第02話 誓いの宴
日暮れ前に、雪はやんだ。
屋根と中庭をうっすら白くしただけの、控えめな初雪だった。その白さの上に篝火が焚かれ、ファーレン城は、レイフが二年仕えてきて見たこともない明るさになった。今夜、この城で和睦の宴が開かれる。北の辺境伯ファーレン家と、東隣のグレンツ家。境の川を数世代取り合ってきた二つの家が、破れない誓いで争いを終わらせる夜だ。
その宴の入口で、レイフは列に並んでいた。
大広間の扉の前に、見慣れない壇がしつらえてある。壇の脇には宰相府の式官が古びた綴りを手に立ち、その隣で書記が帳面を広げていた。宴に入る者は、まずそこで足を止める。兵は兵の組で、従士は従士の組で、貴族は家ごとに。式官が先導する誓いの言葉を、声を合わせて唱えるのだ。
「次。ファーレン家従士組、前へ」
レイフの番が来た。同じ組の従士たちと横に並ぶ。式官が綴りを掲げ、抑揚のない声で先導をはじめる。一句ずつ、後について唱和する。
「——今宵、この城の内にて、何人にも刃を向けず、手を上げず。この誓いを、立会の御前に立てる」
唱え終わった、その瞬間だった。
右の手の甲に、すっと何かが通った。熱くはない。痛くもない。ただ、肌の下に細い線が走って、見る間に紋様を結んだ。淡い、青みがかった色。剣を執る側の手の甲に、誓いの紋が据わっている。
誓紋。生まれて十六年、レイフがはじめて自分の肌に見る誓いの証だった。
妙な感じだった。重くはない。痛みもない。ただ、そこに何かが「ある」。上手く言えないが、履き慣れない靴に似ていた。
「ほう。初めてか、おまえ」
隣で唱和した古参の槍兵——今朝、酒樽の運びで一緒だった髭の男が、レイフの手元を見て笑った。自分の手の甲には、古い臣従の紋の隣に、いま浮かんだばかりの淡い紋が並んでいる。
「はい」
「そうか。初めての誓いが宴の誓いとは、めでたいな。記念だ」
「……この誓いは、消えるんですよね」
「おう。今宵かぎり、この城の内かぎりの誓いだ。夜が明けて城を出りゃ、前提が消えて、ひとりでに解ける。紋も薄れて消えちまう。惜しむなら、朝までよく見とけ」
槍兵は肩を揺すって笑い、それから少しだけ声を落とした。
「言っとくが、入る者みんなに誓わせるなんて宴は、俺も初めてだぞ。誓約ってのは本来、そう安売りするもんじゃない。口上に、作法に、立会に、登録。手間も費えもかかる。だから普段は、叙任だの盟約だの、よほどの約束にしか使わん」
「今夜は、よほどの夜だから」
「そういうことだ。当主同士が末代までの誓いを立てる席に、刃を向けん誓いも立てられん奴は入れられん——まあ、道理よな。宰相様じきじきの立会ってのは、そういうことだ」
列の後ろでは、給仕や膳運びの者たちが、誓いの壇を素通りして脇の通用口から出入りしていた。彼らは誓わない。剣を提げて禄を食む側の作法に、膳を運ぶ者までは付き合わせない、ということらしい。書記の帳面に名が記されていくのは、誓った者だけだ。
広間に入ると、熱気が頬にぶつかった。
数えきれない蝋燭と、大きな暖炉の火。長い卓には湯気の立つ皿が連なり、焼いた鳥、香草をまぶした猪、蜜がけの果実、白いパンが山をなしている。楽師の弦が軽やかに鳴り、酒がまわり、ファーレンの家中とグレンツの供回りが、ぎこちないながらも同じ卓についている。数世代のあいだ川をはさんで睨み合ってきた者同士が、だ。
誰も彼も、腰に剣を提げたままだった。預ける決まりはない。誓いがあるからだ。刃を向けないと誓った者ばかりの広間は、剣があってもないのと同じ——というのが、この国の宴の理屈だった。もし誓いがなければ、今ごろは毒味役やら人質やらで大騒ぎだろうよと、入口の列で槍兵が笑っていた。それが、誓いひとつで済む。楽なもんよ、と。
レイフの持ち場は、エルドの席の斜め後ろだった。
