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【第二部 風と鎖】第27話 白い升


 エルドは、夜が白むまで、戸口の脇に座っていた。


 壁に背をつけて、膝に剣を置いている。重い剣だ。腿(もも)が、とうに痺(しび)れていた。この重さを、レイフは毎晩、膝に載せて座っていた。


 座ってみて、分かったことが二つある。ここからは、戸と、窓と、寝台が、首を動かさずに全部見える。それから、石の床は、夜のあいだに芯まで冷える。


 追わないでください、とは、今度は書かれなかった。渡してから行きます、と言われて、剣を渡された。


 机の上に、証文が広げてある。升(ます)は、二十二番目まで埋まっている。二十三番目が、白い。


 回廊に、足音がした。軽いのが、二つ。


 戸を開けたマグダは、戸口の脇のエルドを見て、足を止めた。座っている所と、膝の剣を見る。それで足りたらしい。


「いつだい」


「夜半(やはん)を過ぎてからです。将軍が、ご自分で来ました」


 聞いたとおりに、話した。一日の雇いは、日の入りまでが習いだということ。花婿の欄が消えたので、夜のあいだは、どの欄にも載っていないということ。載らない者は、兵を預かる者が朝まで預かる定めだということ。


 マグダは、しばらく黙っていた。


「やられたね」


 低い声だった。


「あたしの、手落ちだ。花婿の看板を下ろせば、夜の屋根が無くなる。そこを、見てなかった。……次は、無いよ」


 セシルは、帳面を繰っていた。


「祭りの朝に、書き留めています。一日の雇いは、日の入りまで。書いて、ありました。升の証文と、結びつけていませんでした」


「升を引いたのは、私です」


 エルドは、立った。膝が、すぐには伸びなかった。


「誰の落ち度でも、することは同じです。朝のうちに、行く所があります」


 速い足音が、回廊を来た。


 リヴィアだった。髪を、束ねていない。侍女が一人、後ろを小走りについてくる。


「聞いた」


 戸口で、リヴィアは言った。


「条の穴だ。一日、としか書いておらぬ証文を、叔父上は習いで読んだ。黒い館で、わたしが王妹殿下に通したのと同じ手だ。自分の手を、自分の国で通された」


 黒い目が、机の上の証文へ行った。白い升を、見ている。


「レイフは、西の棟にいる。叔父上の兵が詰める棟だ」


 それから、エルドのほうを向いた。


「父上に、申し立てる。叔父上が許さぬときは、父上が裁く。定めでは、そうなっている。ただ、父上は、あの日からこちら、目を覚まされたのは二度きりだ」


「私は、その西の棟へ行きます。結びに行く、と言いました」


「叔父上は、許さぬぞ」


「許さない、と将軍の口から聞くまでは、分かりません。分からないことは、訊(き)きに行きます」


 リヴィアは、少しのあいだエルドを見ていた。


「……剣は、入口で預けることになる。兵の棟だ」


「二本、預けます」


 廊下の先に、ユリアンが立っていた。供の三人が、後ろにいる。もう、外套を着ていた。


「私も、参ります」


「ユリアン殿は、ここにいてください。王の子が将軍の棟へ入れば、話が、国と国になります」


 ユリアンは、口を結んだ。それから、うなずいた。


「では、門を見ています。私にできるのは、見ることと、証すことだけのようですので」


  ◇


 西の棟は、王宮のいちばん端にあった。


 蜂蜜色の石は同じだが、窓が小さい。革と、油と、馬の匂いがする。入口の棚に剣を二本預けて、木の札を二枚もらった。一本は、自分のだ。もう一本は、棚の者が両手で受けた。


 廊下の両側に、兵が立っていた。みな、胸に白い葦(あし)の穂が一本。右の手に、布を巻いている。


 マグダが、歩きながら口の中で数えた。


「……十九。みんな、ここにいるね」


 広間には、長い机が一つあった。


 奥に、ガイウスが座っている。手前の椅子に、レイフがいた。


 座らされている。肩を、すぼめていた。前に、皿が五つ並んでいる。どれにも、手が付いていない。


 レイフが、食べていない。水を汲(く)む前に決める男だ。決めたことを告げる相手が来るまで、レイフの朝は、始まっていないのだろう。


 レイフは、エルドを見て、立った。


「今日も」


「今日も、お願いします」


 言えた。後ろで、証人が二人、それを聞いた。セシルが証文を広げて、炭を出す。


「お待ちを」


 ガイウスの声は、丁寧だった。


「その印は、まだ付けられぬ。この者は、兵を預かる者の預かりだ。預かりの者は、預かる者の許しなく、証文を結べぬ。雇いの者が、主の許しなく他家に入れぬのと、同じ理屈でな」


