第06話 銅貨の値打ち
目が覚めると、見知らぬ天井の梁に、玉葱がぶら下がっていた。
いや、見知らぬ、はもう正しくない。宿の裏手の物置き。筵と古毛布の寝床。竈の煤の匂い。ここで寝起きをするようになって、今日で四日目になる。熱で寝込んでいた三日のあいだ、記憶は切れ切れだが、火の番をするレイフの背中と、湯気の立つ椀を持って出入りする赤銅色の髪だけは、切れ切れの全部に映っていた。
エルドは身体を起こした。節々の重さが、抜けている。
戸口の外から、薪の割れる音が規則正しく聞こえてくる。レイフはもう働いているらしい。そしてその手前、戸口の段に、マグダが腰かけていた。銅貨を一枚、指の背で器用に転がしながら、こちらを見ている。
「起きたね。顔色も戻った」
「……おかげさまで」
エルドは寝床の上で居住まいを正し、胸から上を傾けた。三日ぶんの礼は、まだ言えていない。言おうとするたび、この人ははぐらかすのだ。それでも、けじめは要る。
「改めて、御礼を申し上げます。私は——」
「よしな」
マグダは銅貨を指に挟んで、ひらりと振った。
「名乗りは要らないよ。どうせ偽名だろうし、偽名を覚えるのは骨だからね」
「……偽名を、名乗るつもりは」
「なら、なおのこと聞かないよ」
こともなげに言って、マグダは立ち上がった。言い返す言葉を、エルドは持たなかった。この人は、こちらの名も、素性も、あの夜から一度も訊かない。詮索されないことが、これほど息のしやすいものだとは、知らなかった。
「呼び名は、こっちで勝手につけるさ。でかいのと、ちびで十分だろ」
「……ちびでは、ありません」
「じゃ、坊やかい」
「…………ちびで結構です」
「話が早いね」
マグダは笑って、それから、握っていた銅貨を、まとめてエルドの手のひらに落とした。ちゃり、と冷たい音がした。十五枚ある。
「病み上がりの足慣らしだ。市場で買い物をしといで。パンをふたつ、玉葱をひと連、塩をひと袋、油を小瓶に一本。……釣りは数えるからね」
「はい」
「でかいのは連れていかない。あんた一人だよ」
戸口の外で、薪の音が止まった。
止まったきり、何も言わない。何も言わないのが、あれで精一杯の物言いなのだ。マグダは戸口へ向かって、聞こえよがしに言った。
「市までは一本道だ。迷子になりようがないだろ」
薪の音が、渋々といった間を置いて、再開した。
エルドは十五枚の銅貨を握った。買い物か、と思う。物の値打ちなら、学んでいる。帳面の読み方も、頭に入っている。塩がどれほど貴重で、油が何から採れるかも言える。何も、案ずることはないはずだった。
◇
市場は、ぬかるみと人と声でできていた。
板を渡した通りに、屋台と荷車がひしめいている。魚の塩の匂い、革の匂い、湯気の匂い。売り手の声が四方から重なって、誰が何を叫んでいるのか、途中から団子になって聞き取れない。エルドはフードをかぶり直して、人の流れの端を歩いた。
門のほうから槍を担いだ番の男が歩いてくると、身体が勝手に、パン屋の軒へ半歩入った。考えるより先に、そうなる。この数ヶ月で覚えたことの九割は、たぶんこれだ。番の男は何も見ずに通り過ぎた。
パン屋は、恰幅のいい女だった。
「丸パンをふたつ」
「あいよ、ふたつで銅貨四枚」
四枚を数えて渡すと、女は焼き立ての丸パンを布に包み、おまけだと言って端の欠けたのを一切れ載せてくれた。買い物とは、こういうものらしい。エルドは礼を言って、包みを抱えた。何も難しいことはない。
人混みの中で、若い母親が、子どもの曲がった襟を直してやっていた。
エルドは目を逸らして、パンの包みを抱え直した。次は玉葱と塩と油だ。やることを、頭の中で並べ直す。並べ直すと、歩ける。
乾物と雑貨の店は、市場の中ほどにあった。
狭い間口に、塩の袋、干し豆、縄、油の瓶が積み上がっている。店主は痩せた男で、揉み手をしながらエルドを迎えた。
エルドは店先で足を止め、手の中の銅貨を数えた。パンで四枚使ったから、残りは十一枚。玉葱と塩と油で、足りるだろうか。手のひらの上で一枚、二枚、と数え直し、十一枚あることを確かめてから顔を上げた。店主はその手元を、にこにこと眺めていた。愛想のいい男だ。
「いらっしゃい。坊ちゃん、何を差し上げましょう」
「玉葱をひと連、塩をひと袋、油を小瓶に一本」
「へえ、へえ。玉葱が三枚、塩が五枚、油が三枚——〆て十一枚で」
ちょうどだ。足りてよかった、と思いながら、エルドは一枚、二枚、と数えて袋の脇に積んでいく。
