【第二部 風と鎖】第20話 客と餌
約束は、破れる。
メリディアの子どもは、物心がつくより早く、そう教わる。だから、書く。口で言っただけの約束を、この国では「風」と呼ぶ。吹いて、どこかへ行ってしまうからだ。紙に書いて、証人を二人立てて、破ったときの罰まで書いておく。そこまでして、約束はようやく約束になる。
パンを掛けで買えば証文。宿に泊まれば証文。嫁をもらうにも、兵を雇うにも証文だ。贈り物にまで、証文が付く。もらった者は三日のうちに、名を書いて受けるか、返すかを決める。ただでもらう物ほど高くつく、とこの国の者は知っている。
この国の者は、生まれてから死ぬまでに、自分の名を何千回も書く。墓石に刻まれるのが、その最後の一回になる。
北の隣国に破れない誓いというものがあることは、誰でも知っている。知っていて、誰も羨ましがらない。破れない約束は、やめたくなってもやめられない。生きたまま質に入るようなものだ、と、この国の者は言う。
もっとも、その日の午後にこの国の王都の門をくぐった北の若者の用は、ひとまず、剣一本だった。置いていかれた剣を、持ち主に返しに来たのだ。
◇
エルドは、リヴィアの後ろについて、蜂蜜色の町を上っていた。
王宮までは歩いてすぐだ、とリヴィアは言って、馬も輿も呼ばずに先に立った。侍女が一人、その脇を行く。すれ違う者が足を止めて、声をかけてきた。
「リヴィア様、お帰りなさい」
「姫様。北は寒かったかい」
言葉の尻が、歌うように上がる。北と同じ言葉のはずなのに、半分は節に聞こえた。リヴィアは一人ずつに、短くうなずいて返している。王女に道で声をかける者を、アルデンの王都では見たことがない。
家という家の戸口に、小さな板が打ちつけてある。字が書いてあった。二つ三つ読んで、住んでいる者の名だと分かった。パン屋のマルコ。粉屋のピエトロと、その妻。どの戸にも、ある。
春からこちら、人に会うたびに名を訊いてきた。この町では、訊く前に、戸のほうが名乗っている。
「あんたの出番が無いね、ちび」
後ろで、マグダが言った。
「……読むほうが、早く済みます」
答えてから、少し物足りない気がした。
辻には、日除けの布を張った台が出ていた。台の向こうに書く者が座り、手前に人が並んでいる。代書人です、とセシルが言った。帳面を出しかけて、歩きながらでは書けないと気づいたらしく、外套の内側へ戻した。
坂の途中で、甘酸っぱい匂いが濃くなった。道の脇の石で囲った踏み場で、男たちが裸足で葡萄を踏んでいる。籠を担いだ列が、下から次々に上がってくる。西日を受けた壁の石は、門で見たときより一段濃い色をしていた。蜂蜜を、煮詰めた色だ。
王宮は、坂の上にあった。
白くもなければ、高くもない。蜂蜜色の石で、低く、横に広い。門の脇に机が出ていて、役人が厚い名簿を広げていた。
「客人は、名を」
羽根ペンが、こちらへ向けられた。アルデンの館の門には、誓いの台が出る。この国の門には、名簿が出る。入る者が、自分の手で、自分の名を書く。
エルドは、ペンを取った。
春から習っている字だ。細い線を一つずつ立てて、名を書く。終わりの所だけ、少し跳ねた。気持ちのほうが、もう門の内へ行っている。
役人は名簿を引き寄せて、声に出して読んだ。
「エルド=ファーレン。……きれいで読みやすい字だ」
字を読むのが務めの人に、そう言われた。教えた男は、この門の内にいる。
マグダは名だけを書いた。セシルは背筋を伸ばして書いた。ユリアンの分は、供のゲルトが王家の印のある証文を出した。役人は、書かれた名を一つずつ読み上げて、読み上げたとおりに呼んだ。
「マグダ。セシル。通れ」
「書いたとたんに、使われるんだね」
「名で呼ぶのが、この門の決まりだ」
マグダは鼻を鳴らして、門をくぐった。
◇
客殿は、王宮の東の端にあった。
柱の並んだ廊下の手前で、リヴィアは足を止めた。
「そなたの従士は、この奥の裏庭だ。わたしは、ここまでにしておく。王の子の部屋は、別に用意させた」
