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【第二部 風と鎖】第21話 銅貨一枚


 エルドは、向かいの上座のレイフと、目を合わせていた。


 どうしますか、と訊(き)いているのとは違う。これから何と言うかを、先に知らせてきている。エルドは、小さくうなずいた。


 レイフは、差し出された剣に目を戻した。


「剣は、あります」


 低い声が、静まった広間に通った。


「入口に、預けました。札も、もらっています」


 懐から木の札を出して、机に置く。


 一拍あって、広間が笑った。副使のドナートが、いちばん大きな声で笑っている。


「謙虚な! 断ち手殿は、どこまでも謙虚でいらっしゃる」


 ガイウスも、笑った。剣を載せた手は、下ろさない。


「北の剣は、重いでしょう。こちらは軽い。振ってみれば分かります」


「重いほうで、慣れています」


「受け取らぬ、と言われるか」


 笑いが、引いた。笑った顔のまま言われた一言で、広間じゅうの杯が止まっている。兵を預かる人の贈り物を、人前で押し返す客は、この国にはいないのだろう。


「受け取れません」


 レイフは言った。


「受け取れば家の者になる、と副使殿が言いました。俺には、主がいます」


 主がいます。


 広間の全部が、それを聞いた。どの証文にも、書いていない言葉だ。


「左様!」


 ドナートが、机を叩いた。


「断ち手殿は、主の許しが無ければ断たぬと、アルデンの王都でも評判でございました。坂に三百人が並んでも、主家の若君が首を縦に振られぬかぎりは、と」


 王都の坂で生まれた噂は、副使の板に載って、橋を渡ってきていた。


 ガイウスは、剣を載せたまま、広間の隅へ顔を向けた。


「書記。北の若君の名の下に、この方の名はあるか」


 隅の小さな机で、老いた書記が帳簿を繰った。紙の音が、広間の端まで聞こえた。


「ございません。北の若君の欄には、家の者の名も、雇いの者の名も、一つも」


「お聞きのとおりです」


 ガイウスは、レイフに向き直った。声は、どこまでも丁寧だった。


「断ち手殿。この国では——」


「載らぬものは、無いものだ」


 リヴィアが、杯を置いて言った。


「叔父上。それは、わたしがもう教えた。アルデンの書庫でな」


「それは、話が早い」


「もう一つ、叔父上もご存じのことがある。贈りは、三日置く定めだ。受ける者が、そこの証文を読んで考える三日だ。そのあいだ、贈り物は誰の物でもない」


 ガイウスは、姪の顔を見た。笑いは、消えていない。


「もちろんだ、姫。三日、置こう」


 若い兵が、柱の前に木の台を運んできた。ガイウスは、剣をその上に横たえた。巻いた証文が、脇に添えられる。赤茶の鞘(さや)が、油の灯りを受けている。


「三日のあいだ、剣はここに置きます。四日目の朝に、もう一度伺いましょう。そのときも、断ち手殿の名がどの欄にも無ければ——無い主に義理を立てる者は、おりますまい」


 エルドは、立った。


 椅子の脚が、石の床を擦った。広間の目が、こちらへ集まる。


「三日のうちに、載せます」


 ガイウスの目が、また一度、右の手へ下りた。


「楽しみにしております、若君」


  ◇


 次の日は、市の立つ日だった。


 王宮の坂を下りた広場に、朝から布の屋根が並んだ。干した葡萄(ぶどう)の山。麻布の巻き。油の壺。樹脂の塊を量り売りする台もある。秋だというのに、日が強い。石の照り返しで、額に汗が出た。煙の匂いが、風に乗ってくる。魚を焼く煙だ。


 パンを四つ買った。丸くて、白い。一つが、銅貨一枚。橋の手前で替えた、厚い銅貨だ。


 レイフは、花婿殿のまま、市へ出てきた。客は、どこへ行くのも勝手だ。ただ、十歩うしろを、短い外套の男が二人ついてくる。若いほうは、きのう庭の隅にいた。年かさのほうは、左の眉が古い傷で切れている。