エルドの席は当主卓の末席にある。嫡男の席だ。濃紺の礼装に細い帯剣、亜麻色の髪をきちんと整えて、背筋は定規で引いたようにまっすぐ。昨日、沢で膝を抱えて魚を待っていた子どもと同じ人物とは、誰も思わないだろう。
その席に着く前のわずかな間に、エルドが振り向いた。
「レイフ」
小さな声とともに、右手の甲を見せてくる。淡い青の、小さな紋がそこにあった。入口の誓いの紋だ。
「初めての誓紋だ」
「奇遇ですね。俺もです」
「知っている。おまえは、誓いのひとつも立てたことがないからな」
エルドは自分の手の甲と、レイフのそれを見比べて、少しだけ笑った。同じ夜に、同じ誓いの、初めての紋が並んだわけだ。
「朝には消えると聞いた。……少し惜しいな」
「ええ」
「行くぞ。今夜の俺は忙しい」
言うなり、当主の子の顔に戻って席に着く。それからのエルドは見事なものだった。大人たちの挨拶をそつなく受け、杯は形だけ口に運び、笑うべきところで礼儀正しく笑う。十三歳の嫡男は、今夜の宴の小さな主役のひとりだった。
その当主卓の中央に、御館様——辺境伯アルドレッドと、今夜の客が並んでいた。
グレンツ家当主、ヴァルド=グレンツ。五十がらみの、岩のようにいかつい男だった。鉄色の髪をきっちり後ろへ撫でつけ、額には深い皺。東部ふうの、古風で格式張った正装に幅広の剣を提げ、値踏みするような目つきで広間を眺めている。愛想笑いというものを、生まれてから一度もしたことがなさそうな顔だ。
それでも、来た。
断りの文を何年も返し続けた相手が、いまファーレンの城で、ファーレンの酒を呑んでいる。それだけで家中の年寄りの何人かは、目元を拭っていた。
やがて、楽の音がやんだ。
広間の奥の壇に、燭台が集められる。ざわめきが波の引くようにおさまって、宰相府の式官が声を張った。
「これより、両家盟約の儀を執り行う。立会は、誓約主セヴラン閣下」
壇の脇に、黒い官服の痩身が進み出た。
宰相セヴラン。総白髪を後ろへ流した、五十半ばの痩せた人だ。昼間、中庭の遠目に見たときよりも、ずっと小柄に見える。だが壇の脇に立っただけで、広間の空気が変わった。誓約主——王国の誓約のいっさいを統べる者の称であり、いまはこの宰相がそれを務めている。国王ではなく。
「両家の当主は、壇へ」
セヴランの声は、張り上げたものではないのに、広間の隅々まで通った。静かで、平らで、揺れのない声だった。
御館様とヴァルドが、左右から壇に上がる。向かい合う。どちらも岩のような男たちだ。体格の勝る御館様と、幅で勝るヴァルド。数世代分の意地を背負った二人が、一歩分の距離で相対する。
式官が綴りを開き、二人の前に掲げた。当主二人が、声を合わせて唱えはじめる。
「——アルデンの古き作法に則り、ファーレンとグレンツ、二つの家はここに誓う。取り交わした定めのとおりに新たな境を分かち、互いの地を侵さず、互いの民を害さず、末の代までこの盟を違えない。我が最も尊きものを証として——この誓いを、天と立会の御前に立てる」
我が最も尊きものを証として。
古い口上に決まって出てくる、意味の薄れた言い回しだ。誓いの重さを飾るための文句だと、誰もが思っている。レイフも、そう思って聞いていた。
二人の当主が、互いの右手を交わした。
握り合わされた手の甲に、光が走った。入口で見た淡い紋とはまるで違う。深い青の紋様が、二人の手の甲に同じ形で刻まれていく。大きく、濃く、絡み合う蔓のような紋だった。誓いが深いほど、紋は大きく、濃くなるという。壇の燭台の火よりも、その紋のほうが明るく見えた。
広間じゅうが、息を呑んで、それから沸いた。
歓声と、卓を叩く音と、杯を掲げる音。ファーレンの家中もグレンツの供回りも、このときばかりは同じ顔で沸いていた。御館様とヴァルドは手を交わしたまま、どちらからともなく、ぎこちなくうなずき合った。笑顔と呼ぶには武骨すぎるものが、二人の顔に浮かんでいた。