ユリアンと供の三人を連れて、リヴィアは別の廊下へ折れていった。マグダが、セシルの袖を引いた。
「あたしらは、この柱でも見てるよ。先に行きな」
一人で、廊下を抜けた。
音が、聞こえてきた。乾いた木の割れる音だ。間を置いて、もう一つ。同じ間で、また一つ。急がない音だった。
客殿の裏は、石を敷いた狭い庭だった。壁際に、割った薪が積んである。山は、もう壁の半分の高さまで来ていた。その前に、大きな背中がある。斧が上がって、下りる。丸太が二つになって、左右に倒れる。
割れた木口から、匂いが立っていた。甘くて、少し煙い。樹脂の多い木だ。
庭の隅の柱に寄って、短い外套の若い男が立っていた。こちらを見ている。見ているだけで、動かない。
「レイフ」
斧の音が、やんだ。
背中が、振り向いた。
十三日で、人の顔は変わらない。変わっていないことを、確かめている自分に気づいた。痩せてもいない。宿の者が言ったとおり、よく食べていたのだ。
レイフは斧を下ろして、薪の山に立てかけた。それから、こちらを向いて、背筋を伸ばした。
「……追わないでください、と書きました」
「読みました」
エルドは言った。
「行きます、と、私が決めました。追ってきたのではありません。王女殿下に招かれた客として来ました。私の用です」
レイフは、少し考えた。
「用は、済みましたか」
こういうときにも、言葉どおりに訊く男だ。
「一つは、いまから済ませます」
背中の荷を下ろして、括ってあった紐を解いた。鞘ごと、両手で持つ。十三日、背負ってきた。肩の一つ所が、まだ痛い。
「置いていった物です。……重かった」
レイフは、片手で受け取った。重さを確かめるように一度持ち直して、腰には提げずに、そのまま持っている。
「離れません、と言いました」
低い声だった。
「八年前の、雪の小屋でです。誓いではありません。ただの約束です。……十三日、離れました。これを何と呼ぶかは、エルド様が決めてください」
雪の小屋の夜のことは、帳面にある。その一言は、無かった。この男は、自分の言ったことを書かない。
破った、とは言わない。言わずに、呼び方をこちらへ預けてきた。
すぐには、答えなかった。順に、考えた。使節の列は、一日先を歩いていた。同じ道だ。同じ橋を渡って、同じ宿に泊まった。
「あなたは、先に行きました」
「……先に」
「分からない所へは、供が先に行って、見てくるものでしょう。私は、一日あとを、同じ道で来ました。離れた、とは呼びません。先に行った、と呼びます」
レイフは、口を開けて、閉じた。
「……先に行って、見てきたものがあります」
懐から、板が出てきた。手のひらに載るほどの板だ。
表は、絵だった。石を載せた屋根が、斜面に九つ。段になった畑。いちばん上の屋根の前に、杖をついた小さい人がいる。
春に、自分の足で上がった村だ。
マグダの推量は、当たっていた。
「言うな、と言われました。言えば、北へ使いが走る、と」
レイフは言った。
「橋は、もう渡りました」
板が、裏返された。炭の字が二行ある。
——国境の橋を渡る日、北の使いを引き上げる。ティト。
——証人、ルーカ。
ティト。副使の証文の、証人の所で読んだ名だ。
「書かせたのですか。あなたが」
「書く国だと、聞いたので」
脅しに来た相手に証文を書かせて、証人まで立てさせた。剣も帳面も置いて出た男が、この板一枚を持って、橋を渡ってきたのだ。
庭の隅の護衛は、まだ動かない。板が見えない距離ではなかった。見えていて、止めに来ない。
隠しておく用が、向こうにはもう無いのだろう。餌を隠すのは、魚が掛かるまででいい。掛かるはずの魚は、自分の足で、ここまで歩いてきた。
護衛は、板が裏返されるのまで見届けると、柱を離れて廊下へ消えた。知らせに行ったのだろう。庭に、二人だけになった。
「レイフ。東の当主は、あなたが発った次の朝に北へ発ちました」
レイフの目が、動いた。
