【第二部 風と鎖】第18話 初めての朝
エルドは、戸口の脇の床を見ていた。
剣が一本、置いてある。
鞘に納めたまま、壁に沿ってまっすぐに。ゆうべまで、その剣は膝の上にあった。壁に背をつけて座る男の、膝の上だ。目を開ければ、毎朝そこに人がいた。王宮に来てからも、北の宿でも、去年の秋の蔵でも。自分の覚えているかぎりの朝には、全部いた。
今朝は、剣だけがある。
窓の外は、まだ青い。夜の明けきらない色だ。白い石の床から、夏の終わりの冷えが、素足に上がってくる。
水を汲みに行ったのかと思った。すぐに、違うと分かった。水を汲みに行く男は、剣を床に置いていかない。
寝台の足元に、革袋がある。口の紐は、結んだままだ。一冊目から三冊目までが、中に入っている。剣も帳面も置いて、身一つで出たのだ。
机の上で、四冊目が開いていた。
閉じて寝たはずだ。リヴィアの証文の上に重ねて。それが、証文の隣に、開いて置いてある。ゆうべ自分が書いた三行の下に、四角い字が二行あった。
——俺が行く。追わないでください。
——訳は、書けない。
二度読んだ。三度目は、読まなくても同じだった。
どこへ、が無い。誰と、も無い。あるのは、行く、と、追うな、と、書けない、だけだ。
戸を開けると、番人が背筋を伸ばした。王家の印をつけた若い兵で、目の下が少し黒い。エルドが口を開くより先に、番人のほうが言った。
「従士殿でしたら、夜半過ぎに出られました。客殿の副使殿から、使いが参りまして。布に包んだ板を一枚です。従士殿はそれをご覧になって、番を頼みます、と。……一度戻られて、また出られました。二度目は、剣をお持ちではありませんでした」
「板には、何と」
「字は無かったように思います。従士殿は、長いことご覧でした」
「出るときに、何か言いましたか」
「いえ。……頭を、下げられました。私に」
番を頼む、と言い、頭を下げて出た。すぐに戻るつもりの者は、そこまでしない。
部屋へ戻って、剣を取り上げた。重い。自分の腰の剣の、倍はある。
頁を、もう一度見た。
丁寧な字だ。角が、一つずつ立っている。急いで書いた字には見えない。考えて、決めてから書いた字だ。俺が行く。追わないでください。
「……それは、聞けない」
声に出ていた。
四冊目を、開いたまま持って、部屋を出た。
◇
坂は、歩いて下りた。
走れば息が切れる。着いたときに喋れなければ、マグダには読めても、セシルには伝わらない。だから歩いた。足のほうが、勝手に速くなった。
詰所の門の前に、二人がいた。マグダは伸びの途中で止まり、セシルは、エルドの後ろを見ていた。いつも頭ひとつ高い影のある所を。
「……でかいのは」
「いません」
四冊目を、差し出した。
マグダが頁を読むのに、息を二つ。それから、字ではなく、エルドの顔を見た。
「番人は、何て言ってる」
聞いたとおりに話した。板のこと。番を頼みます、のこと。床の剣のこと。頭を下げて出たこと。
マグダは、しばらく道を見ていた。
「書けない、と書く男だ」
やがて、そう言った。
「書かない、じゃないよ。嘘が書けないから、書けない、と書いた。口を縫われたんだ。誓いじゃなくて、脅しでね」
「誰に、ですか」
「副使の名で板をよこせる奴だ。あの小太りじゃないよ。あれは、人を動かすなら先に証文を書く。……あの黒いのでもない。あの女は、欲しいものは自分の口で言う」
残るのは誰か、言われなくても分かった。リヴィアの護衛だ。坂に立っていた二人。書庫の戸口を見ていた男。あれは自分の兵ではない、とリヴィアは言っていた。
「でかいのを黙らせて歩かせる種は、この世に二つしか無い」
マグダは、指を一本立てた。
「一つは、ここに立ってる」
もう一本。
「もう一つは、山の上だ。屋根が九つの。……板に何が描いてあったかは、知らないよ。見て、剣を置いて出た。それで足りる」
「当て推量では、ありませんか」
セシルが言った。責める声ではない。確かめている声だ。
「消していって、残ったのがそれだけなんだ。当て推量とは呼ばないね」
高台の上で、青い旗が動いた。
屋根の向こうの小さい青が、風に吹かれるのとは違う動き方で、横へ滑っていく。列が、動きだした。
足が、出ていた。
二歩目で、手首を取られた。下へ引かれて、膝が落ちかける。落ちきる前に、手は離れた。
「走って、どこへ行く気だい」
マグダの声は、低かった。
「列を止めるのかい。あの黒いのの前で、馬車の戸を開けさせるのかい。でかいのは、自分で口を閉じて出たんだ。あんたがこじ開けりゃ、あの男が黙って呑んだものが、そのまま落ちてくる。どこに落ちるかは、もう言ったよ」
山の上だ。
エルドは、取られた手首を見た。痛みは無い。痛まないように引かれたのだ。
「……はい」
「分かってから動きな。分かってないことが、まだ多すぎる」
セシルが、外套の前を合わせた。
