【第二部 風と鎖】第24話 礼と恨み
エルドは、リヴィアの背中を追って、王宮の奥へ歩いていた。
速い。証文蔵の石段を上がってから、この人は一度も振り向かない。白い裾が、回廊の角を曲がるたびに先へ行く。侍女が小走りになり、蔵番は鍵を持ったまま置いていかれた。今日は、待たせている相手がいるのだ。
後ろに、足音が三つついてくる。重いのが一つと、軽いのが二つ。
奥へ入るほど、匂いが変わった。草を煎じた匂いだ。苦くて、少し青い。
突き当たりの戸の前で、侍従が頭を下げた。
「姫様。お連れの方々は——」
「みな入れよ」
戸の内から、声がした。大きくはない。乾いていて、よく切れる声だった。
「聞かせて困る話は、せぬ」
◇
窓が、開いていた。
病人の部屋だというから、暗い所を思っていた。秋の日が、床を渡って、寝台の足元まで来ている。坂の途中の踏み場から、甘酸っぱい匂いが風に乗って上がってくる。葡萄を踏む男たちの歌まで、切れ切れに届いた。
寝台に、男が半身を起こしていた。
ガイウスと同じ黒い髪に、同じくらい灰が混じっている。年は、二つ三つしか違わないだろう。違うのは、肉付きだ。弟の肩にある厚みが、この人からはそっくり削げていた。掛け布の上に、書き板が一枚載っている。その上に置いた右の手の甲に、薄い青の、古い紋があった。
目は、黒い。リヴィアの目だ。
「帰ったか」
「四日前に」
リヴィアは、寝台の脇に立った。
「寝顔を見に来たそうだな。侍女が言っておった。起こせばよいものを」
「起こすな、と医師が申しました」
「医師の言うことを聞く娘に、育てた覚えは無い」
リヴィアの口の端が、上がった。いつもならすぐに戻る口元が、今日は、しばらくそのままだった。
黒い目が、こちらへ来た。
「もっと寄れ。声を張ると、疲れる」
エルドは、寝台から三歩の所まで進んで、胸から上を傾けた。後ろで、レイフの足音が同じだけ進んで、止まる。主の後ろに立てるのは、家の者か、雇いの者だけだ。マグダとセシルは、戸口の内側の壁際に並んだ。
「フラヴィウスだ。この国の王をしておる。寝たままで、すまぬ」
「エルド=ファーレンです。お招きにより、参りました」
「今朝、門の名簿を持ってこさせた。そなたの名は、そこで見た」
王は、書き板の端を指で叩いた。
「そなたに言うことが、二つある。礼と、恨みだ。どちらから聞く」
選ばせるのか、と思った。少し考えて、答えた。
「恨みから、お願いします」
「なぜだ」
「礼を先にいただくと、恨みを聞くあいだ、それを当てにしてしまいます」
王は、娘を見た。リヴィアは、黙っていた。
「よかろう。恨みからだ」
◇
「この国の者は、名を書く」
王は言った。
「パンを掛けで買うにも、嫁をもらうにも、書く。約束というものは、名を書いた者だけを縛る。書かぬ者は、縛られぬ。わたしは、そう教わって育った。父も、その父もだ」
書き板の上で、右の手が裏返った。手のひらが、上を向く。
「ところが、だ。この国の民は、何百年、名を書いた覚えの無い約束に縛られておった。証人もおらぬ。解く条も無い。縛られておることを、当人が知らぬ。……わたしも、知らなかった。一年前の秋に、何かが返ってきた。返ってきて初めて、取られておったと分かった」
王の目が、エルドを越えて、戸口のほうへ行った。
「そこの白い衣。北の教会の者であろう。取った当人は、何と書き残した。そなたらの教典は、わが民のことを何と教える」
セシルは、背筋を伸ばした。訊かれたことに答える前の、この人の形だ。
「教典には、ありません」
声は、寝台まで、まっすぐに届いた。
「始祖が戦の世を終わらせ、大誓約を結び、以来この大陸は戦を知らない。教典の一頁目は、それだけです。元になった壁の字には、あいだがありました。私は、丘の石の部屋で、それを読みました」
息を、一つ入れた。
「万の民から、生まれた場所より上を望む心を預かった。誰にも告げずに。——壁には、そうありました」
「誰にも告げずに、と」
「はい。書いた当人の字で。教典は、その行を載せていません。初めの行と終わりの行だけを取って、あいだを捨てました。私は四年、その一頁目を、人の前で守りました」
王は、しばらく黙っていた。
「上を望む心、というのか。返ってきたものには、そういう名が付いておったか」
それから、短く笑った。
「預かった、と書いたか。預かり証も出さずにな。誰にも告げずに、と自分で書くあたりは、正直な盗人だ」
黒い目が、戻ってきた。
「そなたの祖は、訊かずに取った。そなたは、訊かずに返した」
言われてみれば、そのとおりだった。取り上げられていた人たちに、返してよいかと訊いた者は、いない。
