【第二部 風と鎖】第16話 立つ側
セシルは、詰所の門で、丘からの書状を受け取った。
届けたのは、春に北の町まで書状を運んできた、あの若い騎士だった。丘から四日、馬を走らせてきた脚で、門の前に立っている。
「前庭のホルガー殿より」
聖堂の朝の鐘が鳴り終わっても、門にはまだ日が届かない。ひと月前は、鐘より先に日が来ていた。夏が、終わる。
書状は、短かった。ホルガーの書くものは、いつも要ることしか書いていない。
——使節は見たか。見たなら、戻れ。おまえが発ってから、前庭に立ちに来た者は九人だ。おまえの置いていった口上を、俺が読んで唱えさせた。九人とも、浮かない。丘の外で、誰か一人に試してから戻れ。おまえの立つ側は、前庭にある。
九人。
冬から春までに、四十一人が立った。口上の下に、四十一回、違う、と書いた。私が丘を空けた夏のあいだに立ったのは、九人。並べる者のいない前庭に、人は来ない。数は、正直だ。
使節は、あす発つ。王都に、ひと月半いた。
「返事は、あす渡します」
セシルは、若い騎士に言った。
「明日、ですか」
「今夜、決まることがあります。それを聞いてから書きます」
◇
昼、板間の隅で、同輩が椀の茶を飲んでいた。
黒い髪を短く切った、同じ年に叙任された騎士だ。右の手の甲に、薄青の紋がある。セシルの右の手には、無い。この詰所に来た日、同輩はその手を見て、何も言わなかった。それからふた月あまり、一度も言わない。
「一つ、頼みがあります」
「当番なら、代わらんぞ」
「口上を、唱えてください。ここに書いてあるものを。本心で」
同輩は、椀を置いた。
「丘の前庭でやっているという、あれか」
「はい」
「紋が浮いたら、どうなる」
「浮いたら、あなたは、承知の上で預けたことになります。いつでも引き取れます」
「浮かなかったら」
「違う、と書きます」
同輩は、少し考えた。それから、立った。
「立ってやる。どこに立てばいい」
「そこで。私の前に」
セシルは帳面を開いて、口上の頁を同輩に向けた。冬のうちは、言葉を足したり削ったりもした。どれも浮かずに、初めの言葉に戻ってきた。春からは、並べる順を変えている。これは、丘を発つ前の晩に書いて、ホルガーに預けてきた並べ方になる。前庭では九人が唱えて、九人とも浮かなかった。丘の外ならどうか、をホルガーは見たがっている。
同輩は、一度、目で読んだ。それから背筋を伸ばして、声に出した。叙任の壇に立った日と、同じ姿勢だった。
「——二度と戦を起こさぬために、我らは、わずかを預ける。承知の上で。いつでも引き取れると、定めて。この盟を結ぶ」
嘘の無い声だった。やると言ったことに、手を抜く人ではない。
二人で、同輩の右の手を見た。
叙任の紋が一つ、青いままそこにある。その隣には、何も浮かない。板間の向こうで、誰かが椀を置く音がした。十、数えた。二十、数えた。
「浮かんな」
「……はい」
セシルは炭を取って、口上の下に書いた。違う。
「一つ、訊いていいか」
同輩は、立ったまま言った。
「引き取れる、とあるな。引き取るときは、誰に言えばいい」
「誰に、とは」
「叙任の誓いは、団長の前で立てた。あの壇で、団長の顔を見て唱えた。だから訊く。預ける、と言うなら、預ける先がある。引き取る、と言うなら、引き取りに行く先がある。おまえにか。天にか。丘にか。……この口上には、それが書いてない」
セシルは、答えを探した。
教本には、無い。引き取れる誓いというものが、教本のどこにも無いのだから、引き取りに行く先も載っていない。
「……分かりません」
同輩は、声を立てずに笑った。
「おまえが、分かりません、と言うのを、初めて聞いた」
「分からないので」
「書いておけ。おまえは、書く奴だろう」
セシルは、違う、の下に、もう一行書いた。——引き取るときは、誰に言えばよいのか。
帳場の奥から、隊長の声がした。
「巡察。丘へ戻るのか」
「明日、決めます」
「そうか」
顎の四角い隊長は、それきり帳場の奥へ戻った。
◇
日が落ちてから、エルドとレイフが坂を下りてきた。
ヴァルドも来た。オーラフを戸口の外に立たせて、板間の隅の腰掛けに座る。仏頂面は、王都に来てからも変わらない。マグダは壁を背にして、戸口の見える所にいた。レイフは、エルドの後ろに立っている。
「王宮の返事が、出ました」
エルドが言った。
「王妹殿下は、使節にこう答えられたそうです。王宮は、北の若君をお出しできません。お出しする、という言い方のできる方ではありませんので、と」
「うまいことを言うね」
マグダが、鼻を鳴らした。
「出さない、とは言ってない」
「決めるのは、私だそうです」
「婚姻の誓いのことは、伺いましたか」
セシルは訊いた。二十日、気になっていたことだ。
「伺いました。婚姻は証文でも結べます、と」
証文で。王家の婚姻を、南の流儀で結ぶ。王妹は、食い違いを埋める手を、先に用意していたことになる。
「穴じゃなかったね、白いの。あの女は、穴の上にもう板を渡してた」
「はい。……縁組のお返事は」
「初雪の答えと一緒に、と申し上げました。殿下は、うなずかれました」
