【第二部 風と鎖】第17話 夜の密会
使節が発つ前の晩のことだ。
レイフは、詰所の戸口で、坂の上の灯りを見ていた。
高台の白い王宮は、夜になると窓の数だけ灯りがともる。裾の黒い館にだけ、今夜も灯りが無い。板間の話は、いま済んだところだ。南へは行かない。使節を見送ったら、北へ発つ。エルドがそう決めて、あとの者がそれを聞いた。
「でかいの」
マグダが、戸口の柱にもたれて言った。
「あした、婿の口が無くなるよ。惜しいかい」
「いいえ」
「五皿食える口だったのにね」
惜しいのは、皿のほうらしい。レイフは、答えずにおいた。答えると長くなる。
セシルが、机の前から立って、戸口まで来た。
「レイフ。明日は、使節を見送ってから川の門です。昼の鐘までに門を出れば、日のあるうちに最初の宿場へ着けます」
「はい」
「馬は私の一頭だけです。荷は馬に載せてください。丘の下までは」
丘の下までは、と言って、セシルは口を閉じた。その先で、セシルは丘へ上がり、三人は北へ行く。
「はい、騎士様」
エルドが、戸口へ出てきた。レイフは、その後ろについた。
坂の石は、昼の熱を放しきって、冷えはじめていた。ひと月前の夜なら、この時刻でも靴の底が温かった。今夜は、下から何も上がってこない。夏が終わる、と村の者なら言う。山では、その次がすぐ雪だ。
◇
客の部屋に戻ると、エルドは机に四冊目を開いた。
今日の分を書いている。細い字は、春より読みやすくなった。四角い字の隣に並んでも、もう負けていない。書き終えると、エルドは炭を置いて、こちらを向いた。
「明日、副使殿にお話しします。使節の列が広場に並ぶ前に」
「はい」
「あなたは、断ち手殿と呼ばれなくて済むようになります」
「俺は、構いません」
「私が構います」
声は静かで、少しも譲る気が無い。
「頼みも、縁談も、取り違えも、向く先は私です。春に宿場でそう言っておいて、夏じゅう、あなたに受けさせました。明日で終わりにします」
七尺の噂は、いつも背丈のあるほうへ載る。それを下ろす、とエルドは言っている。下ろした荷は、エルドの背に載る。エルドに背負わせるつもりはない。そう言う前に、エルドは四冊目を閉じていた。
机の端に、証文が一枚ある。
リヴィアの招きだ。黒い館で写しを見比べた次の日に届いて、それから名を書く所が空いたまま、机に置いてある。エルドは、その上に四冊目を重ねた。明日、リヴィアに返すのだろう。
「先に寝ます。あなたも、寝てください」
「はい」
レイフは、戸口の脇に座った。壁に背をつけて、膝に剣を置く。王宮に来てふた月あまり、毎晩ここに座ってきた。戸の外には、王家の番人が立っている。番人は、番人の主のものだ。だから、内側にも一人要る。
寝台の息が、深くなった。
◇
戸が鳴ったのは、夜半を過ぎてからだった。
指の背で、二つ。侍従の叩き方とは違う。レイフは剣を提げて立ち、戸を手のひら一つぶんだけ開けた。
番人が立っていた。王家の印を胸につけた、若い兵だ。困った顔で、布の包みを差し出している。
「従士殿。客殿の副使殿からだそうです。使いの者が、回廊の端で返事を待つと」
副使のドナートは、夜でも書く男だ。縁談の席からこちら、寸法だの条件だのを書いた板が、三度届いている。四度目だろうと思った。明日には要らなくなる板だ。
布を開いた。
手のひらに載るほどの板に、炭で絵が描いてある。字は、一つも無い。
屋根だ。
石を載せた屋根が、斜面に固まっている。その下に、段になった畑。畑の縁を上がる細い道。いちばん上の屋根の前に、小さい人が一人いる。腰が曲がって、杖をついている。
屋根は、九つあった。
寄り合いの小屋の戸が、左へ開いている。あの戸は蝶番が傷んでいて、閉めてもひとりでに左へ開く。描いた者は、そこまで見ている。見て、覚えて、王都まで持ってきた。
板が、手の中で小さく軋んだ。握りしめていたのだと、軋んでから気づいた。
