第04話 雪の道
雪を踏む自分の足音が、やけに大きく聞こえた。
背後の遠くでは、まだ人の声が交わされている。台所口で上がった声が別の声を呼び、声が松明を呼んで、城の裏手は今ごろ蜂の巣をつついたようになっているだろう。
夜の林の中を、レイフは登っていた。背中にエルドを負い、下生えを掻き分け、道とも言えない斜面を、上へ、上へ。息は焼けるように熱いのに、汗は掻いたそばから冷えて、足先を刺した。
木々の切れ目から、振り返る。
低いところに、火が見えた。ひとつではない。ふたつ、みっつ——途中で数えるのをやめた。松明だ。城から吐き出された追っ手が、沢沿いの道に散らばりはじめている。火と火の間隔は開いている。まだ、こちらの居場所を掴んでいる動きではない。
背中のエルドは、動かなかった。外套の胸元を掴んだ手に、時おり力がこもる。それで生きていると分かる。いまは、それで足りた。
追っ手の多くは、王都の兵のはずだった。そろいの黒い装備。よく仕込まれた足並み。だが、この山の夜は知らない。夜の雪山で道を外れることの危うさを知っている者ほど、道を外れられない。だから彼らは、道を辿る。
レイフは、道の外を知っていた。二年のあいだ、遠乗りの供で、荷運びで、鍛錬の駆け足で、この裏山の起伏を足の裏に覚え込ませてきた。ただの供の取り柄が、今夜は、ふたつの命を運んでいる。
沢が浅くなる瀬まで下りて、飛び石を渡った。エルドの礼装の靴は薄い。水に浸ければ、この寒さでは指が終わる。石をひとつずつ選んで、対岸の杉の下へ。そこから風の通る尾根筋へ取りついた。尾根の背は雪が浅く、ところどころ黒い岩が出ている。岩の上に、足跡は残らない。
空からは、まだ雪が落ち続けていた。
ありがたい、と思った。生まれてはじめて、降る雪をありがたいと思った。いま踏んできた足跡を、この雪が埋めていってくれる。
尾根をひとつ越えたところで、下に火が湧いた。斜面を細く縫う、人ひとりがやっと通れる山道だ。
レイフは倒木の根の陰に膝をつき、エルドを負ったまま身を低くした。松明が四つ、縦に並んで、その道を登ってくる。雪を蹴る長靴の音。革のこすれる音。息の音まで聞こえる近さを、火は通り過ぎていく。
「——山狩りは夜明けからだ。先に街道を締めろ」
「ガキの足だ。山は越えん」
短いやり取りだけを残して、火は尾根の向こうへ遠ざかった。
背中で、エルドが息を殺しているのが分かった。掴まれた胸元の布ごしに、震えを押さえつけている力が伝わってくる。
レイフは立ち上がり、山道を横切って、その先の暗がりへ下りた。
街道を締める、と男は言った。なら、行き先は決まったようなものだ。道という道が閉じるなら、道でないところを行くしかない。そして山は、越えないと思われている。
越えるのだ。今夜のうちに。
そこから先は、長い夜だった。
背負っては歩き、下ろしては手を引き、また背負った。エルドは一度も、下ろせとも背負えとも言わなかった。言われるままに歩き、言われるままに背に戻った。その従いかたのほうが、かえって応えた。いつものエルドなら、荷物あつかいをするなと膨れるところだ。
腕が痺れるたび、レイフは樽を思った。樽なら担ぎ慣れている。担ぎ方の要領も、そう変わらない。ちがうのは、落としたときに取り返しがつかないことだけだった。
◇
谷をふたつ跨いだ先に、その小屋はあった。
使われなくなった炭焼きの小屋だ。炭焼きの一家はとうに山を下り、崩れかけた窯と、屋根と、壁の残りだけが谷の窪みにうずくまっている。遠乗りの供で通りかかって、雨宿りをしたことがあった。屋根は、あのときより傾いていた。それでも屋根だった。
戸口の筵を持ち上げ、レイフはエルドを土間に下ろした。
膝を抱えて座り込んだエルドは、そのまま動かなくなった。目は開いている。開いたまま、何も見ていない。頬は白く、唇の色が薄い。
火を焚くかどうか、迷いは短かった。
壁際に残っていた薪の、乾いた芯だけを細く割り、窯の焚き口の中で小さく火を組んだ。炎は窯の中に隠れ、煙は割れた煙道に吸われて散る。谷の窪みで、雪の夜で、この火の粉ひとつ分の明かりを見つけられる者がいるなら、もうどうやっても逃げきれない。
