【第二部 風と鎖】第25話 書かない三日
セシルは、六つ目の升の上で、炭を止めていた。
祭りの初めの日の、夜明け前だ。客殿の窓は、まだ青い。机の上に、エルドとレイフの雇いの証文が広げてある。升が四十。五つ目までは、朝ごとに印を付けてきた。
「今日も、お願いします」
「今日も」
二人の声は、きのうまでと同じだった。
「付けられません」
セシルは、炭を引いた。
「今日から三日は、収穫の祭りで、証文を書かない日です。きのう、辻の代書人に訊いてきました。祭りの三日は、どの雇いも結び直しを休むのが習いだそうです。升の印は、明けてから三つまとめて付けます」
「じゃあ、あたしは寝ててよかったんじゃないか」
マグダが、あくびの途中で言った。
「証人は、聞くのが務めです。聞いたことを、三日、覚えておきます」
「……書けない日でも、叩き起こすのかい」
エルドは、小さい袋から銅貨を一枚出した。
「給金は、払います。払うのは、書くうちに入りません」
「祭りの日は、雇いは休みだと聞きました」
レイフが言った。
「休みの日にも、あなたは、今日も、と決めるでしょう」
「……はい」
大きな手のひらに、六枚目の銅貨が載った。
空いた升が三つ並ぶのは、落ち着かない。セシルは証文を畳んで、升のほうを内側にした。
◇
今日の用は、一つだけだった。
昼に、広場で顔合わせがある。副使のドナートが、前から決めていた。レイフと、南の姫君が、初めて顔を合わせる。それまでは、することが無い。
「下りるよ。祭りってのは、見るもんだ」
マグダが言って、五人で坂を下りた。四人と、ユリアンだ。供の三人が、後ろについてくる。そのまた十歩うしろには、短い外套のティトとルーカがいた。見張りは、祭りの日にも休まないらしい。
坂は、朝から人で埋まっていた。
葡萄の匂いが、上から下まで続いている。きのうまでは踏み場のそばだけだった甘酸っぱさが、今日は町じゅうの石に染みていた。笛と太鼓が、下のほうで鳴っている。朝だというのに、石がもうぬるい。人の足が温めたのだ。
家々の戸口では、名の板に葡萄の葉が掛けてあった。名も、三日は休みだ。辻では、代書人のコルネリアが、畳んだ台の脇で杯を持っていた。四十年、年に三日だけの休みでございます、と言って、白い髪の頭を下げた。
広場には、石で囲った踏み場が七つ出ていた。
裸足の男と女が、腕を組んで、輪になって踏んでいる。歌は、踏む足に合わせてある。踏み場の口から、濃い紫の汁が桶へ流れ落ちていた。
「マグダ!」
人のあいだから、女が手を振った。湯屋でマグダの隣にいた、ジュリアだ。後ろに、肩に縄の跡のある大きな男を連れている。
「うちの亭主だよ。荷運びの口でね」
「今日は、担がねえよ」
亭主は、もう赤くなっていた。
「一日の雇いは、日が入るまでが務めだ。祭りは、朝から日が暮れてるようなもんだ」
笑うと、前の歯が一本無い。
門に貼ってあるのは、王の触れが一枚きりだ。祭りのあいだに何をしてよいのかを書いた板は、広場にも見当たらない。書かない三日なのだから、当たり前ではある。セシルは帳面を出して、いま聞いたことを書いた。一日の雇いは、日の入りまで。祭りの三日は、朝から休み。聞いたものを、自分で綴じていくほかない。
「何を書いてるんだい、騎士さま」
ジュリアが、覗きこんだ。
「祭りの決まりです。触れのほかは、どこにも掲げていないので」
「決まりなんて、あるもんかね。摘んだ葡萄は、三日で傷むんだ。代書人も役人も、みんな裸足になって踏む。書く者がいないから、三日は誰も書かない。あとは、呑んで、言いたいことを言う。それで全部だよ」
「言いたいことを」
「口で言ったことは、三日のあいだ、みんな風になるからね。亭主への文句は、この三日にまとめて言うんだ。明日には、言ったことにならない」
亭主が、聞こえないふりをした。
