【第二部 風と鎖】第30話 名を書く国
エルドは、青い布の椅子に人が座るのを見ていた。
宴の広間だ。朝の光が、開け放した入口から柱のあいだへ斜めに入っている。着いた晩から、あの椅子はずっと空いていた。
王は、輿で運ばれてきた。侍従が二人、両脇から抱えて椅子に移す。煎じた草の匂いが、王と一緒に広間へ入ってきた。寝所で見たときより、顔の色が白い。目だけが、黒くてよく動いた。
「足で来ておらぬぞ、リヴィア」
座るなり、王は言った。
「名代は、まだそなただ」
「承知しております」
リヴィアは、椅子の脇に立った。深い青の、丈の長い上衣に、白い肩掛け。胸に、青い石。髪は、後ろで一つに束ねてある。
広間には、宮廷の者が並んでいた。奥の壁際に、赤茶の印の兵が二十四人。入口の側には、ゆうべ坂を上がってきた二十三人がいる。先頭は、肩幅の広いサンドロだ。どちらの列も、腰に剣が無い。この広間には、誰も剣を持って入れない。
ガイウスは、王の椅子の隣の、いつもの席の前に立っていた。右の手首に、布が巻いてある。ゆうべ、レイフの棒が打った所だ。
エルドのまぶたは、重かった。三晩、ろくに寝ていない。今朝、マグダはまた名を訊いてきた。あたしの名は、と。ゆうべから数えて、三度目になる。三度とも、答えられた。
何を払ったのかは、朝になっても分からない。
「名代として、宮廷を開く」
リヴィアの声が、広間の端まで通った。
「初めに、預かりの裁きだ。預かりの者を載せる者は、名乗り出よ」
エルドは、前へ出た。
「エルド=ファーレンです。レイフを、私の雇いの欄に戻します」
「預かる者の許しは」
黒い目が、ガイウスへ行く。
「許す」
ガイウスは言った。
「朝だ。定めのとおりにする」
レイフが、壁際から歩いてきた。右の腕に、布が巻いてある。セシルが巻いた布だ。
エルドは、その顔を見上げて言った。
「今日も、お願いします」
「今日も」
セシルが、証文を広げた。炭が、升に印を付けていく。二十三番目。二十四番目。二十五番目。白かった升が、三つ続けて埋まった。
銅貨を三枚、大きな手のひらに載せた。レイフは、何か言いたそうに三枚を見て、黙って握った。それから、エルドの後ろへ回った。
背中の後ろに、足音が一つ、戻ってきた。
二晩、そこが空いていた。空いていると、背中のほうが落ち着かない。いつのまにか、そういう体になっていたようだ。
◇
「次だ」
リヴィアは、書記の机から、サンドロの申し立てを取った。
「きのう、王の門に二十年立った兵が、これを出した。中ほどを読む。——我は、ガイウスに仕える。その命のほかに、命を持たぬ」
広間が、ざわついた。誓いを、生きたまま質に入ることだと言う国だ。
「叔父上。この口上を、王の名で雇った兵に唱えさせたか」
「唱えさせた」
ガイウスは、すぐに答えた。
「何人にだ」
「二十六人」
「父上に、告げたか」
「告げておらぬ」
リヴィアは、奥の壁際へ向き直った。
「そこの二十四人。右の手の布を取れ」
誰も、動かなかった。二十四人とも、ガイウスを見ている。
「王の名代の命だ。取れ」
動かない。
リヴィアは、宮廷のほうを向いた。
「見たか。この者たちは、王の名代の命では動かぬ。口上のとおりだ」
「ガイウス」
王が、一言だけ言った。
ガイウスは、兄の顔を見た。それから、壁際へ顎を引いた。
「取れ」
二十四の布が、床に落ちた。
薄い青の線が、二十四ある。
アルデンでは、門の兵の手にも、館の家臣の手にもある線だ。この形の線を、この広間の者は見たことが無いのだろう。宮廷の者が、息を呑んだ。前の列が、一歩下がる。病のある者を見たときの下がり方だ。
王の目が、自分の右の手の甲へ一度行って、戻った。
入口の側から、若い兵が一人、前へ出た。布は、もう巻いていない。
「将軍家の領の、葡萄畑の家の三男で、マッテオといいます」
声が、震えていた。それでも、右の手を上げて、甲を広間に見せた。
「銀を倍もらって、唱えました。ゆうべ、門で、北の若君に断ってもらいました」
白い細い線が、紋の形に残っている。
「その白い線は、何だ」
長い衣の老人が、机の向こうから訊いた。
「エルド=ファーレン」
リヴィアが、こちらを見た。
「そなたに、頼みがある。断ちではない。証しだ。あれが何であったかを、この国で言える者は、そなたしかおらぬ」
エルドは、マッテオの隣まで歩いた。
