【第二部 風と鎖】第19話 国境の橋
アルデンの南の端は、川で終わる。
北の家と東の家が取り合ってきた、あの広くて浅い川とは別の川だ。こちらは深くて、幅があって、歩いては渡れない。渡れる所は一つきりで、そこに石の橋が架かっている。橋のこちらがアルデン、向こうがメリディア。両方の岸に関があって、荷を検めて、税を取る。
橋は古い。いつ架けたのかは、どちらの国も覚えていない。分かっているのは、架かってから今日まで、この橋を軍勢が渡ったことが一度も無い、ということだけだ。荷車は渡った。商人も、巡礼も、花嫁も渡った。使節の護衛も渡った。軍勢だけが、渡らずにきた。渡ろうと思う者が、何百年、どちらの岸にもいなかったからだ。
◇
エルドは、川沿いの道を歩いていた。
王都の南の門を出て、三日になる。二日目から、街道は川に沿った。王都の北の壁を洗っていた川が、東を回って、ここで道に寄ってくる。刈り終えた麦畑が、道の両側に広がっていた。朝の風に、乾いた藁の匂いが混じっている。秋の入りの匂いだ。
前を、ユリアンの供が二人、馬を引いて歩いている。馬に乗れる者も、歩く者に合わせていた。使節の列は、一日先を行く。追いつかない、と決めたのはマグダだ。追いつけば、向こうの護衛の目に入る。一日あとを、同じ速さでついて行く。
自分の後ろには、誰もいない。
歩いていて、何度か振り向いた。用があったわけではない。声をかければ、はい、と返ってくる所へ、声をかけようとしただけだ。振り向くと、道と、自分の影がある。去年の秋からずっと、影は二つ重なって伸びていた。長いほうが、後ろから来ていた。
三日目の夕方、川原に下りて、魚を焼いた。
焼いたのは、自分だ。
取ったのは、供のホルストだった。川育ちだそうで、浅瀬に網を打って、鱒に似た魚を五尾上げた。それを見ているうちに、手が勝手に串を削りはじめていた。塩は、買い出しの籠にある。火は、セシルが起こした。
魚を焼く係は、決まっている。決まっている者が、いまはいない。いないあいだ誰も焼かないのは、おかしい。理屈は、そうだった。
焼き方は、知らなかった。
四冊の十年ぶんを、読んではいる。魚を焼いた日は、覚えきれないほどあった。三尾。五尾。塩がよく回った。主は二尾食った。そう書いてある。どうやって焼くのかは、一行も書いていない。書いた当人には、書くまでもないことだったのだろう。
火に近すぎた、と分かったのは、皮が黒くなってからだった。
「炭だね」
マグダが、串を一本取って言った。取って、かじった。
「中は生だ。外が炭で中が生。あんた、器用だよ」
「……火から、遠ざければよかったのですか」
「遠さだ、とは聞いたよ。でかいのに訊いたことがある。どれだけ遠ざけるのかは、聞きそびれた。八年、焼いてもらう側だったんでね」
セシルは、自分の串を目の高さに上げて、しばらく見ていた。
「表面が、炭化しています」
「見りゃ分かるよ、白いの」
「報告です」
ユリアンは、黙って一口食べた。少し考えてから、言った。
「……香ばしいです」
王の子は、嘘が下手だ。
エルドは、自分の串を食べた。苦い。苦い皮の下に、生の身がある。レイフの焼いた魚は、皮が音を立てて、身が骨からするりと外れた。あれは、魚のほうで勝手にそうなるものだと思っていた。
焦げた皮の匂いが、夕方の川風に乗って、いつまでも残った。
その夜、四冊目に書いた。
——魚を焼いた。五尾。全部、焦がした。火から遠ざけること。串は、回すこと。
焼き方を書いた頁は、四冊の中で、これが最初になる。
◇
五日目に泊まったのは、関の手前の、最後の宿場だった。
市が立っていた。南の荷が多い。干した葡萄。白い麻布。あの甘い樹脂の塊。葡萄の酒の壺が、店先に無造作に積んである。王都では、棚の上に一つずつ置いてあった物だ。
マグダは、酒屋の前を素通りした。
壺を見もしない。前を向いたまま、歩いていく。
エルドは、足を止めた。
「マグダ」
呼ぶと、前の背中が止まった。
「決めない年は私が決める、と帳面にあります」
「……何の話だい」
「秋の日の話です。去年は、あなたが決めました。私が目を開けた朝にした、と。あれは、秋の入りでした。季節が、ひと巡りしています」
マグダが、振り向いた。何も言わない。
「日は、合わせられません。日を数えていたのは、レイフです。ですから、私が決めます。あしたは、橋を渡ります。渡った先では、この酒はどこの店にも積んであるそうです。どこにでもある物では、祝いになりません」
壺の山を、目で示した。