ジュリアは、きょう一日、一行について歩く気らしかった。踏み場の縁でエルドに葡萄を一房持たせ、ユリアンに踏み歌の節を教え、それからレイフの腕を叩いた。
「花婿殿。夜は、あんたの出番だよ」
「夜、ですか」
「腕だよ。去年、踏み場で、誰がいちばん踏めるかを争った男が二人いてね。葡萄の中で取っ組み合いになった。桶一つぶんが、駄目になったよ」
亭主が、欠けた歯を指した。
「これは、そのときのだ」
ジュリアが、あとを引き取った。
「だから、ことしは腕でやるんだ。机に肘をついて、手を組んで、倒したほうが勝ち。葡萄は、無駄にならない」
「決まりは、あるのですか」
セシルは訊いた。
「あるもんかね。一番を争うなんてこと自体、去年が初めてだ」
ジュリアは、そこでセシルの白い制服を、上から下まで見た。
「……騎士さま。北の騎士ってのは、立会をやるんだろ。約束の脇に立って、見てる役だって、副使様が触れて回ってたよ。今夜、立っとくれ。ことしは、歯を折らせたくないんだ」
「立会は、誓いに立つものです。腕比べに立つ決まりは——」
ありません、と言いかけて、セシルは口を閉じた。
立ってはならない、という決まりも無い。同じ理屈で、春に、規程に無い立会を一つ引き受けた。あのとき作った書式が、帳面に残っている。立ち会う物と、日と、見たことを、順に書く。
「……書式なら、あります」
「あるのかい」
マグダが、振り向いた。
「春に、作らされました。夜までに、決まりを考えておきます」
ジュリアは、亭主の背中を叩いて笑った。
◇
昼の鐘で、副使のドナートが広場へ下りてきた。
板を、持っていない。右の手の指が、腿の上で動いている。字を書く動きだ。
「書けぬ日というのは、私めには、目を閉じて歩くようなものでございまして」
額の汗を拭いて、ドナートはセシルの前で足を止めた。
「騎士殿。お願いがございます。今日の顔合わせを、私めの代わりに、見ておいてくださいませ。北の方の覚え書きは、わが国の証文ではございません。障りは、無いはずで」
今日は、よく頼まれる日だ。セシルは、うなずいた。
顔合わせの場所は、広場の端の、葡萄棚の下だった。
葡萄棚の脇に、馬車が一両止まっている。姫君は、今朝、東の領地から都へ上がってきたのだという。馬車の周りに、兵が四人立っていた。胸に、赤茶の地に白い葦の穂が一本。国境の川べりに並んでいた旗と、同じ印だ。将軍閣下が道中の供にお付けになりました、とドナートが言った。
四人のうち三人が、右の手に布を巻いている。手の甲から手首までを、傷の手当てのように覆ってあった。布は三人とも新しくて、巻き方まで同じだ。血の滲みは、どれにも無い。
「三人そろって、同じ手の同じ所を怪我かい。将軍様の所は、稽古が荒いね」
マグダが、低い声で言った。怪我だとは、少しも思っていない声だった。
馬車から下りてきたのは、小柄な人だった。黒い髪を、高く結い上げている。目元のやわらかい顔で、十七か、十八だろう。太鼓が鳴るたびに、肩が少し上がる。騒がしいのが、得意でないらしい。
「キアラ様。リヴィア王女殿下の、母方の従妹にあたられます」
ドナートは、北の一行に向き直った。
「わが国では、顔合わせは祭りの日にいたします。きょう申されたことは、みな風になります。証人も立てませぬ。どちらが何を申されても、明日には残りませぬので」
残らない日を選んで、初めて会う。うなずくのも、首を振るのも、あとに残らないようにだ。この国の者は、残ることの怖さをよく知っている。
レイフが、葡萄棚の下へ歩いていった。広場の日除けを兼ねた棚で、大人が手を伸ばせば房に届く高さに組んである。レイフは頭を少し下げて入った。それでも、髪が葉に触った。
セシルは、三歩うしろに立った。声の聞こえる所だ。エルドとマグダとユリアンは、葡萄棚の外で待っている。
二人は、向かい合った。
キアラが、見上げる。レイフが、見下ろす。どちらも、何も言わない。
