【第二部 風と鎖】第14話 黒い館
マグダは、開いていく黒い門を、坂の下から見ていた。
去年の秋、この門をくぐったときは、門の脇に石の台があって、四人ともその前で足を止めた。誓うか、と綴りを向けられて、四人とも首を振った。今日は、向ける者がいない。台は同じ所にあって、上に綴りが無い。
門の内側に、黒い官服の男が立っていた。きのう、この台でエルドに誓えと言ったという式官だ。去年の秋に、四人に首を振られて綴りを閉じたのも、この男だった。
「ヴェルナー。文書庫を開けなさい」
王妹が言った。
王妹ヒルデというのを、マグダは初めて間近に見た。五十の坂を越えた、背筋のまっすぐな女だ。髪は白が多くて、後ろで一つに束ねてある。目は、ユリアンと同じ色をしている。顔からは、何も拾えない。作っている顔なら、継ぎ目が見える。この女の顔には、それが無い。作りもせず、使いもせず、ただそこに置いてある。
「殿下。お連れが、多うございます」
ヴェルナーは、抑揚のない声で言った。他国の王女と、その侍女。北の若君と、誓わぬ従士。それに坂の下から上がってきた、白い制服と、外套の女。目が、順に数えていく。
「館に入る者は——」
「誓いは要りません。台の綴りは、冬に下げさせました。きのう持ち出したのは、誰の許しですか」
「館を預かる者の、務めとして」
「預けたのは、王宮です」
声は、少しも大きくならない。それでヴェルナーの口が閉じた。去年の秋からこの館を預かっているのは、この式官らしい。宰相の下にいた上の役人は、みな冬のうちにいなくなったと、詰所で聞いている。
ヒルデが、こちらを向いた。
「マグダ=ヴェイン」
名を、知っていた。
「去年の秋、この館で宰相の手を止めた方ですね。詰所の隊長から聞いています」
「止めたのは一度きりだよ。二度目は、杖から刃が出た」
左の腕を、少し上げてみせた。ヒルデは、その腕を一度見た。礼は言わない。言えば、王宮が宰相を止めてもらったことになる。
「どうぞ。あなたを止める理由が、王宮にはありません」
通す、ということだ。礼を言わない女が、通すほうは一息で決める。話が早い、とマグダは思った。
セシルが、一歩前へ出た。
「王妹殿下。丘の前庭の用で参りました、誓約騎士のセシルです。両国の写しの見比べを、見せていただけますか」
「見るだけなら。字の読めない所からです」
「はい。見るのは、字ではありません。作法です」
ヒルデは、うなずいた。それで済んだ。
マグダは、横から見られているのに気づいた。メリディアの王女リヴィアだ。長い黒い髪を、今日は後ろで一つに束ねている。客殿の縁談の席を、柱の陰から聞いていた女だった。目が、面白がっている。
「そなたが、姉君か」
「母君よりは、ましだったんでね」
「副使は、いまでもそう書いている。断ち手殿の姉君は手ごわい、とな」
冗談を言う王女だとは、意外だった。脇で、エルドが小さく息を吐いた。笑ったのだ。
◇
天井は、覚えていたより低かった。
黒い石。小さな窓。燭台の火。床の真ん中が擦り減って、少し沈んでいる。夏のさなかだというのに、靴の底から冷えが上がってくる。去年、この部屋には甘い茶の匂いが流れた。今日は、蝋と、古い石の匂いしかしない。
机は、元の所に戻してあった。
机の後ろの床に、色の違う四角い石が一枚。鉄の環が、埋めこんである。蓋は閉まっている。開けたところで、石段は五段目から先が埋まっているはずだ。あの男は、その下にいる。
あたしは、あの机の脇で、あの男の手首を取った。上げさせなかった。名を言った。八年ぶんは、あの日に払い終えている。いま目の前にあるのは、古い部屋が一つと、石が一枚だ。左の腕は、もう疼かない。
壁際に、兵が四人立っていた。右の手の甲に、青い紋がそのままある。去年は、二十いた。
エルドは、壁際の床を見ていた。戸口からの光が届く、その先のあたりだ。
「私は、ここで目を開けました」
誰に言うでもなく、エルドは言った。
「そうだよ。あんたはそこに寝てた。でかいのが隣で、壁に背をつけてた」
「光が、戸口から来ました。床を渡って」
「来たね」
離宮では、この子は帳面で読んだだけの床に立っていた。ここは違う。この子の覚えは、この床から始まっている。王都でいちばん古い建物が、この子のいちばん古い記憶だ。
レイフは、机の手前で足を止めた。机とエルドのあいだに立って、鉄の環のある石を見ている。刺されたのは、あの石の上だ。何も言わない。言わないで、そこから動かない。
「殿下。文書庫を開ける前に、申し上げます」
ヴェルナーが、机の前で振り返った。
