間話 火の番
雪の上の足跡は、二つ。
大きいのと、小さいの。
北の山を下りる二人の足跡は、その冬、幾度も雪に埋まり、幾度も、また延びた。
◇
二日目の夕方に、食い物が尽きた。
尽きた、というのは正しくない。はじめから、なかった。炭焼きの小屋を出た朝に持っていたのは、鍋の縁から飲んだ湯の温かさだけだ。それが腹の中で冷めきったのが、二日目の夕方だった。
エルドの細い帯剣は、小屋の裏手の雪に埋めてきた。紋の入った柄の剣は売れもしないし、持っていれば足がつく。埋めるあいだ、エルドは何も言わなかった。
冬になっても枝に残っている赤い実を、見つけるたびにもいで食った。酸っぱくて、渋い。それでも、腹には入る。だが、そういう木は多くない。実が見つからない日は、木の皮を剥いで、内側の白いところを噛んだ。村で教わった飢えのしのぎ方だ。腹は膨れない。ただ、口が動いていると、少しだけ気が紛れる。エルドにも渡した。エルドは黙って噛んで、黙って呑み込んだ。
仕掛けた罠は、朝も昼も空だった。縄は肌着を裂いた残りで、輪の作り方は間違っていないはずだった。ただ、兎のほうが、この山を知っている。
「レイフ」
「はい」
「あれは、煙か」
エルドが指した先、谷の底に近いところで、細い灰色の筋が、夕方の空へまっすぐに上がっていた。焚き火の煙ではない。焚き火なら、もっと揺れる。あれは、屋根の下から出ている煙だ。
竈の煙の上がる場所を探します、と、小屋を出た朝に言った。言ったときには、二日で見つかるとは思っていなかった。
レイフは煙を見て、エルドを見た。頬はこけているが、目の光は消えていない。この二日、弱音はひとつも言っていない。言わない子だ。言わない子が、足を引きずっている。
「下ります」
「誰の家か、分からないぞ」
「分からなくても、煙は温かいので」
エルドは少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかどうかは、分からなかった。
◇
家は、一軒きりだった。
谷の底の、沢のそばに、石を積んだ低い家がひとつ。脇に、土を盛り上げた炭窯がひとつ。煙はその家の屋根から出ていた。犬はいない。人の気配は、ある。
戸を叩く前に、レイフはエルドの外套の前を、もう一度合わせた。
濃紺の礼装は、小屋を出た朝に裏返して着せてある。裏地のほうが、まだ目立たない。その上から自分の外套を掛け、裾は雪と泥で汚れるに任せた。自分のほうは従士の飾りのない平服で、村の若い者が着ていてもおかしくない。隠せるのは、そこまでだ。火のそばに座れば、布の質は見る者が見れば分かる。分かっても、頼まないという道はなかった。
それから、エルドの前に膝をついた。
「北の村が、賊に焼かれた。兄弟で逃げてきた。……そう言います」
「嘘だ」
「半分は本当です」
村は、城だった。賊は、黒い兵だった。焼かれたのは本当で、逃げてきたのも本当だ。兄弟だけが嘘だが、この嘘は、二人の命より軽い。
「俺が喋ります。エルド様は——」
名を呼びかけて、止めた。その名も、この戸の向こうへは持ち込めない。
「……弟は、黙っていてください」
「宿を頼むのは、俺だ」
エルドは、うなずかなかった。
「おまえは、俺の従士だ。頼み事を、おまえにさせるわけにはいかない」
言い出したら聞かないのは、二年前から知っている。レイフは、それ以上言わなかった。
戸を叩いた。
出てきたのは、背の低い婆さんだった。腰は曲がっていないが、顔は皺だらけで、手は炭で黒い。婆さんはレイフを頭のてっぺんから見て、腰の剣を見て、それからエルドを見て、二人の足元を見た。エルドの足を、長く見た。布を幾重にも巻いた、靴とも言えない足を。
レイフが口を開くより先に、エルドが一歩、前へ出た。
背筋を伸ばし、膝は折らず、胸から上だけを静かに傾けて、戻す。
「夜分に、恐れ入ります。一夜の宿を、お願いしたい」
レイフは目を閉じた。
婆さんは、しばらく黙っていた。それから、ふ、と鼻から息を出した。
「変わった子だね」
それだけ言って、戸を大きく開けた。
◇
「喋らないでください」
その夜、板の間の隅で、レイフは声を殺して言った。婆さんは奥で寝ている。火は落としてあって、炭の匂いが家じゅうにしていた。
「俺が喋ります。弟は、黙っていればいい」
「……俺は」
エルドも、声を殺していた。
「平民の言葉を、知らない」
