第07話 字と剣
斧を振り下ろすたび、薪は素直に二つになった。
朝の光が、宿の裏庭に斜めに差している。レイフは上着を脱いで、積んだ丸太と向き合っていた。飯の分は働く——マグダとそう取り決めてから、十日あまりになる。水汲みはもう済ませた。薪はこれで三日分。昼の荷受けまで、あとひと山割れば手が空く。
視線には、少し前から気づいていた。
台所の戸口の柱に、マグダが肩で寄りかかって、湯気の立つ椀を手にこちらを眺めている。朝の白湯だ。この人は、夜はあれだけ呑むくせに、朝は白湯しか口にしない。
「あんた」
マグダが言った。
「薪を割るのに、いちいち間合いを計るのはおやめよ。薪は逃げやしないんだ」
「……癖です」
「だろうね。で、どこで付いた癖だい、それは」
レイフは答えず、次の丸太を台に据えた。据えながら、少しばかり自分の手元を思い返す。言われてみれば、割る前に足の位置を直している。丸太が相手でも、正面には立たず、半歩ずらして立っている。抜けないものだ、と思う。
マグダは白湯を飲み干すと、椀を戸口の段に置いて、裏庭に下りてきた。物干しに使っている樫の棒を、ひょいと手に取る。
「ちょいと付き合いな。腹ごなしだ」
「……薪が、まだ」
「薪は逃げないって言ったろ」
言うなり、棒の先がこちらの膝を払いに来た。
レイフは斧を置いて跳びのき、立てかけてあった天秤棒を掴んだ。掴んでから、相手をする気になっている自分に気づいた。まんまと乗せられている。
薪の山の脇では、エルドが繕い物の手を止めて、目を丸くしていた。
◇
マグダの剣術は、妙な型だった。
型がない。と、最初は思った。構えは崩れ、足はふらりと出て、打ち込みは酔っぱらいの喧嘩のようにでたらめに見える。だが三合も合わせれば分かる。崩れているのではなく、崩してある。でたらめに見える打ちの角度が、こちらの受けの癖をひとつずつ試している。そのくせ、間合いの外し方にだけ、変に行儀のいい足さばきが混ざる。喧嘩剣とも、家中の稽古の剣とも違う。どこで身につけた剣か、見当がつかなかった。
二度、転がされた。
同じ形ではない。一度目は膝、二度目は襟。痛くない転がし方で、急所だけを正確に拾っていく。手加減の上手さは、強さより、なお分かりやすい。
三度目、レイフは受けるのをやめた。
打たれるつもりで半歩踏み込み、棒の下をくぐって、相手の肩口へ振った。当たる、と思った寸前で、マグダの身体が消えるように沈み、レイフの一撃は空を打った。かわりに、伸びてきた樫の棒が、こちらの喉元の寸前でぴたりと止まっていた。
「レイフ」
薪の山のほうから、声が飛んだ。
エルドが腰を浮かせていた。繕い物が膝から落ちている。棒が止まっているのを見て取ると、少年はゆっくり座り直し、咳払いをひとつした。
「……取り乱した。続けてくれ」
「いえ。終わりです、エルド様」
言ってから、レイフは口を閉じた。人前で出す名ではなかった。呼ばれたほうも、呼んだほうも、まずいという顔を同時にした。
マグダは棒を下ろして、肩に担いだ。
「あたしの耳は、都合よくできててね。いまのは聞こえなかったよ」
それだけ言って、こちらへ向き直る。担いだ棒の先で、レイフの胸元をとんと突いた。
「最後の踏み込み。あれは、狙って出したのかい」
「……当たると、思ったので」
「そうかい」
マグダはしばらく黙って、レイフの顔と、手と、足元とを順に見た。市で品を検分するときの、あの目だった。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「明日から、朝飯の前にここへ出な。ふたりともだよ」
「……剣を、教えていただけるのですか」
エルドが立ち上がって訊いた。マグダは棒を物干しに戻しながら、振り向きもしなかった。
「暇つぶしだよ。あたしの」
◇
それからの朝は、乾いた木を打ち合う音で始まるようになった。
場所は宿の裏庭から、町外れの原っぱに変わった。朝の早いうちなら人目がない、とマグダが決めた。得物は木剣。レイフが薪の樫材から二振り削り出したもので、初日にマグダは片方を検分し、「器用だねえ。傭兵より木地師のほうが向いてるんじゃないかい」と減らず口を叩いた。それでいて、柄の握りには手を入れなかった。太さが、初めからちょうどよかったのだ。
エルドの剣は、綺麗だった。
踏み込みは軽く、太刀筋はまっすぐで、型のどこにもよどみがない。城で仕込まれた剣術が、細い身体にきちんと入っている。その綺麗な打ち込みを、マグダは受けて、いなして、最後に必ず足を払った。エルドは草の上に転がる。転がって、すぐ起きる。
