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第09話 雌伏の年月


 発つ朝、宿の亭主は塩漬け肉をひと塊、持たせてくれた。


 銅貨五枚の品だということを、この町の三人は全員知っている。マグダが「あんたが気前を出すと明日は槍が降るよ」と憎まれ口を叩き、亭主は「二度と来るな、達者でな」と揉(も)み手のまま笑った。どちらの言葉も、字面と中身が逆さまだった。


 街道に出て、町が雑木の向こうに隠れると、マグダは伸びをひとつして言った。


「さて。旅の決まりを教えとくよ。ひとつ、次の町に着いたら、まず仕事を探す。ふたつ、居心地がよくなったら、発つ支度を始める。みっつ——」


「三つ目まで、あるのですね」


「みっつ。飯は抜かない。歩けなくなるからね」


 旅は、そういうものになった。


 町に着く。マグダが顔役を見つけ、店番だの護衛だの顔検(かおあらた)めだのの仕事を請け、レイフは力仕事を、エルドは帳付(ちょうつ)けと買い出しを受け持つ。夜明けには木剣(ぼっけん)を振り、夕方には市で値を覚え、市をいくつか数えたら、覚えられる前に発つ。


 北の辺境を出た道は、王国の北部から中部へ、急がず、まっすぐでもなく下っていった。越える川は、南へ行くほど幅を増した。


 名を覚えるそばから町は後ろへ流れていったが、動かないものもある。振り返れば、故郷の側の山なみが少しずつ低くなり、行く手のはるか南には、王都アルディアがある——王と宰相のおわす、この国でいちばん大きな町が。


 レイフの帳面だけが、着実に厚くなった。


 夜ごとに数行、多い日は一頁。書くのは相変わらず火のそばで、みんなが寝静まってからだ。一冊目の終わりのほうは、四角い字のまま、綺麗に並ぶようになってきたと、自分では思う。誰に見せるものでもないから、確かめようはないのだが。


  ◇


 旅の二年目の秋、エルドの背丈が、マグダを越えた。


 本人は何も言わなかったが、朝の稽古で木剣を構え合ったとき、マグダのほうが先に気づいて露骨に舌打ちをした。


「……嫌な年頃だね」


「何がです」


「こっちの話だよ」


 エルドの生まれは春だ。旅に出てからの誕生日はいつも道の上で来て、祝いといえば、マグダが黙って汁物に卵をひとつ落とすだけだった。


 その年の冬に声が変わり、三年目には、市場の売り手がエルドを「坊ちゃん」ではなく「兄さん」と呼ぶようになった。値切りの腕は、とうにマグダを追い越している。追い越したうえで、最後の一枚は必ず売り手に勝たせるものだから、店を離れるとき、売り手のほうが上機嫌なのだった。


「ああなると、もう芸だね」


 マグダは半ば呆れて、半ば自慢げだった。


 三年目の市で、エルドの剣を買った。


 数打(かずう)ちの細身の長剣だ。飾りはないが、反りと重心の素直な一振りで、選んだのはレイフ、値切ったのはエルド本人だった。言い値からの下げ幅を聞いた店の親父が、最後には商売を忘れて笑い出した。稽古の得物(えもの)は、その日から木剣と真剣の二本立てになった。


 マグダの仕込みも、段が上がった。


 型の稽古のあとに、型を崩す稽古が足された。二対一、道具あり、夜、雨。荷車の陰から不意に打ちかかってくる師を、二人で凌(しの)ぐ朝もあった。レイフの「顔を消す」は、いつからか身についていて、一方のエルドは、打ち合いの間じゅう相手の癖を声に出さずに数える癖がついた。


「あんたたちを見てると、酒がうまいよ」


 と、マグダは適当なことを言った。その杯のそばには、いつも砥石(といし)と薬草の袋が置いてあった。


  ◇


 破れない、ということの重さを、旅の中でいくつも見ることになった。


 四年目の夏、大雨の晩に泊まった村でのことだ。納屋を借りた三人が寝支度をしていると、外で角灯(カンテラ)がいくつも揺れ、人の声が行き交いはじめた。夜逃げでも火事でもない。声に慌てた様子はあっても、悲鳴はない。


 様子を見に出ると、村の若い衆が蓑(みの)と角灯を手に、慣れた足取りで川のほうへ下っていくところだった。その真ん中に、腰の曲がった年寄りがひとり、杖をついて歩いている。


「爺様の誓いでね」


 納屋を貸してくれた百姓が、こともなげに教えてくれた。


 村の下手に、石の橋がある。爺様は若い頃、橋が架かったときに橋守に立てられ、命のある限りこの橋を守ると、正式の誓いを立てた。以来四十年、橋はあの人の橋だ。もう代替わりして、橋守の役は孫のような歳の男がやっている。それでも、大水の晩になると、爺様の足は勝手に橋へ向かう。誓いが、身体を連れていくのだ。