春に、旗の無い四騎が村へ下りて、七尺の男を訊いた。婆さまは知らないと答え、四騎はそれ以上訊かずに山を下りた。ラルスは、そう言った。訊かずに、見ていったのだ。
振り向いた。寝台の息は、変わらない。
起こせば、エルドは起きる。板を見て、一度で分かる。分かったら、回廊の端まで自分で歩いていくだろう。向く先は私です、と、言ったばかりだ。
絵に、字は無い。何の用なのかは、まだ分からない。分からないものを先に見てくるのは、供の役だ。
「番を、頼みます」
若い兵は、目を丸くした。この従士が夜に戸を離れるのを、ふた月あまり、一度も見ていないはずだ。
「はっ」
番人に、頼んでいる。ほかに頼める相手が、この廊下にはいない。
◇
回廊の端にいたのは、短い外套の男だった。
黒い髪。日に焼けた顔。左の眉が、古い傷で途中から切れている。書庫の戸口を、柱の脇から見ていた男だ。男は、何も言わずに背を向けて、客殿のほうへ歩き出した。ついて来い、ということらしい。
ついて行った先は、客殿の裏の厩だった。
馬が四十あまりと、馬車が二両。荷は、もう積んである。干し草と、革と、あの甘い樹脂の匂い。角灯が一つ柱に掛けてあって、その下に、もう一人いた。同じ外套の、若い男だ。
「絵は、合っているか」
眉の切れた男が言った。言葉の尻に、南の訛りがある。
訊かれたので、答えた。
「屋根は、九つです」
「戸は」
「左へ開きます」
「そうか。描いた者に伝えておく。よく見た、とな」
男は、馬車の車輪にもたれた。
「こちらでは、従士の里と呼ぶそうだな」
その呼び方を、レイフは前に一度だけ聞いている。
春に、婆さまの家の炉端でだ。城が焼けた冬、黒い兵が二人、馬で上がってきて、従士の里はここか、と訊いた。婆さまは、そう話した。村の者は、自分の村をそんなふうには呼ばない。呼ぶのは、書き付けの上で村を探す者だ。八年前に黒い兵の口から出た呼び方が、今夜、南の兵の口から出ている。
「峠の向こうに、人を置いてある」
男は続けた。天気の話でもするような声だった。
「三十だ。春に銀を渡してきた。山の者は銀に弱い。下りろ、の一言を待っている」
「村には、槍がいます」
「三本だな。東の槍だ」
レイフは、剣の柄から手を離した。握っていても、ここで抜くものは何も無い。この男を打っても、峠の向こうの三十には届かない。
「その一言を持った使いが、王都の北の、最初の宿場にいる」
男は言った。
「馬を二頭つないで、待っている。走れ、と言えば走る。言わなければ、走らぬ」
「何が、要るのですか」
「おまえだ」
指が、馬車を差した。
「夜が明けたら、使節は発つ。おまえは、副使の馬車に乗る。花婿としてだ。副使は喜ぶ。証文に、自分の名を書け。自分の望みで行く、とな。それで、北の使いは走らずに済む」
「俺は、断ち手ではありません」
「知っている」
即座に、返ってきた。
去年の秋から、何度そう言ったか分からない。渡しの岸で。宿場の井戸端で。縁談の席では、二度。たいていは、謙遜だと取られた。この男は、取り違えていない。
知っていて、馬車に乗せる。
考えるのは苦手だ。ただ、荷の重さを量るのには慣れている。断ち手でない男を、花婿の名で南へ運ぶ。運んで、何に使うのか。使い道は、一つしか思いつかなかった。
「……用があるのは、俺のあとを追う人ですか」
「訊くのは、おまえの役ではない」
答えないことで、男は答えた。
「おまえが誰に言おうが、こちらはすぐに気づく。主だろうと、王宮だろうと、同じことだ。東の当主にも、坂の下の女二人にもだ。使節が発ったあとも、王都にはこちらの目が残る。王宮が北へ馬を一頭でも出せば、それより先に、こちらの使いが走る」
王都から北の町まで、馬で十日。町から村まで、一日半。王宮の馬とこの男の使いは、同じ道を走る。使いは、宿場一つぶん先にいる。王宮の馬は、町で兵を集めてからでなければ、山へ上がれない。峠の三十は、一言で下りる。