十、数えた。
二十。ドナートの指が、速くなった。エルドが、広場のこちら側から一歩出て、マグダに襟を掴まれた。
三十で、キアラが口を開いた。
「……首が、痛くなりました」
レイフは、しゃがんだ。
大きな身体が畳まれて、目の高さが合う。キアラは、少し息を吐いた。
「静かな方で、よかった。副使の板に、口数の少ない方、とありました」
ドナートが、胸を張った。
「俺は、断ち手ではありません」
レイフが言った。夏から、同じことを言いつづけている。
「左様、謙——」
「副使」
キアラの声は、小さかった。小さいまま、副使の口を閉じさせた。
「今日は、わたしが聞く日です」
それから、レイフに向き直った。
「断ち手では、ないのですか」
「はい」
「では、何をなさる方ですか」
レイフは、少し考えた。
「魚を、焼きます」
キアラの目が、丸くなった。
「……食べてみたいです」
◇
網焼きの屋台は、広場の反対の端にあった。
屋台の主は、レイフを見るなり場所を空けた。市の日に、火の遠さを褒められた男だ。炎は、立っていない。赤い熾の上に、鉄の網が渡してある。レイフは、網の上に手のひらをかざした。上げて、下げて、止める。止めた高さの所へ、魚を寝かせた。
エルドが、また一歩出た。
「ちび。見合いに主がついていって、どうするんだい」
「焼き方を、見ておきたいのです。書いたとおりかどうかを」
「口実だね」
「……はい」
襟を掴まれたまま、エルドは屋台のほうを見ていた。気になって仕方がないのだろう。
魚は、一度だけ返された。
キアラは、葡萄棚の下の腰掛けで、それを食べた。一口目で、手が止まった。二口目は、早かった。
「おいしい」
さっきより、少し大きい声だった。
レイフは、また、しゃがんでいた。
「持参の品に、葡萄の木が三十本あります」
キアラは、皿を膝に置いて言った。
「あれは、わたしが接いだ木です。館も、畑の二十も、どうでもよいのです。あの三十本を知らない土へ移すのだけが、惜しくて」
「移さなければ、いいのでは」
「縁組が成れば、移ります」
「成らなければ、移りません」
キアラは、レイフの顔を見た。それから、声を立てずに笑った。
「そうですね。……去年の秋から、自分の畑が欲しくなりました。おかしいでしょうか」
「おかしくは、ありません」
少し離れた所で、ドナートが両手を揉んでいた。
「ただいまのお話は、風でございますので!」
「存じています、副使」
セシルは、見たとおりに書いた。副使に頼まれた覚え書きだ。どこまで渡してよいものかは、あとで考える。
◇
日が傾くと、広場に長い机が並んだ。
祭りの晩の膳は、町じゅうの家が鍋を持ち寄る。誰のおごりでもない。北の一行も、ジュリアに腕を引かれて座らされた。豆と肉と、甘い根の煮込みが、端から回ってくる。辛くない。ことしの葡萄で仕込んだ、まだ若い酒が、壺ごと机に置かれた。
セシルの前には、搾ったばかりの汁の椀が来た。酒になる前のものだ。マグダが、そう頼んでくれた。
レイフは、エルドの隣に座っていた。祭りの三日は、雇いも休みだ。主の後ろに立つ務めが無い。座らされた椅子の上で、肩をすぼめている。
向かいに、リヴィアがいた。青い石は、着けていない。町の者と同じ机で、同じ椀で食べている。その並びに、ドナートとキアラがいた。
「この酒は、若い。水のように入る。気をつけよ」
リヴィアは、そう言いながら、エルドの杯に注いだ。エルドは、礼を言って呑んだ。三杯目だった。耳が、赤い。
「北の王子さま」
机の端で、町の娘がユリアンの袖を引いた。
「来年は、あたしと踏んどくれ」
「来年は、国におります。お約束は、いたしかねます」
ユリアンは、真面目に答えた。娘が、噴き出した。供のゲルトが、後ろから小声で言う。
「殿下。祭りの約束は、風でございます」
「風でも、嘘は申せません」
