【第二部 風と鎖】第22話 湯屋の定め
マグダは、湯屋の入口で、銅貨を四枚、台に置いた。
自分とセシルの二人ぶんだ。男のほうの払いは、男のほうでやる。
市の広場を抜けた先の、平たくて大きな建物だった。町の家と同じ蜂蜜色の石で、屋根の穴から湯気が上がっている。町の者は、大湯と呼ぶ。入口は二つあって、左が女、右が男。どちらにも台が出ていて、湯番が木の札を渡している。
「一人二枚かい。パンが二つ買えるよ」
口に出たのは、癖のようなものだ。
隣の入口で、エルドがこちらを向いた。口が、開きかけている。
「贅沢じゃない、だろ。八年聞いたよ」
先に言ってやった。エルドは口を開けたまま少し考えて、それでも言おうとした。
「……清潔は」
「だから、聞いたって。もう払ったよ」
エルドは、口を閉じた。不服そうだった。言わせてもらえないのが、不服なのだ。その後ろで、レイフが自分の懐から銅貨を二枚出している。きのうと今日の、二日ぶんだ。
札には、数と、湯番の名が焼いてあった。脱いだ物は、この札と引き換えに返ってくる。裸になるのにも証文が要る国だ。
入口の壁に、板が一枚掛かっていた。セシルが、その前から動かない。
「白いの。入るよ」
「定めが五つあります。読んでから入ります」
「読まなくたって、湯は湯だよ」
「入る前に知っておくべきです。読みます。一、名を名乗って入ること。湯の中では、名で呼ぶこと。家の名と役の名は、外に置くこと。二、洗ってから入ること。三、刃物を持ち込まぬこと。四、湯の中の約束は、風とする。五、のぼせた者の世話は、湯番の務めに入らぬ」
五つ目を読んでから、セシルは少し黙った。自分のことを書かれた気がしたのだろう。
声は、男の入口まで届いていた。エルドが、五つとも、うなずきながら聞いている。その向こうでは、ユリアンの供のゲルトが、湯番に貸し切りの証文は書けるかと訊いて、ユリアンに袖を引かれていた。
「要りません。私は、客です」
王様の子は、町の湯に入る気でいる。いちばん後ろで、短い外套の若いのが、渋い顔で銅貨を出していた。見張りの湯代は、雇い主から出ないらしい。
◇
湯気の向こうに、女が四十人はいた。
石の床は、裸足に温かい。油の石鹸の、青い匂いがする。屋根の穴から落ちてくる日の光が、湯気の中で、斜めの柱になっていた。洗い場の奥に、石で囲った広い湯があった。二十人が肩を並べて、まだ余る。男湯とのあいだは石の壁で、座れば隠れて、立てば頭が出るくらいの高さしか無い。
洗い場に膝をついたとたんに、隣から桶が回ってきた。
「あたしはジュリア。あんたは」
「……マグダ」
「マグダ、北から来たのかい。肌が白いね」
名乗ったのは、定めだからだ。名乗ったら、三方から使われた。マグダ、その石鹸は目にしみるよ。マグダ、背中を流そうか。マグダ、あの金の髪の子は妹かい。
知らない女たちに、こうも気安く名を使われるのには、慣れていない。呼ぶほうなら、長くやった。審問の席で名を呼べば、呼ばれた者は前に立つしかない。あたしの知っている名の呼び方は、長いこと、それ一つだった。ここの女たちは、人の名を、塩を取ってくれと言うのと同じ声で呼ぶ。
「連れだよ。妹じゃない」
「そうかい。あんた、花婿殿の姉さんだろ。副使様が触れて回ってたよ」
あの小太りは、板に書いたことを、国じゅうに配って歩いているようだ。
「銅貨一枚ってのは、本当かい。花婿殿の給金だよ。コルネリア婆さんの孫が、きのうから町じゅうに喋ってる」
「本当だよ。本人は、多いって言ってた」
洗い場が、どっと笑った。
ジュリアは、笑いながら自分の髪を絞った。
「うちの亭主は、荷運びの口でね。一年前の秋から、雇いの値が倍になったんだ。倍だよ。おかげで、娘をコルネリア婆さんの所へ習いに出せた。代書人になれば、荷を担がずに食える。あの子はいま、証文の条の読み方を、あたしに教えるんだ。生意気だろ」
生意気だ、と言う顔が、少しも怒っていない。
王都の坂では、恩赦を失くした老人を見た。国境の川べりには、放された兵が三千いる。あの子の手の先にあるのは、そういうものばかりでもない。あとで、聞かせてやろう。
