第08話 三人の食卓
その朝、マグダは斧でも棒でもなく、手網を担いで現れた。
「今日は店じまいだ。川へ行くよ」
ゆうべの雨で市が流れ、宿も暇なのだという。稽古はいいのですか、と訊くと、マグダは手網の柄で軽くエルドの頭をはたいた。
「あたしが外で呑みたいんだよ。供をしな」
というわけで、三人は連れ立って町を出た。街道を少し外れ、雑木の間を抜けると、町外れを巻いて流れる川に出る。雨上がりの水は薄く濁っていたが、岸寄りの淀みは澄んで、初夏の日差しが底の砂利まで届いていた。
マグダは岸の柳の下に陣取って、革袋の栓を抜き、持ってきた木の杯に注いだ。酒だ。朝は白湯しか呑まない人だが、今日は休みなのだから朝のうちから呑む、という理屈らしい。筋が通っているような、いないような。
「ほら、でかいの。網」
「はい」
「ちびは見て覚えな。あれが沢育ちの手つきってやつだ」
レイフは長靴を脱ぎ、袖をまくって浅瀬に入った。手網を岩陰の下流に構え、空いた手で上流の石をひとつ、静かに起こす。影が走った、と思ったときには、もう網の中で魚が跳ねていた。
見事なものだった。石を起こしてから網が上がるまで、呼吸ひとつ分もない。レイフは跳ねる魚を岸の魚籠に移し、ひとつ先の岩へ、音もなく渡っていく。三つ目の岩で二尾目。淀みの際で三尾目。
「……私にも、できるだろうか」
「おや、若様が川漁かい」
「網の理屈は、いま見て取った。魚は岩陰の、流れの緩む側に頭を上流へ向けて着く。網を下流に置き、上流から追えば、逃げ道は網の中だけ。……理屈の上では、できるはずです」
「理屈の上では、ね」
マグダはにやにやして、杯をあおった。
エルドは靴を脱ぎ、裾を絡げて浅瀬に入った。レイフが手網を差し出しかけたのを、手で制する。
「理屈が正しければ、素手でも獲れるはずだ」
水は思ったより冷たく、砂利は思ったより滑った。それでも理屈どおり、岩陰の下流に両手を構えた。両手を網の代わりにすると、石を起こす手が空かない。頼むより先に、レイフが脇へ回り、上流の石を起こしてくれた。
影が走った。
走って、エルドの指の間を抜け、下流へ消えた。
二つ目の岩でも同じことが起きた。三つ目の岩では、待ちきれずに出した手が先に水音を立て、あたりの影という影が散った。岸で「ああ、もったいない」と実況が入る。四つ目の岩の前で、エルドは息を整え、袖をさらにまくり直した。足元の淀みに、濡れた前髪と、その下で光る琥珀色の目が映っている。負けず嫌いの顔になっている自覚は、あった。
四つ目の岩で、指先が魚の腹に触れた。触れただけで、逃げられた。
「……レイフ」
「はい」
「網の理屈は、合っていたか」
「合っています」レイフは重々しくうなずいた。「足りないのは、理屈ではなく、指の速さかと」
「知っている」
結局、エルドの獲れ高は、五つ目の岩でようやく一尾。両手で押さえ込み、水ごとすくい上げた一尾だった。跳ねる魚を胸に抱えて岸を見ると、マグダが革袋を掲げてみせた。
「上出来だ、ちび。初日で一尾なら、見込みがあるよ」
「……マグダは、獲らないのですか」
「あたしは監督だよ」
「網を使うところを、まだ一度も見たことがありません」
「…………ちびのくせに、目ざといね」
マグダは革袋に栓をして、それきり川のほうを見なかった。濡れた袖の冷たさより、その一尾の重さのほうが、たしかに残った。
◇
昼には、河原に小さな焚き火が立った。
魚は都合六尾。レイフが五尾、エルドが一尾。レイフは川辺の枝を選んで串を削り、腹を開いた魚に塩を振って、火のまわりに輪に立てた。持ってきた塩は、台所の塩壺から包んできたものだ。買い出しの供で覚えた値段が、頭をかすめる。ひと袋、銅貨三枚。そのうちのひとつまみが、いま六尾の魚の上で、ぱちぱちと爆ぜている。
