【第二部 風と鎖】第29話 朝を待たずに
レイフは、戸の閂を、内側から掛けた。
西の棟の、窓が一つの部屋だ。預けられて、三度目の夜になる。この部屋の戸は、外からは鍵が掛からない。兵の棟の戸は、内から閂で閉める造りだった。腕ほどの太さの樫の木が、戸の脇に立てかけてある。二晩、使わずにいた。
今夜は、使う。
窓の下の中庭が、宵から騒がしい。蹄の音と、鞍を置く音がする。ゆうべの、一句ずつの声とは違う。発つ支度の音だ。村で、槍の組が山を下りる前の晩に、同じ音を聞いた。
廊下を、足音が来た。七人ぶんだ。おとといの晩と、同じ数だった。一つだけ、踵で拍車が鳴っている。
戸が、押された。開かない。
「従士殿」
ガイウスの声だった。
「開けよ。発つ。そなたも来るのだ」
「どこへ、ですか」
「川べりだ。夜のうちに、門を出る」
「行きません」
レイフは、戸に向かって言った。
「朝まで預かる、と定めにあります。きのうの朝、騎士様が読むのを聞きました。朝まで、ここにいます」
戸の向こうで、短い間があった。
「どこで預かるかは、書いておらぬ」
「預かられる者がどこにいるかも、書いてありません」
書いていないことは知らん、と王都の厩で言われた。この国では、そう言うものらしい。
「朝、ここへ結びに来る人がいます。待っていろ、と言われました。はい、と言いました」
夏の終わりには、自分から馬車に乗った。乗れば、屋根が九つ残るからだ。今夜、馬に乗っても、残るものは無い。エルドが、三千の真ん中まで追ってくるだけだ。
それなら、行かない。
「戸を外せ」
ガイウスの声は、平らなままだった。
戸の向こうから、兵が肩をぶつけてきた。一度目で、閂が鳴る。人ひとりの力ではない。誓いに力を借りた腕だ。二度目で、蝶番の釘が浮いた。
レイフは、閂を受け金から抜いて、戸の脇へ退いた。掛けておいても、三度目は保たない。それなら、手に持つ。
握ってみる。村の寄り合いの小屋にあった棒より、ずっと短い。太さは、近かった。
三度目の肩は、何にも当たらなかった。戸が開いて、兵が一人、勢いのまま転がりこんでくる。
戸口は、一人ぶんの幅しか無い。六人いても、入ってくるのは一人ずつだ。
転がりこんだ兵は、すぐに立って、剣を抜いた。速い。山の賊とは、踏み込みが違う。棒で受けると、肘まで響いた。受けた棒を滑らせて、柄を握った指を打つ。剣が落ちた。
頭は、打たない。打てば、死ぬことがある。指と、肘と、膝だ。当てる所を選べば、人は立てなくなるだけで済む。
兵は、打たれた手をもう片方で押さえて、まだ来た。痛みでは止まらない。誓いが、足を運んでいる。膝の横を打った。立てなくなれば、誓いがあっても歩けない。
二人目は、倒れた男を跨いで来た。三人目は、二人目の肩越しに突いてきた。
四人目に、棒を掴まれた。借りた腕は、棒ごとレイフを戸口の柱へ叩きつけた。背中が鳴って、息が一つ飛ぶ。棒は、離さなかった。相手の足の甲を踵で踏んで、緩んだ指から棒を引き抜く。
六人目が床に座りこんだとき、レイフの息は上がっていた。額から、汗が目に入る。賊の七人より、この六人のほうが、ずっと重かった。
「頭を打たぬのだな。なぜだ」
廊下で、ガイウスが言った。角灯を、自分で提げている。旅の外套を着ていた。
「打てば、死ぬことがあります」
「そなたを連れに来た兵だぞ」
「それでも、です」
ガイウスは、角灯を床に置いた。
廊下の奥で、別の足音がした。軽いのが、二つ。それから、もう一つ。
その三つ目を、レイフは知っている。ずっと後ろで聞いてきた足音だ。
◇
エルドは、廊下の角を曲がって、まっすぐに来た。
後ろに、マグダとセシルがいる。マグダは、もう長剣を抜いていた。入口の棚の兵は、通してくれなかったのだろう。
「朝まで、待てませんでした」
エルドは言った。腰に、剣が二本ある。
「まだ、夜です」
「知っています」
重いほうが、腰から外された。両手で、差し出される。
「あなたのです」
受け取って、腰に提げた。剣は、鞘に入れたままにした。右の手には、まだ棒がある。剣は、当たった所が斬れる。棒なら、当てる所を選べる。
「若君。夜分に、兵の棟へ剣を提げてお越しか」
ガイウスは、笑っていた。
「名代が、決まりました」
エルドは、ガイウスのほうへ向き直った。
「預かりは、朝、王女殿下が裁きます。朝まで、レイフは王宮の内にいなければなりません」
「知っておる。だから、夜のうちに発つのだ」
ガイウスは、隠しもしなかった。
「この者は、わたしの預かりだ。預かる者が、預かりの者を連れて歩くのを、定めは禁じておらぬ。若君には、指一本触れぬ。どかれよ」
剣が、抜かれた。