娘は、笑いながら行ってしまった。
「姫君。北の方々は、ああでございます」
ドナートが、キアラのほうへ身を乗り出した。人にものを教える声になっている。
「あちらには、誓約というものがございますので、口の約束も軽くはなさらぬ。誓約と申しますのは、いわば、罰のいちばん重い証文でございまして。破りますと、腕が焼け落ちるとか。それゆえ、北の方は——」
椅子の脚が、石を擦った。
エルドだった。匙を置いて、椅子ごと、ドナートの横へ寄っている。
「副使殿。それは、違う」
セシルは、汁の椀を置いた。
エルドの眉が上がって、目が明るくなっている。この顔を、知っている。去年の夏、井戸のある宿の机で、一度見た。あのときは、マグダと私の言い合いのあいだに、この顔で入ってきた。エルドは、あの晩を覚えていない。
隣で、レイフが椀から顔を上げた。
「始まったよ」
マグダが、杯を置いた。
「よいか。誓約と証文は、別のものだ」
エルドの背筋が、伸びている。
「証文は、破れる。破れば、罰がある。だから、たいていの者は守る。誓約は、そうではない。罰があるから守るのではなく、破るという行いそのものが、できないのだ。声が出ない。腕が上がらない。焼け落ちるより先に、身体のほうが止まる。罰は、要らない。……ここまでは、いいか」
「は、はい」
「そこでだ。この国には、三つ目がある。風だ。風は、破れる。破っても、罰が無い。すると、約束というものは、何に支えられているかで、三つに並ぶ。誓約は、身体に。証文は、罰に。風は——」
「身体に。罰に」
ユリアンが、小さく繰り返した。うなずいているのは、机でこの人だけだ。
「——その前に、罰のほうを片づけておく。罰に支えられた約束は、罰を払っても破ったほうが得になれば、破られる。一年前の秋から、この国で雇いの証文が次々に解かれたのは、雇いの値が倍になって、罰を払ってでもよそへ移るほうが——」
ドナートの指が、腿の上で、無い板に字を書こうとしていた。途中から、追いつかなくなっている。キアラは、匙を持ったまま止まっている。ジュリアの亭主は、とうに隣の男と腕の話を始めていた。
エルドは、気づいていない。指が、一本ずつ立っていく。楽しいのだ、とセシルにも分かった。
「エルド=ファーレン」
リヴィアが、杯を置いた。
エルドは、指を立てたまま、そちらを向いた。
「いま、三つ目だ」
「祭りは、三日ある。その話は、三日かかるのか」
エルドは、心外そうな顔をした。
「かからない。あと、四つだ」
「一つにせよ」
立てた指が、宙で止まった。少し考えている。それから、居住まいを正して、言い直した。
「誓約は、破れないから果たされる。証文は、罰があるから守られる。風は、破れて、罰も無い。それでも守られている風があるなら、守っているのは、その者だ。ほかの何も、守らせてはいない」
机が、少しのあいだ静かになった。太鼓だけが、鳴っている。
リヴィアは、すぐには何も言わなかった。黒い目が、エルドの隣へ行った。椅子の上で肩をすぼめている、大きな男のほうへ。それから、エルドへ戻った。
「……酒が入ると、ほどけるのだな。そなたは」
「何か、失礼を申しましたか」
エルドは、まばたきをした。
「申したよ。たっぷりとね」
マグダが、喉の奥で笑った。
「よい。今日は、風だ」
リヴィアは言った。
「……では、明日も同じことを申し上げられます」
「明日は、短いほうだけにせよ」
ジュリアが、声を立てて笑った。机が、元のにぎやかさに戻った。ドナートは、なるほど、北の方は風さえお守りになる、と一人でうなずいている。
「あんた、まだそれをやるんだね」
マグダが、エルドの杯に酒を足しながら言った。
「……前にも、話しましたか」
「去年だよ。街道の酒場で、人足を相手に、同じのをやった。誓約とただの約束は別のものだ、ってね。あのときは、あたしが止めた」
「覚えていません」
