【第二部 風と鎖】第28話 王への申し立て
マグダは、西の棟の廊下を歩きながら、布を巻いた右の手を数えていた。
この町に来て、二十五日目の夜明けだ。窓の小さい棟で、灯りは壁の油皿しか無い。革と、油と、馬の匂いがする。石の床が、靴の底から冷えてくる。
廊下の両側に、赤茶の印の兵が立っている。きのうの朝も、同じように立っていた。
きのうは、十九だった。
今朝は、二十六ある。
増えた七つは、布が新しい。結び目が、まだ固い。
「十九が、二十六だよ」
口の中で言うと、前を歩くエルドの肩が少し動いた。聞こえたようだ。剣は二本とも、入口の棚に預けてある。
広間の長い机に、レイフが座らされていた。前に並んだ皿には、今朝も手が付いていない。エルドを見て、立った。
「今日も」
「今日も、お願いします」
セシルが、証文を広げた。壁際の若い書記が、首を横に振る。
「預かる方のお許しが、まだございません。夜どおし検めをなさって、いまはお休みです」
白い升が、二つになった。
エルドは、黙って白い升を見ている。おとといの晩から、この子はろくに寝ていない。
「でかいの。夜どおしの検めってのを、あんた、見たかい」
マグダは訊いた。
「見ていません。聞きました」
レイフは、小さい窓のほうを見た。
「部屋の窓の下が、中庭です。夜のあいだ、声がしました。先に言う声と、あとから言う声です。一句ずつでした。北の言い回しです」
「何べんだい」
「七回です。眠れなかったので、数えました」
七つ。布の増えた数と、合う。
「八年前に、俺も同じことをしました。宴の入口で、式官のあとについて、一句ずつ。……あれと、同じ間でした」
「もう一つだ。あの板を出しな。切るよ」
レイフは、懐に手を入れた。手のひらに載るほどの板が出てくる。表に、屋根が九つの村の絵。
書記が、腰を浮かせた。
「預かりの方が、物をお渡しになるのは——」
「証文を結ぶのではありません」
セシルが言った。
「もう結んである証文を、持ち主が人に預けるだけです。定めの条には、触れません」
書記は、座り直した。条で言われると、この国の者は弱い。
「切るんですか」
レイフが、板を差し出しながら訊いた。
「切るよ。東の領主様の文が来た。もう、取っておく訳が無い」
板は、まだ温かかった。
棟を出ると、ちょうど日が出た。王宮の門が、重い音で開く。
開いた門から、男たちが出ていくところだった。二十人あまりいる。みな包みを一つ提げて、黙って坂を下りていく。きのうまで、この門や回廊に立っていた顔だ。名簿の机の脇にいた、背の低い、肩幅の広い門の兵もいる。
七人が布を巻いて残り、二十人あまりが出ていく。
「……検めってのは、これかい」
マグダは、坂のほうへ顎を振った。
「下りるよ。あの連中の行く先を見る」
◇
行く先は、坂の下の辻だった。
日除けの布の下に、代書人のコルネリアが座っている。台の前に、さっきの男たちが並んでいた。雇いを解かれた者は、次の口を探す。次の口の証文を書くのは、代書人だ。考えてみれば、当たり前の行く先だった。
台の脇に、知った顔がいた。ジュリアだ。コルネリアの後ろで紙を揃えている十二、三の娘に、布の包みを渡している。条の読み方を母親に教えるというのは、あの娘だろう。
「マグダ! 朝から、どうしたんだい」
「ジュリア」
呼んだ。
湯の中で、三方から名を使われて、二十日あまりになる。この町の者の名を、こちらから使うのは初めてだ。塩を取ってくれと言うのと、同じ声で言えたと思う。
ジュリアは、こちらを見て、歯を見せて笑った。
「やっと呼んだね」
「あんたの亭主を、貸しとくれ。あそこに並んでる連中に、顔が利くだろ」
「利くよ。うちのは、毎日あの門へ荷を上げてるんだ。門の兵なら、みんな顔見知りさ。……何を訊くんだい」
「ゆうべ、何を言われて、何と答えたかだ」
