【第二部 風と鎖】第23話 言えぬ言葉
エルドは、升目の三つ目に印が付くのを見ていた。
夜明け前だ。客殿の窓は、まだ青い。机の上に、あの証文が広げてある。上に条が六行、下に升が四十。初めの二つには、もう炭の印が入っている。
「今日も、お願いします」
「今日も」
レイフの返事は、短い。八年そうしてきたことを、声に出すようになっただけだ、という返事だった。
セシルが、三つ目の升に印を付けた。隣で、マグダが大きなあくびをした。
「……三つ目だね。あと三十七回、これかい」
「はい」
「はい、じゃないよ」
銅貨を一枚、レイフの手のひらに載せる。きのうまでの二枚は、湯屋の札に替わった。
おとといの晩から、レイフはこの部屋にいる。目を開ければ、戸口の脇に、剣を膝に載せた影がある。朝が、元の形に戻った。
戸が、遠慮がちに鳴った。ユリアンだった。もう身支度を済ませている。
「今日は、証文蔵だと伺いました」
「はい。ユリアン殿も」
「私は、参りません」
ユリアンは、自分の右の手を見た。
「橋で、足が止まりました。あれが何なのかを、蔵の写しは知っているのでしょう。知りたいです。ですが、叔母が私に言わずにおいたことを、よその国の蔵で先に読むのは、叔母に悪い気がします」
「戻ってから、王妹殿下に訊かれるのですね」
「訊きます。訊き方を、帰りの道で考えておきます」
真面目な顔で言って、ユリアンは戻っていった。
蔵へ行く途中で、宴の広間の前を通った。柱の前の台に、赤茶の鞘の剣が、置いたままになっている。四日目の朝だ。剣の前には、誰もいなかった。ガイウスは、ゆうべのうちに川べりへ発ったという。兵の検めだそうだ。
三日は、そのために要る。リヴィアは、そう言っていた。
◇
証文蔵は、王宮の奥の、石段を半分下りた所にあった。
厚い石の戸の前に、短い外套の兵が二人立っている。戸の脇の小さな机には、老いた蔵番が一人。机の上に、名簿が開いてあった。
「戸の内へは、王家の方と、その証文に名のある者だけでございます」
蔵番は、一人ずつ、名簿と顔を見比べた。
「客人、エルド=ファーレン。招きの証文。セシル、その証人。マグダ、姫様の書き足しで、今日の証人。……そちらの大きい方は」
「私の雇いの者です」
「一日の雇い、とありますな。今日の分は」
レイフが、懐から証文を出して、広げた。蔵番は、升目を指でたどった。一つ、二つ、三つ。
「結んである。入られよ」
「夜明け前に起こされた甲斐が、あったね」
マグダが、あくびの残りを噛みながら言った。
リヴィアは、先に来ていた。白い麻の衣に、青い石。髪は、後ろで一つに束ねてある。侍女が一人、平たい箱を抱えていた。リヴィアの首には、青い紐で、鍵が一本下がっている。
きのう、壁の向こうから、名で呼べと言った人だ。
「……王女殿下」
「湯の外では好きに呼べ、と言った。好きにせよ」
リヴィアは、少し目を細めた。それきり、きのうのことには触れなかった。
戸の内は、涼しかった。
高い所に、細い窓が二つある。壁は棚で、棚は筒で埋まっている。乾いた草の匂いがした。この国の紙は、葦から作る。何百年ぶんの約束が、草の匂いになって、ここに積んである。
真ん中に、石の机があった。リヴィアは箱を置いて、首の鍵で開けた。
出てきたのは、茶色くなった古い写しが一枚。端が、欠けている。
「黒い館で、そなたは字の読めぬ所に立たされた。今日は、自分で読め。古い言葉だ。読めるか」
エルドは、写しの前に立った。マグダとセシルは、机の横へ回った。証人の立つ所らしい。侍女が、手で示した。
読める。城の書庫で十の年から習った、と帳面にある。習った日のことは、覚えていない。字のほうが、先に目に入ってくる。
「ゆっくりなら、読めます」
手元が、明るくなった。レイフが、覆いのついた灯りを、写しの上へ寄せている。頼んではいなかった。
声に出して、読んだ。
——アルデンの王と、メリディアの王。二つの王の家は、ここに誓う。
——我が血は代々、互いの国へ軍を進めぬ。
我が血は代々。
同じ言い回しを、帳面で読んだ。丘の門前の町の、パン屋の窯の誓いだ。六代前の当主が誓って、六代あとの娘の肌に、生まれつき紋があった。血に憑く誓いは、誓った当人で終わらない。
——アルデンの王の血は代々、断ちを継ぐ者を、国の外へ渡さぬ。
読む声が、少し遅くなった。断ちを継ぐ者。自分のことが、何百年も前の写しに書いてある。
——メリディアの王の血は代々、断ちを継ぐ者を求めぬ。我が血にも、我が家にも、入れぬ。
——大誓約の断たれる日が来ても、この盟は残る。その日のために、結ぶ。