焼けるのを待つ間、エルドは焚き火をはさんでレイフの向かいに膝を抱えた。
覚えのある座り方だと、自分で思った。
皮の焼ける音がして、脂の匂いが煙にまじる。その匂いを胸に吸い込んだところで、ふいに、来た。
沢の音。雪よけの外套。焚き火越しの、無骨な顔。——それだけなら、いい。匂いはそこで止まらず、もっと奥の扉を順に開けていく。台所から膳の上がる音。父の居間の暖炉。母の淹れる茶の、ほのかに甘い湯気。
エルドは、膝を抱えたまま黙った。
匙の音を立てたあの夜のように、取り繕う必要は、たぶんなかった。マグダは柳の下で杯を傾けたまま川を見ているし、レイフは魚の焼き加減だけを睨んでいる。誰も、こちらを見ていない。見ないでいてくれる。
一番よく焼けた串が抜かれ、布を添えて、こちらへ差し出された。
「エルド様の分です」
人目のない川辺では、レイフは名前で呼ぶ。マグダには、とうに知れている名だ。エルドは布ごと受け取り、熱い、と小さくこぼしながら、行儀よく骨から身を外した。うまい。うまいから、なお困る。喉の奥のほうが、少しばかり狭くなっているのだ。
焼ける匂いに釣られて、マグダも柳の下から焚き火の輪に移ってきた。二尾目の串がマグダに渡る。マグダは豪快にかぶりつき、骨ごとしゃぶって、唸った。
「なんだいこれは。塩を振って焼いただけだろ。なんであたしが焼くのと違うんだい」
「火からの、遠さです」レイフが、焼き加減を見る目のままで答えた。「宿の竈では、魚を火に突っ込んでいました。あれは焼くのではなく、燃やしています」
「おや。沢育ちは言うことが違うね」
三尾目を、レイフは自分で取らず、焼き串のまま火のそばに残した。そして四尾目の、焼きの浅いほうを抜く。三尾目——いちばんよく焼けたやつは、こちらの二尾目のつもりなのだ。昔から、そうやって焼き手のくせに自分を後回しにする。
エルドは、その三尾目の串を抜いて、火越しにレイフへ突き出した。
「食え」
「それは、エルド様の」
「私はまだ一尾目を堪能している。おまえは朝から網を振りどおしだ。……主の言うことを聞け」
レイフが観念して串を受け取るのを見届けて、エルドは一尾目に戻った。残る二尾は、のちほどマグダとエルドがひとつずつ分けた。マグダが杯を持ったまま、二人を順に見て、喉の奥で笑った。
「なるほどねえ。主従ってのは、ああやるもんかい」
「……お見苦しいところを」
「褒めてんだよ」
◇
六尾が三人の腹に納まって、焚き火が熾になった頃、マグダは杯を置いて、思い出したように言った。
「前から思ってたんだけどさ」
視線の先は、レイフの腕だった。網を振るために、肘の上までまくり上げたままの袖。日に焼けた腕と、手の甲。そこには、何もない。
「あんた、誓わずに仕えてんのかい」
しばらく、川の音だけがした。
レイフは自分の手の甲を見下ろし、それから、隠しもせずにマグダへ向けた。傷と、剣だこと、あかぎれの痕。紋のたぐいは、どこにもない。
「……誓う前に、仕える家がなくなりましたので」
「そうかい」
マグダはそれ以上、何も訊かなかった。訊かないかわりに、杯に新しい酒を注いで、独り言のように続けた。
「家が終わりゃ、誓いは解ける。紋の消えた手で去っていく奴なら、幾人も見たよ。それを責める気はないね、誓いが解けたんなら、もう自由の身だ。……けど、最初から誓わずに、それでも居続ける奴ってのは、あたしは初めて見た」
マグダは注いだばかりの酒をひと口含んで、レイフの手の甲に、もう一度目をやった。
「珍しいついでに訊くけどね。あんた、怖くないのかい。誓いも紋もなしってことは、力も借りられず、証も立てられずってことだよ」
レイフは、少し考えた。考えて、出てきたのは、ごく短い答えだった。
「誓っていてもいなくても、やることは変わりませんので」