「いい話じゃないか、あんた」
「あんた、じゃないよ。ジュリアだって言ったろ、マグダ」
「……聞いたよ」
呼ばなかった。ジュリアは気を悪くしたふうもなく、桶の湯を頭からかぶった。
湯は、熱かった。
肩まで入ると、旅の十三日ぶんが、背中から抜けていく。上の村の湯を思い出した。あそこは、湯がただで湧く。ここは、入口で二枚取る。湯船の縁から、湯上がりの広間が半分見えた。薄い葡萄の酒が一杯一枚、葡萄が一房一枚。湯で客を集めて、湯上がりの渇きで、もう一度取っている。
うまい商いだ。春に北の町の宿で、あの町で自分が宿をやるなら、と一度だけ勘定したことがある。あの勘定は、合っていた。
セシルは、桶の湯を肩から三度かけてから入ってきた。肩まで沈んで、目を閉じる。口が、小さく動いている。
「セシル」
呼んだ。湯の中だ。呼んでいい所だ。
「何を数えてるんだい」
「三十で上がります。春は、数えずにしくじりましたので」
春に、上の村の湯で赤くなって、あたしに引き上げられた子だ。出る数を、自分で決めてきた。休み方というやつを、この子は、数で覚えることにしたらしい。
湯船の向こうの隅に、髪を布で高く巻いた女が一人いた。誰とも喋らずに、肩まで浸かっている。湯の中でも、背筋が立っていた。ああいう浸かり方をする女を、あたしは二人知っている。一人は、隣で数を数えている。
湯の上に出た右の手を見て、もう一人のほうだと分かった。
声は、かけなかった。向こうが黙って浸かっているなら、こっちが騒ぐことじゃない。ここは、役の名を外に置く所だ。
女湯が、急に沸いた。
みんな、壁を見ている。壁の上に、頭が一つ出ていた。濡れた髪の、大きな頭だ。こちらを向いてはいない。まっすぐ前を向いたまま、困っている。
「花婿殿だ」
「花婿殿の頭だよ」
「役の名は、外に置くんじゃなかったのかい」
「名を知らないんだもの。仕方ないだろ」
ジュリアは、悪びれない。マグダは、壁に向かって声を張った。
「でかいの。頭が出てるよ」
「……はい」
頭が、沈んだ。肩まで浸からなければ、あの壁には隠れられない。
◇
壁の向こうで、声が始まった。
レイフの声だ。同じ間で、一つずつ。石の天井に響いて、こちらへ届くのは、節と間だけだった。言葉までは、聞き取れない。それでも、あたしには分かる。あれは、数だ。
始めたね、と思った。やめときな、と言ったのは、きのうだ。返事をしなかった時から、分かっていた。
女湯のお喋りが、端から静かになっていく。男湯のほうは、もっと早かったようだ。水音まで、やんでいる。低い声だけが、石の天井に響いていた。
「……何だい、あれは」
ジュリアが、声をひそめた。向かいの女が、もっとひそめた。
「北の口上じゃないのかい。誓いを立てるとき、ああやって一句ずつ先に言う役がいるんだって。樹脂売りが言ってた」
「花婿殿の声だろ。断ち手殿の」
「断ち手殿が、湯の中で口上を」
囁きが、湯船を一周した。誓いというものを、嫌う国だ。女たちの顔が、こわばっている。湯から出かかる者までいた。
額を、押さえた。低い声は、同じ間で続いている。
男湯のほうで、ばたばたと足音がした。嗄れた声が、壁を越えてくる。湯番の爺さんだ。
「お客人! 北のお客人! 湯の中の約束は、風でございます。ここで誓われましても、証人が立ちませぬ!」
数える声が、止まった。
別の声がした。よく通る、まっすぐな声だ。
「誓っていません。数えています」
「……数えて」
「はい。肩まで浸かって、百、数えます」
「百数えると、何が起きるので」
間があった。考えている間だ。あの子は、こういうときに、本当に考える。
「何も起きません。温まるだけです」
女湯じゅうが、息を止めていた。
それから、誰かが噴いた。ジュリアだった。あとは、桶をひっくり返したような騒ぎになった。
「温まるだけだってさ!」
壁の向こうでも、湯番が声を張っている。誓いではないそうだ、温まっておられるだけだ。男湯が、どっと沸いた。
「マグダ。あんたの連れは、湯に入るたびにああなのかい」
「ああだよ」
「百も浸かってたら、喋る暇が無いじゃないか」