塩は貴重品だ。五枚は妥当なのだろう。相場を知らぬ者が言い値を疑うのは、店主の誠実を疑うことで、礼を失する。第一、値切るというのは、こちらから相手の申し値を崩す行いだ。盤上遊戯なら、根拠のない手は指さない。根拠になる相場を、エルドは持っていない。ならば言い値で払うのが筋——
九枚目を積んだところで、隣に、影が立った。
レイフだった。
気配もなく、いつの間にか、そこにいた。レイフは何も言わなかった。ただ、積まれた銅貨を一度見て、それから塩の袋を手に取り、重さを確かめるように少し傾け、静かに元へ戻した。そして、店主を見た。
見ただけだった。
「——ああ、いや、坊ちゃん」店主の揉み手が、揉んだまま止まった。「すまんね、いま言ったのは冬の値だ。春はもう、塩の道が開くんでね。ええと、玉葱が二枚、塩が三枚、油が二枚。〆て七枚だ。うん、七枚」
「……冬の、値」
「そう、冬の値。うっかりしてた。ははは」
店主は自分で積まれた銅貨から七枚だけを取り、残りをエルドのほうへ丁寧に押し戻して、大急ぎで品を包みはじめた。エルドは戻ってきた銅貨と、隣のレイフと、汗をかきはじめた店主とを順に見た。
何かが起きたのは分かった。何が起きたのかが、分からなかった。
◇
帰り道、エルドは包みを抱えて、考えていた。
冬の値。春には塩の道が開く。理屈は通っている。通っているのに、あの店主の目は、値を言い直すあいだじゅう、こちらではなくレイフの手元を見ていた。剣の柄ではない。手元をだ。それに、最初の十一枚という数字——あれは。
足が、止まった。
「……レイフ」
「はい」
「俺は、店の前で、財布の中身を数えて見せたな」
「はい」
「十一枚残っている、と分かる形で」
「はい」
「そして玉葱と塩と油の言い値は、締めて十一枚だった」
「はい」
はい、しか言わない男である。エルドは天を仰いだ。ぬかるみの上の、春の薄い青空だった。盤を見誤ったのではない。見る盤を、間違えたのだ。あの店先で開かれていたのは、玉葱の値定めなどではなかった。こちらの財布と、こちらの顔を読む、別の勝負だった。
「……いつから見ていた」
「粉屋の角からです」
「最初からではないか」
「はい」
「なぜ黙っていた」
「……ご自分で、気づかれましたので」
言い返せない返事ばかりする男でもある。エルドは包みを抱え直して、歩き出した。悔しさはあった。あったが、それより先に、頭の中の帳面が音を立ててめくれていく。丸パンふたつ四枚。玉葱二枚。塩三枚。油二枚。覚えた。この町の相場は、覚えた。次は間違えない。
◇
夕餉は、宿の台所の隅だった。
客のいない時分を借りて、マグダが大鍋をかき回している。干し肉と豆と、昼間の玉葱が、区別を諦めた形になるまで煮込まれた何かだった。味は濃い。とにかく濃い。
エルドは椀を膝に置き、匙で少しずつ掬って食べた。ろくに食えなかった数ヶ月の後では、濃さも温かさのうちだ。それでも器の縁に匙の背で寄せた豆の皮は、無意識のうちに、行儀よく一箇所に揃っていた。
「文句のある顔だね」
「……ありません」
「その豆の皮の並べ方が、もう文句なんだよ」
マグダは笑って、自分の椀を豪快にあおった。向かいでレイフが、黙々と三杯目を食べている。この男は、味の濃さと量が両立していれば、たいてい満足なのだ。
食べ終わると、マグダは卓の上を指で叩いた。
「さて。釣りを見せてもらおうか」
エルドは布の巾着から銅貨を四枚出して、並べた。マグダは一枚ずつ、指の先で弾いて数える。
「パンふたつで四枚。玉葱二、塩三、油二で七枚。〆て十一枚。釣り、四枚。……勘定はぴったりだ。上出来じゃないか」
「……恐れ入ります」
「で、だ。あんた最初、十一枚で払いかけたろう」
エルドの匙が、止まった。向かいのレイフを見る。レイフは首を横に振った。言っていない、という顔だ。マグダはにやにやしながら、自分の杯に安酒を注いだ。
「見てたからね。乾物屋の向かいの、笠屋の陰から。あんたが出て、薪の音が三つでやんで、でかいのが消えて、それであたしも店番を放り出したのさ」
「……尾けて、いたのですか」
「あんたらだけ行かせるわけないだろ、初日から」マグダは杯を舐めた。「いやあ、いいものを見たよ。言い値を聞いたあんたが、疑いもせずに、いい姿勢で銭を積みはじめてさ。店主の顔がどんどん明るくなっていくんだ。豊作の年みたいな顔でね。そこへ、でかいのが、のっそり」
マグダは芝居がかって、塩の袋を持ち上げる真似をした。
「ひと言も言わない。塩を持って、傾けて、戻して、店主を見る。それだけで玉葱が一枚、塩が二枚、油が一枚下がった。合わせて四枚。ひと睨みで四枚の顔ってことだよ、でかいの。傭兵になったら食いっぱぐれないね」