「返すなら返すと、なぜ先に言わぬ。雇われる者が、ある朝、いっせいに顔を上げた。雇いの値は、一年で倍だ。倍を払えぬ家は、兵を放した。畑の働き手は、町へ出た。町では、殴り合いで歯を折る者が出た。わたしは、誰も上を望まぬ国の治め方しか、教わっておらぬ。父もそうだ。教えられる者が、この大陸に一人もおらぬ。それを、ある朝、いきなりだ」
「はい。訊きませんでした」
エルドは言った。
「なぜ訊かなかったのかは、覚えていません」
「覚えておらぬ、というのは、本当か」
王は、今度はマグダを見た。
「そこの姉君。娘の文に、嘘を見抜く女だとあった。この若いのは、嘘を言っておるか」
「この子は、嘘がつけないよ」
マグダは、壁にもたれたまま言った。
「顔に全部出る。王様も、見りゃ分かるだろ」
「分かる。分かるから、腹が立つ」
王は、枕に背を預け直した。
「覚えておらぬ者に恨みを言うのは、留守の家に石を投げるようなものだ。投げても、誰も出てこぬ」
「留守では、ありません」
考えるより先に、口から出ていた。出てから、訳を順に置いた。
「断った朝より前のことは、覚えていません。断ったあとに起きたことは、この一年、自分の目で見てきました。北の街道で、畑を弟に譲って王都へ下る荷車を見ました。王都の坂で、十年に一度の恩赦を失くした人に会いました。国境の川べりで、旗を十二本見ました。陛下の恨みは、見てきたものの上に届きます」
夏の初めに、アルデンの王が頭を下げた。あのときは、受け取る場所が自分の中に無かった。父の顔も、母の声も知らない者には、詫びの置き場が無い。
今日は、ある。
「受け取れます」
胸から上を、傾けた。
王は、黙ったまま、右の手を持ち上げた。甲を、こちらへ向ける。
「恨みは、もう一つある。これは、そなたにではない。そなたの祖にだ」
「蔵で、写しを読みました」
「ならば、話が早い。一年前の秋の、ある晩だ。わたしは、誰にも言わずに、一枚書こうとした。兵を、北の川の向こうへ、とな」
リヴィアが、父を見た。初めて聞く話らしい。
「返ってきたものは、王にも返ってくる。朝、地図を見た。川の向こうが、欲しくなった。訳は無い。欲しくなっただけだ。筆を取った。書けなかった。手が、紙の上で止まった。名を何千回も書いてきた手がだ」
王は、自分の手を見た。
「腹が立った。何百年も前の、会ったこともない者の一行に、王の手が止められる。それから、ほっとした。ほっとした自分に、また腹が立った」
部屋が、静かになった。窓の下の歌だけが、続いている。
「弟も、同じ地図を見たのであろう。あれの手にも、同じ紋がある」
それきり、王はガイウスのことを口にしなかった。
◇
「礼を言う」
声の調子は、少しも変わらない。恨みを言うのと同じ声で、礼を言う人だった。
「この国の証文には、解く条がある。どちらから解けるか。罰は幾らか。何百年、どの証文にも書いてきた。書いてはきたが、使う者が、ほとんどおらなかった。やめたいと思う者が、いなかったのだ。王家の雇いの証文のうち、雇われた側から解いたものが何枚あるか、この冬に数えさせた。一年前の秋より前は、百年ぶんで十二枚だ。この一年で、百を超えた」
百年で、十二枚。
約束は破れる、だから書く。この国の子どもは、そう教わって育つ。やめたいと思う者がほとんどいない何百年のあいだも、そう教えてきたことになる。
「一年前の秋から、解く条が使われておる。泣く者も出た。それでも、わが国の証文は、あの秋に、やっと証文になった。それは、そなたのしたことだ。礼を言う」
エルドは、もう一度、頭を下げた。さっきと、同じ深さで下げた。
王の目が、エルドの頭の上を越えた。
「後ろの大きいの。そなたも、あの朝から、上を見るようになったか」
「上は、前から見えています。背が高いので」
王は、口を開けた。
それから、声を立てて笑った。乾いた声が、笑うと弟の声に少し似る。リヴィアが、水の椀を取って父の手に持たせた。
「副使の板には、謙虚な男だと書いてあったがな」
「副使は、書いたことを疑わぬ。その者は、訊かれたとおりに答えているだけだ、父上」
後ろで、レイフは黙っている。笑われた訳が、分かっていないのだろう。
◇
「一つ、訊く」
王は、椀を置いた。
「間違いだったと思うか。解いたことをだ」
すぐには、答えなかった。
訊かれるだろう、とは思っていた。北の街道でも、王都の坂でも、同じ問いを目で訊いてくる人に会った。口に出して訊いたのは、この人が初めてだ。
「思いません」
答えてから、訳を一つずつ言った。
