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【第二部 風と鎖】第26話 載らない夜


 レイフは、王宮の門の脇で、北から来た使いが名簿に名を書くのを待っていた。


 エルドが南の王都に着いて、二十三日目の朝だ。空気が、冷えてきている。坂の葡萄(ぶどう)の匂いは、祭りのあと五日で消えた。いまは、搾りかすを畑へ運ぶ荷車が、酸っぱい匂いを引いて下りていく。


 使いは、若い男だった。


 外套の肩に、灰色の布が縫ってある。東の家の色だ。馬は首まで汗で濡れ、役人が差し出したペンを握る手も、土埃で白い。馬を替えながら二十日走った、と男は言った。


 文は、エルドに渡された。灰色の蝋(ろう)に、三筋の印。


「待ちな」


 マグダが、横から手を出した。封を、日にかざす。


「蝋の縁が、二重だ。一度剥がして、貼り直してある」


「橋のたもとで、向こう岸の兵に検(あらた)められました」


 使いが言った。


「北から来る文は、みな開ける決まりだ、と」


「読まれたね」


 マグダは、封を返した。


「まあ、いい。読まれて困るのは、向こうのほうだ」


 エルドは、封を切らなかった。そのまま、レイフのほうへ差し出した。


「あなたが、読んでください。あなたの村です」


 受け取った。蝋を割った。


 角ばった字だ。一画(いっかく)ずつが、遅い。自分の字に、少し似ている。


 ——槍を二十、山へ上げた。婆は達者だ。槍に鍋を食わせておる。峠の向こうに三十ばかり、おるにはおる。下りては来ぬ。屋根は九つのままだ。大男にそう言え。——ヴァルド


 二度、読んだ。


 屋根は、九つのまま。夏の終わりにあの板を見てから、いちばん欲しかった一行だ。


 二十人ぶんの鍋を、婆さまは一人で煮ているのだろうか。椀は、足りているだろうか。考えても仕方のないことが、次々に出てきた。王宮の戸口であの板を握ってから、ずっと、出てくるのを止めていたらしい。


 大男にそう言え、とある。


「……はい」


 言われたので、そう答えた。声が、少し掠(かす)れた。


 マグダが、背中を一つ叩いた。


「でかいの。もう、婿でいなくていいよ」


「今日、正します」


 エルドが言った。


「王女殿下に、お願いしてきます」


  ◇


 夕方の宮廷は、柱ごとに灯りが入っていた。


 入口で、剣を預けて、札をもらう。広間の柱の前の台には、赤茶の鞘(さや)の剣が、まだ載っている。二十二日、置いたままだ。埃(ほこり)は、乗っていない。誰かが、毎日拭いている。


 レイフは、エルドの後ろに立った。


 王の椅子は、今日も空いている。その隣で、ガイウスが杯を持っていた。川べりから戻って、四日になる。向こうの日で、首がまた一段焼けていた。副使のドナートは、書記に綴(つづ)りを抱えさせて、机の端にいた。キアラは、その向かいに座っている。


 リヴィアが、立った。


「宮廷に、告げることがある」


 広間が、静かになった。


「ひと夏、この国は、一人の男を別の名で呼んできた。副使の板に、そう書いてあったからだ。板は、北の噂を写した。噂は、背丈を見た」


 黒い目が、こちらへ来た。エルドを越えて、その後ろへ。


「断ち手殿、と呼んできた男の名は、レイフという。北の若君の、雇いの者だ。断ち手ではない」


 名を、呼ばれた。


 この人の口から、名が出たのは初めてだ。アルデンの庭でも、この国の回廊でも、後ろの男、と呼ばれてきた。


 広間が、ざわついた。ドナートの手から、板が落ちた。


「では、断ち手は誰か。それは、わたしの口からは言わぬ。当人が言う」


 前の背中が、一歩出た。


「私です」


 エルドの声は、広間の奥まで通った。


「帳面で読んで知っているだけのことを、自分の口で言うのは、順が違う。夏には、そう思っていました。断った日のことを、覚えていないからです」


 息を、一つ入れた。


「そのあいだ、私に向くはずのものを、この男が受けました。頼みも、縁談もです。順が違っても、言います。断ち手は、私です」


「証しは」


 長い衣の老人が、机の向こうから言った。


 リヴィアは、うなずいた。


「証人が要るな」


 黒い目が、机の端へ行った。


「アルデンの王の子」


 ユリアンが、立った。背筋が、伸びている。


「アルデンの王ゲオルクの子、ユリアンです。一年前の秋、王都で誓いを断ったのは、北の家のエルド=ファーレンです。アルデンの王家は、そう知っています。王の家の者として、それを証します。父がこの人に頭を下げるのを、私は見ました」