卓では、ファーレンの古兵とグレンツの供回りが、隣り合わせのまま顔を見合わせ、どちらからともなく杯を合わせていた。鈍くぶつかる音に、周りがどっと笑う。楽師が景気のいい曲を掻き鳴らしはじめる。数世代のあいだ、この北の地の誰も見たことのなかった光景だった。御館様が貴婦人卓の奥方様と目を交わし、小さくうなずき合うのも見えた。
「盟約の成りしを、立会として見届けた」
セヴランが静かに宣した。
「両家の誓いは、天に記された。今宵より、北の境は定まり、争いは終わる」
それから宰相は、両家の当主へ向けて、寸分の狂いもない礼をした。
「北の憂いを解いたるは、両家の英断。王都へも、その名とともに伝えましょう」
誉め言葉のはずなのに、声はどこまでも平らだった。淡々と務めを果たす立会人——それ以上でも以下でもない佇まいで、宰相は壇の脇へ退がった。
沸き返る広間で、レイフは自分の手の甲を見下ろした。淡い青の、小さな誓いの紋。壇の上の深い青とは比べものにならない、一夜かぎりの軽い誓い。それでも、同じ仕組みの上にある。誓いは破れない。あの盟約も、この紋も。
だから、争いは本当に終わったのだ。
「続いて、ファーレン家嫡子エルド殿より、両家の誼に杯が捧げられる」
式官の声に、エルドが立ち上がった。
レイフの前を離れ、壇の右手へ歩いていく。七歩。昨夜、御館様の前で諳んじてみせたとおりの段取りで、エルドは壇に上がり、捧げ持った銀の杯を胸の高さに掲げた。
十三歳の子どもが、居並ぶ大人たちの目の前に、ひとりで立っている。
壇に集められた燭台の火が、その顔を正面から照らしていた。まっすぐ上げた顔の、父譲りの琥珀色の目が、火を受けて光っている。壇の正面の当主卓から、ヴァルドが杯を置いて、その顔を見上げていた。
広間は静まり返った。エルドは息をひとつ整え、まっすぐ前を向いて、唱えはじめた。
「——古き盟約は、川とともに流れ去った。今宵ここに、二つの家は新しき誓いを結ぶ。アルデンの北に、永き安寧のあらんことを。両家の末永き誼に——杯を献ず」
少年の声は、一度も淀まなかった。古い言い回しの一句一句が、澄んだ声に乗って広間の隅々まで届いた。唱え終えて、エルドは杯に口をつけた。
一拍おいて、広間が今夜いちばんの歓声で沸いた。
御館様が息子に目をやった。壇の上の誇らしげな眼差しと、壇を降りる少年のまっすぐな背筋。貴婦人たちの卓では、奥方様が扇の陰で、そっと目元を押さえていた。ヴァルドまでもが、太い眉をわずかに上げて、小さく顎を引いた。あの気難しい顔の、それが精一杯の賛辞なのだろう。
エルドは来たときと同じ七歩で壇を降り、当主卓の自分の席へ戻ってきた。そうして着席の間際、ほんの一瞬だけ、斜め後ろのレイフを見た。
どうだ、と言わんばかりの目だった。
レイフは、ごく浅くうなずいた。どこも抜けていませんでした——声には出さず、口の中だけでそう答えた。エルドはすまし顔で前に向き直ったが、耳が少し赤かった。
宴は、いよいよ温まった。
酒がまわり、楽が戻り、あちこちの卓で笑い声が弾ける。ファーレンの古株とグレンツの古株が、境の川の魚の大きさで張り合いはじめ、周りが囃し立てる。喧嘩ではない。もう喧嘩にはならないのだ。今夜このかた、それは隣人同士の自慢比べでしかない。
当主卓では、御館様が新しい境の検分の段取りを話していた。ヴァルドは相変わらずの仏頂面で、短い相槌しか打たない。だが、御館様が「春には、川の検分を」と言ったときだけ、ふと目を上げた。
「……あの川は、いい川だ」
ヴァルドは、ぶっきらぼうに言った。
「昔から、魚だけは、どちらの岸でもよく釣れた」
それだけ言って、杯を干した。御館様が目元をゆるめて、何か短く返した。レイフの位置からは聞き取れなかったが、ヴァルドの仏頂面が、ほんの少しだけ崩れたのは見えた。岩が緩むところを初めて見た、と思った。