 炭が、升の上で止まった。


「朝まで、と伺いました」


 エルドは言った。


「朝です」


「朝まで預かる。朝に、引き渡す。預かる者の許しを得て、だ。定めには、そうある」


「その定めは、どの証文に拠(よ)るのですか」


 セシルが訊いた。


 ガイウスの眉が、上がった。


「北の騎士が、条を訊くか。よかろう。書記」


 若い書記が、棚から写しを一枚出してきた。セシルは、受け取って読んだ。


「……どの欄にも載らぬ者は、兵を預かる者が朝まで預かる。朝、その者を載せる者が名乗り出たときは、預かる者の許しを得て引き渡す。許しの無いときは、王が裁く。または、王の名代(みょうだい)」


 顔を上げた。


「許しの無いときの条が、あります。裁くのは、王か、名代です」


「あるとも。この国の証文だ」


「王の名代は、どなたですか」


「兄上が、お決めになる。まだ、お決めになっておらぬ」


 ガイウスは、笑った。


 ゆうべ、この人は、朝まで、と言った。嘘ではない。言わずにおいた行が、二つあっただけだ。


 言った。聞いた。升目の印だけが、無い。この国では、それを風と呼ぶ。


  ◇


「さて」


 ガイウスは、壁際の兵に目をやった。兵が、戸口まで下がる。


「結びに来られたのなら、話は早い。わたしが許せば、済むことだ」


 右の手が、机の上に出た。


 この国の挨拶は、手のひらを上に向ける。何も載せていない、と見せるためだ。この人は、甲を上にして出した。載っているものを、見せるために。


「この紋を一つ、断っていただきたい」


 薄い青の、古い紋だ。蔵で、六行の写しを読んだ。重い誓いほど、深く払う。帳面にある。何百年ぶんの、王の血の誓いだ。断てば、払うのは、たぶんいちばん奥になる。


 奥に誰がいるのかは、分かっていた。その男が、五つの皿の前に立っている。


 この男を返してもらうために断てば、返してもらった男が誰なのかを、自分は忘れる。


「互いの国へ軍を進めぬ、の行ですね」


「従士殿から、聞かれたか」


「いいえ。レイフは、何も言っていません。蔵で、王女殿下が、あなたは何かを待っていると言われました。待つものは、一つしかありません」


「話の早い方だ」


 ガイウスは、手を引かなかった。


「わたし一人のぶんでよい。兄上の手も、姫の手も、北の王家の手も、そのままでよい。国と国の盟を壊せとは言わぬ。この手を一つ、空にしてくれと言っている」


「あなたの足が橋を渡れば、川べりの三千が、ついて渡ります」


「渡る」


 隠さなかった。


「若君。あの三千は、わたしが集めたのではない。そなたが、放したのだ。雇いの値が倍になり、家が兵を放した。わたしは、拾っただけだ。王家の蔵で、食わせておる。蔵は、冬までしか保(も)たぬ。春には、三千が六千になる。食えぬ兵は、賊になる。この国の村を焼くか、川の向こうへ行くかだ」


 声は、少しも荒くならない。


「兵だけではない。家を出た次男や三男が、町に溜まっておる。継ぐ畑が無い。前は、無いことを何とも思わなかった者たちだ。いまは、思う。この国の土は、とうに名の板で埋まっておる。新しい名を書く土が、要るのだ」


 机の上の手は、甲を上にしたまま動かない。


「川の向こうには、刈り終えた畑と、兵が五十の関がある。戦と呼ぶな。引っ越しだ」


 笑っていた。笑いながら、目がエルドの右の手にある。


「上を見るなと、誰が言える。見えるようにしたのは、そなただ。見えるようにした者が、あと一行を惜しむのか。解いた世の後始末は、解いた者がつけよ」


 当たっている所が、あった。


 三千は、出たほうに書いた数だ。あの数の行く先を、自分は一つも持っていない。当たっている責めには、言い返さない。言い返すのは、当たっていない所だけにする。


「三千を放したのは、私です。それは、言われるとおりです」


 エルドは言った。


「その三千の行く先が、川向こうの村を焼くことなら、出たほうに、村の数だけ行が増えます。あの関の隊長は、戦というものに見当がつかない、と言っていました。見当のつかない人たちの畑です。引っ越し先には、もう人が住んでいます」


 息を、一つ入れた。


「この国の村を焼かせない手立ては、私も考えます。放したのは、私です。ですが、それを、橋の向こうの人に負わせることはできません」


「では、従士は要らぬのか」


 ガイウスの目が、初めてレイフへ行った。


「この男は、夏の終わりに、馬車に乗りました」


 順に、言った。


「北の山の、屋根が九つの村に、三十の賊が下りないようにです。板の裏にそう書かせて、自分で乗りました。その男を返してもらうために、川沿いの村を差し出せば、私は、この男が馬車に乗った訳を、踏むことになります」


