間話 レイフの手記「隣を歩く」
——これは、あとから書いた。帳面を買う前のことだから。
——主が十二になった春のこと。俺が城に上がった冬の、次の春。
◇
木剣が、頭の上で止まった。
止めたのは、レイフ自身だ。振り下ろす途中で腕に力を入れて、エルドの頭の一寸上で、ぴたりと止めた。当たれば痛い。痛いだけで済むが、痛い。十二の子どもの頭に、樫の木剣を当てる従士がどこにいる。
「……レイフ」
エルドが、木剣を下ろしたまま言った。稽古場の砂の上に、朝の光が長く伸びている。城に上がって、ひと冬。稽古の相手を仰せつかって、ひと冬。このひと冬で、エルドの声がこういう低さになるのを、レイフは初めて聞いた。
「おまえの木剣は、俺の頭の上で止まる」
「はい」
「毎回だ。毎回、同じところで止まる」
「……はい」
「俺を、子ども扱いするな」
レイフは、返事に詰まった。子ども扱いをしているつもりは、なかった。ただ、十二の子どもに木剣を当てないでいるだけだ。それは子ども扱いではなく、分別というものではないか。そう思ったが、そう言えば、たぶんもっと怒る。
「していません」
「している」
エルドは木剣を構え直した。細い腕だ。冬のあいだに少し伸びたが、まだ細い。構えは、家中の手練れが仕込んだとおりに綺麗で、綺麗すぎて、隙が見える。
「もう一度だ。止めるな」
レイフは、少し考えた。
止めなければ、当たる。当たれば、痛い。痛いだけで済む——のは、当てる場所を選べばの話だ。頭は駄目だ。肩なら。肩の、骨のない、肉のところなら。
「はい」
打ち込んだ。エルドの受けが、半拍遅れた。レイフの木剣はエルドの肩に当たって、鈍い音を立てた。エルドが砂の上に尻餅をついた。
稽古場の隅で、髭の槍兵が、腕組みをしたまま髭の奥で笑った。
エルドは、肩を押さえて立ち上がった。目に、涙が滲んでいる。痛いのだ。当たり前だ。だがその目は、レイフを睨んでいなかった。
「……よし」
それだけ言って、また構えた。
その日から、レイフは木剣を止めるのをやめた。かわりに、当てる場所を選ぶようになった。それが子ども扱いなのかどうかは、いまも分からない。ただ、エルドは二度と「止めるな」とは言わなかった。
◇
城に上がって、ひと冬。
レイフは、まだこの城に慣れきってはいなかった。従士部屋の寝床は、村の寝床より柔らかい。飯は、村の飯より多い。多いのはありがたい。三杯食っても、誰も何も言わない。字を習う務めのほうは、書庫の隅でエルドに仕込まれて、春になってようやく、人に読める形になった。教え役の年寄りが「蚯蚓が、ようやく凍えずに済んだ」と言った。褒めたのだと思うことにした。
髭の槍兵からは、槍を習った。この人は家中でも指折りの手練れで、レイフの木剣を見て、最初の日に「村の棒振りにしては、筋がいい」と言った。次の日には「筋がいいだけだ」と言った。それから毎朝、筋がいいだけの従士を、砂の上に転がしている。
そして、エルド。
当主の子だ。十一で引き合わされたときから、レイフをまっすぐに見て、まっすぐに命令する。稽古の相手。書庫の荷運び。そして今日から、遠乗りの供。
「今日は、俺の生まれた日だ」
厩の前で、エルドは言った。
「父上から、許しをもらった。遠乗りに出る。供は、おまえ一人だ」
「一人で、よろしいのですか」
「父上が、そう言った。……おまえ、裏山の道は覚えたか」
「半分は」
「では、残りを今日、覚えろ」
御館様の言い方と、同じだった。レイフは、はい、と答えた。
エルドの馬は、栗毛だった。背の低い、脚の太い北の馬で、二年前の春、十の春に御館様から与えられたのだという。名は、ないのだそうだ。
「ないのですか」
「決めかねている」
「二年」
「……二年だ。おまえには、関わりのないことだ」
厩番が、腰の曲がった背中をこちらへ向けたまま、肩を揺すっていた。
◇
行き先は、裏山の尾根だった。
城の裏手の沢を上流へ遡り、杉の林を抜けて、尾根の背へ出る。そこから北へ辿ると、高台がある。晴れた日には、北の山なみが、その向こうまで見えるという。