「閣下がおられたころ、この国で誓いを外せる手は一つでした。その手は、国を保つという務めに繋がれていた。幾百年、代々そうでした。いまも、外せる手は一つです。——その手は、何にも繋がれていない。持ち主は、去年の秋より前を、何も覚えておられない」
目が、エルドへ行った。右の手へ。
「鍵が、歩いております。番をする方は、もうおられない。せめて、鍵に誓わせるべきです。冬から、そう申し上げている」
「冬に済んだ話です。客人の前でする話でもありません」
「客人の前だから、申し上げております。南の方々にも、知っていただくのがよい。この国の鍵は、何にも縛られていない、と」
わざとだ、とマグダは思った。この男は、王妹が南の王女の前で困る所を選んで、口を開いている。
「縛られていない方を、王宮は客としてお迎えしています」
ヒルデは言った。
「坂の下まで、みな知っていることです。勅は、書き直しません」
二人とも、声を荒げない。荒げない声が二つ、低い天井の下でぶつかっている。去年の冬から、この二人は同じ話を、同じ声で、何度もしてきたのだろう。
「ヴェルナー殿」
エルドが言った。
「鍵、というのは、私のことですか」
「ほかに、おられますか」
「鍵は、口をききません。私は、きのう、あなたにお答えしました」
ヴェルナーは、エルドを見た。初めて、右の手ではなく顔を見た。それでも、何も返さない。
言うようになったね、と思った。去年までのこの子なら、理屈を三つ並べて相手を追いこんだ。いまは、一つしか言わない。一つのほうが、効くこともある。
「あんた、宴の扉の前で綴りを掲げた男だってね」
マグダは言った。去年、この門の前で、この男は自分でそう言った。私が先導した、と。
「掲げた。あの夜、誓いは一つも破られなかった。私の先導に、誤りは無い」
「知ってるよ。誤りは無かった」
ヴェルナーの目が、こちらへ来た。
「昔、西の町で、あたしも同じ顔をしてた。頁のとおりにやった、ってね。……あんたの顔は、あのころのあたしの顔だ。鏡で見飽きてる」
「審問官か」
「元、だよ」
違うのは、一つだけだ。あたしは、あの晩に記章を外した。この男は、八年たって、まだ綴りを抱えている。
◇
文書庫は、広間の奥にあった。
ヴェルナーが、腰の鍵で戸を開けた。窓の無い部屋だ。壁という壁を、棚が埋めている。綴りの背に、埃が乗っている。侍従が燭台を二つ運び入れて、真ん中の机に置いた。
机に着いたのは、二人だけだった。ヒルデと、リヴィア。向かい合って座る。ヴェルナーが奥の棚から、平たい黒い箱を出してきた。ヒルデが、袖から出した小さな鍵で、それを開けた。
中から出たのは、古い写しが一枚。端が茶色い。
リヴィアの侍女が筒から出したのも、一枚。こちらは白い。下のほうに、短い行が三つ並んでいるのが、遠目にも分かる。写しが元と同じだと請け合った、証人の名だろう。あの国は、写しにまで証人を立てる。
「ほかの方は、そこまでで」
ヴェルナーが、棚二つぶん手前で手を上げた。
エルドも、レイフも、セシルも、あたしも、そこで止まった。字は見えない。見えるのは、二人の女の手と、顔だけだ。
あたしには、それで足りる。
リヴィアは、読むのが速かった。右の指を古い写しに、左の指を白い写しに置いて、二本を同じ速さで下ろしていく。途中で、一度も止まらない。古い言葉のはずだ。それを、母国の字を読む速さで読んでいる。
ヒルデは、写しではなくリヴィアを見ていた。書いてあることは、とうに頭に入っているのだろう。
棚のあいだで、エルドは黙って立っていた。この子の祖の約束だという写しが、目の前で開かれている。字は見えない。それでも、目を逸らさずに、机のほうを見ている。読む二人の手と、顔を。
二本の指が、いちばん下まで行って、止まった。
「一字も違わぬ」
リヴィアが言った。
肩が、一つ下りた。ほんの少しだ。白い麻の下で、張っていたものが緩んだ。この王女は、違っているのを恐れていた。違っていたら困る約束だ、ということになる。
「同じです」
ヒルデは、息も変えずに言った。
古い写しが箱に戻り、鍵が掛かった。白いほうが筒に戻った。それから侍女が、小さな証文を一枚、机に置いた。
「見比べの証文だ」
リヴィアは、棚のあいだのエルドを見た。
「二枚を並べ、二人が同じと言った。書いてあるのは、それだけだ。証人の名が要る。……エルド=ファーレン」
エルドは、机まで歩いた。レイフが、黙ってその後ろについた。ヴェルナーの手が上がりかけて、下りた。箱は、もう閉まっている。
エルドは証文を取って、読みはじめた。
「読まずに、名は書けません」