間に合うと言える馬が、一頭も無い。
婆さまは、杖をついている。ニナは、前歯が生えそろったころだ。ハルド爺は、長いこと、鍬と棒で賊を追い返してきた。七人なら、槍の三人と一緒に追い返せる。
三十は、無理だ。
「北の使いは、いつ引き上げるのですか」
「おまえが、国境の橋を渡った日だ」
「それを、俺はどうやって知りますか」
「知らんでいい」
「書いてください」
男の眉が、切れた所で動いた。
「何だと」
「あなたの国は、証文の国だと聞きました。口で言っただけのことは、約束に入らないと。副使殿は、俺の背丈まで板に書きました。……書いてください。橋を渡る日に、使いを引き上げる、と」
若いほうが、短く笑った。眉の切れた男は、笑わなかった。レイフを、下から上まで見た。背丈を測ったのとは違う。今夜初めて、人を見る目になった。
「従士というのは、字も読むのか」
「習いました」
「……よかろう。どうせ、その板はおまえと一緒に南へ行く」
男は板を取り上げて裏返し、腰の袋から炭を出した。書くのが速い。書く国の兵だ。書き終えると、若いほうへ板を突き出した。若いほうは顔をしかめて、下に何か書き足した。
返ってきた板の裏に、二行あった。
——国境の橋を渡る日、北の使いを引き上げる。ティト。
——証人、ルーカ。
読めた。表は脅しで、裏は約束だ。表が本当なら、裏も本当であってくれなければ困る。
「名の無い証文を、わが国では何と呼ぶか知っているか」
ティトが言った。
「知りません」
「紙屑だ。だから、名は書いた。証人も立てた。わが国の者は、書いたことは守る。……書いていないことは、知らん」
ティトは、炭を袋に戻した。
「剣は置いてこい。花婿は、剣を提げて行かぬ」
「部屋に、置いてきます」
「ルーカが、戸の見える所までついて行く。口は開くな。主を起こすな。鐘が鳴る前に、ここへ戻れ」
レイフは、板を懐に入れた。懐に物を入れて歩くのは、エルドのすることだ。自分の懐に何かが入るのは、めずらしい。
◇
番人は、同じ所に立っていた。
ルーカは、回廊の柱の脇で足を止めた。そこから先へは来ない。若い番人が、何か訊きたそうにこちらを見た。訊かせずに、戸を引いた。
寝台の息は、出たときと同じ深さだった。
窓の外で、下の町の灯りが減っている。夜明けまで、一刻も無い。
剣を外して、壁際の床に置いた。いつも座る所だ。毎晩、膝に載せてきた物が、今夜は床にある。自分の代わりになるとは思っていない。ほかに、置く所が無いだけだ。
机へ行って、証文の上から、四冊目をそっと持ち上げた。
いちばん新しい頁に、細い字が三行ある。
——南へは行かない、と決めた。初雪の答えが先だ。
——明日、副使殿に申し上げる。断ち手は、レイフではない。
——丘の下までは、四人で歩く。
その下は、白い。半分は、レイフが書く所だ。
炭を取った。
主に言うな、と言われた。書くな、とは言われていない。
そう考えてから、首を振った。字は、誰が読んでも同じになる。峠の三十のことを書けば、エルドは読む。読めば、動く。ヒルデの部屋へ行くか、坂の下へ走るか、ヴァルドの宿を叩くか。どれをしても、馬が出る。馬が出れば、北の使いが走る。
書けば、言ったことになる。
では、何も書かずに行くのか。
それも、できなかった。夢の頁を一つ飛ばしたとき、飛ばした、と口で言った。言わずに飛ばすのは、違うと思ったからだ。今夜は、もっと大きなものを飛ばす。飛ばすなら、飛ばした、と書く。
書くことは、三つになった。
一つ目は、すぐに書けた。連れて行かれる、とは書かない。あの男に言われたから乗るのとは違う。板の表を見て、裏を書かせて、自分で量って、自分で乗る。
二つ目で、炭が止まった。
エルドは、来る。
来るな、と書いても来る。そういう人だと、十年ぶんの帳面に書いてきたのは自分だ。覚えていなくても、人は変わらない。坂で三百人の前へ出ていく背中を、この夏、後ろから見た。