「いまのは、二の太刀のあとの足です。踏み替えの瞬間を、狙われました」
「ご名答。で、分かってて三度転がったのは、どこのちびだい」
「……四度目は、転がりません」
四度目。エルドは二の太刀を途中で捨て、踏み替えずに引いた。マグダの足払いは空を切り、エルドの木剣の先が、初めてマグダの外套の裾に触れた。
「よし」マグダはにやりとした。「賢いね。頭で剣を使うたちだ。……ただし、頭で使う剣は、頭が追いつかない相手には通じない。考える前に手が動くまで、同じ引きをあと千回だ」
「千回」
「不服かい」
「いえ。数えやすくて助かります」
エルドは眉ひとつ動かさずに答えて、一回目、と数えながら木剣を引いた。マグダが吹き出して、二回目が少し遅れた。
レイフへの注文は、まるで違った。
「あんたの剣は、正直すぎるんだよ」
打ち合いの合間に、マグダは何度もそう言った。
「太刀筋の話じゃない。顔の話だ。あんた、打つ前に、打つ顔をする。目の玉が先に動いて、息が半拍止まる。分かる奴には、それだけで次が読める。……荷を運んでるときの、あの何も考えてない顔があるだろう。あの顔のまま打てるようになりな」
「何も考えていないわけでは、ないのですが」
「おや、そうかい」
以来、レイフは打ち込みながら顔を消す稽古をさせられている。これが薪割りより難しい。難しいが、マグダの言い分は骨身に染みて分かった。あの夜、松明の追っ手をやり過ごした藪の中で、レイフは息の音まで殺せたのに、いざ得物を握ると、身体のどこかが先走って喋りはじめるのだ。
喋らない身体を作る。マグダの仕込みは、つまるところ、その一点に向かっていた。
稽古が終わると、水を汲み、薪を割り、昼は荷を受け、夕方には市へ供をする。エルドは買い出しの供で、もう卵と干し魚の相場をそらんじている。この前など、卵売りの言い値の崩し方は理詰めが過ぎて、売り手のほうが涙目になった。帰り道、マグダは笑いながらエルドの頭をはたいた。
「勝ちすぎだよ、ちび。売り手の面目も値のうちだ。次から、最後の一枚は向こうに勝たせな」
「……勝たせるのも、値のうち」
エルドは口の中でもう一度繰り返した。新しい相場をしまい込むときの、あの目になっていた。
◇
ある日の昼、酒問屋の荷馬車が二台入った。
樽の積み下ろしはレイフの仕事だ。両脇にひとつずつ抱えて蔵と庭を往復していると、問屋の人足たちが目を丸くし、帳場から出てきた亭主が揉み手をしながら笑った。
「いやあ、うちの力自慢は評判でねえ。問屋が引き抜きたいと抜かすんで、断っておいたよ」
仕事が終わると、亭主は約束の飯のほかに、銅貨を四枚くれた。二台目は約束の外だから、と言う。レイフは頭を下げて受け取った。自分の銭というものを持つのは、ずいぶん久しぶりだった。
夕方の市で、その四枚の使い道が見つかった。
古道具屋の店先だった。欠けた鍋や、錆びた蝶番や、持ち主のなくなった雑多な品の間に、一冊の帳面が紐で吊るしてあった。商人が仕入れの控えに使う、ありふれた綴じの品だ。ただし、綴じ糸が片側に寄って、表紙が少し斜めに歪んでいる。仕立てをしくじった物だろう。中の紙は、白いままだった。
レイフは、その前で足を止めた。
自分でも、なぜ足が止まったのか、すぐには分からなかった。分からないまま、吊るされた一冊を眺めていた。隣で干し魚を検分していたエルドが、視線に気づいて寄ってくる。
「……欲しいのか」
「はい」
考えるより先に、返事が出た。エルドは一瞬だけこちらの顔を見て、それ以上は何も訊かず、店主に向き直った。
「主人。その帳面は」
「おっ、お目が高い。紙は上物だよ。銅貨六枚でどうだい」
「綴じが片側に寄っている」エルドは吊るされた帳面を指した。「表紙は歪み、末の頁は波を打っています。一度、湿気を吸わせましたね。書き物の途中で頁が抜けるものに、六枚は出せない。四枚なら」
「……兄さんの連れは、どこの番頭さんだい」
店主はぼやきながら、四枚でそれを下ろした。レイフは銅貨を四枚、数えて渡した。ちょうどだった。稼いだそばから財布が空になったわけだが、不思議と、惜しくはなかった。
帰り道、先を歩くマグダが、振り向かずに言った。
「でかいのが帳面とはね。明日は雪かね」
「……字は、いちおう書けます」
「そりゃ失礼」
マグダはそれきり何も訊かなかった。エルドも訊かなかった。
◇
夜、夕餉の片づけが済んだころ、マグダが物置きの戸口から何かを放ってよこした。
両手で受け止める。使いさしのインク壺と、切り出した羽根ペンが一本、紐でくくってあった。
「余りもんだよ」マグダは壁にもたれて、今夜の何杯目かの杯を舐めた。「こぼすんじゃないよ。床は宿のもんだ」