「決めました。今日です」
「でかいのが、いないよ」
「杯は、あります。その革袋の中に。レイフが削った杯です」
「……屁理屈が、続くね」
「はい」
マグダは、鼻から息を抜いた。それから引き返して、酒屋の前に立った。
壺を一つ指して、言い値を聞いて、言い値で払う。酒屋の主が、釣りを数える手を止めて、マグダを見た。北の言葉の女が、聞き返しもせずに払うのが、珍しかったのだろう。
卵は、エルドが買った。三つ。
宿の鍋を借りて、宿の汁を分けてもらって、そこへ卵を落とす。作り方は、六年目の秋の頁にあった。こちらは、書いてある。
椀を、マグダの前に置いた。
「卵は、三つです」
「入るよ」
マグダは言った。
「去年も入った。その前もね」
樫の杯に、南の葡萄の酒が注がれた。マグダは一口呑んで、杯を置き、卵を一つ、匙ですくった。
「誕生日なのですか」
向かいから、ユリアンが訊いた。
「秋の日だよ。それより先は、教えない」
「おめでとうございます」
「めでたかないよ。三十一だ」
セシルの前にも、杯が出ていた。マグダは、壺を傾けかけて、やめた。
「白いの。あんたは、匂いだけにしときな。あした、橋を渡る」
「……はい」
セシルは、真面目な顔で、空の杯の上に鼻を寄せた。
マグダは、二つ目の卵をすくって、匙を止めた。
「ちび。来年は、椀を四つ並べな」
「卵を、四つですか」
「汁の椀だよ。卵は、あたしのだ」
◇
六日目の昼前に、国境の川が見えた。道に沿ってきた川は、ここでその川に注いで終わる。
広い。向こう岸の木が、爪の先ほどに見える。水は茶色がかった緑で、ゆっくり動いている。石の橋が一本、低く、長く架かっていた。
向こう岸に、旗が立っている。
青くない。赤茶だ。橋のたもとから下手へ、岸に沿って点々と並んでいる。旗の周りごとに、天幕が固まっている。その塊が、川の曲がる所まで続いて、見えなくなる。
こちらの岸の関は、石の門と、柵と、兵舎が一棟だ。
関の隊長は、ユリアンの前で片膝をついた。髪に白の混じった、声の嗄れた男だった。
「殿下。ここの兵は、五十でございます」
訊かれる前に、そう言った。
「向こうは、夏の初めから集まりだしました。初めは、旗が二本。今朝は、十二本です。旗一本の下に、二百から三百。雇いの兵の検めだ、と向こうの関は申します。橋は、渡ってまいりません」
「あの旗は、どなたの」
「赤茶の地に、白い葦の穂が一本。王家の旗とは違います。王の弟君の旗だ、と向こうの商人が申しておりました」
ユリアンは、川を見た。それから、隊長に目を戻した。
「三千、いるということですか」
「数えていた者は、三千まで行って数えるのをやめました」
隊長は、真面目な顔で言った。
「殿下。私は、この関に二十年おります。賊なら、三十で大勢です。あれが何をするための数なのか、私どもには見当がつきません。見当のつく者が、この国には一人もおらんのです」
戦を、誰も知らない。
帳面で読んだ。何百年、この大陸に戦は無かった。地の底の誓いが、万の民から、隣の国へ攻め入る心ごと取り上げていたからだ。それを断ったのは、この手だという。断った先に、旗が十二本立っている。
エルドは、外套の中で、右の手を握った。
橋の番をしている若い兵に、訊いた。
「使節は、きのう渡りましたか」
「昼過ぎに。青い旗と、馬車が二両でした」
「馬車の中は、見えましたか」
「一両目の幕の隙間に、人がいました。大きい人です。頭が、屋根に付いていました」
「その人は、何をしていましたか」
「……こちらを見ていました。橋の先ではなく、こちらの岸を。渡りきるまで、ずっとです」
北を、見ていたのだ。
◇
関の手前に、市があった。
橋を渡る前に、銅貨を替える。両替の台で、アルデンの銅貨二枚が、メリディアの銅貨一枚になった。一回り大きくて、厚い。
セシルが足を止めたのは、両替の台の三つ先だった。
布を敷いた上に、男が一人座っている。売り物は、何も並べていない。白かったらしい外套を着ていて、胸の一か所だけ、布の色が新しかった。徽章を外した跡だ。
男の前に、南の装いの客がしゃがんでいる。男は低い声で、何かを一句ずつ言う。客が、それを繰り返す。男の手が客の右の手を取って、指を一本ずつ、形に直していく。
「立会の手です」
セシルが言った。声が、固い。
「誓いを立てる者の手を、ああして組ませます。教本の、作法の章にあります。丘の外で、銭を取って教えてよいものではありません。……あの人は、口上を売っています」
「丘の者かい」
