【第二部 風と鎖】第15話 二つの縁組
エルドは、高台の東の通りを歩いていた。
朝の風が、少し変わった。石が冷めている時間が、前より長い。夏が、終わりかけている。
黒い館で写しが見比べられてから、半月が過ぎた。坂の列はヒルデの言ったとおりに減って、いまは五十に届かない。南の申し入れへの返事は、王宮からまだ出ていない。
通りの両側に、壁の高い屋敷が並んでいる。高台から離れるにつれて、壁が順に低くなっていく。並びのいちばん端が、母の生まれた家だ。
去年の秋、あの家で、母の名を三度呼ばれた。自分の名は、一度も呼ばれずに帰った。王都に着いてからのひと月半、こちらから行く用は無いと思っていた。
「用が、できましたか」
後ろで、レイフが訊いた。けさ行き先を言ったときには、何も訊かずについてきた男だ。
「できました。決めると言ったことを、知らせに行きます」
レイフは、それ以上訊かずに、歩く速さを合わせた。
◇
門は、開いていた。
人の背丈ほどの石の壁と、木の門。柱に、樫の葉が彫ってある。内側に、家令の老人が立っていた。痩せて、背筋が伸びている。去年の秋と、どこも変わらない。きのうのうちに、王宮の侍従に文を持たせておいた。
「奥様が、お会いになります。旦那様は、王宮の集まりへお出かけです。……北の従士も、中へ」
通されたのは、小さな部屋だった。窓のすぐ外に樫の木があって、葉の影が床で揺れている。風が、その影と一緒に入ってくる。
椅子に、白い髪を結い上げた小柄な人が座っていた。膝の上で、手を重ねている。母の母だ。去年の秋に会った、自分の祖母だ。今日は、黙ってこちらを見ている。
エルドは、胸から上を傾けた。
「お時間をいただき、ありがとうございます。今日は、一つだけ申し上げに来ました」
顔を上げて、続けた。
「初雪までに、北の領を継ぐかどうかを決めます。決めたら、お知らせします」
膝の上の手が、少し動いた。
「……知らせる、と」
「はい」
「あの子も、そう書いてきました」
細い、乾いた声だった。
「春になったら、知らせたいことがある、と。最後の文に」
懐の一枚のことだ。春になりましたら、ひとつ、お知らせしたいことがございます。その行は、何度も読んだ。母が何を知らせるつもりだったのかは、帳面にある。この人に、それを言うつもりは無い。
「その文に、返事は書かれましたか」
訊いてから、訊いてよいことだったのかどうかを考えた。祖母は、窓の外の樫を見ていた。
「書く前に、北の知らせが着きました」
葉の影が、床で揺れた。
「書くことは、決めていたのです。あの子の文は短い。わたしの文も短い。……知らせを待ちます。春まで、身体を冷やさぬように。母。そう書くつもりでした」
身体を冷やさぬように。
この人は、察していたのだろう。娘の文の一行から、春に何が来るはずだったのかを。言うつもりの無かったことを、この人は、たぶん八年前から知っている。
「書いても、よろしいですか」
エルドは、革袋から四冊目を出した。
「母は、その返事を受け取っていません。代わりに、私が受け取ります」
祖母は、うなずいた。エルドは、炭で三行書いた。細い字が、まっすぐに並ぶ。書き終えるまで、部屋の中は風の音だけだった。
祖母の目が、戸口のレイフへ行った。
「あの子の文に、あなたのことが二度ありました。大きい従士が付いた、と。それから、よく食べる、と」
レイフは、黙って頭を下げた。
「あの子の子を、よく、ここまで」
「歩いたのは、エルド様です」
祖母の口元が、少しだけ緩んだ。
長居は、しなかった。辞して、戸口を出かけたとき、背中に声が来た。
「知らせを、待ちます。……エルド」
振り向いた。祖母は椅子に座ったまま、膝の上で手を重ねている。それきり、何も言わない。
一度だ。去年の秋には、無かった一度だった。
エルドは、もう一度、胸から上を傾けた。
◇
昼過ぎ、ヒルデに呼ばれた。
書き物の部屋の机に、文の山は四つあった。前に来たときより、一つ多い。
「お座りなさい。今日は、少し長くなります」
椅子が、用意してあった。謁見の日には、座る所は無かった。
「王家に、十七の娘が一人おります。王の孫です」
ヒルデは、前置き無しに言った。
「あなたが娶れば、北の家は王家の内になります。外の国は、王家の内の者を客に招くのに、王家の許しが要ります」
南の申し入れへの返事を、王宮は、縁組の形で出すつもりらしい。
「あなたの得を、申し上げます。城を建て直す費え。北の関に置く兵。王家という後ろ盾。代官には、実務を一年、教えさせます」
声は、揺れない。
「損も、申し上げます。王家の内の者になることです。王家の内の者は、どこへ行くにも王宮に伺いを立てます。客に招かれても、です」