「……なりません」
「だろうね」
レイフが真顔で答え、マグダが吹き出した。エルドは笑えなかった。四枚。この四枚は、レイフの睨みが取り返した四枚だ。自分はあのまま、にこにこと毟られていた。
「マグダ殿」
「殿はよしとくれ、鳥肌が立つ」
「……マグダ。私はどこで間違えましたか。相場を知らぬ者が言い値を疑うのは、店主への礼を欠くと考えました。それは間違いですか」
真っ向から訊くと、マグダは杯を置いた。にやにや笑いが、すっと商売の顔になる。
「礼ってのはね、ちび、相場を覚えてから言う言葉だ。相場を知らずに言い値で払うのは、礼儀じゃない。『あたしは勘定ができません』って看板を提げて歩いてるのと同じだよ。看板を見りゃ、まっとうな店主だって、つい値札を書き足したくなる。人を試すんじゃないよ、気の毒に」
「……看板」
「それと、店先で財布の中身を数えて見せない。言い値が財布の残りとぴったり同じ十一枚——偶然だと思うかい。あんたが数えて見せた銅貨を、向こうも数えてたのさ」
ぐうの音も出ない、とはこのことだった。エルドは頭の中の帳面に、太い字で書きつけた。財布は、見せない。
「だがね、いちばんの間違いは、値段の話じゃないよ」
マグダは杯を持ち直して、火のほうへ目をやった。
「気前よく払う客ってのは、店主にとっちゃ、春が歩いてくるようなもんだ。忘れるもんかね。明日には市場じゅうが知ってるよ。——姿のいい、目の色の綺麗な坊やが、言い値で払ってくれたってね」
……あ、と思った。
「安く買うのは、銭のためじゃない。忘れられるためだ。値切って、買って、消える。誰の記憶にも引っかからない。……追われてる者の買い物は、値切りまでが逃げ足なんだよ」
追われてる者、のところで、マグダはこちらを見なかった。エルドは椀の底の豆を見つめた。恥ずかしさは、もうなかった。かわりに、銅貨一枚の後ろに透けているものの多さを、はじめて思った。パンひと切れの値段の向こうに、明日も無事でいられるかどうかが懸かっている。それが、この暮らしの銅貨の値打ちらしかった。
「……肝に銘じます」
「よろしい」
マグダは満足げにうなずいて、鍋の残りを三人の椀に等分に分けた。それから、思い出したように、軽い声で言った。
「そういえば、市で北の荷主が話してたよ。冬の頭に、ずっと北で、城がひとつ丸ごと焼けたんだとさ。ファーレンとかいう、お偉い辺境伯の家だそうだ。荷主どもは、北の大火、なんて呼んでたね。謀反だの何だのと、物騒な尾ひれつきでさ」
匙が、椀の縁に触れて、小さく鳴った。
鳴らしたのが自分だと気づくまでに、一呼吸かかった。エルドは、人前の顔を作った。作れたはずだった。頬の内側を噛んで、匙を置く手を、ゆっくりと動かす。向かいのレイフは、止まっていた。四杯目の椀を持ったまま、指の一本も動いていない。
マグダは、こちらを見ていなかった。
自分の杯に目を落として、酒を一口含み、それから、伸びをひとつした。
「ま、北は遠いね。あたしらには関わりのない話だ」
それきりだった。
誰が、とも、何を知ってる、とも訊かれなかった。竈の火が爆ぜる音だけが、しばらく台所に響いた。エルドは、この人はどこまで見えているのだろう、と思い、それから、考えるのをやめた。
「よし、決めた」
マグダが杯を干して、卓を叩いた。
「居候は今日で終わりだ。明日からは、飯の分は働いてもらうよ。でかいのは薪と水汲みと力仕事。ちびは、あたしの買い出しの供だ。荷物持ちじゃないよ、値切り見習いだ。この町の相場をぜんぶ頭に入れて、あたしより上手く買えるようになったら——」
「……なったら」
「荷物持ちに格上げしてやろう」
「……精進します」
エルドが大真面目に頭を下げると、マグダはまた吹き出し、レイフの肩まで小さく揺れた。笑われる筋合いはないのだが、と思いながら、エルドは椀の最後のひと匙を、行儀よく口に運んだ。濃くて、熱くて、悪くない味だった。
寝床に戻って毛布にくるまってからも、頭の中の帳面は、まだ開いていた。丸パン二枚、玉葱二枚、塩三枚、油二枚。明日は卵と干し魚の相場を覚えよう。あの塩の店は、こちらの顔を覚えた。当分は使わない。市場の出入りは、東の口より西の口が人が多くて紛れやすい——
明日、という言葉に、形がある。
雪の中を歩いていたあいだ、なかったものだった。エルドは目を閉じた。薪の匂いのする闇の中で、明日の市場が、盤面のように広がっていた。