気難しい御仁だと聞いていた。それは間違いではないのだろう。ただ、川の話をするときだけ、この人の目は和らぐらしい。
エルドも意外そうに、当主たちのやりとりを見ていた。それから、大人たちの話が境の検分から春の作付けへ流れたあたりで、そっと椅子を引き、斜め後ろへ半分だけ振り向いた。
「レイフ」
「はい」
「見たか。父上の顔」
「見ました」
「……うん」
それきり、前へ向き直った。感想はそれだけだった。それで全部だった。誓いは成り、争いは終わり、父は笑っている。いい夜だった。文句のつけようのない、いい夜だった。
——だから、それは癖でしかなかった。
人の集まる場所に来ると、レイフの目は勝手に動く。出口を数える。人の配置を見る。賊や小競り合いの絶えない土地に育った者の、抜けない癖だ。こんな夜にまで働かなくていいと、自分でも思う。思うのだが、目は勝手に動くのだ。
広間の壁際に、立会の兵が等間隔に立っている。宰相府の護衛兵。そろいの黒い装備で、姿勢がよく、身動きひとつしない。よく仕込まれた兵だ——昼間と同じ感想を、レイフはもう一度抱いた。
ただ、彼らは呑んでいなかった。
振る舞いの酒が全員に配られたのに、壁際の兵たちの杯は、盆に載ったまま手つかずだった。務めの最中だからだろう。護衛が酔うわけにはいかない。当たり前のことだ。
それから、彼らは宴を見ていなかった。
壇の熱気も、卓の笑いも、彼らの目は追っていない。視線は低く、扉と、柱と、人の流れの継ぎ目を、順ぐりになぞっている。警備だからだろう。人の配置を見るのが仕事だ。当たり前のことだ。レイフだって、同じことをしている。
……同じ、ことを。
そのとき、壁際の兵のひとりが持ち場を替えた。広間の端から端へ、卓の裏を回って歩いていく。革の長靴なのに、足音がまるでしなかった。石の床で、あれだけの装備で、音を立てずに歩くのは技術だ。式典の警固の兵は普通、そもそも動かない。動くにしても、音を殺す必要がどこにある。
レイフの目は、その兵の行き先を追った。台所へ続く脇扉の前。宴のあいだは閉めて、掛け金を掛けておく扉だ。給仕の出入りは反対側の通用口と決まっている。この城の勝手なら、二年の従士暮らしで隅々まで知っている。
脇扉の掛け金が、外れていた。
扉そのものは閉まっている。ただ、掛け金だけが、外れている。酒樽の出し入れで誰かが開けて、掛け忘れたか。それだけのことかもしれない。宴の夜には、よくあることかもしれない。
胸の奥が、すうと冷えた。
理屈より先に、身体が冷えた。レイフは杯に口をつけないまま、広間を見わたした。灯りは明るい。楽は軽やかだ。エルドは当主卓で、大人たちの話に生真面目な相槌を打っている。御館様は笑っている。ヴァルドも呑んでいる。奥方様は貴婦人たちの卓で、柔らかく笑っている。何もおかしくない。何も。
誓いは、破れない。
この広間にいる者は、給仕を除いて全員が、今宵この城の内で誰にも刃を向けないと誓っている。紋は現にこの手の甲にある。破れない誓いに守られた、王国でいちばん安全な広間のはずだ。今日の昼、門の前で、残りの半分も信じてみると決めたばかりだった。
レイフは、壇の脇に目をやった。
立会の席で、宰相セヴランが、静かに広間を見わたしていた。
杯にも、皿にも、手をつけていない。楽に合わせるでもなく、笑うでもなく、ただ、見ている。宴を楽しむ者の目ではなかった。退屈している者の目でもなかった。強いて言うなら——数えている目だった。扉を。柱を。人の配置を。レイフがいましがた数えたのと、同じものを。
その静かな目が、ふと、こちらを向いた気がした。
レイフは思わず視線を伏せた。一呼吸おいて顔を上げたときには、宰相はもう壇の当主たちのほうを向いていた。穏やかな、立会人の顔で。
楽の音は軽やかに、宴はまだ、半ばだった。
【改稿履歴】
2026/09/23 ルビを追加