 老いた書記が、証文を一枚書いた。ユリアンが、その下に名を書いた。


 広間の目が、動いた。


 何十の目が、レイフの頭の高さから、前の背中へ下りていく。夏に、王都の坂で、何百の目がエルドの頭の上を越えて、こちらへ来た。今日は、逆だ。


 肩が、軽くなった。


 軽くなったぶんが、前の背中に載ったのが見えた。自分の背中より、ずっと狭い背中だ。


 ドナートは、書記の綴りを引ったくって、初めの頁から繰っていた。口が、声を出さずに動いている。七尺。六尺半。謙虚。お付きの方。主家の若君。銅貨一枚。一つ読むたびに、額の汗が増えた。


 綴りを抱えたまま、ドナートはレイフの前へ来た。


「……従士殿。なぜ、仰ってくださらなかったのです」


「言いました」


 レイフは答えた。


「三度です。三度とも、左様、と言われました」


 ドナートは、綴りを繰った。指が、二か所で止まった。


「……書いて、ございます。二度。謙虚、と。三度目は、祭りの日でございましたので」


 それから、深く頭を下げた。右の手のひらを、上に向けて差し出して。


「ひと夏、あなたの申されることを、一度も、申されたとおりに書きませんでした」


 詫びられるのには、慣れていない。何と返せばいいのか、少し考えた。


「背丈は、合っていました。書き直してくれたので」


 ドナートの顔が、くしゃりと歪んだ。


「左様で……左様で、ございました」


 その足で、ドナートはエルドの前へ回った。


「若君。王都では、お付きの方、などと。壁に、お立たせして」


「面白かったです」


 エルドは言った。


「知らない人に素通りされたのは、あれが初めてでしたので」


 ドナートは、もう一度、汗を拭いた。


 机の向こうで、キアラが立った。


「副使。春に、わたしの家が名を書いた約定は、どうなりますか」


「は。断ち手殿を婿にお迎えする話を進める、という約定でございます。相手が、断ち手殿でないとなりますと——」


「解けますか」


「解く条は、ございます。どちらからでも、証人の前で告げれば」


「では、わたしから解きます」


 書記が、約定の証文を机に広げた。証人が二人、その脇に立つ。キアラは、背筋を伸ばした。声は、小さい。小さいまま、広間の端まで届いた。


「この約定を、解きます」


 書記が、証文の下に一行書き足した。証人が、順に名を書いた。


 壁際から、セシルが一歩出た。帳面を、開いている。


「いま書き足された一行は、告げた言葉のとおりですか」


「一字も変えずに、書きます」


 老いた書記は、顔も上げずに答えた。


「変えれば、解けたことになりませぬので」


 セシルの炭が、動いた。告げる者。聞く証人。下に書き足す手。順に見て、順に書いている。


 キアラは、机を回って、レイフの前まで来た。レイフは、しゃがんだ。


「魚は、おいしかったです。葡萄の木は、持って帰ります」


「はい」


「……それだけですか」


「畑が、できるといいと思います」


 キアラは、声を立てずに笑った。


「めでたい」


 ガイウスが、杯を上げた。


「長い勘違いが、一晩で片づいた。姫、手際がよい」


 笑った目が、レイフの手元へ下りた。


「花婿殿では、なくなったか。国の客でも、なくなったわけだ」


「北の若君の、雇いの者だ」


 リヴィアが言った。


「帳簿に、載っている」


「もちろんだ、姫。載っておる。一日の雇いとしてな」


 ガイウスは、柱の前の台へ目をやった。


「あの剣は、置いておこう。受ける者が、まだ決まっておらぬのでな」


  ◇


 客殿の部屋で、エルドは四冊目を開いていた。


 今日の分を、書いている。北の文のこと。広間のこと。炭が、途中で止まった。


「あなたは、もう、断ち手殿とは呼ばれません」


「はい」


「……どうですか」


 訊(き)かれたので、考えた。


「軽いです」


「重かったのですか」


「少し」


 エルドは、炭を置いた。


「夏のうちに、訊けばよかった」


「訊かれたら、構いません、と答えていました」


「いまは」


「いまは、エルド様のほうへ行きました。見えました」


「来ました。持ってみると、確かに重いです」


「……持ちましょうか」


「いいえ。これは、私のです」


 エルドは、少し笑った。それから、帳面を閉じた。


「先に寝ます。あなたも、寝てください」


「はい」


 レイフは、戸口の脇に座った。壁に背をつけて、膝に剣を置く。


 王都で、背負わせるつもりは無い、と思った。あの荷を、エルドは、自分で取りに来た。自分で取りに来た人を止める言葉を、レイフは持っていない。


 寝台の息が、深くなった。


  ◇


 足音で、目が開いた。


 夜半(やはん)を、過ぎている。回廊を、こちらへ来る。七人ぶんだ。鞘が、腿(もも)に当たる音がする。軽い足が六つと、重くて急がない足が一つ。


 戸が、鳴った。指の背で、三つ。


 レイフは、剣を提(さ)げて立った。戸を、手のひら一つぶんだけ開ける。


 角灯(カンテラ)を持っていたのは、ガイウスだった。


 供に持たせずに、自分で持っている。後ろに、兵が六人。六人とも、右の手に布を巻いていた。布を巻いた手は、王宮の内に十九ある。マグダが、湯屋の行き帰りに数えていた。


「夜分に、すまぬ」


 声は、低くて丁寧だった。


「そなたに用だ。若君は、起こさずともよい」


「用は、ここで伺います」


「そなたは、いま、どの欄にも載っておらぬ」


 ガイウスは、角灯を少し下げた。


「雇いの欄には、一日の雇い、とある。一日の雇いは、日の入りまでだ。荷運びの口の習いでな。辻の代書人に訊けば、同じことを言う。そなたは、日が入ってから、朝の印が付くまで、誰の者でもない」