「俺は、戦と引き換えに帰る気はありません」


 レイフが言った。


「訊いておらぬ」


「訊かれなくても、言います。今度は」


  ◇


「もう一つ、あります」


 エルドは、戸口の兵を見た。


「あなたの兵の、右の手です。祭りの晩に、一人、布がずれました。臣従の紋でした」


 ガイウスは、眉も動かさない。


「北の方は、目がよい」


「この国の雇いには、解く条があります。やめたくなれば、やめられる。あなたは、兵に、解く条の無いほうを立てさせました」


「雇いは、破れる。倍を出す家があれば、兵はそちらへ行く。わたしには、やめぬ兵が要る」


「兵は、選びましたか」


「銀を、倍やった」


「上を見るなと誰が言える、とあなたは言いました。あの十九人は、やめたくなっても、もうやめられません。鎖を掛けているのは、あなたのほうです」


「将軍様」


 マグダが、後ろから言った。


「あんたは、ここまで、嘘を一つも言ってないね。言ってないことが、多いだけだ。三千も、蔵も、春の六千も、本当だ。だから、一つだけ訊くよ。誓わせた兵のことを、王には話したのかい」


 ガイウスは、笑っていた。


 笑うたびに、この人の目は相手の手元へ下りる。いまは、下りなかった。マグダの顔の上で、止まっている。


「話してないね」


 マグダは言った。


 ガイウスは、机の上の手を、ゆっくり引いた。笑いが、少し薄くなっている。


「そなたの国の宰相は、鍵が使われぬように番をしていたそうだな。縛った者の裔(すえ)が、いまは鎖の番人か。断てる手を持ちながら、断たぬ。あの宰相と、どこが違う」


「番は、しません」


 エルドは言った。


「宰相は、断てる者がいなくなるように、北の家を消しました。私は、消されかけたほうです。あなたの足を止めているのは、私ではありません。あなたの祖の一行です。それを外す手は、貸しません。この手を何に掛けるかを決めるのは、私です」


 ガイウスは、長いこと、エルドを見ていた。


「では、従士殿は、ここに残る」


 声が、元の丁寧さに戻った。


「客として扱う。膳も出す。升の白い日が何日続くかは、若君がお決めになることだ」


 エルドは、レイフを見た。


「レイフ」


「はい」


「待っていろ。結びに来る」


 レイフの目が、少し開いた。


「はい」


 返事は、いつもより早かった。


「膳は、食べてください。冷めます」


「……はい」


 レイフは、座った。匙(さじ)を取る。印は無くても、レイフの朝は、いま始まった。


  ◇


 入口で、札を二枚出して、剣を二本受け取った。


「手を一枚、見せたね。布のことだ」


 回廊を戻りながら、マグダが言った。


「はい。見せました」


「まあ、いい。見せなきゃ、あの男の顔は読めなかった。兄貴に黙ってやってる。それは、確かだ」


「証文に、王の名代、とありました」


 セシルが言った。


「王は、まだ決めていない、と。……決めていただければ、裁ける人が、もう一人できます」


 客殿の部屋に戻って、待った。昼を過ぎても、王の寝所からは何の知らせも来ない。


 リヴィアが客殿へ来たのは、日が傾いてからだった。


「父上は、今日は、お目覚めにならなかった」


 声は、平らだった。


「医師は、起こすなと言う。わたしは、医師の言うことを聞く娘には育てられておらぬ。だが、起こして、申し立てを聞ける体かどうかは、別の話だ」


「申し立ては、書いておきます」


 エルドは言った。


「陛下が目を覚まされたときに、読むだけで済むようにです。ゆうべのことと、今朝のことを、順に書きます。名代のことも、書きます。証人は、マグダとセシルと、ユリアン殿に頼みます」


 読むのは、病の床の人だ。読みやすい字で書く。それなら、春から習っている。


 リヴィアは、少し黙っていた。


「口で言うより、書く。……それは、この国のやり方だ」


 そこへ、ユリアンが走ってきた。供が、後ろで息を切らせている。


「エルド殿。門が、閉じられます」


 みなで、門まで出た。


 王宮の門の内側に、赤茶の印の兵が立っていた。名簿の役人が、机を畳んでいる。


「兵を預かる方の命だ。検(あらた)めが済むまで、日の入りから日の出まで、門は閉じる。内の者は出られぬ。外の者は入れぬ」


「検めは、いつ済むのですか」


「聞いておらぬ」


「夜のあいだ、王宮に出入りできるのは、叔父上の兵だけになる」


 リヴィアが、低く言った。


「使いも、出せぬ」


 日が、坂の向こうへ入っていく。


 一日の雇いが切れる刻だ。同じ刻に、門も閉まる。


 重い木が、石を擦った。閉じた門の、内側に残った。


 腰で、重いほうの剣が鳴った。持ち主は、同じ門の内の、いちばん端にいる。


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