「徽章を外しています。前庭に残った側なら、外さないでしょう。奥に籠った側の誰かが、丘を下りたのだと思います」
マグダは、男の胸の、色の違う所を見ていた。マグダの外套の同じ所にも、四角い縫い痕がある。
「外したんなら、口上も置いてくるもんだ」
低い声で、それだけ言った。
セシルの足が、一歩出た。
出て、止まった。
「……いまは、橋が先です」
自分に言い聞かせる声だった。
「顔は、覚えました。買っていた者の装いも。書き留めます」
外套の内側から帳面が出て、炭が動いた。
誓わない国の者が、この国の口上を買っている。
◇
橋の上は、風があった。
水と、泥の匂いがする。
ユリアンが、先に立った。王家の者が前を行けば、王宮の客が王宮の者と出かけた形になる。供の三人を後ろに従えて、橋の真ん中まで歩いた。真ん中に、敷石の色の変わる所がある。そこから先が、メリディアだ。
ユリアンの足が、その手前で止まった。
自分で止めたようには、見えなかった。右の足が前へ出かけて、出ない。ユリアンは、自分の足を見下ろした。それから、右の手を見た。甲の、二つの輪を。
「……エルド殿」
声が、少し上ずっていた。
「足が、出ません」
エルドは、隣まで行った。
ヒルデの声が止まったのと、同じだ。先に立って、連れて行こうとしている。それが、できないらしい。
「私が、先に行きます」
色の変わる所を、自分の足で越えた。三歩行って、振り向いた。
「ユリアン殿。ついて来られますか」
ユリアンは、足を出した。
出た。何事も無かったように色の境を越えて、隣に並んだ。並んでから、自分の足と手の甲を、もう一度見た。
「……叔母が何も言わなかった訳が、少し分かった気がします。帰ったら、私も訊きます」
ユリアンは、真顔で言った。王の子も、知らされていないらしい。
マグダが、後ろから来て、二人を追い越しざまに言った。
「連れてくのは駄目で、ついてくのはいいってわけかい。律儀な足だね」
向こう岸の関の役人は、証文を読んだ。
リヴィアの名の所を指で押さえ、証人の名を一つずつ板に写し、エルドの名と、ヴァルドとセシルの名を写した。それから顔を上げて、訛りのある言葉で言った。
「客人、エルド=ファーレン。連れは」
「二人と、王家の方が一人。その供が三人です」
「王家の者には、別の証文が要る」
ゲルトが、王家の印のある証文を出した。役人は、それも板に写した。写し終えるまでは、誰も通さない。
通るとき、役人と南の礼を交わした。
振り返ると、橋の向こうに、アルデンの関が小さく見えた。
こちらの岸には、赤茶の旗が並んでいる。道は、その脇を通っていた。天幕の前の兵が、こちらを見た。見るだけだった。リヴィアの名のある証文を持つ客に、手を出す者はいない。
◇
メリディアの道は、石で舗いてあった。
道の脇に、石の柱が立っている。数が刻んである。王都までの道のりだ、とホルストが宿で聞いてきた。柱を一つ過ぎるたびに、数が一つ減る。
宿に泊まるたびに、亭主が小さな証文を書いた。泊まった者の名と、払った銅貨の数と、亭主の名。マグダは最初の晩、それを裏返して、また表に返して、言った。
「一晩泊まるのに、証文が要る国かい」
葡萄の畑が、道の両側に続いた。籠を担いだ者が、列になって歩いている。
七日、歩いた。
使節の列には、追いつかずにいた。一日先を行く青い旗の話を、宿ごとに聞いた。馬車の大きい男の話も聞いた。宿の者は、花婿殿、と呼んでいた。よく召し上がる、と言った宿が、三軒あった。
七日目の午後、なだらかな高みの上に、町が見えた。
蜂蜜の色をした石の壁が、町を巻いている。壁の上に、青い旗が幾つも立っていた。葦の穂が、五本のほうだ。門は大きくて、開いている。荷車と人が、二列になって出入りしていた。
門の内側の日陰に、人が立っていた。
白い麻の衣に、深い青の縫い取り。長い黒い髪を、背に流している。侍女が一人、後ろに控えていた。護衛は、見える所にはいない。
待っていたのだ。いつ着くのかは、宿の証文が一日ごとに知らせていたのだろう。
リヴィアは、右の手のひらを上に向けて差し出した。エルドは、同じ形で返した。
「よく来た。エルド=ファーレン」
落ち着いた、よく通る声だった。
「そなたの従士は客殿にいる。よく食べて、よく黙っている」
黒い目が、エルドの後ろのユリアンへ行き、その右の手に一度落ちて、戻ってきた。
「約束だ。ここは、もうアルデンの内ではない。条は、わたしを止めぬ。そなたの祖のしたことを、話そう。……だが、先に会う者がおろう」




