第05話 酒場の姉御
賽子の目が、また六を出した。
これで五度目だ。マグダは壁際の定席で、安酒の杯をゆっくり傾けながら、それを横目に数えていた。
北部の、街道が三つ交わる宿場町。雪解けどきの酒場は、ぬかるみに足止めを食った旅人と荷運びで、そこそこに埋まっている。土間の真ん中の卓では、行商ふうの男がひとり、若い馬子を相手に賽を振っていた。男の前には銅貨の山。馬子の前には、もう三枚しか残っていない。
「ついてるなあ、俺は。すまんな、兄ちゃん。ここらでやめとくか」
「い、いや。次だ。次は倍で」
「おいおい、無理はいけない。……ま、兄ちゃんがどうしてもって言うなら」
やれやれ、という顔で男が賽を集める。その手つきを、マグダは杯の縁ごしに見ていた。
見なけりゃよかったんだけどね、と思う。見えてしまうのだから、仕方がない。
「あんた」
声を張ったわけでもないのに、卓の賭けがぴたりと止まった。酒場のこういう静まり方には慣れている。マグダは杯を置いて、行商ふうの男へ顎をしゃくった。
「その賽、振る前に袖の中のと替えてるだろ。左の袖口。さっきから五度」
「……何の言いがかりだ」
「言いがかりかどうかは、袖を返せば分かる。自分で返すかい。それとも、あたしが返そうか」
マグダは立ちもしなかった。ただ、卓に頬杖をついて笑ってみせた。男の目が、マグダの腰の短剣と、店の奥の亭主と、戸口とを順に泳ぐ。それで話は済んだ。男は舌打ちをして袖から重り入りの賽をひとつ卓に転がし、銅貨の山を置いたまま、ぬかるみの往来へ消えていった。
酒場が、どっと沸いた。
「さすが姉御」
「姉御はよしとくれ。あんたらの娘と、いくつも違わないよ」
二十歳を二つ三つ出たばかりの女をつかまえて、この店の客は姉御と呼ぶ。腕が立って口も立つとなると、歳のほうは勘定に入れてもらえないらしい。肩の上で無造作に切りそろえた赤銅色の髪も、勝ち気だとよく言われる目つきも、酔客の目には貫禄のうちに映るのだろう。
マグダは杯に戻った。若い馬子が、拾い集めた銅貨を握りしめて、おずおずと頭を下げに来る。
「あ、あの。恩に着ます」
「恩に着るくらいなら、覚えときな」マグダは指を一本立てた。「向こうから倍賭けを持ちかけてくる奴の賽は、まず疑う。あんた、あの賽を一度でも検めたかい」
「……いえ」
「賭けってのはね、卓に銭を置く前に、九割がた終わってるんだよ。相手を見る。道具を見る。それをしないなら、あんたの銭は最初から相手の懐にある。分かったら、その三枚で馬に飼い葉でも買っといで」
馬子は首をすくめて、それでも何度も頭を下げて帰っていった。悪い子じゃない。ああいう素直なのから毟られていくのが、街道の理屈というものだ。
「相変わらず、商売の邪魔だけは達者だねえ」
帳場から亭主が言った。禿げ上がった額に、揉み手だけは商人のままの、この宿場の顔役だ。
「いかさまの銭で呑まれるほうが、店の名に傷だろ」
「へいへい。……ところで姉御、今夜はそれで何杯目だい」
「数えるんじゃないよ」
三杯目だ。訊かれなくても覚えている。……杯の数を数えきれなくなっていたころより、ずっとましだ。マグダは残りを干して、手の甲で口を拭った。
マグダがこの町に流れ着いて、ふた月になる。亭主に頼まれて、市の日の店番だの、質の悪い酔客のつまみ出しだの、荷横領の疑いのある人足の顔検めだのを請け負って、部屋代と酒代に換えている。腕の立つ女がひとり店にいると、それだけで揉め事が減るのだと亭主は言う。都合よく使われている自覚はあるが、当分はそれでよかった。行くあてがあるわけでもなし。
椅子の背には、古びた外套が掛けてある。
着古して色の抜けた、灰色の外套だ。その胸元に、何かを外したあとの縫い痕が、四角く残っている。何の痕かと訊いた者が、昔ひとりだけいた。その夜のマグダの呑み方を見て、それきり誰も訊かなくなった。