「三つ、申し上げます。一つ。壁際の二十四の線は、誓紋です。アルデンの口上と作法で成った誓いの印で、破ることができません。破ろうとすれば、体のほうが止まります。ゆうべ、この人の足は、退きたくても退けませんでした。私は、門でそれを見ました」
マッテオが、小さくうなずいた。
「二つ。この白い線は、私が断った痕です。断つ前に、当人に訊きました。やめたいか、と。断てば戻らないことと、腕の力が消えることも言いました。当人が、やってくれと言いました。殺さずに門を通る道が、ほかにありませんでした。誓わせた側には、訊いていません。片方だけに訊いて、断ちました。それも、申し上げておきます」
息を、一つ入れた。
「三つ。分からないこともあります。紋を見ても、誰に何を誓ったのかは分かりません。紋には、書いていないからです。それは、門の兵の申し立てと、当人の口で確かめてください」
「訊いてから、断ったか」
王が言った。書き板は、今日は膝の上に無い。指が、椅子の肘を一つ叩いた。
「祖は訊かずに取った、とわたしは言ったな。……今度は、訊いたか」
エルドは、胸から上を傾けた。
「北の騎士」
リヴィアは、壁際のセシルを呼んだ。
「この口上は、まことに成るものか」
「成ります」
セシルは、背筋を伸ばして答えた。
「立会が先に言って、手を組ませて、守る腹のある者が唱えれば成ります。先に言った者は、ゆうべ厩で押さえられました。丘を下りた、教会の者です。私の国の者が、銭を取って、この国に鎖を売りました。それも、証しのうちに入れてください」
言い終えても、セシルは顔を上げたままでいた。
◇
「叔父上。言い分を聞く」
リヴィアは言った。
ガイウスは、席の前から一歩出た。兄のほうを向く。今日は、笑っていない。
「兄上。川べりに、三千いる。放された兵だ。春には、六千になる。蔵は、冬までしか保たぬ。食えぬ兵は、この国の村を焼く。わたしは、川の向こうへ出すほかに、手を知らぬ」
声は、平らだった。言い訳をする者の声とは違う。
「王の血の足は、橋の真ん中で止まる。兄上の手も、止まったであろう。止まる手を二本並べても、六千は食わせられぬ。だから、止まらぬ兵を作った。止まらぬ手を、借りようとした」
目が、エルドの右の手へ来た。
三千も、蔵も、春の六千も、自分が出のほうに書いた数だ。この人は、その数から一度も目を逸らしていない。違っているのは、数の行く先だけだった。
「その止まらぬ兵を、ゆうべ、あたしが一人斬ったよ」
マグダだった。壁際で、腕を組んでいる。
「厩の庭でだ。あんたの兵だろ。名を、教えとくれ」
ガイウスは、マグダを見た。
「……ネリだ。わたしの領の、粉屋の次男だ」
「この国には、名を刻まない墓は無いんだってね。刻んでやっとくれ」
「言われずとも、刻む。わたしの兵だ」
「ネリ。覚えたよ」
ネリ。エルドも、口の中で一度言った。厩の庭では、殺さずに通る道を探す間が無かった。探せたのは、門の一人だけだ。
「ガイウス」
王が、口を開いた。
「それを、なぜ書いて、わたしに出さなかった。弟の申し立てなら、寝ておっても読んだ」
「出せば、兄上は否と書かれる。否と書かれた紙は、残る。残れば、わたしは動けぬ」
「だから、言わずにおいたか」
「訊かれれば、答えた」
「訊かなかったのは、わたしだ」
王は、椅子の肘に手を置いた。
「その分は、わたしが負う。だが、王の名で雇った兵に、王の命を聞くなと誓わせた。そちらは、そなたが負え」
ガイウスは、黙って兄を見ていた。
リヴィアが、胸の青い石に指を置いた。少しのあいだ、そうしていた。
「名代として、裁く」
指が、石から離れた。
「叔父上の、兵を預かる務めを解く。務めの証文に、解く条がある。王か、王の名代が、証人の前で告げれば解ける。——解く」
老いた書記が、証文の下に一行書き足した。長い衣の老人と、ユリアンが、証人として名を書く。壁際で、セシルの炭が動いていた。
「叔父上には、ご自分の領地へ下がっていただく。二十四人は、連れて行かれよ。叔父上の命でしか動かぬ者たちだ。ここには置けぬ。叔父上が、剣を置けと命じつづけるかぎり、あの者たちは剣を置いている」
「わたしは、死ぬまで、この者らのそばを離れられぬわけか」
「離れられぬようにしたのは、叔父上だ」
ガイウスは、短く息を吐いた。笑ったのだと思う。
「川べりの三千は、名代の命で旗を下ろさせる。王家の名で雇った兵だ。食わせるのは、これからも王家だ。蔵が冬までなのは、叔父上の言うとおりだ。その先は、わたしと父上が考える」
「私も、考えると言いました」
エルドは言った。おととい、西の棟で、ガイウスに言ったことだ。