——立会、アルドリック。
六行で、終わりだった。
読み終えてからも、目は、渡さぬ、の行と、求めぬ、の行を行き来していた。断ちを継ぐ者。二つの王の家が、それを渡さぬと誓い、求めぬと誓っている。書かれているのは自分の家のことで、自分の家の者は、誓いのどこにもいない。
アルドリック。丘の壁に十行を刻んだ人の名だ、と帳面にある。
「……短いね」
マグダが、横で言った。
「短いくせに、抜け道が無い」
「そなたの祖は、大誓約を結んだ人だ」
リヴィアは、机の向こうから言った。
「同じ人が、それがいつか断たれる日のことまで考えていた。断たれたあとに、二つの国が軍を向け合わぬように、もう一枚、誓わせた。それが、これだ」
断たれる日が来ると分かっていて結んだ人が、断たれたあとのことにまで、手を打っていた。
リヴィアは、右の手を机の上に置いた。甲を上にして。
「これが、その紋だ。この誓いは、生まれた子の手に浮く。父上にも、叔父上にも、十になる弟にもある。王妹殿下にも、橋で足の止まった王の子にもな。そなたの国では、王家の徴と呼ぶそうだが、わが国の呼び方は違う。古い借り、という」
古い借り。証文の国らしい呼び方だった。
「渡さぬ、というのは、どこまでを言うのですか」
「そこまでは、書いておらぬ。体が量る」
リヴィアは、渡さぬ、の行を指でなぞった。
「王の子は、そなたを連れて橋を渡ろうとして、足が止まった。そなたのあとについて渡るぶんには、足が出た。そうであろう」
「はい」
「連れて出るのは、渡す行いに入る。ついて行くのは、入らぬ。写しは、そこまで教えてくれぬ。やってみて、止まるかどうかで知るほかない」
王宮から、供を——。
王都のあの部屋で、ヒルデの声はそこで切れた。離宮では、ユリアンがこう言っていた。叔母は、あなたを渡せない、と言いました。
渡さない、ではない。渡せない、だった。
「王妹殿下が、初雪のあとに話すと言われたのは、このことですか」
「それは、王妹殿下に訊け。あの方が何を話すおつもりかは、わたしの言うことではない」
リヴィアは、そこで一息置いた。
「ただ、あの方がそなたに王家の娘を付けようとした訳なら、見当がつく。渡せぬ者を、国の内に留めておく手は、そう多くない」
マグダが、鼻を鳴らした。
「軍を進めぬ、の行は、叔父上の足にも効いている」
リヴィアの指が、上へ戻った。
「叔父上は、王の弟だ。あの橋の真ん中で、叔父上の足は止まる。わが国の兵は、雇いの兵だ。雇いの証文は、王家を相手に結んである。王家の者の命が無ければ、兵は国境を越えぬ。越えれば、証文の罰で散る」
「では、川べりの三千は」
「渡れぬ橋の前にいる。渡れぬと知っていて、叔父上は旗を増やしておられる。何かを、待っておられるのだ」
黒い目が、エルドの右の手へ下りて、上がった。
「何を待っておられるのかは、まだ口にせぬ。確かめておらぬことは、言わぬ」
言われなくても、半分は分かった。この一枚が消えれば、あの足は橋を渡る。消せる手は、この大陸に一つしか無い。
「解く条は、ありますか。この約束に」
セシルが訊いた。帳面は、開いていない。証人は、見るのが務めだからだろう。
「無い。誓いだからな」
リヴィアは言った。
「わが国の証文なら、必ず書く。解く条の無い約束を、わが国では、約束とは呼ばぬ」
「……何と、呼ぶのですか」
「鎖だ」
セシルは、しばらく黙っていた。
「……はい。私の国の誓いには、出口がありません」
冬から、出口のある口上を並べようとしてきた人だ。声は、小さかった。
「あんたの先祖は、用心深い爺さんだね」
マグダが言った。
「大誓約で一本、この一枚でもう一本。鎖を二本掛けて、鍵はあんたの家の一本きりだ。その鍵がよその国へ行かないように、念まで入れてある」
鍵。
「祖は、私の血を恐れていたのですね」
声に出してみると、思ったより静かに言えた。
「恐れて、それでも絶やさなかった」
リヴィアは言った。
「北へ遣って、何も知らせずに、残した。要る日が来る、と思っていたのであろう」
「用心としては、正しいと思います」
エルドは、自分の右の手を見た。
「王都の坂で、人が近くに寄ったとき、私はこの手を背中に回しました。自分の手を、まだ信じていません。祖が信じなかったのを、責める気にはなりません」
「断てる者は、一人いる」
リヴィアは、写しから指を離した。
「断ってくれ、とは言わぬ。頼むことなら、できる。できるが、頼まぬ」
◇
「求めぬ、の行は、わたしの行だ」
リヴィアは言った。我が血にも、我が家にも、入れぬ。
