第03話 解かれる夜
夜半が近づいても、宴の火は衰えなかった。
卓の皿は何度も替わり、酒はまわり続け、ファーレンの古株とグレンツの古株は、いまや肩を組んで川の魚の話をしている。楽師は三度目の休みを取り、それでも誰も帰ろうとしない。数世代ぶんの意地が解けた夜は、長くなるものらしい。
グレンツの若い供回りが、ファーレンの台所の焼き菓子を褒め、聞きつけた料理長が上機嫌で二皿目を運ばせた。どこかの卓では、春の境の検分の供を申し出る若い者が両家から名乗りを上げて、年寄りたちに気が早いと笑われていた。春になったら。夏になったら。聞こえてくるのは、そんな話ばかりだった。昨日までこの城になかった種類の話だ。
エルドは当主卓の末席で、さすがに瞼が重くなりはじめていた。それでも背筋だけは崩さないのだから、大したものだ。御館様が一度、そろそろ休めというふうに目で促したが、エルドは小さく首を振った。今夜だけは、最後までこの広間にいたいのだろう。
そのくせ、こちらには眠たげな横顔のまま、小さな声を寄越すのだ。
「なあ、レイフ」
「はい」
「春になったら、父上と、新しい境の検分に行く。おまえも来い」
「供のお役目ですか」
「魚を焼く係だ」
「……謹んで」
エルドは満足そうに小さく笑って、また居住まいを正した。春の川辺の焚き火が、レイフにも少しだけ見えた気がした。
レイフはその斜め後ろ、三歩の位置に立っている。
持ち場は変わらない。変わったのは、胸の奥のざわつきのほうだ。さっきから、それが引かない。
壁際の立会兵が、また一人、音もなく持ち場を替えた。これで三人目だ。替わった先は、どれも扉の脇だった。主扉の両側に二人ずつ。台所へ続く脇扉の前に一人。物の配置だけ見れば、警備が固くなっただけだ。宴も更けたから、警戒を上げた。そう考えれば、筋は通る。
通るのだが。
レイフは、壇の脇へ目をやった。
立会の席が、空いていた。
黒い官服の痩身が、いつからいないのか、思い出せない。献杯のあとまでは確かにいた。厠か。休息か。王都のお偉い人が、田舎の宴に夜通し付き合う道理もない。それだけのことだ。それだけのことのはずだ。
なのに、あの静かな目が広間から消えたと知ったとたん、ざわつきは一段深くなった。
「……レイフ」
エルドが、半分眠たげな声で振り向いた。
「そんな顔をするな。宴だぞ」
「そんな顔とは、どんな顔です」
「明日の天気を心配する百姓の顔だ」
「……当たらずとも遠からずです」
エルドはくすりと笑って、前に向き直った。レイフも口の端をゆるめた。ゆるめながら、目だけは、勝手に広間を巡り続けていた。
楽師席の高い張り出しに、灯りの届かない暗がりがある。
そこに、人影がひとつ、立っていた。
楽師ではない。楽師はいま、下の卓で休んでいる。給仕でもない。フードを目深にかぶった、輪郭だけの影だ。いつからそこにいたのか、わからない。影は楽を聴くでもなく、宴を眺めるでもなく、ただじっと、広間を見下ろしている。
誰だ、と思ったときだった。
影の手が、すっと上がった。
考えるより先に、レイフの足は動いていた。三歩の距離を詰めて、エルドの椅子の背に手をかける。何をするつもりなのか、自分でもわかっていなかった。ただ、あの手の上がり方は、乾杯の音頭でも、楽の指図でもない。あれは——合図だ。
壁際で、立会兵たちの手の甲が、いっせいに黒く裏返った。
淡い青の誓紋が、墨を流したように黒へ反転し、そして——外れた。焼けたのではない。ちりちりと焦げて崩れたのでもない。錠前が外れるように、するりと肌から剥がれて、消えた。広間じゅうの壁際で、いくつもの紋が、同じ瞬間に、同じように。