得と損が、同じ声で机に並んだ。損のほうを、この人は隠さない。ここまで隠さない人を、ほかに知らない。
「その方は、私の顔をご存じですか」
ヒルデの目が、少し動いた。
「使節を迎えた日に、広場の端から見ております。……なぜ、それを」
「顔を見てから、と教わりました。紙は、あとだと」
「どなたに」
「マグダに」
「あの方なら、そう言うでしょう」
ヒルデは、それ以上は言わずに待った。答える番は、こちらにある。
「お返事は、できません」
エルドは言った。
「継ぐかどうかを決めていない者が、王家の娘を迎えるかどうかを先に決めるのは、順が違います。春に、北の町で、誓わせてくれと言った人がいました。その人にも、同じことを答えました」
「順は、そうです」
ヒルデは、うなずいた。
「ただ、順を待てない事情が、王宮にはあります。使節は、二十日ほどで発ちます。お返事は、その前に」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「その方は、この話を、ご自分で承知されたのですか」
「王家の娘です。承知する、と申しました」
承知した、と、望んだ、は、同じではない。坂で聞いたヘルガの二十年を、エルドは思い出した。口には出さずにおいた。出せば、まだ顔も知らない十七の娘を、自分の理屈の道具にすることになる。
◇
夕方、坂を下りた。
詰所の板間は、夕日が戸口から斜めに入って、床の半分だけが赤い。マグダは帳場の脇に、セシルは机にいた。
「王家の娘ときたか」
マグダは、椀を置いた。
「この夏は、縁談が多いね。でかいのに一つ、あんたに一つ」
笑ってよい話なのかどうか、エルドには分からなかった。十七の娘の顔を、まだ知らない。顔も知らない相手の話で笑うのは、気が進まない。
レイフは、戸口の内側で、何も言わずに立っている。
「言っとくけどね、ちび。王妹は、あんたを檻に入れたいんじゃないよ。柵の内に置きたいんだ。柵ってのは、内のものを出さないだけじゃない。外から入るものも止める」
「外から、何が入るのですか」
「それを言わないのが、あの女だ。あたしに拾えたのは、そこまでだよ」
セシルが、炭を置いた。
「一つ、分からないことがあります」
帳面を開いたまま、顔を上げる。
「王家の婚姻は、誓約で結びます。立会を置いて、左の手首に紋が浮きます。……勅には、誓わせぬ、とあります。北の若君に婚姻の誓いを立てていただくのは、勅と食い違いませんか」
板間が、少しのあいだ静かになった。
「白いの」
マグダが言った。
「あんた、王妹の話の穴を見つけたよ」
「穴かどうかは、分かりません。食い違って見える、と申し上げただけです」
セシルは、真顔だった。見つけた当人が、いちばん驚いていない。
「お返事のときに、伺います」
エルドは言った。母の左の手首にも、赤い紋があったという。坂のヘルガの手首にも、あった。
◇
その夜、エルドは王宮の書庫で、七年目の写しを読んでいた。
高い窓の外は、もう暗い。机の上に燭台が一つ。紙と、埃と、蝋の匂い。北の町でコンラートが机に載せた七冊と同じ手で、同じ行の揃え方で、七年ぶんが写してある。読みはじめて、ひと月半になる。今夜、七年目の冬に入った。
税。道直しの費え。詰所へ送った賊の数。冬の薪の値。
読んでも、継ぐかどうかは分からない。分からないまま読んでいるのは、読まずに決めるほうが順が違うからだ。帳簿は、七年のあいだ北の領で何が起きたかを、起きた分だけ書いてある。起きなかった分は、ヒルデがくれた一枚にある。その一枚は、四冊目に挟んであった。
戸口の脇に、レイフが立っている。
回廊に、足音がした。レイフが、身体の向きを変えた。
「読み物の邪魔をしに来た」
声のほうが、先に入ってきた。
リヴィアだった。白い麻の衣の胸元で、青い石が燭台の火を受けている。黒い髪は、今夜は背に流してあった。侍女は、回廊に残っている。
エルドは立って、胸から上を傾けた。リヴィアが右の手のひらを差し出し、エルドは同じ形で返した。
「座られよ」
リヴィア自身は座らずに、机の向かいに立った。机の上の写しを見て、手を伸ばしかけて、止める。
「読んでよいか」
「王宮の物です。私の物ではありません」
「王宮の許しは取ってある。そなたに訊いている」
「……どうぞ」
リヴィアは、写しを引き寄せて、開いた。読むのが速い。一頁を、息を二つするあいだに読む。三頁、四頁。それから、顔を上げた。
「この国の帳簿は、誰が誰に仕えているかを書かぬな」
「書きません」
「わが国の帳簿は、まずそれを書く。家の者の欄と、雇いの欄と。給金と、年限と、証人の名と。仕える者は、必ずどちらかの欄に載る」
リヴィアは、写しを閉じた。
「書かずとも分かるからか。この国では」