「だろうね。口のほうは、覚えてたよ。風のぶんだけ、増えてた」
エルドは、自分の手を見た。立てたままになっていた指を、一本ずつ下ろしていく。
レイフは、黙っていた。空いたエルドの皿を取って、鍋のほうへ立っていった。座っているより、そのほうが落ち着くのだろう。
◇
夜になっても、広場の灯りは減らなかった。
綱に下げた油の灯りが、風で揺れている。石は、昼の熱を残していた。長い机の一つが空けられて、周りに人垣ができた。朝にジュリアが言っていた、腕比べが始まるのだ。
「騎士さま。決まりを」
ジュリアに押し出されて、セシルは机の脇に立った。帳面を開く。昼のうちに、三つ考えてあった。
「一。肘を、机から離さないこと。二。相手の手の甲を机に付けたほうが、勝ちです。三。殴った者は、負けとします」
人垣が、どっと手を叩いた。
「三がいいね」
「去年、それがあればなあ」
「書いとくれよ、騎士さま。俺たちは、きょう書けないんだ」
書いた。
読み上げた声が、思ったより遠くまで通った。丘の前庭には、夏のあいだに九人しか来なかった。ここでは、百人が、私の読み上げる決まりを聞いている。
勝ちつづけたのは、将軍家の兵だった。
昼に馬車の脇にいた四人のうちの、いちばん若い男だ。右の手に、布を巻いている。その手で、町の男を七人、続けて倒した。ジュリアの亭主は、四人目だった。倒すたびに、人垣が沸く。勝っても、何ももらえない。祭りの約束は風だから、賭けても取れない。一番、と呼ばれるだけだ。それでも、男たちは次々に肘をついた。
「騎士様」
レイフが、隣に来ていた。エルドは、長い机のほうで、まだユリアンに何か話している。ユリアンは、まだうなずいていた。
「はい」
「あの腕は、七人目でも、一人目と同じ速さです」
言われて、見た。
息が、上がっていない。額に、汗も無い。七人ぶんの重さが、腕のどこにも残っていない。
あの腕を、私は知っている。
疲れない腕だ。去年の秋まで、私の腕がそうだった。誓いが、貸してくれる力だ。剣が、剣の重さのままになったのは、紋を外された日からだ。
「北の兵と、将軍様の兵と、どっちが強い!」
誰かが、叫んだ。
ゲルトが、人垣の前へ押し出された。ユリアンの供の、王家の兵だ。右の手の甲に、臣従の紋がある。困った顔で、長い机のほうを見た。ユリアンが、うなずいた。
二人が、手を組んだ。
動かない。
どちらの腕も、どちらへも倒れない。机が、軋んだ。十。三十。二人とも、顔の色が変わらない。人垣が、静かになっていく。
ゲルトの腕は、誓いの腕だ。誓いを嫌う国の腕が、それと五分に組んでいる。
五十で、布がずれた。
組んだ手の汗で、結び目が手首のほうへ滑った。若い兵の右の手の甲に、薄い青の線が覗いた。王家の者の、あの二つの輪とは形が違う。ゲルトの手の紋と、同じ形だ。父の右の手にあったのも、この形だった。色が、まだ浅い。肌に、馴染んでいない。
兵が、気づいた。
左の手で布を引き上げた拍子に、腕が倒れた。ゲルトの勝ちだ。人垣が、どっと沸いた。
肩に、手が置かれた。
「見たかい」
「見ました」
「声に出すんじゃないよ。顔にもだ」
マグダは、人垣に合わせて手を叩いていた。目だけが、笑っていない。この人は、昼から、あの布を見ていたのだ。
「臣従の紋かい」
「はい。誰かに仕えると、誓っています。破れない形で」
「この国の兵が、誰にだい」
「紋には、書いてありません」
若い兵は、布を巻き直して、人垣の外へ出ていった。胸の印が、灯りの下を通る。赤茶の地に、白い葦の穂が一本。
セシルは、帳面を繰った。国境の市の頁だ。橋を渡る前に、徽章を外した男が、口上を売っていた。その下に、自分の字がある。
——買っていた者。短い外套。腰に剣。
証文を書かない三日だ、とこの国の者は言う。
セシルは、炭を出した。祭りの三日でも、見たものは風にならない。