「槍を足しに、です。マグダが、書き置きと番人の話から、山の上だと言い当てました。東の当主は、推量でも槍は動かす、と。外れたら、槍があの婆の鍋で肥えて帰るだけだ、と言っていました」
レイフは、長いこと黙っていた。
それから、息を吐いた。長い息だった。肩が、目に見えて下がる。王都を出てから、ずっと胸に詰めてきたものだろう。
「……はい」
声が、少し掠れていた。
◇
「済んだかい」
廊下の口から、マグダが入ってきた。後ろに、セシルがいる。
マグダは、レイフを上から下まで見た。
「宿を三軒、聞いて歩いたよ。花婿殿はよく召し上がる、ってさ。……食えてたんなら、いい」
言って、レイフの腕を拳で一つ叩いた。
「はい。日に三度、皿が五つです」
「十五皿かい。婿ってのは、いい身分だね。で、この薪は何だい。誰に割らされた」
「誰にも。することが、無かったので」
セシルが、一歩前へ出た。姿勢が、点呼のときの形になっている。
「レイフ。確かめます。怪我は」
「ありません」
「夜は、眠れていますか」
「……はい、騎士様」
セシルは帳面を出して、何か書いた。書き終えて閉じたとき、肩が一つ下りたのが見えた。
板は、マグダの手に渡った。表を見て、裏を読む。裏のほうを、長く見ていた。
「名がある。証人も立ってる」
マグダは、板の縁を指で弾いた。
「でかいの。あんた、自分を質に取りに来た奴に、証文を書かせたのかい」
「はい」
「いつ覚えたんだい、そんな手」
「副使殿が、俺の背丈まで板に書いたので」
マグダは、短く笑った。それから、笑いを消した。
「これは、いつか切る札だ。切る時は、選ぶよ。……書いてあるのは、使いを引き上げる、までだね。引き上げた使いは、また出せる。東の領主様の槍が山へ上がったと分かるまで、あんたは婿のままでいな」
「はい」
「文が来るまで、早くて二十日ってとこだ。あの領主様は、手回しだけはいい。着いたら、書くさ」
二十日。山の上から北の町へ下りて、王都を抜けて、橋を渡って、ここまで。馬を替えながら走って、それだけかかる。
エルドは、革袋から四冊目を出した。
「あなたのいなかった十三日ぶんです。読みやすい字で書いたつもりです」
レイフは、剣を脇に挟んで、帳面を受け取った。立ったまま、読む。読む速さは、春より上がっている。頁を二つめくった所で、目が止まった。
——魚を焼いた。五尾。全部、焦がした。火から遠ざけること。串は、回すこと。
「……焼いたのですか。エルド様が」
「焼きました。係が、いなかったので」
「外が炭で、中が生だったよ」
マグダが、横から言った。レイフは、その行をもう一度読んだようだった。
「遠ざけるだけでは、足りません。火を、先に落とします。炎が消えて、熾になってから立てます。炎で焼くと、外だけ焦げます」
「熾になってから」
エルドは炭を出して、その行の下に書き足した。火は、先に落とすこと。熾になってから、立てること。
「……書くのですか」
「書きます。書いていなかったので、焦がしました」
「次は、俺が焼きます」
「知っています。それでも、書いておきます」
◇
廊下を、早い足音が来た。
「断ち手殿! また薪など割られては、お手が——」
副使のドナートだった。黒い薄い髪が汗で額に貼りついて、片手に板を持っている。後ろに、痩せた書記が一人。ドナートは庭の口で足を止めて、エルドを見た。丸い目が、もっと丸くなった。
「これは、お付きの……いや」
板を見た。顔を上げた。
「王女殿下のお客人は、北の若君、エルド=ファーレン殿と伺いました。ファーレン。……では、断ち手殿のご主家の!」
板で、自分の膝を打った。
「なるほど、なるほど。主家の若君が、婿入りを見届けにおいでになった。左様でございましたか。王都ではお付きの方などと、私めはとんだ失礼を」
深く頭を下げて、右の手のひらを差し出してくる。エルドは、同じ形で返した。返しながら、口を開いた。
「副使殿。お話ししなければならないことが——」
「副使」
声は、廊下のほうから来た。リヴィアが、柱の脇に立っていた。