ジュリアが手を振ると、列の脇にいた亭主が寄ってきた。肩に縄の跡のある、前の歯が一本無い男だ。女房に二言三言ささやかれて、列のほうへ戻っていく。
亭主が列から連れてきたのは、あの肩幅の広い門の兵だった。髪に白いものが混じりはじめた年で、声が嗄れている。サンドロ、と亭主が言った。
「門に、二十年立ってた男だ」
サンドロは、懐から証文の束を出した。紐で括ってある。葦の紙の、乾いた草の匂いがした。
「年に一枚だ。二十年、毎年、名を書いて結び直してきた。二十枚ある。次の口を探すときは、これを見せるんだ。長く勤めた者ほど、口の値がいい」
いちばん上の一枚の下に、新しい墨で一行、書き足してあった。エルドが、声に出して読む。
「預かる者の側より、解く。証人が二人。きのうの日付です。……罰の銀は、払われましたか」
「もらった。定めどおりに、きっちりな」
サンドロは、腰の袋を叩いた。それから、話した。
「ゆうべ、門が閉まってからだ。西の棟の中庭に、三十人が並ばされた。机が出ててな。将軍閣下と、書記と、白い外套の男がいた。北の言葉の男だ。胸の所だけ、外套の色が違う」
セシルの手が、帳面を繰った。
「その人は、唱える者の手を取って、指を一本ずつ直しましたか」
「直してたよ。俺の前の奴の手をな」
「……国境の市にいた人です」
セシルは、開いた頁をマグダに見せた。橋を渡る前の日付だ。徽章を外した男。口上を売っていた。買っていた者は、短い外套に、腰に剣。
「銀は倍だ、と閣下は言った」
サンドロは続けた。
「一人ずつ机の前へ出て、その男のあとについて、一句ずつ唱えろ、と。唱えた奴が、七人いた。手の甲が光って、あとに線が残った。みんな若い。家を継げない、次男か三男だ。俺の番が来て、俺は、口を開けなかった」
「なぜだい」
「やめられないからだ」
太い首が、横に振られた。
「二十年、毎年、やめられる約束を結び直してきた。やめなかったのは、俺がそう決めたからだ。あれを唱えたら、やめないのが、俺の決めたことじゃなくなる」
どこかの大男と、同じことを言う。隣で、エルドが、サンドロの顔をじっと見ていた。
「閣下は、怒らなかった。そうか、と言って、書記に証文を解かせた。銀も、その場で出た。朝になって、門から出された。二十三人、みんなそうだ」
「誰かに、言ったかい」
「誰に言う。兵の申し立ては、兵を預かる方へ出すのが決まりだ。出す先が、あの方なんだ。よそで口にしたって、風だ」
「出す先なら、もう一つあるよ。寝てるけどね」
顔を、読んだ。目も、手も、声の出し方もだ。嘘は無い。
ただ、一つ、避けている所がある。
「何と唱えさせた。その口上だ」
サンドロは、黙った。口が、固く結ばれている。
「……口に出したら、俺の手にも浮くんだろう」
「浮きません」
セシルが、一歩前へ出た。
「口上は、立会が先に言って、手を組ませて、守る腹のある者が唱えて、初めて成ります。三つそろわなければ、浮きません。ここに、立会はいません。あなたに、守る腹もありません」
そこまで言って、少し考えた。
「それに私は、冬から四十二回、立会に立ちました。四十二人に唱えてもらって、一度も浮かせたことがありません」
真顔だった。亭主が、噴いた。
「騎士さま。そりゃ、自慢にならねえよ」
「はい。なりません」
サンドロの肩が、少し下りた。それから、覚えた言葉を、石を置くように一つずつ言った。
「……我は、ガイウスに仕える。その命のほかに、命を持たぬ。この誓いを、天と立会の御前に立てる」
セシルの炭が、それを一字ずつ書き取っていく。
「天ってのは、何だい」
言い終えたサンドロが、訊いた。
「空の上で、誓いを聞いているものです。私の国では、そう教わります」
「この国じゃ、聞くのは証人だ。空は、名を書かねえ」
その命のほかに、命を持たぬ。
王の名で雇われた兵だ。唱えれば、王の命が来ても、聞くのは将軍の命だけになる。破れない形で、そうなる。