マグダは杯を口に運びかけた格好のまま、しばらくレイフを見ていた。それから、何も言わずに呑んだ。
エルドは、二人のやり取りを黙って聞いていた。
聞きながら、胸の奥で、古い棘がひとつ疼いた。従士は、叙任を受けて騎士の誓いを結ぶ。剣を捧げ、誓紋を授かり、それで一人前になる。レイフの叙任は、いずれ父が——と、あの家の誰もが思っていた。その「いずれ」は、あの夜に燃えた。この男の手の甲が空いたままなのは、この男が何かを怠ったからではない。主の家が、約束の手前で終わったからだ。
誓わせてやれなかった、と考えかけて、エルドは首を振った。
違う。あの雪の小屋で、この男は言ったのだ。誓いません、でも離れません、と。誓わずに隣にいることを、レイフは自分で選び続けている。それを主の側が「やれなかったこと」の勘定に入れるのは、この男の選択に対して、礼を失する。
だから、かわりに別のことを言った。
「レイフ」
「はい」
「網の腕まで立つとは、聞いていないぞ」
「……訊かれませんでしたので」
レイフがしれっと答え、マグダがむせて杯の酒を少しこぼした。棘は、消えはしない。消えはしないが、笑いの下に沈めておくやり方を、エルドは少しずつ覚えはじめている。
◇
午後の川は光って、誰も急がなかった。
レイフは焚き火の始末をして、革袋——マグダの酒とは別の、背負ってきた古い革袋だ——から例の帳面を出し、膝の上で何か書きつけた。ペンではなく、削った炭の先で、短く。
「……何を書いている」
「数を」
「数?」
「焼いた魚の」
絶対に嘘だ、とエルドは思った。焼いた魚の数を帳面につける従士がどこにいる。覗き込もうとすると、帳面はすっと閉じられた。あの四角い字がちらりと見えたが、読み取れたのは端の一字か二字。問い詰める理屈をいくつか組み立てたところで、やめた。見せろと命じれば、この男は見せるだろう。命じれば見せるものを、命じて見るのは、盗み見るより、たちが悪い。
通らないが、気にはなる。大いになる。
「なあ、マグダ」
「なんだい」
「従士が主に隠し事をするのは、忠義の道に反すると思うか」
「反するね」マグダは即答した。「ただし、主が知らないほうが幸せな隠し事ってのも、世の中にはあるよ。あたしの経験じゃ、隠し事の三つに一つは、そっちだ」
「……三つに一つ」
「残りの二つは、ばれて説教だけどね」
レイフは知らん顔で革袋の紐を結んでいる。エルドは「三つに一つ」という数だけ胸に留めて、ひとまず引き下がることにした。
◇
川の上を、大きな鳥がひとつ、ゆっくり輪を描いていた。
鳶だろう。羽ばたきもせず、ただ風に乗って回っている。エルドはそれを目で追ううちに、口が、ひとりでに開いていた。
「……八つの年に、父の鷹狩りに、初めて供をしたことがある」
自分の声に、自分で少し驚いた。マグダは杯を口に運ぶ手を止めず、ふうん、とだけ返した。話せ、とも、よせ、とも言わない、いつもの間だった。魚籠を洗っていたレイフの手が、止まるのが分かった。
「夜明け前に起こされて、馬の前に乗せられた。冬の野は暗くて、寒くて、緊張のあまり、行きの道のことは何も覚えていない。……覚えているのは、野に着いてからだ。父の腕から鷹が上がって、空で輪を描いた。あの、静かなこと。犬も、勢子も、父も、誰も声を出さない。世界ごと、息を止めているようだった」
鳶が、川の上でまたひとつ輪を描いた。
「帰りぎわに、事件が起きた。呼び戻しの鷹が、父の腕ではなく——私の頭に降りた」
「頭」
マグダが、杯を持ったまま目を丸くした。
「毛皮の縁のついた帽子をかぶっていた。鷹には、上等な止まり木に見えたらしい。爪が帽子に食い込んで、重くて、私は首をすくめたまま動けない。鷹匠は青くなるし、犬は騒ぐし……父は」
エルドは、そこで少し笑った。