当たり前だ、とレイフは思った。この子が使ってきた言葉は、城の言葉だ。着ているものは隠せても、言葉は隠せない。それを山の家の戸口で使えば、変わった子だと言われる。次の戸口では、済まないかもしれない。
「知らなくていいです。黙っていれば、弟です」
エルドは、長いこと黙っていた。
「……承知した」
その一言も、城の言葉だった。レイフは何も言わなかった。
◇
働いて、食う。
その冬のことを、あとで思い出すと、それしか出てこない。働いて、食って、寝た。それだけだった。
レイフの仕事は、薪割りと、炭俵運びだった。婆さんの息子は冬のあいだ下の町で荷運びをしていて、春まで戻らない。その息子の仕事が、そっくりレイフに回ってきた。焼き上がった炭を俵に詰め、背負って、谷を下り、山裾の道に置いてある荷車まで運ぶ。一日に三度。荷車が満ちて下の町へ下りるのは、雪が消えてからだ。樽を運ぶよりは軽く、人を背負うよりは、ずっと軽かった。
エルドの仕事は、火の番だった。
「火を見てられる子かね」
家に泊まった次の朝、婆さんが訊いた。炭窯の火は、強すぎれば炭が灰になり、弱すぎれば生焼けになる。焚き口の穴を土で狭めたり広げたりして、三日三晩、火の色を見ている仕事だ。座っていればいい。ただし、目を離せない。
「火の番なら、できる」
エルドは答えた。婆さんの前で口を開いたのは、それが初めてだった。
「重要な役目だ」
レイフは、俵の縄を結ぶ手を止めた。
魚の番は重要な役目だ、と、沢の焚き火の前で大真面目にうなずいた子だ。あれから、五日しか経っていない。
婆さんは、火の番の重要さについては何も言わず、焚き口の前に古い筵を敷いた。
エルドは、火の番が上手かった。
目を離さない。三日のうちに、火の色で中の様子が分かるようになった。婆さんが「今、狭めるんだ」と言うより先に、土を寄せている日もあった。手は炭で黒くなり、指の腹に豆ができて、潰れて、硬くなった。夜には沢の水で洗う。冷たい水で、爪の間まで、黙って洗う。婆さんはそれを見て、行儀のいい子だね、と一度だけ言った。
飯は、朝と晩の二度だった。
麦と根菜の粥だ。婆さんが煮て、三つの椀に分ける。レイフは自分の椀を空にして、匙を置き、足りました、と言った。
言えた自分に、少し驚いた。城の鍋は大きかった。この家の鍋は小さい。小さい鍋を、婆さんは三つに分けている。足りました、のほかに言える言葉はなかった。
エルドは、椀を膝に置いたまま、こちらを見ていた。
見て、自分の椀を、板の間の上で、レイフのほうへ押した。粥は、半分残っていた。
「食え」
「エルド——」弟だ、と思い直して、言い直した。「……それは、そっちの分だ」
「主の言うことを聞け」
小さな声だった。婆さんには聞こえない声で、城の言葉で、エルドは言った。
レイフは、椀を見た。それからエルドを見た。頬がこけたままの、十三の顔だ。この子は火の番で一日座っている。自分は俵を担いで三度谷を下りる。理屈は、こちらにある。理屈は、あるのだが。
「……はい」
半分の、そのまた半分を食った。匙を置いて、椀を押し返す。
「半分は、俺のだ」
エルドは澄ました顔で椀を受け取った。婆さんは鍋の底を掻きながら、こちらを見ていなかった。
◇
エルドの眠りは、浅かった。
夜中に、火のそばで目を開けているのを、レイフは何度も見た。声は出さない。泣きもしない。ただ、目を開けて、落とした火の赤いところを見ている。レイフは起きていることを知らせず、薪を一本足して、また横になった。それで、エルドの目が閉じる夜もあった。閉じない夜もあった。
口上のことも、父上のことも、母上のことも、エルドは口にしなかった。レイフも訊かなかった。
一度だけ、沢の話をした。
炭俵を運ぶ帰りに、二人で、凍った沢のそばを通った。氷の下で、水が動いている音がする。
「川がある」
エルドが立ち止まって言った。
「凍っていますが」
「春には、解ける」
「はい」
「……どこの川でもいい」
それだけだった。レイフは、はい、ともう一度言った。魚を焼く係だと、雪の小屋で言った。境の川でなくても、その約束は、たぶん、どこの川でもいい。
◇
黒い兵が来たのは、雪の晴れ間の昼だった。
レイフは俵を背負って谷を下りている途中で、山裾の道に馬が二騎、立っているのを見た。そろいの、黒い装いだった。