「喋るよ。浸かったまま、人の洗い方に口を出す」
この国の者は、短く浸かって、長く喋るものらしい。
「レイフ。続きをお願いします。いくつでしたか」
壁の向こうで、低い声が短く答えた。数える声が、戻ってきた。
今度は、声に連れができた。二十五のあたりで、誰かが面白がって合わせはじめた。三十で、五、六人。四十では、男湯じゅうが数えていた。南の訛りの数が、石の天井の下で一つの声になっていく。その中に、若くて、やけに行儀のいい声が混じっていた。ユリアンだ。王様の子まで、数えている。
女湯でも、ジュリアが指を折りはじめた。
「三十です。上がります」
隣で、湯が動いた。セシルが立ち上がっている。顔は、まだ赤くない。自分で決めた数を、自分で守った。
「札を忘れるんじゃないよ」
「持っています」
百が来た。
男湯が、手を叩いた。口笛まで聞こえる。湯番の爺さんが、何か叫んでいた。
◇
「百か」
すぐ脇で、声がした。
隅にいた女が、腕二本ぶんの所まで来ていた。髪を布で高く巻いている。青い石も、白い麻も、ここには無い。あるのは、湯の上に出した右の手の、甲の古い紋だけだ。
「入ってきた時から、知ってたよ」
マグダは言った。
「名を名乗って入る定めだろ。あんたは、名乗らずに隅にいた」
「わたしは、先に入っていた。名乗るのは、あとから来た者だ」
メリディアの王女は、涼しい顔で言った。
「ここでは、リヴィアだ。町の者も、そう呼ぶ」
向こうから、ジュリアが手を振った。リヴィア、今日は長湯だね。リヴィアは、短くうなずいて返した。王女が町の湯に一人で浸かって、誰も騒がない。
「護衛は、どうしたんだい」
「叔父上の付けた兵は、男ばかりでな。ここには入れぬ。この町でわたしが一人になれるのは、ここだけだ」
それで、ここか。頭のいい女だ。
「あの者は、国でも、ああなのか」
「湯のたびに、百だよ」
リヴィアは、口の端を上げた。
「王家の娘の話を二つ、返事もせずに置いてある男が、湯には、たっぷり時をくれてやるのだな」
口の端は、上がっている。目のほうは、壁にあった。壁の向こうで、あの子が湯番に何か詫びている声がする。
「妬いてるのかい。湯に」
言ってから、相手が誰だったかを思い出した。まあいい。役の名を外に置いたのは、向こうだ。
リヴィアは、怒らなかった。少しのあいだ、湯の面を見ていた。
「妬く、か。……わたしの国の帳簿に、その欄は無い」
載らぬものは、無いものだ。ちびにそう教えた、とこの女が宴の席で言うのを聞いている。
無い、と言った女の目が、まだ壁の向こうの声を追っていた。その先は、見て取っても、口に出すもんじゃない。
「明日、証文蔵を開ける」
リヴィアは、声を落とした。
「そなたも来い。証人は、多いほうがよい」
「証人なら、白いのがいるよ」
「一人では足りぬ。明日、わたしは、言えることと、言えぬことを話す。何を言えぬかは、わたし一人では請け合えぬのでな。見ている目が要る」
言えぬこと。
王都で、王妹の声が途中で切れるのを、あたしは戸口から見た。あれと、同じ種類の話だろう。
「……行くよ。見るのは、得意だ」
リヴィアはうなずいて、それから、壁のほうへ顔を向けた。声を、張った。
「エルド=ファーレン」
男湯が、水を打ったように静まった。
「百は、済んだか」
少しして、壁の向こうから、まっすぐな声が返ってきた。
「……王女殿下、ですか」
「ここでは、リヴィアだ。定めを読まなかったのか」
「読みました。……セシルが、声に出して」
「ならば、呼べ」
長い間があった。
考えているのだろう。定めは定めだ、と。あの子は、筋の通ったことには逆らえない。
「……リヴィア」
硬い声だった。定めだから言った、という声だ。
呼ばれた女は、返事をしなかった。湯の面を見ている。口の端は、上がっていない。上げるのを、忘れているらしい。
名を呼ぶ声のことなら、あたしは少し知っている。呼ぶほうにも、呼ばれるほうにも、あれは、思ったより効く。
「……よい。湯の外では、好きに呼べ」
リヴィアは、やっとそう言って、湯から立った。