速かった。六人の誰よりも速い。借りた腕ではない。この人の手の剣だこは、この人のものだ。
棒で、受けた。受けた所から、棒が二つになった。刃は止まらずに下りてきて、右の前腕を浅く切った。
熱い。血が、肘のほうへ伝っていく。
「でかいの!」
マグダの声より先に、前に、背中が入った。
エルドだった。レイフとガイウスのあいだに、立っている。剣を、抜いていた。
後ろから見るのには、慣れている。刃とのあいだに何も無い所に立つ背中を見るのは、初めてだった。
「指一本触れぬ、と言われました」
エルドの声は、静かだった。
「私をどかさなければ、この男には届きません」
「……ご自分を、盾に使われるか」
「あなたは、書いたことを守る人だと聞いています。招きの証文に、私の名があります」
ガイウスは、声を立てて笑った。
「では、触れずにどかそう」
刃が、エルドの剣を横から払った。触れたのは、剣だけだ。
エルドは、払われた剣を追わなかった。踏み替えずに、引いた。剣を叩き落とすつもりの二の太刀が、空を切る。
その引きを、レイフは知っている。街道の宿の裏で、マグダが足を払って覚えさせた引きだ。覚えた日々を、エルドはもう持っていない。足のほうが、持っていた。
空を切った刃が戻るより先に、レイフは踏みこんだ。短くなった棒で、ガイウスの手首を打つ。骨は外した。指が開いて、剣が石の床で鳴った。
エルドの切っ先が、ガイウスの喉の前で止まっていた。
ガイウスは、まだ笑っている。目は、切っ先を素通りして、その剣を握っているエルドの右の手にあった。
「斬らぬのか」
「斬りません」
「わたしを斬れば、川べりの三千は、雇い主を失って散るぞ。そなたの気がかりが、一つ減る」
「減りません。行く先の無い三千が、行く先の無いまま散るだけです」
切っ先は、動かない。
「それに、あなたを裁くのは、私ではありません。この国には、両方の口を聞いてから裁く人がいます。昼に、そう聞きました」
ガイウスは、左の手で、打たれた右の手を持ち上げた。甲が、上を向く。薄い青の、古い紋だ。
「ならば、断て。いま、ここでだ。断てば、わたしは一人で馬に乗る。従士は置いていく」
「それも、しません」
「斬りもせず、断ちもせぬ。その剣とその手は、何のためにある」
「分かりません」
エルドは答えた。
「何のためにあるのかは、まだ分かりません。使う所は、私が決めます」
「ちび。話は終わりだ。来るよ」
マグダが、廊下の奥へ顎を振った。足音が、増えている。十より多い。
「王の寝所へ戻れば、王の前で刃が出ます」
エルドは、剣を引いて言った。
「外だね。門を開けて、坂の下の連中を入れる」
「厩の庭を抜ければ、門の内に出ます。昼のうちに、見ておきました」
セシルが、もう先に立っていた。
レイフは、床の剣を、棒の先で廊下の反対の端まで払った。それから、走った。
「門だ。開けさせるな」
後ろで、ガイウスが声を張った。
◇
厩の庭は、角灯で明るかった。
馬が、三十頭ほど並んでいる。どれも鞍を置いて、口を取る者を待っていた。馬と、藁と、革の匂いがする。いちばん端に、肩の高い葦毛がいた。あの馬だけ、鐙の紐が長く伸ばしてある。自分が乗せられるはずだった馬だと、見て分かった。
馬の陰で、白い外套がしゃがんだ。胸の一か所だけ、布の色が違う。
セシルの足が、一度だけ遅くなった。目が、その白い外套を覚えた。それから前を向いて、笛を口に当てた。
三つ、吹いた。高い音が、夜の石に響いて、坂のほうへ抜けていく。
笛を吹くあいだ、セシルの剣は鞘の中にある。横の馬房から、布を巻いた兵が一人、出た。抜いた刃が、セシルの背へまっすぐに行く。
レイフの棒では、遠すぎた。
マグダの剣が、先に入った。
一息だった。入って、出た。兵は膝から折れて、藁の上に倒れた。もう動かない。
マグダは、剣を一度振った。鞘へは戻さない。
「走りな」
迷いの無い手だった。
倒れた兵の右の手に、布が巻いてある。この兵も、やめたくなっても、やめられない側にいた。レイフは、一度だけそれを見て、走った。
◇
門の内は、石を敷いた広い庭だ。篝火が、二つ焚いてある。
閂の前に、兵が一人立っていた。
若い。祭りの晩に、町の男を七人倒した兵だ。右の手の布が、火の色に染まっている。剣を、抜いていた。切っ先が、震えている。
ほかの兵は、発つ支度に呼ばれたのだろう。門は、この若い兵が一人で預かっていた。
「開けられない」
兵は言った。声が、掠れていた。
「日の出まで開けるな、と命じられた。どけない。どきたくても、足がどかないんだ」
それでも、来た。
目は、来たくないと言っている。足だけが、前へ出る。