「その向こう、とは」
「王国の、外だ」
エルドは、馬の上で前を向いたまま言った。
「父上は、北の境を守っている。守っているものを、俺は、まだ一度も見たことがない。……十二になった。見ておきたい」
レイフは、何も言わなかった。北の境なら、見たことがある。生まれた村が、そちらのほうにあった。見ておきたいと思うようなものではない。ただの山だ。ただの山の向こうから、時おり、賊が来る。それだけのものだ。
だが、それを当主の子であるエルドに言うのは、たぶん、子ども扱いというものだった。
沢の道は、雪解けの水で、いつもより幅を増していた。
飛び石が、ところどころ水の下に沈んでいる。栗毛は迷いなく渡った。レイフの馬——支給の、年寄りの鹿毛だ——も、渋々ついていった。杉の林は暗く、足元は落ち葉と雪の混じったぬかるみで、馬が何度か脚を取られた。
エルドは、一度も止まらなかった。
尾根の背に出ると、風が変わった。
沢の底の湿った風ではなく、乾いた、遠くから来る風だ。木が低くなり、岩が増えた。高台は、尾根の背をさらに半刻ほど北へ辿ったところにあった。
エルドが、馬を止めた。
レイフも止めて、同じ方を見た。
北の山なみが、幾重にも重なっていた。手前の山は雪が斑に残り、その向こうの山は白く、そのまた向こうは、青かった。青い山のあたりが、たぶん、王国の境だ。その先は、空と同じ色をして、どこまでが山で、どこからが空なのか、分からなかった。
エルドは、長いこと黙っていた。
「……あれか」
「はい」
「あれを、父上が守っている」
「はい」
「あの青い山の向こうに、何がある」
「……山です」
エルドが、こちらを見た。子ども扱いするな、と言う目だ。レイフは、正直に続けた。
「山と、峠と、その向こうにまた山です。峠を越えて、時おり、賊が来ます。……俺の村は、あの手前の、雪の斑になっている山の、裾にあります」
「おまえの村」
「はい」
エルドは、雪の斑の山を見た。それから、レイフを見た。
「……賊が、来るのか」
「年に二度か、三度。冬の頭と、雪解けの頃に多いです。蓄えを狙って来ます」
「戦うのか」
「戦います。村の大人と、俺と。……それから、御館様が置いてくださる兵と。賊の出る頃には、槍が三人か四人、村に来ます」
「おまえは、いくつから」
「十一から、棒を持たされました」
エルドは、また北を見た。
「……親は」
「小さいころに。村の者が、育ててくれました」
「そうか」
エルドは、それ以上訊かなかった。訊かないのが、この子の礼儀なのだと、レイフはそのとき初めて思った。十二の子どもの礼儀としては、たいしたものだと思った。
「父上に、会ったのは」
少し間を置いて、エルドが訊いた。
「去年の冬の初めです。見回りに来られて、自警の稽古を、ずっと見ておられました。棒を振っている俺を見て、名は、と」
「それだけか」
「それだけです。……ひと月後に、また見回りに来られて、俺の名を覚えておられました。村の大人の名も、子どもの名も、全部」
エルドの横顔が、少しだけ動いた。
「父上は、名を覚える人だ」
「はい」
「俺も、そうなる」
それは誓いではなかった。ただの、十二の子どもの言葉だった。レイフは、はい、と答えた。
◇
しくじったのは、帰り道だった。
高台で日が傾くまで山を見ていたのが、まず、よくなかった。尾根を戻って杉の林に入ると、林の中はもう夕方だった。そして沢の道へ降りてみると、朝より、水が増えていた。
昼のあいだに、山の雪が解けたのだ。飛び石は、全部沈んでいた。水は茶色く濁って、速い。馬なら渡れる——かもしれない。だが、足を取られれば、馬ごと流される。
「……渡れるか」
「渡れません」
レイフは、即座に答えた。子ども扱いも何も、渡れないものは渡れない。
「尾根へ戻って、杣道を回ります。遠回りですが、沢を渡らずに城の裏手へ出られます」
「知っているのか、その道を」
「半分は」
エルドが、こちらを見た。それから、笑った。今日、初めて見る笑い方だった。