それでも、書く。書かなければ、来てください、と書いたことになる。
三つ目は、短くした。
炭を置いて、頁を見た。細い字の下に、四角い字が二行、角を立てている。
八年前の雪の小屋で、離れません、と言った。誓いではない。ただの約束だ。破ろうと思えば、破れる。
今夜、破るのだろうか。
寝台を見た。毛布の肩が、息で上下している。
御館様は、終始そばにいろ、と言った。あれは、あの晩の命だった。そばにいなければ守れない夜だった。それから八年、あの晩の続きのつもりで、戸口に座ってきた。
今夜、エルドのそばには番人がいる。坂の下に、マグダとセシルがいる。ヴァルドがいて、ユリアンがいて、誓わせぬと勅に書いたヒルデがいる。八年前の雪の道には、一人もいなかった人たちだ。
村には、槍が三本と、婆さまがいる。
量れば、そうなる。量って決めたことを、破った、とは呼ばずにおく。呼び方は、戻ってから、エルドに決めてもらえばいい。
息を、十まで聞いた。
それから、戸を開けて、番人に頭を下げた。
◇
客殿の厩で、副使のドナートが待っていた。
寝巻きの上に外套を引っかけて、髪が片方へ寝ている。起こされたらしい。それでも、レイフを見上げたとたんに、顔じゅうが明るくなった。
「断ち手殿。ご自分の足で、おいでくださいましたか」
違います、と言いかけて、やめた。ドナートの後ろに、ティトが立っている。
「夜のうちにお心を決められたと、護衛の者から聞きました。左様、左様。人目のある昼より、静かに発つほうがよろしい。姫君も、騒がしいのはお好みでない」
書記が、眠そうな目で樽を一つ転がしてきた。ドナートは、その上に紙を広げた。証文だ。もう書いてある。
レイフは、読んだ。
読まずに、名は書かない。
——アルデンの北の生まれ、レイフ。縁組の話を進めるため、自らの望みにより、メリディアの使節に同行する。
「ここを、直してください」
指で、押さえた。
「と、申されますと」
「望んで行くのではありません。決めて、行きます」
行きたくて行くのとは違う。行くと決めただけだ。違うことが書いてある下に、名は書けない。
ドナートは目を丸くして、それから深くうなずいた。
「なるほど。望みは軽い、決意は重い、と。……左様、そのほうが力強い」
書記が線を引いて、書き直した。自ら決めて、同行する。
炭を取って、名を書いた。四角い字だ。角が、全部立っている。
「力強い」
ドナートは、満足そうにうなずいた。
証人の所には、書記とティトが名を書いた。ティトは、書き終えると、レイフを見ずに馬車の戸を開けた。
荷のあいだに、人が一人座れるだけの隙間があった。膝を抱えれば入る。頭は、屋根につかえた。戸が閉まり、幕が下りて、樹脂の匂いが濃くなった。
聖堂の鐘が、鳴った。
馬車の外で、蹄の音が増えていく。号令。革の鳴る音。それから、車輪が石の上を動きはじめた。少し行って、止まる。広場だろう。
声が、幕の向こうから来た。
「——道中の無事を」
揺れのない声。ヒルデだ。答える声は、落ち着いていて、よく通る。リヴィアだ。礼の言葉が、二つ三つ行き来した。
それから、リヴィアの声が少しだけ近くなった。
「北の若君は、見送りに出ぬのか」
間があった。
「今朝は、まだ」
ヒルデが答えた。
夜が明ければ、エルドは起きる。起きて、壁際を見る。それから、机を見る。広場に出てこないのなら、もう読んだのだ。
車輪が、また動いた。
坂だ。下っている。背中が、荷に押される。
毎朝、決めてきた。
起きて、水を汲む前に決める。今日も仕えるかどうか。八年、隣で決めてきた。隣に誰もいない朝に決めるのは、今朝が最初になる。
今朝のぶんを、まだ決めていなかった。
膝の上で、右の手を開いた。何も無い手だ。紋も、剣も無い。
決めた。
答えは、きのうと同じだった。同じ答えを載せたまま、馬車は坂を下りていく。
◇
——俺が行く。追わないでください。
——訳は、書けない。