「あの人が、ティトです」


 レイフが、前を向いたまま言った。


 エルドは、足を止めて振り向いた。男と、目が合った。


「ティト殿」


 男の眉が、切れた所で動いた。


「板の裏に、あなたの名がありました。副使殿の証文にも」


 男は、何も答えない。隣で、マグダが肩越しに言った。


「気をつけな。この子に名を覚えられると、死ぬまで覚えられてるよ」


 若いほうが、少し下がった。ティトは、下がらなかった。


 レイフは、屋台の前で足を止めていた。煙の元だ。


 炎は、立っていない。赤い熾(おき)の上に鉄の網を渡して、魚を寝かせてある。レイフは、網と熾のあいだを、長いこと見ていた。


「……遠いです。火が」


「きのうの皿の魚も、これですか」


「はい。塩は、前の晩に振ってあります。中まで入っていました」


 屋台の主が、胸を張った。


「花婿殿は、分かっていなさる」


 この町で、レイフはどこへ行っても花婿殿だった。


  ◇


 その人は、辻の日除けの下に座っていた。


 小柄な老女だった。髪は白く、節の立った指に、ペンのたこが盛り上がっている。台の上に、紙と、羽根ペンと、蝋(ろう)の塊。台の脚に下がった板には、コルネリア、とある。戸口と同じだ。この町では、商いにも名が先に立つ。