「まだ、一つしかありません。王家の雇いを解いて、北の家が一人ずつ雇い直すのなら、橋を渡るのは軍ではありません。証文を持った人です。王の血の足を止めているものには、触れないはずです。北には、七年、人の手が足りなかった土地があります」
「それは、そなたの土地か」
リヴィアが訊いた。
「……まだ、です。継ぐかどうかを、初雪までに答えると言ってあります」
「継いでおらぬ者の約束は、風だ。答えを出してから、書いて持ってこい」
「はい」
ガイウスの目が、エルドの右の手から顔へ上がって、そこに留まった。
◇
「名代殿」
長い衣の老人が、立った。
「二十四人を領地へやるより、早い手がございましょう。そこに、断てる方がおられる。残りも、断っていただけばよい」
「わたしは、頼まぬ」
リヴィアは言った。蔵で聞いたのと、同じ言葉だった。
「では、宮廷から、お願い申し上げる」
老人の目が、こちらへ来た。広間の目も、来た。
夏に、王都の坂で、三百人がこの目をしていた。あのときの答えは、分かりません、だった。
「お答えします」
エルドは、訳から先に言った。
「ゆうべ断った一人は、殺さずに通る道がほかに無かったので、私が決めて、当人に訊いて、断ちました。壁際の二十四人には、まだ誰も訊いていません。それに、頼まれて断つ手になれば、次は、別の人が、別の誓いを持って頼みに来ます」
右の手を、体の脇に下ろしたままにした。背には、回さなかった。
「私は、求められて断つことは、しません。断つときは、私が決めます」
老人は、口を開きかけた。
「よい」
王が、先に言った。
「頼まれて動く手なら、弟が先に借りておった」
老人は、座った。
ガイウスは、席を離れた。壁際の二十四人が、あとに続く。布を取った右の手が、二十四、目の前を通っていく。あの手は、どれも、誰にも訊かれないまま、ここを出ていく。
サンドロの列から十人ほどが、前と後ろを挟んで付いた。領地まで送る役だ。柱の前の台で、ガイウスは足を止めた。赤茶の鞘の剣が、まだ載っている。左の手で、それを取った。受ける者のいなかった剣だ。
「若君」
振り向かずに、ガイウスは言った。
「あと一行、とわたしは言った。その一行は、残った。残したのは、そなただ」
「はい。私が残しました」
「三千のことを、書いて持ってくるのだな」
「答えを出してから、です」
「……風にするなよ」
ガイウスは、入口の光の中へ出ていった。
広間が、少し緩んだ。
「北の若君」
王が呼んだ。侍従から、あの板を受け取っている。屋根が九つの、絵の側が上だ。
「この村は、いま、誰が守っておる」
「東の当主の槍が二十、山に上がっています。その前から、三人が村にいました。春に、私も会っています。名は——」
出てこなかった。
言うつもりでいた音が、口の中に無い。
年かさの男と、もう一人と、いちばん若いの。顔は、浮かぶ。寄り合いの小屋の隅で、村の者と同じ椀で食べていた。火の脇にしゃがんだ背中も、槍の持ち方も浮かぶ。名の所だけが、白い。印の付いていない升と同じだ。
去年の秋からあとのことなら、全部ある。そのはずだった。秋より前が無いのには、もう慣れた。あるはずの側に穴が開いたのは、これが初めてだ。
穴の形で、分かった。ゆうべ、門で払ったのは、これだろう。
広間が、待っている。
後ろで、革袋の紐を解く音がした。
四冊目が、横から差し出された。開いてある。春の、山の村の頁だ。
自分の字だった。春に、山の村で書いた。
——クヌート。ヨープ。ラルス。
読めば、三つとも読める。読んでも、三つの名は、三つの顔のどれとも結ばれずに、頁の上に並んでいるだけだった。
「……クヌート。ヨープ。ラルス、です」
「いま、読んだな」
王は言った。
「そなたは、会う者ごとに名を訊く男だと、娘が言っておったが」
「春には、言えました」
「払ったんだよ、王様」
マグダが言った。腕は、もう組んでいない。
「この子は、断つたびに、覚えてることを一つ持っていかれる。どれを持っていかれるかは、選べない。ゆうべ、門で、一人ぶん断った。そのぶんだ」
長い衣の老人が、目を伏せた。
リヴィアは、黙っていた。開いたままの四冊目を、見ている。
「名は、三つとも、ここにあります」
エルドは言った。
「人は、北の山にいます。会えば、もう一度訊けます」
答える声は、どこからも来なかった。
戸口の板にも、門の名簿にも、墓の石にも、名を書く国だ。その国の広間が、名を三つ失くした者を、黙って見ていた。