「見てきます」
二人が顔を向けると、セシルは続けた。
「見るだけなら、誰も質に取られません。使節の列は、王宮の坂から黒い館の前を通って、南の門へ下ります。辻に立つのは、詰所の務めです。私が辻に立っていても、誰も変には思いません」
言い終える前に、もう歩き出していた。
戻ってきたのは、聖堂の鐘が次に鳴ってからだった。
「馬車は二両です。一両目だけ、窓の幕が下りていました」
セシルは、息を整えてから言った。
「その両脇に、護衛が一人ずつ付いています。来た日は、護衛はみな前を行って、馬車には誰も付いていませんでした。二両目には、今朝も付いていません」
「番の要る荷ってのは、盗まれる荷か、歩く荷だ」
マグダが、鼻を鳴らした。
「樹脂は、歩かないよ」
あの馬車に、乗っている。いま分かるのは、そこまでだった。
◇
ヒルデの机に、文の山は四つあった。その手前に、一枚だけ離して置いてある。
「お掛けなさい」
マグダにも、椅子が出た。マグダは座らずに、戸口の脇に立った。
「副使が、発つ前に届けていきました」
離してあった一枚が、こちらへ押し出された。証文だった。
——アルデンの北の生まれ、レイフ。縁組の話を進めるため、自ら決めて、メリディアの使節に同行する。
望みにより、と書いた上に線が引いてあって、脇に、決めて、と書き直してある。その下に、名があった。見間違えようのない字だ。春から毎晩、隣の行で見てきた。
証人は二人。一人は書記で、もう一人の名は、ティト、と読めた。
「直させたのは、レイフです」
エルドは言った。
「望んで行くのではない、と。そういうことを譲らない男です」
「そのようですね」
ヒルデは、証文から目を上げずに言った。
「従士殿は、誓っておられません。王宮の兵でも、北の家の紋を負う者でもない。自分の名を書いて出た者を、王宮は止められません。止める名目が無いのです。……王女殿下は広場で、あなたが見送りに出ないのかと訊かれました。馬車の中身をご存じのようには、見えませんでした」
「王女殿下の護衛は、王女殿下の兵ではないそうです」
「存じています。南で兵を預かっているのは、王の弟です」
ヒルデは、そこで目を上げた。
「従士殿が何を質に取られたのか、ご存じですか」
「推量が、一つあります」
戸口から、マグダがこちらを見た。止めようとはしていない。
「申し上げません。申し上げれば、王宮は動かなければならなくなります。王宮が動けば、レイフが口を閉じて守ったものを、こちらから開けることになります」
ヒルデは、少しのあいだ、エルドを見ていた。
「聞かなかったものは、動かせません。……結構です。では、あなたは、どうなさいます」
エルドは、膝の上の四冊目を開いた。
「追わないでください、とあります」
読んで、閉じた。
「追う、というのは、レイフの行った道を、レイフのために行くことです。それは、頼まれたので、しません」
言えることから、一つずつ言った。
「王女殿下の招きは、私に宛てて来ています。名を書く所を空けたまま、机に置いてありました。副使殿に取り違えを正す、と言ったのも私です。正す前に、レイフが連れて行かれました。頼みの向く先は私だと、春に自分の口で言っています。その私が、王宮の椅子で帰りを待つことはできません」
息を、一つ入れた。
「黒い門の前で、式官に答えました。私の従士は毎朝決めている、主のほうが一度で済ませるわけにはいかない、と。今朝、レイフは決めて、行きました。私だけが、きのう決めたことの上に座っていれば、あれは口先だったことになります」
四冊目の表紙に、手を置いた。
「……行きます。追うのではなく、招かれた客として。私の用です」
戸口で、マグダが短く息を吐いた。
「屁理屈だね」
「はい」
「あんたらしい屁理屈だ」
ヒルデは、笑わなかった。机の上で、右の手に左の手を重ねた。甲の古い紋が、隠れた。
「王宮から、供を——」
声が、止まった。
言葉を選んでいるのとは違う。口は次の音の形をしているのに、息がそこへ行かない。この人の声が途中で切れるのを、初めて聞いた。
同じものを、前に一度見ている。北の町の宿で、なぜ、と訊いたとき、代官の口がこうして止まった。
ヒルデは、口を閉じた。重ねた手の下で、右の手の指が一度だけ曲がって、伸びた。
「……お聞きのとおりです」
声は、元に戻っていた。
「わたしには、あなたに申し上げられない言葉があります。お付けできないものも、あります」
「はい」
訊かずにおいた。
「止めません」
ヒルデは言った。今度は、一息で言えた。
「止めない、とは申し上げられます。あなたは王宮の客で、客が出かけるのに、主人の許しは要りません。……初雪の期限は、動かしません」
「初雪までにお答えします。どこにいても、文で」
「証人をお付けなさい。あちらの流儀なら、間違いがありません」