それから、エルドは四人の顔を順に見た。
「南へ行くかどうかを、今夜決めます。その前に、考えを聞かせてください」
マグダが、最初に口を開いた。
「客ってのはね、帰してもらえるから客だ。あの黒いのは、嘘は言わない女だよ。ただ、ちびの話じゃ、あの女の護衛は、あの女の兵じゃない。帰すかどうかを決めるのが、あの女一人とは限らない」
「行くな、とは言わん」
ヴァルドが言った。
「後見は、決める者の後ろに立つだけだ。……わしは、使節を見送ったら北へ戻る。倅の文が、三通たまっておる。母親のほうからは、七通だ」
オーラフが、戸口の外で咳払いをした。
エルドは、後ろを振り向いた。
「レイフ」
「北は、初雪の前に峠が塞がります」
レイフは言った。
「上の村へ上がるなら、秋のうちです。……それから、南へ行けば、俺は婿です」
マグダが、吹き出した。
「副使殿は、まだそのつもりでいます」
レイフは、真顔だった。笑ってよいのかどうか、セシルは一息迷った。当人が真顔なので、迷ったまま真顔でいた。
「副使殿には、明日、私から申し上げます」
エルドが言った。こちらも、真顔だった。
「使節が発つ前に。断ち手はレイフではない、と。王女殿下には都合があるそうですが、取り違えをそのままにして北へ帰るわけにはいきません」
「……はい」
レイフは、そう答えた。
エルドの目が、セシルへ来た。
「私は、丘へ戻ります」
セシルは言った。言ってから、自分の声を聞いた。思ったより、普通に出ていた。
「私が丘を空けたあいだに、前庭へ立ちに来る人が減りました。ひと夏で、九人です。立会は王都まで、と書いていただきました。使節は、見ました。証文も、見ました。用は、済んでいます」
「戻るのかい」
マグダが言った。
「はい」
「九人来りゃ、上等だよ。あたしのいた酒場は、客が三人の晩でも開けてた」
白いの、とは呼ばれなかった。ほかの呼び方も、されなかった。
エルドは、黙っていた。
長かった。膝の上の右の手を、見ている。黒い館で、証人の名を書いた手だ。その手が一度開いて、閉じた。
「写しの中身を知りたくない、と言えば、嘘になります」
エルドは言った。
「祖が何を約束したのかを、王女殿下は知っていて、王妹殿下も知っていて、私だけが知りません。南へ行けば、半月で聞けます。……行きたい、と思いました。ゆうべまで」
マグダの眉が、少し上がった。
「行かない、と決めました」
声は、静かだった。
「待てば、初雪のあとに聞けます。待てないのは私の気持ちのほうで、用のほうではありません。南の王都までは、片道十三日だと王女殿下に聞きました。向こうに何日いることになるのかは、分かりません。初雪に間に合うかどうかも、分かりません。初雪までに決める、と北の町で言いました。祖母にも、知らせると言いました。その答えが、先です」
板間が、静かになった。ヴァルドが、腰掛けの上で一つうなずいた。
エルドは、セシルを見た。
「使節を見送ったら、北へ発ちます。丘の下までは、同じ道です」
「はい」
セシルは答えた。
四人で王都へ来て、四人で北へ戻る。丘の下で、一人減る。去年の初雪の前には、外郭の門の下で別れた。あのとき見送られたのは、私のほうだった。今度も、そうなる。
◇
夜半、セシルは角灯の火を小さくして、返事を書いた。
——ホルガー殿。使節は、誓いも口上も無く、証文と証人で成りました。両国の写しの見比べも、同じでした。詰所で、一人に試しました。浮きません。違う、と書きました。使節が発つ日に、王都を発ちます。——セシル
書くことは、それで全部のはずだった。
炭を置いて、気づいた。
がっかりしている。
何に、と自分に訊いた。答えは、すぐに出た。南だ。証人が証文の中に名を書く国を、私は、その国の中で見たかった。約束を解くとき、あの国の人は、誰の前で、何と言うのか。同輩の問いの答えが、あちらの証文のどこかにある気がする。
気がする、というだけのことは、報告には書けない。
セシルは書状を畳んで、外套の内側に入れた。明日、若い騎士に渡す。
◇
使節が発つ朝は、晴れた。
セシルは、詰所の門の前で、若い騎士を待っていた。高台の上で、青い旗が風を受けているのが、屋根の向こうに小さく見える。
「早いね、白いの」
マグダが、隣で伸びをした。
坂を、人が下りてくる。
エルドだった。
一人だった。
セシルは、数えた。数えるまでもない数を。一人。エルドが坂を下りてくるとき、後ろにはいつも、頭ひとつ高い影があった。王都に来てからのふた月あまり、一度も欠けたことがない。
その影が、無い。
エルドは、走ってはいなかった。走っていないのに、速い。手に、四冊目を持っている。開いたままだ。
マグダの伸びが、途中で止まった。
「……でかいのは」
エルドは、二人の前で足を止めた。
顔を作らない人だ。何があったのかは、顔に出ているのだろう。セシルには、それは読み取れない。分かるのは、隣でマグダの息が変わったことだけだった。
「いません」
エルドは言った。
セシルの外套の内側で、畳んだ返事が、胸に当たっていた。