「声を立てて、笑った。声を立てて笑うことなど、めったにない人が、野の向こうまで届く声で。それから鷹を腕に戻して、言った。——鷹に好かれるのは、いいことだ、と」
「いい親父さんじゃないか」
「……帽子は爪の穴だらけになった。母には内緒だと、父と約束して帰った。なのに家に着いたら、母がもう、新しい帽子を出して待っていた。先に戻った父の従者が、しゃべったらしい。あの家では、父の内緒が母に通じたためしがない」
マグダが声を上げて笑い、レイフの肩も揺れた。
エルドは手の中の串を灰の端に挿して、川の上の鳶を見た。鷹の爪の重さも、帽子の革ごしに伝わった熱も、父の笑い声の低さも、新しい帽子の房の色も——ぜんぶ、覚えている。
覚えているものを、初めて、人に話せた。
網の一尾と合わせて、今日の獲れ高は、それで二つになった。
◇
陽が傾きはじめると、マグダは杯を伏せて、川に向かって伸びをひとつした。
「さて。……いい休みだったね」
「はい」
「こういう日を覚えときな、ちび。逃げてる最中だろうが、修行の最中だろうが、こういう日がちゃんとあるってことをさ。それを忘れた奴から、目つきが悪くなって、しまいに人相で足がつくんだ」
説教なのか、冗談なのか、区別のつかないことを言って、マグダは立ち上がった。
エルドも立って、河原を見回した。焚き火の痕には石が載せてあり、魚籠は空で、串の燃え残りは灰の下だ。誰が教えたわけでもないのに、三人の手が同じように場を片づけている。食べて、笑って、片づける。それだけのことが、妙に胸に残った。
食卓、という言葉が浮かんだ。
卓もないのに、と自分で可笑しくなった。石と灰と魚籠だけの河原だ。それでも、今日のこれは、確かにそれだった。あの家の食卓が燃えてから、はじめての。
◇
帰り道、街道へ出る手前で、マグダが前を向いたまま言った。
「決めた。近いうちに、この町を出るよ」
エルドは足を止めかけ、止めずに歩調を合わせた。驚きはある。だが、驚きのほうが半歩遅れてくるあたり、自分もずいぶんこの人の流儀に慣れたものだと思う。
「……理由を、伺っても」
「ひとつ。あんたのでかいのが目立ちすぎた。問屋が引き抜きに来る力自慢なんて、噂の種でしかないからね」
前を歩くレイフの背中が、少しだけ縮んだように見えた。
「ふたつ。あたしの顔も、この町の客になじみすぎた。顔がなじむってのは、居心地のいいことでね。居心地がいいってのは、追われてる者には毒なんだ。……値切りと同じさ。覚えられる前に、消える」
「三つ目は」
「おや、あると思うかい」
「マグダの説教は、いつも三つまであります」
「……口の減らない弟子を二人も抱えた覚えは、ないんだけどね」
マグダは笑って、それから、笑いだけを少し残した声で言った。
「三つ目。あんたたちに、そろそろ広いところを見せたくなった。街道の値切りも、宿場の顔の作り方も、町ひとつ分じゃ覚えきれないことが、世の中にはごまんとあるんでね。……ま、あたしの気まぐれだよ」
夕日が、三人の影を街道の先へ長く伸ばしていた。
「支度をしときな。市をあとふたつ数えたら——」
マグダはそこで言葉を切り、二歩ぶん黙って歩いて、何でもないことのように言い直した。
「——いや。ひとつでいい。次の市が終わったら、発つよ」
どうしてです、とは、エルドは訊かなかった。訊くかわりに、今朝の帳場の光景を思い出していた。見かけない旅装の男が二人、亭主に何か尋ねて、亭主が首を横に振っていた。遠目で、声までは聞こえなかった。道を訊く旅人など、宿場にはいくらでもいる。そう思って、忘れることにした朝の一幕だ。それがいま、ひとりでに戻ってきた。
前を行くマグダの背中は、いつもと同じ、呑気な背中だった。
いつもと同じに見えるように歩いている背中だと——そう気づいたのは、今日が初めてだった。