冗談なのかどうかは、分からなかった。顔に出ない人だ。
◇
日が落ちてから、詰所の板間の机に、証文を広げた。ヴァルドも来ている。朝からのことは、マグダが話してあった。
白くて、厚い。リヴィアの招きだ。ひと月あまり、読むだけ読んで、名を書かずにいた。
——メリディアの第一の王女リヴィアは、アルデンの北の家のエルド=ファーレンを、客として招く。客は、自ら望む日に来て、自ら望む日に帰る。招いた者は、これを引き留めない。
下に、リヴィアの名と、証人が二人。その下に、空いた所が三つある。招かれた者の名と、その証人が二人ぶんだ。
「帰る条は、あるのかい」
マグダが訊いた。
「あります。自ら望む日に帰る。引き留めない、と」
「誰が、引き留めないって」
「招いた者は、と」
「招いてない奴は、どうなんだい」
エルドは、もう一度読んだ。招いた者は、リヴィアだ。リヴィアに護衛を付けて寄越した者のことは、どこにも書いていない。
「……書いてありません」
「そういうことだよ。それでも書くのかい」
「書きます。書かなければ、客ですらありません」
炭を取って、名を書いた。細い線が、一つずつ立つ。
「証人が、二人要ります」
「一人は、わしが書く。後見だ」
ヴァルドが、腰掛けから言った。仏頂面のまま、炭を受け取る。角ばった、遅い字だった。
「もう一人は、私が」
セシルが言った。言ってから、自分の右の手を見た。
「この国の立会は、誓いの外に立ちます。証文の中に名を書いたことは、ありません。……書いても、よろしいですか」
「お願いします」
セシルは、背筋を伸ばして書いた。整った字だ。書き終えても、しばらく自分の名を見ていた。
「外に立つのと中に書くのとでは、違います」
「どう違うんだい」
「書いた名は、あとに残ります。私がこの場を離れても、私は証人のままです」
それから、外套の内側から、畳んだ書状を出した。丘への返事だ。けさ渡すはずだったものを、セシルは二つに裂いた。
「書き直します」
「丘へは、戻らないのですか」
「戻ります。戻る前に、見るものが一つ増えました」
セシルは、裂いた書状を重ねて、机の端に置いた。
「口上を試したとき、同輩に訊かれました。引き取るときは、誰に言えばよいのか、と。私は、答えられませんでした。あちらの国の証文には、約束を解く条があるそうです。解くときに、誰の前で、何と言うのか。それを見に行きます。前庭の用です」
言い切ってから、少し小さい声で足した。
「……レイフのことも、あります」
「足さなくたって、知ってるよ」
マグダは言って、自分の荷を足で寄せた。行くとも行かないとも、言わない。訊くまでもないことだった。
ヴァルドが、炭を置いた。
「わしは、あす北へ発つ。倅の文が三通たまっておるのは、定宿の者がみな知っておる。わしが帰るのを、変に思う者はおらん」
「東の領主様」
マグダが言った。
「山の上の話は、あたしの推量だよ」
「聞いた」
「推量で、槍を動かすのかい」
「動かす。外れたら、槍があの婆の鍋で肥えて帰るだけだ」
ヴァルドは、にこりともしなかった。
「当たっておったら、三本では足りぬ」
それから、エルドのほうを向いた。
「初雪までに戻れ。戻らねば、わしが王妹殿下に頭を下げて、もう一年待ってくれと頼むことになる。わしは、頭を下げるのが下手だ」
「下げていただかずに済むように、します」
ヴァルドは、うなずいた。
壁際に、剣が立てかけてある。坂の上から持って下りた。マグダが、それを顎で指した。
「それも、持ってくのかい」
「はい。置いていった物です。持ち主に渡します」
「重いよ」
「知っています」
◇
次の朝、南の門は、開いたばかりだった。
門の外の畑から、靄が上がっている。門の内側に、馬が四頭つないであった。その脇に、人が四人。三人は、王家の供の装いをしている。ゲルトと、アルヴィンと、ホルスト。もう一人は、薄い茶の髪を短く刈っていて、旅の外套を着ていた。襟が、少し曲がっている。
「叔母には、行くなと言われていません」
ユリアンは、先に言った。
「言われる前に出てきました。言われたら、終わりですので」
「王妹殿下は、ご存じなのですか」
「知っていると思います。今朝、廊下ですれ違いました。叔母は、私の外套を見て、何も言いませんでした。……叔母が何も言わないのを、初めて見ました」
マグダが、鼻を鳴らした。
「王様の子まで付いてくるのかい。宿代が上がるね」
「宿は、供が先に押さえます」
ユリアンは、真面目に答えた。
エルドは、門の外を見た。
街道が、靄の中を南へ延びている。使節の列は、きのうのうちに、この門をくぐった。一日ぶん、先にいる。
背中の荷に、剣が一本、括りつけてある。重さには、きのうより少し慣れた。
四冊目は、革袋の中だ。ゆうべの頁には、細い字しか無い。
「行きます」