 祭りの朝に、歯の欠けた荷運びが、同じことを言っていた。一日の雇いは、日が入るまでが務めだ。


「きのうまでは、それで構わなかった。花婿殿は、国の客だ。客の欄に、昼も夜も載っておった。今日、姫がそれを消した」


 笑っている。笑いながら、目が、柄の上のレイフの手を見ていた。


「載らぬ者が、剣を抱いて、客人の戸口におる。兵を預かる者は、それを朝まで預かる定めだ」


「はい。載っていません」


 レイフは言った。


「八年、どの夜もです」


 誓っていない。給金も、この二十二日のほかは、もらっていない。血でもない。どの帳簿にも名の無い夜を、八年、戸口の脇で過ごしてきた。それで困ったことは、一度も無い。


 ガイウスは、声を立てずに笑った。


「そうであったな。そなたは、初めから、どこにも載らぬ男であった」


「レイフ」


 後ろで、声がした。


 エルドが、寝台から下りてくる。寝巻きのままだ。戸の隙間から、角灯の火と、六人の兵を見た。


「将軍閣下。年限は一日、毎朝結び直す、と証文にあります。朝から、次の朝までです」


「そうは、書いておらぬ。一日、とあるだけだ」


 ガイウスは、丁寧に答えた。


「書いておらぬことは、習いで読む。この国では、そうする。朝になったら、姫に申し立てられよ」


「王宮の書記は、雇いの者は主の戸口で寝るものだ、と言いました。帳簿に載せた、その場でです」


「書記の口は、証文ではない。あれは、風だ」


「では、いま結び直します。レイフ。今日も——」


「夜ですな、若君。それに、証人がおらぬ」


 証人のいない所で言ったことも、この国では風になる。


 レイフは、量った。


 兵は、六人。祭りの夜に、あの腕を見ている。七人倒して、息の上がらない腕だ。六人でも、止められないことはない。


 ただ、ここは戸口だ。後ろに、エルドがいる。寝巻きのままで、剣は寝台の脇だ。刃が六本抜かれたら、一本は、後ろへ抜ける。


「若君には、指一本触れぬ」


 ガイウスが言った。こちらの量っているものが、見えているらしい。


「姪の客だ。招きの証文がある。書いてあることは、守る」


 書いていないことは、知らん、ということだ。


 レイフは、剣を鞘ごと腰から外した。両手で持って、後ろへ向き直る。


「エルド様。持っていてください」


「……レイフ」


「前は、床に置いて出ました。今度は、渡してから行きます」


 エルドは、受け取った。腕が、少し下がった。


「重い」


「はい」


「朝、結びに行きます。証人を連れて」


「はい」


 追わないでください、とは、今度は言わなかった。言っても、エルドは来る。それは、もう知っている。


 ガイウスの手が、レイフの腕を取った。


 エルドが着いた晩の宴で、上座へ連れていったのと、同じ手だ。あのときも、この人は笑っていた。


  ◇


 回廊を、西へ歩いた。


 兵が、前に三人、後ろに三人。角灯は、まだガイウスが持っている。


「さっき、振りほどけたな」


 歩きながら、ガイウスが言った。


「なぜ、そうしなかった」


「戸口で、刃が出ます」


「賢い。……賢い者に、話がある」


 足が、少し遅くなった。