「宴の席次を書き直せ。北の若君は、わたしの客だ。上座の向かいに置く」
「は、ただちに。……断ち手殿、斧は厨房の者に!」
ドナートは書記を連れて、来たときより早い足で戻っていった。
使節が発つ前の晩、あす正す、と四人の前で言った。そのあすから、十三日たっている。言いそびれた言葉が、喉の手前に残った。
「いまは、言うな」
リヴィアは、庭へ下りてきて言った。
「取り違えているのは、副使と、この国の宮廷だ。叔父上は違う。父上の弟で、この国の兵を預かる人だ。名を、ガイウスという。あの方は、初めから、取り違えてなどおられぬ」
黒い目が、護衛の立っていた庭の隅へ一度行って、戻ってきた。
「宮廷が、そなたの従士を断ち手殿と信じているあいだ、あの男は国じゅうの客だ。誰も、手を出せぬ。そなたが正せば、どうなる。断ち手でも花婿でもない男が一人、王宮の内に残る。どの帳簿にも載らぬ男だ。載らぬ者を叔父上の兵がどう扱うかは、わたしにも請け合えぬ」
正せば、レイフの立つ所が無くなる。取り違えを正すのが筋だ。その筋を通す前に、この国では、足場を一つ作らなければならないらしい。
「……正すなら、先にレイフを載せる所が要るのですね」
「そうだ」
リヴィアは、それ以上は言わなかった。どうやって載せるのかは、こちらが考えることだ。
「門で、話そうと言われました」
「言った。立ち話で済ませる気は無い。写しを前に置いて話す。ただ、蔵の戸の前には、叔父上の耳がある。どけるのに、三日要る。三日後の朝、王家の証文蔵を開ける」
リヴィアは、そこで少し声を落とした。
「一つだけ、いま言おう。アルデンでは、そなたの祖とわたしの祖が交わした約束、と言った。大づかみに言えば、そうなる。正しく言う。あの約束を書かせたのは、そなたの祖だ。だが、誓って手に紋を負ったのは、そなたの家の者ではない。そなたの祖の長子——アルデンの初めの王と、わが国を建てた王だ。そなたの祖は、その立会に立った」
誓ったのは、二つの王の家。祖は、立会。
縛られているのは開いた二人のほうだ、と黒い館でヒルデは言った。その二人は、どちらも王の家の者だった。
「あとは、蔵でだ。支度をされよ。今夜は宴がある。叔父上が、そなたの従士のために開く」
◇
宴の広間は、王宮のいちばん奥にあった。
入口の脇に、剣を掛ける棚がある。入る者は剣を預けて、数を書いた木の札を受け取る。エルドは腰の剣を預けた。レイフは、返ってきたばかりの剣を、また手放した。
剣を提げたまま入る宴の話を、帳面で読んだ。誓いの無い国の宴は、剣のほうを戸口に置いていく。
低い天井を、太い柱が支えていた。柱ごとに、油の灯りが下がっている。奥に長い机が一つ。それと向き合って、手前にもう一つ。あいだの床を、皿を運ぶ者が行き来する。奥の机が、上座だ。その真ん中に、背の高い椅子が空いていた。青い布が掛けてある。
「父上の椅子だ。病の床におられる」
リヴィアが言った。
その椅子の隣から、男が立った。
四十の半ばを過ぎたくらいの、肩の厚い人だ。短く刈った髪は、黒に灰が混じっている。首まで、日に焼けていた。男は机を回って、戸口まで歩いてきた。迎えられる側がまだ戸口にいるうちに、迎える側が席を立ってくる。
「叔父上だ」
ガイウスは、まずレイフの前に立った。右の手のひらを上に向けて、差し出す。
「断ち手殿。今夜は、あなたの宴です。どうぞ、上座へ」
それから、エルドへ向き直った。こちらにも、手のひらが出る。剣だこが、並んでいた。返した手を下ろすとき、甲が見えた。薄い青の、古い紋。リヴィアの手と、同じ所にある。
「北の若君。遠い所を、ようこそ。姪の客人は、わたしの客人でもあります。……断ち手殿の、もとのご主家と伺いましたが」
笑っていた。笑いながら、目が一度、エルドの右の手へ下りた。すぐに、顔へ戻ってくる。
リヴィアの言ったとおりだ。取り違えている人の目は、こちらの手へは来ない。
「レイフは、私の従士です。もと、ではありません」