「……頂戴します」
「あたしは何も訊いてないからね」
「はい」
「けど、ひとつだけ言っとくよ」杯の縁の向こうから、マグダはちらりとこちらを見た。「書いたものは、書いた奴より長生きする。いいことも、悪いこともだ。……ま、あんたなら大丈夫だろうけどね」
それだけ言って、母屋へ引き上げていった。
物置きの隅では、エルドがもう毛布にくるまっていた。寝息は静かで、深い。稽古と買い出しで、目いっぱい使った一日の眠りだ。ここへ来たばかりの頃の、浅くて途切れがちな眠りとは、もう違う。
レイフは隣の台所へ移り、竈の残り火のそばに座って、膝の上で帳面を開いた。
白い頁に、火明かりが揺れている。羽根ペンにインクを含ませ、構えて——手が、止まった。
字の書き方を、手が思い出せない。いや、覚えてはいる。ただ、久しぶりすぎて、ペン先をどれほどの強さで置けばいいのか、指が迷っている。こんなふうに書き物を前に固まるのは、二度目だった。
一度目は、城の従士部屋だ。二年と少し前の冬。
従士に上がったばかりのレイフには、剣や馬のほかに、字を習う務めがあった。城仕えの従士は、伝言や帳付けを受け持つ日が来る。読み書きは剣と同じ心得のうち——と、教え役の年寄りは言ったが、それが剣の十倍つらかった。手本を前に石板と向き合っていると、瞼が石板より重くなる。書いた字は、教え役をして「蚯蚓の凍え死んだ跡のほうがまだ読める」と言わしめた。
それを、稽古の帰りに通りかかったエルドに見られた。
当時十一歳の主君は、レイフの石板を覗き込み、笑わなかった。かわりに腕組みをして、しばらく唸り、それから言った。
「教え方が悪い。俺が教える。そのほうが早い」
翌日から、書庫の隅で、妙な手習いが始まった。エルドは蝋板を二枚持ち出してきて、一枚をレイフに押しつけた。書き損じたら、蝋を温めて均せばいい。何度でもやり直せる。紙と違って、費えも要らない。
「まず、おまえの名前だ」と、小さな師匠は言った。「自分の名も書けない男に、ほかの字を教えても仕方がない」
レイフは自分の名を、百回は書いた。はじめの十回は、エルドの手本を横に置いて写した。次の十回は、線が一本多いだの、傾いでいるだの、いちいち注文がついた。三十回を過ぎたあたりで、注文が止まった。五十回目に、エルドは蝋板を取り上げてしげしげと眺め、こう言った。
「……おまえの字は、四角いな。石垣のようだ」
「駄目ですか」
「頑丈でいい」
それから冬のあいだ、手習いは剣の稽古の裏で続いた。馬の名前。武具の名前。城の中の場所の名前。教える題目を選ぶのはいつもエルドで、選び方には妙に実があった。従士が日々の務めで書かされる言葉から、順に来るのだ。遊びがてらのくせに、教え方は教え役の年寄りより、よほどうまかった。得意げに胸を張るから、そうは言ってやらなかったが。
春が来る頃には、レイフはひととおりの字を書けるようになっていた。相変わらず四角い、石垣のような字ではあったけれど。
——その石垣が、いま要る。
レイフは、ペン先を紙に置いた。
世間は、あの夜を北の大火と呼ぶ。謀反だの何だのと、物騒な尾ひれをつけて、噂は北から南へ駆けていく。そして、あの家の本当のところを知っている者は、もうほとんど残っていない。御館様の顔も、奥方様の茶の香りも、沢の焚き火も、口上を百回さらった十三の子どもの声も。
俺は、覚えている。
だから、書いておく。誰に読ませるためでもない。ただ、世間の噂がどれだけ膨れても、ここに本当のことがある、というだけのために。字は、書いた奴より長生きするそうだから。
それに——書くべきことは、思い出のほかにも、ある。
あの夜、広間の壁際で、黒い装いの兵たちの手の甲に——あの紋に、何かが起きた。何が起きたのかは、いまも分からない。誰ひとり誓いを破っていないのに、何もかもが裏切られた。あれが何だったのか、意味の解ける日がいつか来るのなら、そのとき突き合わせるための「見たまま」を、覚えている者が要る。
それも、この帳面の役目だ。
最初の一字で、手が止まった。
名前を、書こうとしたのだ。この帳面が誰の話か、はじめに置いておくつもりで。だが、ペン先は紙の上で止まった。もしこの一冊が人手に渡ったら。追われている名が、ここに並んでいたら。追われてる者の買い物は、値切りまでが逃げ足——マグダはそう言った。なら、書き物にも逃げ足が要る。
名前は、書かない。俺が覚えていればいい。
レイフはインクを含ませ直し、不格好な、四角い、石垣のような字で、最初の一行を書いた。
——主は、俺より三つ下で、俺より字がうまい。