「当たり前だ。読まずに書く者を、わが国では証人と呼ばぬ」
短い証文だった。エルドはうなずいて、羽根ペンを取った。
ゆっくり書いた。春から、レイフに習っている字だ。細い線が、一つずつ立っていく。前の字は、線が切れずに続いて、飾りまで入った城の字だった。きれいで、レイフには読めなかった。
レイフが、肩越しにそれを見ていた。
「……読めます」
小さな声だった。エルドは、振り向かずに答えた。
「百回、書きました」
形で見当をつけていた字が、読めるようになったのだろう。レイフの口元が、今日いちにちで一番ゆるんだ。リヴィアが、二人を順に見た。何の話かは、分からないだろう。分からないまま、口の端を上げた。
メリディアの側は、侍女が名を書いた。侍女というより、初めから証人として連れてきた女なのだろう。名を書く手が、慣れている。
「誓いは、ありませんでした」
セシルが、隣で小さく言った。
「口上も、ありません。二人が読んで、同じと言い、証人が名を書く。……あちらの証人は、証文の中に名を書くのですね。この国の立会は、誓いの外に立ちます」
「書いときな。前庭の用だろ」
「書きます」
二人が写しを読んでいるあいだから、あたしの目は棚にあった。道と戸口を見る癖は、窓の無い部屋では棚へ行く。綴りは、どれも背に埃を乗せている。一つだけ、乗せていない綴りがあった。目の高さより少し下。背の札に、北、とある。紐の結び目も、隣と違う。隣のは固く締まって、紐が平たくなっている。それは、結んでから日が浅い。
「この綴りを最後に出したのは、いつだい」
ヴェルナーに訊いた。
「冬に。王妹殿下のお求めで、北の綴りをお出ししました」
答えは、ちょうどいい早さで来た。嘘の早さではない。ただ、冬から夏までなら、埃は乗る。この男は、冬の話しかしていない。
文書庫を出るとき、マグダはヒルデの脇へ寄った。
「殿下。北の綴りは、冬より後に誰かが開けてるよ。背に埃が乗ってない。あたしなら、この戸の鍵を持ってる者を、数え直すね」
ヒルデは、足を止めずに答えた。
「戸の鍵は、二つです。わたしと、あの者と」
二歩ほど歩いて、もう一言。
「覚えておきます」
◇
広間へ戻ると、エルドがリヴィアの前に立った。
「同じと確かめたら話す、と伺いました」
「言った」
リヴィアは、うなずいた。
「王妹殿下と、証文を一枚交わした。見比べてよい。その代わり、この国の内では、写しの中身をそなたに話さぬ、と。わたしは、書いた条は守る」
エルドは、ヒルデを見た。ヒルデは、何も言わない。
「この国の内では、と書いた」
リヴィアは、机の前で向きを変えた。ヒルデの正面に立つ。背筋が、もう一段伸びた。客殿の柱の陰にいた女ではなく、旗の下で馬に乗ってきた女の立ち方だった。
「王妹殿下。メリディアの正使として、申し入れる。北の若君を、客として、わが国へ招きたい」
ヒルデの目元が、ほんの少し動いた。初めて、拾えた。驚いた動き方ではない。来たか、という動き方だ。この女は、条を書いたときから、穴がどこに空いているかを知っていた。知っていて、書いた。穴を塞げば、見比べそのものが流れる。流したくない訳が、王宮の側にもあったのだろう。
「お返事は、王宮からいたします」
ヒルデは言った。声は、門の前と変わらない。
エルドが、一歩出た。
「殿下。行くかどうかは、私が決めることだと伺っています」
「そうです。王宮がお返しするのは、王宮の返事です。あなたの返事は、あなたがなさい」
「もう一つ。条を付けられたのは、殿下ですか」
「そうです」
「理由は、初雪のあとに伺うものと、同じですか」
「同じです」
ヒルデは、そこで一息置いた。
「一つだけ、いま申し上げられることがあります。あの写しは、あなたを縛るものではありません。縛られているのは、開いた二人のほうです」
リヴィアの眉が、上がった。
「殿下。条は」
「交わした証文には、王女殿下が話さぬ、とあります。わたしが話さぬ、とは書いておりません」
リヴィアは、声を立てずに笑った。やられた、という笑い方だ。自分の空けた穴と同じ形の穴を、向こうからも通された。
開いた二人。
二人とも、右の手の甲に、同じ古い紋を持っている。使節が着いた日に、セシルが見つけた紋だ。
去年、この部屋でこの子を囲んでいたのは、槍だった。今年は、証文だ。槍なら、手首を取れば止まる。
紙ってのは、書いた奴の味方をする。
二人とも、書く側の女だ。ただ、縛られているのは、その二人のほうだという。この子の右の手には、何も無い。何も無い手が、今日、証人の所に名を一つ書いた。