夜がふけて客が引けると、マグダは最後の一杯を手酌でやる。この時刻の一杯だけは、なぜだか味がしない。分かっていて、毎晩注ぐ。杯の底の自分と目が合う前に干して、二階へ上がる。それが、ここ一年の締めくくりだった。
窓の外は、また雨になっていた。春先の雨は、冬の名残の雪より冷える。
◇
翌日は市の日で、朝から晴れた。
マグダは亭主の言いつけで、市に出した宿の店先——塩漬け肉と干し魚の樽——の番に立っていた。ぬかるみに板を渡しただけの市場通りは、それでも冬明けの人出でごった返している。
その人混みの向こうに、あの二人がいた。
ここ数日、見かける顔だった。粉屋の荷車のそばで、大きいほうが粉袋を担いでいる。歳は十六か、七か。着ているものは繕いだらけのぼろだが、妙なことに、汚れてはいない。ぼろのくせに、手入れの行き届いたぼろだ。袋を担ぐ肩の据わりがよく、重さで重心がぶれない。荷運びの足ではないな、とマグダは思った。ああいう足の運びは、荷で作られたものじゃない。
腰に、剣を提げている。数打ちの安物だ。なのに、柄も鞘も使い込まれて、錆のひとつも浮いていない。飾りで提げている剣ではなかった。
賃金は銭ではなく、パンの端切れで受け取っていた。粉屋がもういいと手を振っても、大きいほうは積み残しの袋を最後まで運びきってから、ようやくパンを受け取った。律儀なことだ。
小さいほうは、荷車の脇で二人分の包みを抱えて待っていた。
十三か、四か。フードを目深にかぶっているが、覗く髪は亜麻色で、顔色は青白い。ぼろを纏っているくせに、妙に姿がいい。屋台のおやじが、邪魔だ、どきな、と手を振ると、小さいほうは一歩下がって、頭を下げた。
その辞儀に、マグダの目が止まった。
ぺこりと下げたのではない。膝は折らず、背を丸めず、胸から上だけを静かに傾けて、また戻す。物乞いの辞儀でも、小僧の辞儀でもない。ありゃどこの若様だい、と胸の内で茶化して——茶化したところで、やめた。
深入りはしない。それが、ここ一年の決めごとだ。
人を見立てるのは、やめたのだ。理由まで思い出してやる義理はない。
それでも、見立てなくても見えるものはある。大きいほうは、袋を担いでいる間も、目だけは通りの出入りを順に浚っていた。背中を往来へ向けない。座るときは壁を背にする。ああいう背中を、マグダは知っている。追われている者の背中だ。どこでその見分けを覚えたのかは——これも、思い出さない決まりだった。
二人には、それらしい荷も、冬を野で越せる装えもない。出てきたくて出てきた旅でないことくらい、それだけで知れる。盗めば早かろうに、盗んだという噂は聞かない。大きいほうが身体を働きに換えて、一切れのパンで二人が食い繋いでいる。
それだけ見えれば、十分だった。十分すぎた。
一度だけ、小さいほうが粉屋に何か申し出て、断られるのを見た。袋を指さし、自分の胸を叩き、また袋を指さす。おおかた、自分も運ぶと言ったのだろう。粉屋は笑って手を振った。当たり前だ。十三かそこらの、風で折れそうな子に担がせる袋はない。小さいほうは食い下がりもせず、例の辞儀をひとつして、荷車の脇へ戻った。戻った横顔が、歳よりずっと大人びて見えた。
マグダは目を戻して、塩漬け肉の樽の上の蠅を追った。関わらない。あの手のわけありに関わって、いいことなど何もない。
「姉御、その肉、いくらだい」
「ひと塊、銅貨五枚」
「三枚にしとくれよ」
「おや。安くしたら買うのかい」
「五枚は高いだろう」
「高いのは値段じゃなくて、あんたの声だよ」マグダは樽の蓋を叩いた。「これはね、塩をたっぷり使って、ひと冬蔵で寝かせた肉だ。三枚で欲しけりゃ、雨で塩の抜けかけたやつを裏から出してきてやるけど、どうする」
「……分かった、四枚で」
「五枚だよ。まかると踏んで粘る客にまけたことは、生まれてこのかた一度もないね。そのかわり、端の切り落としを付けてやる。粘り賃だ」