「そなたの主を、こちらへ渡してくれ」


 レイフは、立ち止まった。前の三人が、気づいて止まる。


「身柄ではない。手だ」


 ガイウスは、右の手の甲を、角灯の火にかざした。薄い青の、古い紋。


「あの手で、この紋を一つ、断ってもらいたい。そなたが言えば、あの若君は聞く。聞かせてくれれば、そなたは今夜のうちに戻れる。朝の印にも、間に合う。館と畑も、付けよう。姫との話は流れたが、畑は残っておる」


「姫君は、葡萄の木を持って帰りました」


「……木の話は、しておらぬ」


「俺の主は、渡す物ではありません」


「物とは、言っておらぬ」


「手だけ、と言いました。手だけを渡せ、というのは、物の言い方です」


 ガイウスは、少しのあいだ黙った。


「北の男は、言葉を真に受ける」


「はい」


 それから、訊いた。分からないものを先に見てくるのは、供の役だ。


「何のために、ですか」


「蔵で、読んだであろう。互いの国へ、軍を進めぬ。あの一行が、この紋に入っておる。王の血の者は、橋の真ん中で足が止まる。わたしの足もだ」


 ガイウスは、手を下ろした。


「わたし一人のぶんでよい。兄上の紋も、姫の紋も、そのままでよい」


 蔵で、灯りを持って聞いていた。この国の兵は、王家の者の命でなければ、国境を越えない。川べりには、旗が並んでいる。この人の足が橋を渡れば、旗の下の者が、みな渡る。


「橋の向こうに、関があります。兵は五十だと、帳面にありました」


「知っておる」


 天気の話でもするような声だった。


「言いません」


 レイフは言った。


「エルド様には、言いません」


「そなたが言わずとも、明日、わたしが言う。そなたは、言うか言わぬかを、選べただけだ」


「選びました」


 ガイウスは、また笑った。


「考えておけ。朝まで、時はある」


  ◇


 通されたのは、西の棟の、窓が一つある部屋だった。


 鍵の音は、しない。戸の外に、足音が二つ残った。


 寝台と、水の壺がある。寝台には座らずに、戸口の脇の壁に背をつけた。膝の上が、軽い。


 眠らなかった。


 窓が、青くなってきた。


 水を汲(く)む前に、決める。八年、そうしてきた。この部屋には、汲みに行く井戸が無い。壺の水は、誰かが汲んだ水だ。


 それでも、朝は来る。


 決めた。答えは、きのうと同じだった。


 いつもなら、ここで声がする。今日も、お願いします、と。それを聞く人がいて、升(ます)に印を付ける人がいる。二十二日、そうだった。


 今日は、誰もいない。


「今日も」


 声に出した。


 石の壁が、それを吸った。返事は無い。


 風だ、とこの国の者は言う。証人のいない所で言ったことは、吹いて、どこかへ行く。それなら、八年ぶんの朝は、みな風だったことになる。


 蔵で、エルドが言った。風は、吹けばどこかへ行きます。これは、どこへも行きません。


 あれを、後ろで聞いていた。灯りを持つ手が、少し揺れた。


 行っていない。


 八年ぶん、どの朝も、ここにある。


 窓の外が、白くなった。


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