「誓いがあるので」
「そうだな。手を見れば分かる国だ」
リヴィアは、自分の右の手を机の上に置いた。手の甲を上にして。薄い青の古い紋が、燭台の火で見えた。ヒルデの手と、ユリアンの手と、同じ所に、同じ紋。使節が着いた日にセシルが見つけた、と聞いてはいた。間近で見るのは、初めてだ。南の王女の手に、この国の王家と同じものがある。縛られているのは開いた二人のほうだ、と黒い館でヒルデは言った。訊いても、この国の内では答えない、と書いた人だ。訊かずにおいた。見られていると知って置いた手だった。
「では、後ろの男は、この帳簿のどこに載る」
「載りません」
エルドは、少し考えてから訊いた。
「あなたの国の帳簿には、載らないものは無いのですか」
リヴィアの口の端が、少しだけ上がった。
「無い。載らぬものは、無いものだ。だから、証文の国という」
「では、私たちは、あなたの国では無いものです」
「そうだ」
リヴィアは、即座に言った。
「無いものが二人そろって、わたしの前にいる。……庭で訊いたことの答えは、まだか」
「まだです」
「坂では、端が見えたように思ったがな」
「端だけです」
リヴィアは、閉じた写しの表紙を、指の背で一度叩いた。
「王妹殿下は、そなたに王家の娘を付けるそうだな」
この人の耳は、いつも早い。
「王家の娘を娶れば、客には行けぬ。王妹殿下は、囲いを作るのがうまい」
黒い目が、写しの表紙からエルドへ上がった。
「王家の娘でよいなら、ここにも一人いる」
リヴィアは、机に片手をついた。
「わたしと、ではどうだ」
言ってから、リヴィアは一息だけ、自分の右の手を見た。机についた手の甲の、薄い青の紋を。すぐに、目を戻した。
エルドは、リヴィアを見返した。
冗談なのかどうかが、分からない。分からないことが、たぶん顔に出ている。隠す技を、自分は持っていない。
昼に、同じ種類の話を一つ聞いた。あちらは、得と損を並べてもらった。こちらは、どちらも並んでいない。何を受け取って、何を渡す話なのか。言い値に、はい、と言う前に訳を訊け、と春に教わった。
「値が、分かりません」
リヴィアは、目を見開いた。
それから、笑った。声を立てて笑うのを、初めて聞いた。落ち着いた声の人が笑うと、思っていたより高い音がする。戸口で、レイフの肩が一度だけ揺れた。
「わたしに値を付けるのか、そなたは」
「付けられません。言い値に返事をする前に、訳を訊け、と教わりました」
「誰が教えた」
「レイフの姉君です」
リヴィアは、もう一度笑った。今度は短かった。
「あの姉君か。よい師だ」
「訳を、伺えますか」
笑いが、止まった。リヴィアは、しばらくエルドを見ていた。それから、机から手を離した。
「冗談だ。訳の要る話ではない。……固いうえに、正直だな。そなたは」
リヴィアは戸口へ歩いて、レイフの脇で一度足を止めた。
「王妹殿下の話には、何と答えた」
「順が違う、と申し上げました」
「わたしのには、値が分からぬ、か」
振り向かずに、言った。
「順が違う、よりは、ましな答えをもらった。……写しを読め。邪魔は済んだ」
◇
白い裾が、回廊を遠ざかっていく。侍女が、そのあとに続いた。もう一人、回廊の奥の柱の脇から、短い外套の男が離れて、二人のあとを歩いていった。王女の護衛だ。いつからそこに立っていたのかは、分からない。
レイフは、その背中が角を曲がるまで、戸口から動かずに見ていた。
「あの人は、ずっとこちらを見ていました。王女殿下ではなく」
レイフは、それだけ言った。
◇
護衛の消えた角から、入れ違いにユリアンが来た。
供を連れていない。書庫の戸口に立って、少し息を整えた。
「エルド殿。叔母の話を、聞きました」
「はい」
「叔母は、あなたを南へは行かせないでしょう。縁組は、そのための話です。私にも、それは分かります」
ユリアンは、少し黙った。言うと決めてきたことを、口の中で並べ直しているようだった。
「それでも、あなたが行くと決めたら」
「まだ、何も決めていません」
「決めたら、です。そのときは、私も行きます。王家の者が一人ついていれば、あなたは、王宮の客が王宮の者と出かけたことになります」
「王妹殿下が、お怒りになります」
「怒るでしょう」
ユリアンは、真面目にうなずいた。
「叔母に同じことを二度言わせると、怒られます。行くな、と一度言われたら、それで終わりです。ですから、言われる前に、あなたの隣に立っておきます」
言うだけ言うと、ユリアンは返事を待たずに、来た回廊を戻っていった。
エルドは、机の上の写しを見た。七年目の冬は、まだ途中だ。
使節が発つまで、二十日。王妹への返事も、王女の招きへの返事も、その前に要る。初雪を待たずに、決める日が来る。