火が立つと、レイフはエルドの靴を脱がせた。
薄い靴は、雪でぐっしょりと濡れていた。中の足は氷のようで、指の先が白い。レイフは自分の肌着の裾を裂き、乾いた布で足の水気を拭ってから、ゆっくりと揉んだ。血の気が戻るまで揉んで、裂いた布を幾重にも巻きつける。エルドはされるがままだった。抗いもせず、礼も言わず、ただ、窯の火を見ている。
外套を脱いで、細い肩から掛けた。
欠けた鍋が土間の隅に転がっていたので、雪を詰めて火にかけた。溶かしただけの、ただの湯だ。椀はないから、鍋の縁から少しずつ飲ませた。エルドは言われるままに飲んだ。二口目で小さくむせて、それきりまた黙った。
レイフも、ひと口だけ飲んだ。
座ると、身体のあちこちが今ごろになって痛みを訴えはじめた。樽を運ぶのとはわけが違う。人ひとりの重さは、荷物のように担げばいいというものではなかった。腕が痺れ、膝が笑っている。それでも、座って火を見ていると、別のものが押し寄せてきた。
広間の明かり。倒れていく人の壁。鞘から出ない剣。御館様の目。
二年前の冬、名は、と問われた。名を答えただけの平民の小僧を、あの人は名前ごと覚えていて、城に上げてくれた。昨日の朝は樽を運んだ。馬が二本足で歩いてきた、と槍兵が笑った。そいつを広間の東の壁際へ、と言われて、言われたとおりに運んだ。あの樽は、いまごろ燃えているのだろう。
手が、勝手に震えはじめた。
レイフは薪を一本掴んで、火の加減を直した。それから戸口の筵を細く開けて、外を見る番をした。やることがある間は、押し寄せてくるものに背を向けていられる。
夜のいちばん深いころ、火を挟んだ向かいへ声をかけた。
「少し、お眠りください」
エルドは答えなかった。答えないまま、目だけは開いていた。それでも未明が近づくと、疲れのほうがまさったらしい。外套にくるまった小さな身体が、こくりと傾いだ。レイフは傾いだ肩をそっと壁にもたせかけ、火を落とし気味にして、また戸口の番に戻った。夜のあいだ、薪番と見張りを、いくつも数えて往復した。
雪は、未明にやんだ。
筵の隙間から見える北の空で、低い雲の腹が、ほんのりと赤らんでいた。篝火の色ではない。あれは、まだ燃えている家の色だ。見ているうちに、赤みは夜明けの白さに薄められて、どこからが空でどこまでが火なのか、分からなくなっていった。
◇
戸口の光が白くなったころ、背後で、衣擦れの音がした。
エルドが、自分の右手を目の高さに上げて、じっと見ていた。
手の甲には、何もない。
ゆうべの宴の入口で、生まれてはじめて浮かんだ、淡い青の紋。朝には消えると聞かされて、少し惜しいな、と笑っていた。その言葉の通りに、消えただけだ。城を出たときに、前提を失って、静かに解けた。レイフ自身の手の甲にも、もう何もない。同じ夜に並んだ、同じはじめての紋だった。
「……レイフ」
ゆうべの逃げ道の途中から、はじめて聞く声だった。掠れて、低くて、幼かった。
「はい」
「消えた」
「……はい」
「はじめての、誓いだったのに」
そこで、止まった。止まったところから、堰が切れた。
「父上が」と言いかけて、言葉にならなかった。「母上が」も、途中で崩れた。「口上を」——そこだけは、なぜか言い切れた。「口上を、ひとつも間違えなかったのに」。それから「春に」まで来て、あとは声にならない息だけが続いた。魚を焼く係だと言った夜から、まだ一度も日が昇りきっていないのだ。エルドは膝に顔を埋め、外套を頭から被り、その中で泣いた。押し殺そうとして、押し殺しきれない、幼い泣き方だった。昨日まで、この声の主は、口上を百回唱えて誇らしげにしていた。
レイフは膝でにじり寄って、丸まった背中に手を置いた。
言葉は、何も出てこなかった。ただ手を置いて、震えが伝わってくるままにしていた。エルドの手が外套の下から伸びてきて、レイフの袖を掴んだ。ゆうべからずっとそうしていたように、強く、掴んだ。
どれほどそうしていたか。
泣き声はやがて細くなり、途切れ、荒い息だけになり、それも収まった。
エルドは外套の中から顔を出した。目の縁は赤く腫れていたが、その目はもう、何も見ていない目ではなかった。手の甲で乱暴に顔を拭い、居住まいを正して、座り直す。それから、妙に平らな声で言った。