俵を藪に転がし込んで、藪の中を走った。走って、家に着くのと、馬が谷の道を上がってくるのと、どちらが先か分からなかった。
婆さんは、戸口にいた。
レイフの顔を見て、それから、炭窯を顎で指した。
「火は落としてある。二人とも、中に入っておいで」
窯の中は、真っ暗で、炭の匂いがした。腰を屈めてようやく入れる穴だ。腰の剣を外して先に入れ、エルドを押し込み、自分が続いて、焚き口の土を内から寄せた。膝を抱えて座ると、肩と肩が触れた。
外で、蹄の音が止まった。
声は、よく聞こえた。石の壁と土の壁は、思ったより音を通す。
「——十三ほどの子と、大きな若いのを、見なかったか」
「見とらんね」
「北から下ってきた二人連れだ。ひと月ほど前から、この辺りの山を下りているはずだ」
「この山を下りるのは、炭と、うちの倅だけだよ。倅は町だ」
「家の中を見る」
「どうぞ。ついでに窯も覗くかね。火の落ちた窯は煤で真っ黒だ。服に匂いが移るよ」
戸の開く音。床を踏む音。板の間は狭い。見るところは、少ない。
足音が、窯のほうへ来て、止まった。誰かが焚き口の前に屈んでいる。
エルドの手が、暗がりの中で、レイフの袖を掴んだ。
雪の夜と同じ、強い掴み方だった。レイフは、動かなかった。
外で、婆さんの声がした。
「手を入れるなら、袖をまくりな。煤は、落ちないよ」
屈んでいた者が、立った。足音が、戸口のほうへ戻っていった。
レイフは、掴まれたまま、外の音を数えた。足音が二つ。戸の外へ出る。馬の鼻息。
「黒い服だね」
婆さんの声が言った。
「この山で、あんな黒い服は、初めて見た。何の兵隊だい」
答えはなかった。蹄の音が、谷を下っていった。
しばらくして、焚き口の土が外から崩された。光が入った。婆さんの黒い手が見えた。
「出ておいで。今夜は沢で洗うんだよ。窯の匂いは、三日は取れない」
それから、蹄の音が消えた谷のほうへ、顎をしゃくった。
「賊の多かった年に、うちの領主様の兵がこの谷まで上がってきたことがある。あんな黒い服じゃなかった」
婆さんは、それだけ言った。エルドは窯から這い出して、婆さんに向かって、黙って頭を下げた。胸から上だけの辞儀ではない。この家で覚えた、ただ頭を下げる辞儀だった。
◇
礼装のことを言い出したのは、婆さんのほうだった。
濃紺の、仕立てのいい上着だ。宴の夜からずっと、エルドが裏返して着ている。雪と炭で汚れて、裾は裂けているが、布は布だ。婆さんはそれを、指で撫でた。
「これは、いい布だ」
「……はい」
「うちの領主様はね、この谷まで来て、あたしの名を呼んだ人だ」
エルドの手が、袖の上で止まった。レイフも、息を止めた。婆さんは、布から指を離さなかった。
「染めた布はね、糸にほどいて、織り直す。誰の着物だったか、糸は覚えとらん」
エルドは、自分の袖を見た。
長いこと見ていた。レイフは、口を出さなかった。出せることは、なかった。
「……糸に、してください」
婆さんはうなずいて、奥から、息子の古い上着と、フードのついた外套と、履き古した靴を出してきた。靴は大きかった。藁を詰めれば、履ける。
礼装は、その日のうちに、エルドの手を離れた。
◇
雪が、解けはじめた。
沢の氷が薄くなり、屋根から水が落ち、谷の道の雪が、昼のあいだだけ泥になる。婆さんは、朝の粥を分けながら言った。
「雪が消えたら、下から人が上がってくる。炭を買いに、荷を運びに。……うちは、二人を隠しとけるほど、大きくない」
「はい」
「下の町は、街道が三つ交わる宿場だ。人が多い」
レイフは、はい、と答えた。
発つ朝、婆さんは戸口から出てこなかった。
板の間で、火のそばに座ったまま、炭の黒い手で、エルドのほうを指した。
「火の番、悪くなかったよ」
エルドは戸口に立って、背筋を伸ばした。
膝は折らず、胸から上だけを静かに傾けて、戻す。婆さんは、ふ、と鼻から息を出した。最初の夜と同じ音だった。
◇
谷を下りきると、雪は泥になった。
山裾の道の先に、宿場町の屋根が見えた。街道が三つ、その町で交わっている。荷車と人が、泥の道を行き来していた。
「人が多いほうが、紛れられます」
レイフは言った。エルドはフードを目深にかぶり直して、うなずいた。それから、歩き出した。藁を詰めた大きな靴で、泥を踏んで。
泥の上の足跡は、数えきれなかった。二人の分は、その中に紛れた。
【改稿履歴】
2026/09/24 表現を一部変更しました。