外れたのは、あの黒い装いの兵たちの紋だけだった。ほかの誰の手にも、紋はまだ淡く残っている。レイフ自身の手の甲にも。
なんだ、いまのは。
意味は、ひとつもわからなかった。わからないまま、うなじの毛が逆立った。
次の瞬間、立会兵たちが、剣を抜いた。
最初の悲鳴が上がったとき、黒い装備の男たちはもう走り出していた。まっすぐに、壇へ。当主卓へ。迷いのない足取りだった。誰を狙うか、最初から決めてあった者の足取りだった。
「——剣を、剣を抜けっ」
家中の誰かが叫んだ。
抜けなかった。
レイフの目の前で、ファーレンの家兵が柄を握ったまま、凍りついていた。腕が震えている。渾身の力で引いているのが、離れていてもわかる。それなのに、剣は鞘から一寸も出てこない。男の顔が朱に染まり、喉から絞るような音が漏れ、それでも腕は動かない。隣の兵も、その隣も、同じだった。屈強な男たちが、剣の柄を握った格好のまま、彫像のように立ち尽くしている。
誓いだ。
今宵、この城の内にて、何人にも刃を向けず、手を上げず——この広間の全員が、あの口上を唱えた。紋は、いまもそれぞれの手の甲にある。誓いは破れない。破ろうとすれば、身体のほうが止まる。物心つく前から知っていたその理屈が、いま、目の前で男たちを縛り上げていた。
黒い刃だけが、自由だった。
凍りついた兵たちのあいだを、黒装備の男たちが駆け抜けていく。刃が振られるたび、動けない者が倒れた。応戦がないのだから、戦いですらなかった。グレンツの供回りのひとりが、抜けない剣にしがみついたまま斬り伏せられるのが見えた。酒樽の脇では、あの髭の槍兵が、柄を握った格好のまま崩れ落ちた。宵の口、楽なもんよと笑っていた男だった。
レイフも、剣に手をかけていた。
いつの間にか、そうしていた。エルドを背に庇い、柄を握り、抜こうとして——腕が、止まった。
肘から先が、他人のものになったようだった。力が入らないのではない。力は入っている。入った力ごと、見えない何かに握り込まれている。引けば引くほど、腕の芯が軋んで、指の感覚が遠くなる。声を出そうとしたが、それも喉の奥で潰れた。
破れない、とは、こういうことか。
全身から血の気が引いた。柄から手を離す。抜けない剣に、用はない。レイフは空いた両手で、エルドの腕を掴んだ。
掴めた。
庇うことは、止められない。掴むことも、走ることも、誓いには触れない。それだけ確かめれば十分だった。
「レイフ、離せ——父上が、母上がっ」
エルドが暴れた。当主卓のほうへ行こうと、細い身体が本気でもがく。その視線の先で、貴婦人たちの卓が倒れ、悲鳴が渦を巻いていた。人影の隙間に、一瞬だけ、倒れ伏した奥方様が見えた。侍女たちが庇うように覆いかぶさって、あとはもう、何も見えなくなった。
壇の下で、御館様が膝をついていた。
辺境伯アルドレッド。若い頃は家中一と言われた剣が、鞘に収まったままだった。柄を握った右腕が、石のように固まっている。その身体で、それでもこの人は、黒い刃と息子のあいだに割って入ろうとしたのだ。肩口が深く裂けて、辺境伯の正装が黒く濡れていた。
「御館様——」
レイフはエルドを抱えたまま、一歩踏み出した。御館様の目が、こちらを向いた。
深手を負って、腕を縛られて、それでもその目は、少しも取り乱していなかった。目が合ったのは、一呼吸にも満たない間だった。御館様は、レイフを見て、それからエルドを見た。
「生きよ」
血の気の失せた唇が、確かにそう動いた。
「……我らの血は——」
言葉は、そこで途切れた。