「一年前の秋より前のことを、私は知りません。比べる元が、私の中には無いのです。ですから、決めた日の理屈ではなく、この一年に見たもので申し上げます」
冬に、川の町で帳付けをした。入った銭と出た銭を、同じ頁の右と左に書く。片方しか書いていない帳簿は、帳簿とは呼ばない。
「出たほうです。川べりの兵が、三千と少し。恩赦を待っていた人が、王都の坂に一人。同じ人が国じゅうに何人いるのかは、まだ知りません。家の傾いた館が、一つ。捨てられた畑は、見たのが一軒、聞いたのが二軒です」
王は、黙って聞いている。
「入ったほうです。字を習いはじめた荷運びが、一人。四年たったら店を出すと言い出した亭主が、一人。この町で、娘を代書人の所へ習いに出した家が、一軒。きのう、マグダが湯屋で聞いてきました」
「値を倍にした鍛冶は、どうします」
後ろから、低い声がした。レイフだ。街道の三日目に、ユリアンの供の馬が蹄鉄を落とした。
「どちらに書くか、迷っています。鍛冶には入りで、蹄鉄を打たせる者には出です」
「差し引きは」
王が訊いた。
「出しません。三千の兵と、一人の娘の手習いは、足したり引いたりできません。右と左に、並べて書いておくだけです」
「差し引きを出さぬ帳簿か」
「はい」
「それで、なぜ間違いではないと言える」
「見てきた人のうち、一年前の秋より前へ戻せと言った人が、一人もいなかったからです。坂の老人は、私を責めました。責めて、ほかの誓いも断てと言いました。戻せ、とは言いませんでした」
エルドは、王を見た。
「陛下は、戻せと言われますか」
窓の下で、歌が一節ぶん流れた。
「……言わぬ」
王は言った。
「腹は立つ。手にも負えぬ。それでも、言わぬ。何も欲しがらぬ王というのは、いま思えば、寝ておるのと変わらぬ」
それから、自分の掛け布を見下ろした。
「いまも、寝ておるがな」
マグダが、壁際で短く息を吐いた。笑ったのだ。
「間違いではなかった、と言って済ませる気は、ありません」
エルドは続けた。
「起きたことは、数えます。出たほうも、入ったほうもです。国に、初雪までに出すと言った答えがあります。北の領を継ぐかどうかです。数えないまま、それを決めたくはありません」
王は、長いこと、エルドの顔を見ていた。
「そなたの祖は、ここへ来なかった。何百年、北の家からは誰も来なかった。そなたは、来た。来て、恨みから聞くと言った」
書き板の端が、指で一つ叩かれた。
「その分は、恨みのほうから引いておく」
「差し引きは、出さないのでは」
「出さぬのは、そなたの帳簿だ。わたしの帳簿は、出す」
◇
侍従が、紙を一枚、書き板の上に置いた。
「三日後は、収穫の祭りだ。年に一度、この国が証文を休む三日でな。触れには、王が自分の手で名を書く。寝ておっても、これだけは人に書かせられぬ」
羽根ペンを取った手が、少し震えた。震えたまま、書いた。時間がかかった。王は、たぶん、この国の誰よりも多く、名を書いてきた。
リヴィアが受け取って、読み上げた。
——三日ののち、収穫の祭り。三日のあいだ、証文は書かぬ。代書人は台を畳め。蔵は閉じよ。祭りの口の約束は、風とする。踏み場は開けよ。——フラヴィウス。
「明日も目が覚めるとは、限らぬ」
王は、ペンを置いた。
「三日後に覚めても、祭りだ。祭りに言えば、礼も恨みも風になる。だから、きょう言った」
「書いておきます。今日のうちに」
「証人は」
エルドは、振り向いた。マグダが肩をすくめ、セシルがうなずいた。
「二人、います」
「足りておる」
王は、枕に頭を戻した。目が、半分閉じる。
「リヴィア。客人に、祭りを見せてやれ。去年から、やかましくなった。踏み場で一番を争う者が出てな。葡萄の中で、男が二人、取っ組み合った。ここまで聞こえた」
「父上は、お笑いになった」
「笑った。……北の若君。あれも、そなたのせいだ。入ったほうに書いておけ」
◇
回廊へ出ると、坂の下が沸いた。触れが、門に貼られたのだろう。
「あの王様は、どっちも本気だよ」
マグダが、歩きながら言った。
「はい」
「それと、三日後ってのは、あれだ。副使の言ってた日だよ。でかいのの姫様が、都へ上がってくる」
後ろで、足音が一つ、乱れた。
四冊目の、その夜の頁。細い字が、四行ある。
——メリディアの王、フラヴィウス。恨み。名も書かせず、誰にも告げずに取った。訊かずに返した。解けた世の治め方を、誰も教わっていない。
——礼。解く条が、使われるようになった。祭りが、やかましくなった。
——王は、戻せとは言わなかった。
——三日後は、祭り。姫君が、都へ上がる日だ。