「娶らぬ。養わぬ。仕えさせぬ。王の家の名を負って生まれた者は、死ぬまでだ。嫁いで名を替えても、外れぬ」
「招くのは、できたのですね」
「できた。できるかどうかは、やってみるまで分からなかった」
リヴィアは、自分の右の手を裏返して、手のひらを見た。
「招きの証文に名を書くとき、手が止まるかと思った。止まらなかった。客に招くのは、求めるうちに入らぬらしい。訊くのも、入らぬ。頼むのも、入らぬ。写しの見比べを頼んだときは、声が出た」
求めぬ、と誓った家の人が、招いて、訊いて、頼んでいる。止まらないことを、自分の体で一つずつ確かめながら。
「冗談も、入らぬ」
口の端が、上がった。
「アルデンの書庫で、そなたに縁組の冗談を言ったな。あれは、声になった。冗談だったからだ」
あのとき、リヴィアは、言ってから自分の右の手を見ていた。声が出るかどうかを、確かめていたのだ。
「たとえ、わたしが——」
声が、切れた。
口は、次の音の形をしている。息が、そこへ行かない。白い麻の肩が、一度上がって、下りた。
蔵の中が、静かになった。高い窓から落ちる細い日が、机の端を照らしている。
リヴィアは、口を閉じた。
「……見たか。こうなる」
声は、もう元に戻っている。
「何を言いかけたのかは、訊くな。言えぬのだから」
訊かないのには、慣れている。春からずっと、そうしてきた。ただ、今日は、黙っているのも違う気がした。
「訊きません。……王妹殿下と、同じ止まり方でした。あのときは、訊かずにおきました。何が止めていたのかを、今日、自分の目で読みました」
「知って、どうする」
「言えない人に、言わせようとはしません。止まる所を見たら、見たと言います」
リヴィアは、長いこと、エルドを見ていた。
机の横で、マグダが、リヴィアを見ていた。何か見て取ったらしい。見て取って、何も言わない。
「だから、わたしにできるのは、訊くことだけだ」
リヴィアは、背筋を伸ばした。
「この一枚は、そなたを縛らぬ。縛られているのは、王の家だ。誓いも、血も、そなたを縛っておらぬ。給金は——払う側であったな。銅貨一枚」
「はい」
「この大陸で、何にも縛られておらぬ者は、そなた一人だ。黒い館の式官は、そう言って、そなたに誓わせようとした。わたしも、あの広間で聞いた。わたしは、誓わせぬ。訊く」
黒い目が、まっすぐに来た。
「そなたを縛るものは、何だ」
庭では、何をもってあの男の主なのか、と訊かれた。今日の問いは、もっと広い。レイフのことだけを訊いているのではなかった。この人は、鍵と呼ばれた者が、何に繋がれて立っているのかを訊いている。
少し、考えた。
「縛られていなければ、いけませんか」
「問いで返すのは、答えの無い者の癖だ」
「はい。答えは、ありません。ですから、あるものを順に申し上げます」
一つずつ、置いた。
「今朝、升目に三つ目の印が付きました。毎朝、今日も、と言うことになっています。北の林の石の前で、六十余りの名を読みました。初雪までに答える、と言った相手がいます。北の代官と、王の子と、王妹殿下と、祖母です。魚の焼き方を書いた頁が、一つあります。それから、追わないでください、と書かれた二行があります。追わずに、来ました」
言いながら、どれも、書けば一行で済むことばかりだと思った。
「どれも、わが国の帳簿には載らぬな」
リヴィアは言った。
「一つは、載りました。おとといから」
「……そうであった。残りは、載らぬ。わが国では、そういうものを風と呼ぶ」
「風は、吹けばどこかへ行きます。これは、どこへも行きません。書いた日から、ずっとあります」
後ろで、衣の擦れる音がした。
「それは、縛られておるのか」
「分かりません。置いてよそへ行く気には、なりません。いま申し上げられるのは、そこまでです」
リヴィアは、古い写しに目を落とした。求めぬ、の行のあたりだ。
「わたしの行とは、逆だな」
「逆、ですか」
「わたしは、書いてあるから、言えぬ。そなたは、どこにも書いておらぬものばかりで、離れぬ」
リヴィアは、写しを箱に戻した。鍵が、回る。
戸が、外から叩かれた。
蔵番の声だった。少し、上ずっている。
「姫様。陛下が、お目覚めでございます。北の若君に会うと、仰せです」
鍵を持つ手が、箱の上で止まった。
「父上が」
リヴィアは、振り向いた。この人の声が上ずるのを、初めて聞いた。
「父上は、この半月、誰にも会っておられぬ。わたしでさえ、帰った日に、寝顔を見ただけだ」
それから、エルドを見た。
「来い。父上は、そなたの祖に、言いたいことが山ほどおありだ。祖は、もうおらぬ。——そなたが聞け」