やめぬ兵が要る、ときのう、あの将軍は言った。誰の命でもやめぬ兵だ、とは言わなかった。
マグダは、台の向こうの代書人に言った。
「一枚、書いとくれ。この男の言い分を、言ったとおりに」
「申し立ての証文でございますね。出す先は、どちらへ」
答えたのは、エルドだった。
「王に、です」
それから、サンドロのほうを向いた。
「三つ、足してください。罰の銀は定めどおりに払われたこと。力ずくは無かったこと。銀は倍だと、先に示されたこと」
「若いの。あんた、どっちの味方だ」
「読むのは、将軍の兄上です。弟に悪いことだけを並べた紙を、兄は信じないと思います。あったことを、あった順に、全部書いてください」
サンドロは、しばらくエルドを見ていた。それから、うなずいた。
紙は、書いた奴の味方をする。昔、あたしはこの子にそう教えた。教わったことを、この子はもう覚えていない。覚えていないのに、誰の味方もしない紙を書かせようとしている。
二十一のとき、あたしは三人の口を捨てて、一枚の頁を取った。
今日は、口のほうを紙にする。
コルネリアが、書いた。書き終えて、声に出して読む。サンドロが名を書いた。
「証人は、どなたが」
ジュリアが、袖をまくった。
「あたしが書くよ」
亭主が、その次にペンを取った。
「俺の名が、王様の所へ行くのか」
「行くよ。今日のうちにね」
マグダは答えて、書き賃の二枚を出した。
◇
昼を過ぎて、リヴィアが父親を起こした。
王の寝所は、今日も草を煎じた匂いがした。窓は開いている。坂の踏み場の歌は、もう聞こえない。
寝台の脇に、リヴィアが立っている。エルドはその向かいで、マグダとセシルは壁際だ。リヴィアに呼ばれて、ユリアンも来ていた。
王は、枕に背を預けて、書き板の上のものを順に読んだ。
初めに、エルドの申し立て。おとといの晩と、きのうの朝のことを、あった順に書いたものだ。次に、サンドロの申し立てと、二十年ぶんの証文の束。王は、いちばん上の一枚の、書き足された一行を指で押さえた。
「ひと晩で、二十三人を解いたか。……解く条は、よく使われておるな」
乾いた声だった。それから、申し立ての中ほどで、目が止まった。
「その命のほかに、命を持たぬ。わたしの名で雇った兵だ。わたしの命は、ほかのうちに入るらしい」
黒い目が、壁際へ来た。
「姉君。この門番は、嘘を言っておるか」
「言ってないよ」
マグダは答えた。
「それと、将軍様もだ。きのう、顔を見た。あの人は、嘘を一つも言ってない。王様に、言ってないことがあるだけだ」
「言っておらぬこと、か」
王は、書き板の端を、指で一つ叩いた。
「あれは、子どものころからそうだ。訊かれぬことは、言わぬ」
「もう一枚あるよ。紙じゃなくて、板だがね」
マグダは、寝台まで歩いて、書き板の上に板を置いた。
「表は絵だ。北の山の、屋根が九つの村。裏を読んどくれ」
王は、板を裏返した。
「国境の橋を渡る日、北の使いを引き上げる。ティト。証人、ルーカ」
リヴィアの目が、板の上で止まった。初めて見る板だ。
「……ティトは、叔父上がわたしに付けた護衛だ」
「夏の終わりだよ。アルデンの王宮の厩で、うちのでかいのが書かせた。黙ってついて来なければ、この村へ使いを走らせる、と脅されてね。脅した当人に、名を書かせたのさ」
「なぜ、いままで見せなかった」
「山に槍が上がるまでは、切れない札だったんでね。上がったと、おととい文が来た」
リヴィアは、胸の青い石に指を置いた。そのまま、しばらく動かなかった。
「道中で、様子がおかしいとは思った。訊いても、レイフは何も言わなかった」
低い声だった。
「言えば、この村へ使いが走ったのだな。わたしのすぐそばで、だ」
王は、板を表へ返した。屋根の絵を、長いこと見ていた。
「紙は、そろった。口も、一つ聞いた」
板が、書き板の端に置かれる。
「手を、見ておらぬ」
「手、ですか」
エルドが訊いた。