「レイフ。聞け」
背筋が伸びていた。沢のほとりで口上を唱えたときと、同じ形だった。
「ファーレン家は、ゆうべ、終わった。……おまえが仕える家は、もうない」
「……」
「おまえは、何も誓っていない。この家のものは、何ひとつ、おまえを縛っていない」
エルドは、自分の右手の甲を——何もないその場所を——一度だけ見た。
「だから、行け。これが最後の命令だ。どこへでも行って、生きろ」
十三歳の声が、そう言い切った。
レイフは、少し考えた。
「お断りします」
「……命令だと、言った」
「はい」
「なぜ聞かない」声が、そこで割れた。「おまえは誓っていない。ただの供だ。ゆうべ死んだのは、みんな、誓った者たちだ。誓って、縛られて、剣も抜けずに死んだ。おまえまで、俺のそばで——」
言葉が続かなくなったのを、レイフは待った。それから、エルドの前に膝をついたまま、自分の右手の甲を見せた。何の紋もない、傷とあかぎれだけの、ただの手だ。
「俺は誓いません。……でも、離れません」
「…………なぜだ」
レイフは考えた。長いこと考えて、結局、出てきたのはそれだけだった。
「春に、魚を焼く係だと、言いつかっていますので」
エルドの目が、見開かれた。
「あれは、誓いじゃありません。ただの約束です。破ろうと思えば、破れます」
レイフは、火の細った窯のほうへ、ちらりと目をやった。
「破りません」
エルドの顔が、ゆっくりと崩れた。取り澄ました当主の子の顔が剥がれて、下から十三歳が出てきて、その十三歳が、くしゃりと歪んだ。
「……勝手にしろ」
絞り出すように言って、エルドはまた外套に顔を半分埋めた。埋めたまま、袖を掴む手は、離さなかった。
レイフは黙って、窯の残り火に最後の薪を足した。出立の前に、足の布を巻き直し、靴を火で乾かしてしまわなければならない。やることは、いくらでもあった。ありがたいことに。
◇
小屋を出ると、朝だった。
まぶしい。雪はやみ、谷は一面の白さで、泣き腫らした目に照り返しが刺さる。エルドは目を細め、それでも空気を胸の底まで吸い込んだ。冷たさが少しだけ、頭の中を掃いた。
足元は、温かかった。
濡れて凍えていたはずの爪先が、幾重にも巻かれた布の中で、指の感覚を取り戻している。見れば、前を行くレイフの袖口から覗く肌着が、片側だけ短い。いつ裂いたのか、エルドは覚えていない。覚えていない間に、この男は自分の着る物を裂いて、人の足に巻いたのだ。
「行けますか」
「行ける」
声はまだ掠れていたが、足は出た。
「どこへ行く」
「南へ」レイフは短く答えた。「北は、冬と国境しかありません。南は人が多い。人が多いほうが、紛れられます」
「……追っ手は、街道を締めると言っていたな」
「街道は使いません。当分は、木こりの道と、山裾を辿ります。今日の昼には尾根を抜けて、明日には……どこか、竈の煙の上がる場所を探します」
エルドが食い物の当てを聞かなかったのは、聞いても仕方がないからだった。あるわけがない。ないまま、行くのだ。
歩きながら、ふいに、湯気の匂いを思い出しそうになった。ほのかに甘い、冬の居間の——
やめろ、と自分に言った。
いま、それに触れたら、歩けなくなる。
かわりに、父の最後の言葉だけを胸の真ん中に置いた。生きよ。言い切られなかった続きが、その後ろにぶら下がっている。我らの血は——何だと言おうとしたのか。考える力は、まだ戻ってこない。だから、言い切られたぶんだけを、いまは守る。
生きる。
谷を下りきったところで、エルドは一度だけ振り返った。
二人ぶんの足跡が、雪の斜面を並んで下りてきていた。大きいのと、小さいの。ところどころ乱れ、時おり重なり、それでも途切れずに、ここまで続いている。生まれた土地は、もう見えない。白い山なみが、朝の光の中に連なっているだけだ。
前に向き直る。
行く手の雪は、まだ誰にも踏まれていない。
「行くぞ」
自分の声が、思ったよりまっすぐに出たことに、エルドは少しだけ驚いた。レイフがうなずいて、歩き出す。エルドはその隣に並んだ。
真新しい雪の上に、二つの足跡が、また延びはじめた。