「残りの半分を、今日、覚えろ」
「はい」
杣道は、尾根の東側を巻いていた。
道といっても、杣人が薪を運ぶだけの、細い踏み跡だ。暗くなるにつれて、踏み跡は見えなくなり、足の裏で探るしかなくなった。馬は引いて歩いた。レイフが前、エルドが後ろ。栗毛は賢く、レイフの鹿毛の尻についてきた。
濡れた岩の上で、後ろの足音が乱れた。
振り向くと、エルドが片膝をついていた。栗毛の手綱は離していない。離さなかったのは、たいしたものだ。だが、立ち上がろうとした足が、一度、踏みとどまった。
「……足を」
「ひねった。少しだ」
エルドは、立ち上がった。立ち上がって、一歩、歩いた。歩けている。だが、右足を庇っている。庇っている足で、暗い杣道を、あと半刻。
「背負います」
言った瞬間に、まずかった、と思った。
エルドの顔が、暗がりの中でも分かるほど、はっきりと変わった。
「子ども扱いするな」
「……歩けますか」
「歩く」
レイフは、少し考えた。この子は、歩くと言った。歩けるかどうかではなく、歩くと言った。ならば、歩かせるしかない。歩かせて、転ばせないのが、供の仕事だ。
「では、俺の足を踏んだところを、踏んでください」
「……分かった」
「馬は、俺が二頭引きます。手綱を」
「栗毛は、俺が引く」
「はい」
レイフは前に立った。半歩だけ前に。暗い杣道で、足の裏で岩を探り、確かな岩を踏んで、少し待つ。後ろで、エルドが同じ岩を踏む。次の岩を探る。待つ。踏む。それを、何百回か繰り返した。
エルドは、一度も止まれと言わなかった。
息が荒くなっているのは、聞こえた。右足を下ろすたびに、息が半拍止まるのも分かった。だが、止まれとは言わなかった。レイフも、休みましょうとは言わなかった。言えば、また子ども扱いになる。だから、ただ、確かな岩を選んで、少し待つ間を、少しずつ長くした。
「……レイフ」
暗がりの中で、エルドが言った。
「おまえの生まれた日は、いつだ」
「冬の終わり、としか」
「日は」
「村では、日を数えません。雪が緩みはじめる頃に生まれた、と聞いています」
「それでは、祝えないではないか」
「祝ったことは、ありません」
しばらく、足音だけがした。岩を踏む音と、馬の蹄の音と、エルドの息の音。
「では、決める」
エルドが言った。
「冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日を、おまえの生まれた日と決める。……俺が決めた。文句はないな」
「……ありません」
「よし」
決めるのが好きな子だ、とレイフは思った。馬の名は二年決められないくせに、人の生まれた日は、暗い杣道の途中で決める。
杉の林の切れ目に、城の灯りが見えたのは、それからまだ半刻もあとだった。
◇
裏門の前に、灯りがひとつ、立っていた。
御館様だった。供も連れず、灯りを自分で持って、門の前に立っている。二人の馬の足音を聞いて、灯りが、少しだけ上がった。
「遅い」
それだけだった。
エルドが、栗毛を引いたまま、門の前まで歩いた。庇っている右足を、庇っていないふりをして歩いた。御館様の目が、その足を一度見た。それから、レイフを見た。
「レイフ」
「はい」
「なぜ、止めなかった」
沢のことか、遠乗りそのものか。どちらでも、答えは同じだった。
「エルド様が、行くと決めておられましたので」
御館様は、しばらく黙っていた。灯りの火が、彫りの深い顔の下で揺れた。
「……足は」
「ひねられただけです。ご自分で、歩かれました」
「背負わなかったのか」
「背負うと、申し上げました。……断られました」
御館様が、エルドを見た。エルドは、まっすぐに父を見返した。右足に重みをかけないよう、少し左に傾いて立ったまま、まっすぐに。
御館様は、何も言わなかった。
言わずに、灯りを持った手で門を示した。入れ、ということらしかった。エルドが門をくぐる。レイフが二頭を引いてくぐる。すれ違いざま、御館様の声が、低く降ってきた。
「レイフ。裏山の道は、覚えたか」