「雇いの証文を、一枚お願いします」


 エルドは言った。


「雇うのは、私です。雇われるのは、この男です」


 コルネリアは、レイフを見上げた。目が上まで行って、戻ってくる。


「花婿殿を、でございますか」


「はい」


「……口は、何でございます。荷運び、畑、厩(うまや)。剣を提(さ)げて主の後ろに立つ口もございます」


「その、最後のです」


「通り値は、日に六枚。一年前の秋からは、八枚出しても人が来ませんが。年限は、一年が普通でございます」


 ペンが、紙の上へ下りかけた。


「給金は、要りません」


 レイフが言った。ペンが、宙で止まる。


「無ければ、書けませぬ。給金と年限の無いものは、雇いの証文ではございません」


 レイフは、エルドのほうへ向き直った。


「エルド様。俺は、雇われているのではありません」


「知っています」


 ゆうべ、宴のあとで、同じことを言われた。そのときは、答えを持っていなかった。


「紙の上の話です。紙の上にあなたの名が無いと、四日目の朝に、あの剣の家の欄に載せられます」


「紙の上でも、違うことが書いてある下に、名は書けません。一年、とは書けません。毎朝、決めているので」


 この男は、そこを譲らない。王都を出る朝にも、副使の証文を直させていた。望んで、を、決めて、に。


 では、違わないことだけを書けばいい。


「年限は、一日にしてください」


 コルネリアの眉が、上がった。


「一日」


「毎朝、結び直します。この男は、毎朝決めています。それなら、書いてあることと、していることが合います」


「一日の雇いは、荷運びの口でございますよ。剣の口で一日というのは、四十年書いてきて、初めてで」


「初めてでも、書けますか」


「……書けます。条が立っていれば、証文は何でも載せます」


 コルネリアは、年限、一日、と書いた。それから、顔を上げた。


「では、給金を」


「要りま——」


「でかいの。黙ってな。無いと書けないって、いま聞いたろ」


 マグダが、レイフの脇腹を肘で突いた。


 エルドは、コルネリアに訊いた。


「六枚の訳を、伺えますか」


「命を張る口でございますので。主の後ろに立つ者は、主より先に刃を受けます」


 レイフは、左の肩の下に縫った痕を持っている。背中から入った、と四冊目に書いたのは自分だ。


 少し、考えた。


「命の値なら、六枚では足りません。八枚でも足りません。値の付かないものに、値は付けないことにします」


「……と、申されますと」


「証文に要るのは、給金がある、ということだけだと伺いました。でしたら、私が払える額を書きます」


 買い出しの袋に、手を掛けた。三人で稼いだ銭が入っている。


「その銭の三つに一つは、俺の稼ぎです」


 レイフが言った。


 手が、袋の上で止まった。言われてみれば、そうだ。それでは、この男が、自分の稼ぎから自分の給金を受け取ることになる。


 革袋の底に、小さい袋がもう一つある。冬に川の町で帳付(ちょうつ)けをした、日銭の残りだ。橋の手前で替えて、厚い銅貨が四十枚になった。


「私の稼ぎは、四十枚あります」


 台の上に、袋を置いた。


「東の当主の文が来るまで、二十日。帰りの道が、王都まで十三日。一日に一枚なら、四十日は払えます。足ります」


「一枚で、多いです」


 レイフが言った。


 コルネリアは、ペンを持ったまま、二人を見比べた。


「雇われるほうが、値を下げなさいますか」


「パンが、一つ買えます。足ります」


「あなたは、三つ食べます」


「二つは、客殿で出ます」


 マグダが、声を立てて笑った。


「書いとくれ、一枚で。これ以上やらせると、この男はパンを半分に割りだすよ」


 コルネリアは、首を振りながら書いた。給金、一日に銅貨一枚。


「解く条は、いかがなさいます。どちらから解けるか。解いた者の払う罰は、幾らか」


「どちらからでも。罰は、無しでお願いします」


「罰の無い解く条は、珍しゅうございます」


「毎朝やめられる約束に、やめた罰を付けるのは、筋が合いません」


「解くときは、誰に告げるのですか」


 セシルが、台の脇から訊いた。帳面が、もう開いている。


「証人に、でございます。証文に名のある証人がその場に立って、解いた、と下に書き足します。証人のいない所で、やめた、と申しても、解けてはおりません。それは、風でございます」


「証人に、告げる」


 セシルは、その一行を書いた。書いたあとも、炭を置かずに、その行を見ていた。


「それから、若君。毎朝結び直すとなりますと、毎朝一枚、証文が要ります。書き賃は、一枚につき銅貨二枚で」


 給金より、書き賃のほうが高い。マグダが口を開きかけた。エルドのほうが、先だった。


「一枚で済ませる書き方は、ありませんか。下に、升目(ますめ)を四十、引いておきます。毎朝、二人が証人の前で、今日も、と告げる。証人が、その日の升に印を付ける」


 コルネリアは、しばらくエルドの顔を見ていた。


「……若君は、帳付けをなさいますか」


「冬に、少し」


「よい帳付けは、紙を惜しみます」


 コルネリアは紙を一枚、こちらへ回して、定規がわりの板を貸してくれた。線は、自分で引いた。八つずつ、五段。四十の升の端が、揃った。


 その上に、コルネリアが書いた。書き終えて、声に出して読む。


 ——アルデンの北の家のエルド=ファーレンは、アルデンの北の生まれのレイフを雇う。給金は、一日に銅貨一枚。年限は、一日。毎朝、双方が証人の前で、今日も、と告げて結び直す。解く条。どちらからでも、朝、証人の前で、今日は結ばない、と告げれば解ける。罰は無い。