客が唸って、笑って、五枚払った。周りの卓から、姉御から切り落としを引き出した、と冷やかしが飛ぶ。引き出させてやったんだよ、と言い返しながら、マグダは銅貨を前掛けに落とした。
顔を上げたときには、人混みの向こうの二人は、もう見えなくなっていた。
◇
それから、雨が続いた。
春の長雨は市を止め、荷を止め、日雇いの口を止める。酒場は逆に、足止めの客で埋まった。マグダは二晩つづけて厄介な酔客をつまみ出し、雨が三日目に入った夜、亭主に裏を見てくるよう頼まれた。
「荷小屋の軒に、流れ者が居着いてるらしい。客が気味悪がるんでね。……手荒はなしだよ、姉御」
「あいよ」
明かりも持たずに裏へ回った。雨は糸のように細くなっていたが、そのぶん冷えは深く、吐く息が白かった。
荷小屋の軒下に、ふたつ、影があった。
あの二人だった。
小さいほうが、壁にもたれて座り込んでいる。フードの下の顔は白く、頬のあたりだけが熱に赤い。目は開いているのに、こちらに焦点が合っていない。荒い息が、白く途切れ途切れに立ちのぼる。その肩に、大きいほうの上着が掛けてあった。当の大きいほうは、肌着に近い格好で雨のかからない際に膝をつき、小さいほうの前に、壁のように身体を置いている。
マグダの足音に、大きいほうが顔を上げた。
上げて、立った。よろけた。膝が、もう使いものになっていない。二日の雨で、日雇いの口も涸れたのだろう。頬がこけて、唇の色が抜けている。それでも立って、小さいほうとマグダの間に身体を入れ、目だけは真っ先に、マグダの腰の得物を見た。
こんな身体で、順番だけは間違えないんだね。
「……ここは、宿の敷地だそうだよ。居着かれると、客が嫌がるんだと」
言いつかった通りのことを、マグダは言った。我ながら、ずいぶん平べったい声だった。
「……すみません。すぐ、出ます」
北の訛りの残る、掠れた声だった。大きいほうは頭を下げ、小さいほうの前にかがみ込む。背負うつもりだ。この膝で、この雨の中を、どこへ。
背負われかけた小さいほうの目が、うっすらと開いた。熱に潤んだ目が、マグダのほうへ、ゆらりと向く。見えているのかどうか。それでも、その子は掠れた声で、はっきりとこう言った。
「……雨宿りを。……痛み入る」
古風な、貴人の礼の言い方だった。熱に浮かされた頭から、素のまま出てきた言葉なのだろう。ぼろをまとって、軒下で凍えて、意識も定かでない子どもが、追い立てに来た女に礼を言っている。
マグダは、口の中で悪態をついた。
誰にというわけでもない。強いて言うなら、こんな夜に裏を見てこいと言った亭主と、こんな軒下を選んだ二人と、それから、見えてしまう自分の目に、だ。
一度、きびすを返した。
三歩、歩いた。三歩で、止まった。雨音の向こうで、あの掠れた礼の声が、まだ耳に残っている。
関わらない、と決めたのだ。人を見立てて、取り返しのつかない間違いをしてから、人を量るのはやめた。やめたはずだった。だが、これは見立てじゃない。目の前で凍えている子どもがいて、それを庇って立ったまま倒れかけている子どもがいる。それだけのことに、目利きも何も要りはしない。
雨が、糸から霧に変わっていく。
マグダは息をひとつ吐いて、頭を掻いた。それから、荷小屋の軒下へずかずかと歩み寄り、大きいほうの正面に立った。近くで見れば、目の下の隈まで痛々しい。それでもその目は、逸らさずにマグダを見返してくる。据わりのいい、いい目だ。こういう目の子を、追い出した先の路地で凍えさせて、明日からうまい酒が呑めるか。
「あんたたち、追われてるだろ」
大きいほうの肩が、はっきりと強張った。手が、無意識だろう、剣の柄のほうへ半寸動いて、止まる。答えは、それで足りていた。
「安心しな。誰に、とも、何をして、とも訊いてないよ。訊く気もない」
マグダは構わず、親指で宿の裏口を指した。
「……飯、食うかい」