一合、棒で受けた。重い。七人倒して、息の上がらなかった腕だ。短くなった棒が、手の中で軋んだ。長くは、保たない。
後ろの、厩の庭のほうで、足音が増えた。馬のいななきが混じる。笛に驚いた馬が、追っ手の前を塞いでいるようだ。それも、長くは続かない。
「でかいの。下がりな」
マグダが、前へ出た。剣を、低く持っている。
「あたしがやる。一息だ。腕を折ってる暇は無いよ」
それは、本当だった。この兵は、手首を打っても止まらない。膝を打てば、這ってでも閂に戻る。立てなくするには、時が要る。追っ手が馬のあいだを抜けてくるまでに、それだけの時は無い。
斬れば、間に合う。斬らなければ、間に合わない。
「マグダ。待ってください」
エルドだった。剣は、鞘に納めてある。
右の手が、前に出ていた。
夏に、王都の坂で、背に回していた手だ。
「エルド様」
呼んだ。そのあとが、続かなかった。その手が何を持っていかれるのかを、レイフは知っている。三冊ぶん、書いてきた。
頭を打てば、一息で済む。打てば、たぶん死ぬ。それでも、あの手が前へ出るよりは——。
棒を、握り直した。
「この人を殺さずに通る道が、ほかにありますか」
エルドは、前を向いたまま言った。握り直したのが、見えていたのかもしれない。
「……ありません」
棒が、下がった。
エルドは、兵に訊いた。
「あなたは、その誓いを、やめたいですか」
兵の切っ先が、下がった。足は、まだ前へ出ようとしている。
「……やめたい」
「断てば、戻りません。腕の力も、傷の治りの早さも、消えます。それでも、ですか」
「やってくれ」
レイフは、棒を足元に置いた。両手で、兵の右の手首を掴む。借りた腕が、手の中で暴れた。押さえた。
マグダの剣の先が、布の結び目だけを切った。
布が落ちる。薄い青の線が、火の下に出た。まだ浅い、新しい紋だ。
「……動くな」
エルドが言った。
去年の春に、川の町で、同じ言葉を聞いた。同じ声だった。
指が、紋の手前で一度止まった。誓わせた者は、ここにいない。片方にしか、訊いていない。
それでも、指先は紋に触れた。
線が、内側から赤く透けた。端から赤らんで、黒ずんで、細かな灰になって崩れていく。焦げた藁の匂いが、ひと筋立った。兵の肌には、火ぶくれ一つ残らない。細い白い線だけが、紋の形に残った。
レイフの手の中で、腕が急に軽くなった。暴れていた力が、抜けている。
剣が、石の上に落ちた。
「……重い」
兵は、自分の腕を見ていた。
「重いだけです」
セシルが言った。小盾を、エルドの背の側に構えたままだ。
「慣れます。私は、慣れました」
エルドは、立っていた。
目を、閉じている。息を一つするあいだだった。開いた目は、いつもの琥珀の色をしていた。
レイフは、閂に手を掛けた。
太い木だ。腰を入れて、持ち上げる。切られた腕から、血が手首まで下りてくる。
樽より、少し重い。
上がった。
門を、押した。重い木が、石を擦る。
坂の下から、火が上がってくるところだった。松明が、二十あまり。もう、坂の半ばを過ぎている。
厩の庭の口に、布を巻いた兵が並んだ。
その後ろから、ガイウスが出てきた。右の手首を、左の手で押さえている。開いた門を見た。石の上に座りこんだ若い兵の、白い線の残った手を見た。それから、坂を上がってくる火を見た。
松明の先頭は、肩幅の広い男だった。証文を一枚、頭の上に掲げている。
「名代の兵だ! 王の名で、通るぞ!」
布を巻いた兵たちが、柄に手を掛けて、ガイウスを見た。
ガイウスは、長いこと、その一枚を見ていた。
「……剣を引け」
笑っては、いなかった。
「王の名の兵に、刃は向けぬ。わたしが行きたいのは、川の向こうだ。この坂ではない」
火が、門をくぐってくる。
セシルが、先頭の男に何か言って、厩の庭を指した。二人が走っていく。馬の陰から、白い外套が引き出されてきた。
マグダが、エルドの前に回った。剣を持ったまま、顔を覗きこむ。
「ちび。あたしの名は」
「マグダ」
「でかいのは」
「レイフです」
「白いのは」
「セシル」
「ここは、どこだい」
「メリディアの王宮の、門です。……マグダ。どこが抜けたのかは、自分では分からないそうです。帳面に、そうありました」
「知ってるよ。訊かずにいられるかい」
マグダの声が、少し掠れていた。
エルドは、石の上の若い兵の前に、膝をついた。
「お名前を、伺えますか」
「……マッテオ」
「マッテオ。立てますか」
兵は、立った。自分の足を、不思議そうに見下ろしている。
「立てる。……足が、言うことを聞く」
レイフは、エルドの後ろに立った。いつもの所だ。
前の背中は、まっすぐだった。何を払った背中なのかは、分からない。
朝までは、まだ間がある。