「……半分は」
「明日、残りを覚えろ」
「はい」
門の内側で、エルドが肩を震わせていた。笑っているのだった。
◇
祝いの膳は、冷めていた。
小広間の膳の前で、奥方様が待っていた。エルドが入ってくると、奥方様は立ち上がりかけ、足を見て、座り直し、それから、ただこう言った。
「冷めてしまいましたね」
「……申し訳ありません、母上」
「温め直させましょう。座りなさい。……足を、上げて」
侍女が膳を下げ、料理長が台所へ走り、そのあいだに奥方様は自分でエルドの靴を脱がせ、足首を布で巻いた。エルドは、されるがままになっていた。この人の前では、子ども扱いするな、と言わないらしい。言えないのかもしれない。
レイフは、壁際に立っていた。供の立つ場所だ。膳が温め直されて戻ってくるまで、火の音と、奥方様が足を巻く音だけがしていた。
戻ってきた膳の真ん中に、料理長が自分で運んできた深い皿があった。
「若様。十二の春の膳でございます。北の祝いの、鹿の煮込み」
湯気の匂いが、壁際まで届いた。
鹿の肉を、胡椒と生姜と、名の分からない香りの実で煮たものだ。北の祝いの膳には、必ずこれが出る。香りの実は、南から幾つもの関を通って来るもので、高い。祝いのときにしか使わない。だから祝いの膳は、いつも辛い。
エルドは、匙を取った。
一口、食べた。
顔は、動かなかった。当主の子の顔のまま、行儀よく噛んで、飲み込んで、料理長に言った。
「……よい味だ」
「ありがとうございます」
料理長は胸を張って下がった。エルドは、二口目を食べた。三口目で、匙が、ほんの少しだけ遅くなった。四口目はなかった。エルドは煮込みの皿を脇へ寄せ、黒いパンと、猪の塩漬けと、根菜のほうを、行儀よく食べた。
奥方様が、それを見ていた。見て、何も言わなかった。
膳が下がるとき、エルドは煮込みの皿だけを残させた。
「あとで、ゆっくり食べる。部屋へ運んでおけ」
侍女が、皿を持ってエルドの部屋へ運んだ。奥方様が、ほんの少しだけ、口の端で笑ったのが見えた。
◇
エルドの部屋に、レイフは足の布を替えに呼ばれた。
布を替え終わると、エルドは寝床の上に座ったまま、机の上の皿を顎で示した。鹿の煮込みは、湯気を失って、それでも香りの実の匂いを立てていた。
「食え」
「……それは、エルド様の」
「食え。命令だ」
レイフは、皿を見た。エルドを見た。エルドは、寝床の上で、まっすぐにこちらを見ていた。当主の子の顔をしている。しているのだが、その顔の下で、十二の子どもが「早くしろ」と言っているのが、なぜか分かった。
レイフは皿を取って、食った。
辛かった。胡椒と、生姜と、名の分からない実。舌が、じんと痺れる。村では、こんなものは一生に一度も食えない。三口で半分、五口で全部、平らげた。
「……うまいです」
言ってから、皿が空なのに気づいて、少し慌てた。
「おまえは、辛いのが平気か」
「平気です。……これは、うまいです」
「そうか」
エルドは、寝床の上で膝を抱えた。当主の子の顔が、そこで、少しだけ剥がれた。
「俺は、駄目だ。……辛いのは、駄目だ」
「はい」
「料理長には、言うな」
「はい」
「母上にも」
「……奥方様は、たぶん」
「知っている。知っていて、言わない。母上は、そういう人だ」エルドは、膝に顎を載せた。「父上も、たぶん知っている。知っていて、毎年、あの膳を出させる。北の祝いは、ああでなくてはならんからだ」
レイフは、空の皿を持ったまま、立っていた。
「……覚えておく」
エルドが、ぽつりと言った。
「おまえは、辛いのが平気で、飯を三杯食って、暗い道で岩を選ぶのがうまい。……覚えておく」
「はい」
「明日は、稽古を休む。足が使えん」
「はい」
「明後日は、やる」
「はい」
「止めるなよ」
「……はい」
エルドは、そこで、笑った。杣道の途中で見せたのと、同じ笑い方だった。
◇
——主は、自分の足で帰った。俺は、隣を歩いた。
——鹿の煮込みは、主には辛すぎた。料理長には、言っていない。