「これは、失礼を。北の言い方には、まだ慣れませんでな」
ガイウスは、笑ったまま、レイフの腕を取って上座へ連れていった。
席に着いて、気づいた。
座っている者の後ろに、人が立っている。家の主らしい者の後ろには、一人ずつ。ユリアンの後ろには、ゲルトが立った。自分の後ろには、誰もいない。
いつも立っている男は、向かいの上座で、椅子に座らされていた。肩をすぼめている。座りたくて座った椅子ではないのだろう。
皿は、一つずつ来た。
一皿目は、魚だった。川のものとは違う。身が厚くて、白い。塩と、油と、青い草の匂いがする。海の魚でございます、と皿を置いた者が言った。
骨が太かった。身を外して、骨は皿の端へ寄せる。寄せた骨の頭が、一つの向きに揃っていた。手が、勝手にそうしている。
上座では、レイフが食べる前に、皿を少し持ち上げていた。皮の焼け目を見ている。一口食べて、もう一度見た。
二皿目は、煮込みだった。
匙を入れる前に、少し構えた。春からこちら、祝いの膳というものは、どこでも辛かった。
辛くない。
豆と、何かの肉と、甘い根。奥に、葡萄の酒の匂いがある。匙が、止まらずに皿の底まで行った。隣で、ユリアンの匙も休まずに動いている。
「……おいしいです」
ユリアンが、小さく言った。少し離れた連れの机から、マグダの声がした。
「今度のは、嘘じゃないね」
斜め向かいで、リヴィアが口の端を上げた。王の椅子を挟んで、ガイウスの反対側の席だ。
「北の膳は、辛いそうだな。わたしの料理人が、アルデンの王都でさんざんにこぼしていた。わが国の膳は、辛くない」
「はい。匙が、止まりません」
「それは、よかった」
ガイウスが、上座から杯を上げた。
「若君は、橋を渡ってこられた。川べりの旗を、ご覧になったでしょう」
「見ました。十二本」
「よく見ておられる。あれは、わたしが食わせている者たちです」
声は、広間じゅうに届く大きさだった。
「一年前の秋から、この国でも、雇われる者が雇い主を選ぶようになりました。よその家がもっと出すなら、そちらへ行く。引き留めるには、値を上げるしかない。雇いの値は、一年で倍になりました。倍を払えぬ家は、兵を放す。放された兵は、腹が減れば、剣で食うしかない。賊になる前に、わたしが王家の名でまとめて雇いました。三千と少し。食わせるのは、骨が折れます」
それから、杯をレイフのほうへ向けた。
「解いてくださった方には、礼を申し上げねばなりませんな。おかげで、この国の者も、上を見るようになった」
礼の言葉だった。杯はレイフへ向いていて、目は、こちらにあった。
放された兵が、三千と少し。ここにも、自分の手の先にいる者たちがいる。
皿が五つ出た。レイフの前の皿が五つとも空になったころ、ガイウスが立った。
広間が、静かになった。
若い兵が、長い包みと、巻いた証文を一本、運んできた。布が解かれる。剣だった。赤茶の革の鞘に、白い葦の穂が一本、銀で打ってある。川べりの旗と、同じ印だ。
ガイウスは、それを両手に載せた。手のひらを上に向けたまま、レイフの前へ差し出す。
この国の挨拶は、何も載せない手を見せる。物を載せて差し出された手を、エルドは初めて見た。
「断ち手殿。丸腰の客人を王宮に置くのは、兵を預かる者として、どうにも落ち着きません。わたしの家の剣を、受けていただきたい」
ドナートが、椅子から腰を浮かせた。
「将軍閣下、御自ら! これは、これは。——北の方々に申し上げますと、わが国では、剣は、家の主が家の者に渡すものでございます。婿は剣を提げずに参って、迎える家から剣を受けて、その家の者になる。閣下の剣をお受けになれば、断ち手殿は、将軍家の者として婿入りなさることに。格が、三つは上がります!」
家の者。
血か、雇いか。この国で、人が人に仕える形は、その二つしか無い。受け取れば、レイフは、あの人の家の欄に載る。
レイフは、剣を見ていなかった。
向かいの席から、まっすぐに、こちらを見ていた。