 レイフは、証文を受け取って、自分でも読んだ。一字ずつ、ゆっくりと。


「……違うことは、書いてありません」


 それから、名を書いた。四角い字だ。隣に、エルドが書いた。細い字と四角い字が、一枚の証文に並んでいる。帳面の外で並ぶのは、初めてだった。


「証人は、どなたが」


「あたしと、この白いのだよ」


 マグダは、ペンを取りかけて、やめた。


「……待ちな。毎朝、って言ったね。毎朝、あたしが印を付けるのかい」


 エルドが答えた。


「レイフは、水を汲(く)む前に決めます」


「夜明け前じゃないか」


「はい」


 マグダは、日除けの布を見上げた。長いこと、見上げていた。


「四十日、夜明け前に叩き起こされる証人かい。……書くよ。書くけどね」


 書いた。セシルも、背筋を伸ばして書いた。証文の中に名を書くのは、これで二度目になる。


 エルドは、小さい袋から、銅貨を一枚出した。


「今日のぶんです」


 レイフは、手のひらを上に向けて、受けた。


 大きな手のひらの真ん中に、銅貨が一枚、載っている。ゆうべ、この男の前に差し出された手には、剣が載っていた。


「……エルド様から銭をもらうのは、初めてです」


「私も、人に給金を払うのは初めてです。覚えているかぎりでは」


 レイフは、銅貨を握って、懐に入れた。板と、同じ所だ。


  ◇


 夕方、王宮の広間に、あの老いた書記を訪ねた。


 書記は証文を読んで、帳簿を開いた。北の若君の欄の、雇いの段に、名が一つ書かれる。レイフ。年限、一日。給金、銅貨一枚。


 書き終えた書記が、もう一度、証文に目を落とした。一枚、の所を確かめたのだろう。


「今夜から、この方の寝所は、若君のお部屋になります。雇いの者は、主の戸口で寝るものでございますので」


 書記は、当たり前のことのように言った。この国の決まりが、初めてこちらの役に立った。


 レイフは、書かれた名を上から見届けた。それから歩いてきて、エルドの後ろに立った。


 背中の側の空気が、変わった。王都の南の門を出てから、ずっと空いていた所だ。振り向かなくても、そこにいると分かる。


「銅貨、一枚」


 声は、柱のほうから来た。ガイウスが、剣の台の脇に立っていた。


「北の家は、倹(つま)しいとみえる」


「倹しいのではありません。私の稼ぎが、それだけなのです」


 ガイウスは、声を立てて笑った。


「正直な方だ。年限は、一日。すると、明日の朝に結び直さなければ、この方は、また無い者に戻るわけですな。剣は、このまま置いておきましょう。三日と言わずに」


「明日の朝も、結びます」


 レイフが、後ろから言った。


「八年、毎朝です」


「帳簿の上では、今日が一日目ですな」


 ガイウスは、笑ったまま、広間を出ていった。剣は、台の上に残った。


 入れ違いに、ドナートが駆けこんできた。板を持っている。


「断ち手殿が、雇いの欄に! ……雇い主、北の若君。年限、一日。給金、銅貨——一枚? 書記殿、これは書き損じでは」


「一枚でございます」


 ドナートは、板と帳簿を見比べていた。それから、何かに思い当たったように、深くうなずいた。


「なるほど。断ちの手に、値は付けられぬ、と。形ばかりの一枚でございますな。左様、左様。奥ゆかしい」


 値の付けられないものだから一枚、という所は合っている。誰の何に値が付かないのかは、まるで違う。それでも、この人の早合点が正しい所の近くへ落ちるのを、初めて見た。


「となりますと、婚礼の証文に、雇い主の許しの一行が要りますな。姫君が都へ上がられるのは、収穫の祭りの日。それまでに、書き直しておきます」


 言うだけ言って、ドナートは来たときと同じ速さで出ていった。


  ◇


 回廊の柱の脇に、リヴィアが立っていた。夕方の日で、回廊の石が濃くなっている。


「銅貨一枚の、一日の主従か」


 口の端が、上がっていた。


「値切りました」


 エルドは言った。


「値のほうはレイフが、年限のほうは私が」


「双方で下げて、その値か。……後ろの男」


 リヴィアの目が、まっすぐにレイフへ行った。


「従う側は、何と言う」


「俺は、毎朝決めています」


 間を置かずに、答えが出た。


「主の側は」


 黒い目が、戻ってくる。


 庭では、答えられなかった問いだ。何をもって、あの男の主なのか。


「今日、銅貨を一枚払いました。私の稼ぎからです。私の側で決めたことは、まだ、それ一つです」


「従う側は、すぐに答えた。主の側は、一つしか持っておらぬと言う。片方は八年で、片方は一日だ。……揃っておらぬな」


「はい。揃っていません」


「だが、庭では零だった」


 リヴィアは、柱を離れた。白い裾が、回廊の角を曲がっていく。


 見送ってから、マグダが伸びをした。


「汗をかいたね。市で聞いたけど、この町には、でかい湯屋があるそうだよ。銅貨二枚だとさ」


 湯屋。


 自分の顔がどうなったのかは、分からない。マグダがこちらを見て噴き出したので、たぶん、出ていた。


「二枚。……レイフの二日ぶんです」


「勘定の仕方が、おかしくなってきたね」


 マグダは笑って、それから、指を一本立てた。


「言っとくけどね、ちび。よその国の湯だ。村の湯じゃない。——百は、やめときな」


 エルドは、返事をしなかった。


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