黒い影が壇の下に殺到して、御館様の姿は見えなくなった。エルドが喉の裂けるような声で叫んだ。何と叫んだのか、レイフには聞き取れなかった。聞き取ってやれなかった。
——明日は終始、エルドのそばにいろ。
昨夜の御館様の声が、耳の奥で響いた。あのときの御館様が、こんな夜を知っていたはずはない。それでも、いまのレイフに残された命令は、それひとつだった。
気づけばエルドを背に担ぎ上げ、走り出していた。
駆けながら見上げた楽師席の暗がりに、もう、あの影はいなかった。
背中で、エルドが広間のほうへ手を伸ばしているのが、肩越しにわかった。伸ばされた手は何も掴めないまま、やがてレイフの外套に戻ってきて、そこを強く握った。
主扉は、黒い男たちが固めていた。台所へ続く脇扉——宵から掛け金の外れていたあの扉からも、新手の黒装備が流れ込んでくる。外れていた理由が、いまさら腑に落ちた。腑に落ちて、何の役にも立たなかった。
残るは、給仕の通用口だ。
レイフは倒れた卓を跳び越え、逃げ惑う給仕たちの流れに紛れ込んだ。誓いを立てていない給仕たちは、ただの災いから逃げるように、われ先にと狭い口へ殺到している。黒い男たちは彼らを追わない。刃は、誓いに縛られて動けない者たちと、壇の周りにだけ振るわれている。狙いが最初から決まっているのだ。この家の、血と、家臣と。
通用口を抜け、配膳の間を駆け抜け、台所へ転がり込む。竈の火だけが赤い、無人の台所だった。鍋がまだ湯気を立てている。この城の勝手なら、隅々まで身体が覚えていた。二年間、数えきれないほど行き来した配膳の道。荷を担いで通った狭い廊下。その突き当たりに、外へ出る台所口がある。
背後の広間から、突き抜けるような大音声が響いたのは、そのときだった。
「——勅命である」
場を制する、儀式ばった声だった。
「勅命である。神妙にせよ——」
勅命。王の、命令。
意味が、頭の中で像を結ばなかった。結ばせる暇もなかった。レイフは台所口の閂を撥ね上げ、扉を蹴り開けた。
夜気が、刃物のように顔を切った。
そのとき、いま駆け抜けてきた廊下の奥で、誰かが短く叫んだ。言葉までは聞き取れない。だが、こちらを指す声だとわかった。見つかった。追っ手がかかるまで、いくらもないだろう。
外は雪だった。日暮れにやんだはずの雪が、いつの間にかまた降りはじめていて、勝手口の石段も、薪の山も、うっすらと白い。レイフはエルドを背負い直し、裏手の土手を滑り降りた。沢沿いの、下生えの道。昨日、魚を焼いた場所のすぐ脇を、二人は駆け抜けた。焚き火の灰は、もう雪の下だった。
城壁の低い崩れ目を越えるとき、レイフは一度だけ振り返った。
二年仕えた城の窓という窓が、見たこともない色に明るかった。篝火の色ではない。暖炉の色でもない。あれは、燃えはじめた家の色だ。悲鳴は、もうここまでは届かなかった。雪が、音という音を呑んでいた。
背中で、エルドはもう暴れていなかった。声も上げなくなっていた。ただ、レイフの外套を掴んだ小さな手だけが、震え続けていた。
レイフは自分の右手を見た。
手の甲の誓紋が、消えていた。今宵かぎり、この城の内かぎりの誓い。城を出た瞬間に、前提を失って解けたのだろう。生まれて初めての誓いは、紋の色を惜しむ暇もなく、一晩ももたずに終わった。
あの広間で、誓いは一つも破られていない。
誰一人、誓いを破っていないのに、何もかもが裏切られた。
わけがわからなかった。わからないまま、レイフはエルドの膝を抱え直し、前に向き直った。雪の向こうは、どこまでも暗い。その闇の奥へ、レイフは走った。
【改稿履歴】
2026/09/22 表現を一部変更しました。




