子は自分で先に片づけてきた。
「成らない訳を書く、と書いて、だが、だが、だが、かい」
「はい。成らないと言い切れる行が、ありませんでした。成ると言える行も、ありません。ですから、訊きに来ました」
頁を一枚戻すと、四角い字があった。主は、夜半に旅の外套を着た。用は、朝になっても見つからなかった。
「……外套を着たのかい。夜中に」
「着ました。南で、秋の祭りに名代の顔合わせがあるそうです。相手は蔵を持つ家の跡取りで、ステファノという人です」
「それで、外套か」
「はい。用が言えなかったので、座りました」
マグダは、戸口のほうを見た。レイフは、いつものように立っている。いい仕事をした、と目で言ってやった。伝わったかどうかは、分からない。
◇
「先に、言っとくよ」
マグダは、やっと杯に酒を注いだ。
「あたしは、恋を人に教えたことが無い。剣と、嘘の見抜き方と、足の払い方なら教えた。恋は、うちの品書きに無いんだ」
「では、誰に訊けば」
「知らないよ」
エルドは、少し考えた。
「贈り物は、するものでしょうか。花のような」
「南の王都まで、歩いて三十三日あるんだよ。着くころには、茎だ」
エルドは、真面目にうなずいた。茎では駄目だ、と覚えたらしい。
マグダは、酒を一口呑んだ。それから、杯を置いた。
「あたしに教えられるのは、一つだけだ。縛られた口の読み方だよ」
「縛られた口」
「あの黒いのは、縛られた口だ。蔵で見たろ。言いかけて、声が切れた。あんたは、言わせようとはしない、と言った。あれでいい。縛られた口は、こじ開けるもんじゃないんだ」
エルドは、うなずいた。
「開けずに、縛り目のまわりを見な。こぼれ物が落ちてる。何の話を避けるか。どこで黙るか。どこで話を変えるか。紙より先に、顔だ。顔と、手と、黙り方だよ」
「こぼれ物」
「前にも、一度教えたよ」
エルドは、何も言わなかった。覚えていないのだ。王都の朝に、ほかのものと一緒に払った。
払われたものなら、あたしが持っている。持っている者が、もう一度渡せば済む。
「もう一度、教えるよ。教え直すのには、慣れた」
「……お願いします」
「文でも、同じだ。書いてあることより、書かずにあることを読みな。あの女は、条で書く。条からはみ出したものがあったら、それがこぼれ物だ」
エルドの口が、小さく動いた。書かずにあること。口の中で、一度言ったらしい。覚えるときの、この子のやり方だ。
「それから、あの女は、自分からは来ないよ」
「来ない、というのは」
「求めぬ、と誓った家の者だろ。あの紙の読み方までは、あたしは知らない。知らないが、縛られた側から手が出ることは、まず無いと思っときな。出せないんだろうよ。動けるのは、どこにも名の無いほうだ」
「私は、六行のどこにも、名がありません」
「そういうことだ」
そこまで言って、マグダは口を閉じた。
南の湯の中で、あたしは、あの黒いのの目を見ている。壁の向こうのこの子の声を、追っていた目だ。その先は、見て取っても、口に出すもんじゃない。あのとき、そう決めた。いまも、変えない。それは、この子が自分で拾うものだ。
◇
「やっちゃいけないことなら、二つ言える。こっちは、はっきり言えるよ」
「伺います」
「用も無しに、発つな」
マグダは、エルドの目を見て言った。
「当主が用も無しに領を空けて、ひと月歩いて、門に立ってみな。あの女は、あんたを門で帰すよ。務めを放り出した男を、あの女は客に取らない」
「……はい」
「行くなとは、言ってない。行くなら、用を持って行きな。人に見せられる用をだ」
「人に見せられる用」
「それから、書くな」
「書く、というのは」
「文だよ。惚れただの何だのを、紙に書いて南へ送るんじゃない。あの国は、書いたら証文だ。名代の机に届いた文を、名代ひとりが読むと思うかい。書記のいる国だよ。北の当主が名代に何と書いて寄越したかが、宮廷の綴りに残る。残って困るのは、あんたじゃない。あの女だ」
エルドが、黙った。分かったうえで、どこかに穴が無いかを探している黙り方だ。こっちは、何度も見ている。
「探すんじゃないよ、穴を」
「……探していません」
「眉が探してる」
戸口の脇で、レイフが鼻から短く息を抜いた。
「役に立つかどうか分からないことも、教えとくよ」
マグダは、薪を一本足した。
「あの女が一人になれるのは、南の町の大湯だけだ。本人が、湯の中でそう言った。あそこじゃ、誰も書かない」
「大湯」
「だからどうしろ、とは言わないよ。あたしにも分からない。覚えときな」
エルドは、帳面を開かずに、うなずいた。
「覚えました」
「帳面には、書かないのかい」
「書くな、と言われました」
「帳面は、いいんだよ」
◇
次の朝、エルドは、帳場の台に銅貨を並べた。
二人ぶん、二晩。客の値だ。一枚もまけていない。この子から宿賃を取る日が来た。取ってみると、悪い気はしなかった。
「世話になりました」
「払った客に、世話も何もないよ。……ちび」
「はい」
「書くんじゃないよ」
「分かりました。書きません」
まっすぐな目で、言った。嘘は、どこにも見えない。この子は、嘘をつかない。
二人は、沢沿いの道を下りていった。朝の沢の音が、岩場に響いている。レイフは、半歩うしろだ。空になった背負い縄を、肩に掛けている。
マグダは、帳場の腰掛けから、その背中を見ていた。
エルドの右の手が、歩きながら、体の脇で動いた。
指が、一本立った。
少し行って、二本目が立った。
去年の祭りの晩に、長い机で見た指だ。理屈を一つ置くたびに、あの指は一本ずつ立つ。
書きません、とあの子は言った。言ったことは、守る子だ。
何を書かないと言ったのかを、あたしは、訊きそびれた。