「紋とやらだ。弟の兵の手に浮いたそれを、わたしは、この目で見ておらぬ。それに、弟の言い分を聞いておらぬ。片方の言い分だけ聞いて裁けば、この国は、証文の国ではなくなる」
聞いてから、裁く。そう言える者が、いちばん上に座っている。
「明日の朝、広間に宮廷を集めよ。弟も呼べ。わたしも行く」
「父上。まだ、お歩きには——」
「運べ。あの椅子は、夏から布をかぶったままだ」
王は、侍従に紙を持ってこさせた。
「それから、名代だ。預かりの裁きは、明日の朝いちばんに、名代がやれ」
羽根ペンを持つ手が、震えた。それでも、人には書かせなかった。長い時間をかけて、三行、書いた。
リヴィアが受け取って、読み上げた。
——王の名代を、第一の王女リヴィアとする。王が自分の足で広間の椅子に座る日まで。——フラヴィウス
「期限つきかい」
思わず、口に出た。
「解く条も期限も無い約束は、この国では鎖と呼ぶ。娘を鎖につなぐ気は無い」
王は、ペンをこちらへ向けた。
「証人は、北の王の子と、そこの姉君だ。よその国の者なら、弟に貸しも借りも無い」
ユリアンが、背筋を伸ばして名を書いた。マグダも、その下に書いた。
「朝まで、寝る」
王は、枕に頭を戻した。
「起こすのは、朝だ。医師が何と言おうとな」
◇
寝所を出た回廊で、リヴィアは副使のドナートを呼んだ。名代になって、最初の命だった。
「坂の下の辻に、けさ解かれた兵が二十三人いる。名代の名で、雇い直す。証文は一枚でよい。名は、当人に書かせよ。条は、わたしが言う。一字も足すな」
「は。こんどは、申されたとおりに書きます」
ドナートは、額の汗を拭いた。
日が傾くころ、マグダは王宮の門の内に立っていた。
坂の下の辻が、ここから見える。コルネリアの台の前に、二十三人が並んでいた。台を借りて座っているのは、ドナートだ。一枚の証文に、男たちが順に名を書いていく。
セシルが、坂を上がって戻ってきた。
「サンドロに、合図を伝えました。笛を三つです。聞こえたら、門の前まで上がってきてもらいます。吹かずに済めば、朝、門が開いてから入ります」
「なぜ、いま入れないんだい」
「王女殿下が、そう決められました。夜のあいだ、門の内にいるのは将軍の兵です。そこへ二十三人を入れれば、朝を待たずに剣が抜かれます。裁きは、宮廷の前でやる、と」
あの王女は、夜に剣を抜かせる気が無い。
日が、坂の向こうへ入った。
門が、閉じる。太い閂を、赤茶の印の若い兵が、一人で持ち上げて掛けた。二人がかりで上げる重さの木だ。祭りの晩に、町の男を七人倒した腕だった。
客殿に戻ると、ユリアンが外套を着ていた。
「今夜は、王の寝所の戸の前に立ちます」
声が、いつもより固い。
「王の子が将軍の棟へ入れば、話が国と国になる。きのう、エルド殿にそう言われました。逆も同じです。アルデンの王の子が立っている戸を、将軍の兵が押し通れば、国と国になります」
「言われた理屈を、盾に使うのかい」
「ほかに、持っている物がありませんので」
ユリアンは、供を二人連れて出ていった。
暗くなってから、残った一人が駆け戻ってきた。門を見ていた、供のホルストだ。
「西の厩に、灯りが入りました。鞍を置いています。三十頭ほどです。いちばん大きい馬だけ、鐙の紐を長く伸ばしてありました」
夜に鞍を置くのは、夜のうちに発つ者だけだ。この国の鞍は、鐙が短い。長い鐙の要る脚は、王宮に一人しかいない。
「名代が決まったと、もう耳に入ったんだよ」
マグダは言った。
「朝になれば、姫様が裁く。その前に、でかいのを連れて川べりへ行く気だ。三千の真ん中へね」
エルドが、立った。
壁際の剣を取る。二本だ。重いほうを、先に腰に提げた。
「朝、結びに行くと言いました。朝まで待てば、朝には、あそこにいません」
「行くよ」
止める気は、初めから無い。
おとといの晩は、レイフが一人で連れて行かれた。あたしは、寝ていた。次は無い、と言った。
その次が、来た。