「止めても、無駄でね。縛りつけたら、今度は爺様の身体のほうが保たない。だから皆で付いてって、火を焚いて、朝まで一緒に橋番をするのさ。……もう慣れたもんだよ」


 薪なら運べます、とレイフが申し出て、三人も角灯の列に加わった。


 橋は、思ったより立派だった。石積みの太い橋脚に増水した流れが当たって割れ、水音が腹に響く。若い衆はまたたく間に橋のたもとへ火を焚き、爺様を風下のいちばんいい場所に座らせた。手際のよさが、そのまま年季を表していた。誰も嘆かず、誰も急かさず、火の周りには干した果実の袋まで回ってくる。年に幾度かの、これはこの村の夜なのだ。


 爺様は火のそばで、膨れた川面だけを睨んでいた。腰は曲がり、杖は離さない。それでもその横顔は、迷惑をかけて縮こまった顔ではなかった。役目を果たさんとする顔だった。


 夜半(やはん)、水音がひときわ高くなった。爺様が杖にすがって立ち上がりかけ、若い衆が三人がかりで、そっと座らせ直した。


「橋がな、呼ぶのよ」


 爺様は悪びれもせずに言って、それでも差し出された白湯の椀は、素直に受け取った。その目が、火の向こうから見ているエルドに、ふと留まった。


「若いの。妙な顔をしなさんな。わしはこの誓いと、女房より長い連れ添いでな。——わしの橋は、四十年、一度も流れとらん」


 自慢げに言って、欠けた歯を見せて笑った。火の粉が、小降りになった雨の中へ昇っていった。


 水が引きはじめたのは、白々明(しらじらあ)けの頃だった。


 納屋への帰り道、エルドが、前を向いたまま口を開いた。


「……あの誓いは、解けないのか」


「橋が立ってる限りはね」マグダは蓑の下で首をすくめた。「誓いってのは、そういうものさ。立てた本人が老いても、世の中が変わっても、前提が残ってる限り、律儀(りちぎ)に残る。……いいも悪いもないよ。道が古びても道であるのと、同じことだ」


「村の者が、皆で付き添うのは」


「誓いのない連中の、勝手な情けさ。……付き添うほうは、誰にも縛られちゃいないよ」


 エルドはそれきり黙って、納屋に戻ってからも、しばらく戸口の外の雨を見ていた。何を考えているのかは、レイフには分からない。分からないまま、その晩の頁に、橋と焚き火のことを書いた。


  ◇


 消える誓いも、見た。


 五年目の冬、峠下の相宿(あいやど)で一緒になった白髪の老人だった。身なりは質素だが清潔で、背筋が立っていて、剣はないのに、佇(たたず)まいだけはどこか兵のものだった。夕餉(ゆうげ)の席で、老人は自分の右手の甲を、何度も親指でさすっていた。癖というより、そこにあるはずのものを探す手つきだった。


「……五十年、ここにあったのでね」


 視線に気づいた老人は、恥じるでもなく、手の甲をこちらへ向けた。何もなかった。日に焼けた、節くれ立った、ただの手だった。


「臣従の紋だよ。十七で立てて、この歳まで。……主が、この秋に亡くなられた。看取った晩に、するりと薄れて、消えた。焼けも痛みもせん。ただ、消える。仕える相手がいなくなれば、誓いは役目を終えるのだそうだ」


 主の墓に参っての、帰りだという。若様の代は家臣も若い者で足りている、隠居の身は気楽なものだ、と老人は笑った。笑って、また親指が手の甲をさすった。


「紋というのは、妙なものでな。あるうちは、重いの何のと思うたが……消えてみると、軽すぎていかん。五十年ぶりに、手が、手だけになった」


 エルドが、黙って自分の杯の酒を老人の杯に注いだ。老人は目を細めて受け、若いの、いける口かね、と笑い、いえ私はまだ、と生真面目な答えを聞いてまた笑った。それだけの夜だった。翌朝、老人は北へ、三人は南へ発った。


 その晩の頁も、少し長くなった。


 書きながら、レイフは自分の手の甲を見なかった。見なくても、そこに何もないことは、知っている。あの老人の五十年と、自分のこの手と、どちらが重いのかは、帳面に書くことではなかった。


  ◇


 六年目の夏には、こんなこともあった。


 中部へ抜ける山道で、前後を四人に挟まれた。木立から出てきた男たちは山刀(やまがたな)と棍棒(こんぼう)を提(さ)げ、値踏みの目で荷と女ひとりと若いの二人を順に見た。世慣れた賊の目算だった。目算が終わる前に、終わった。


 レイフが前の三人へ進み、エルドが振り向きざまに後ろの一人の棍棒を巻き落とした。レイフは最初の男の山刀を鞘(さや)ごとの剣で払い上げ、二人目を柄頭(つかがしら)で沈め、三人目は得物を取り落として尻餅(しりもち)をついた。誰の血も流れなかった。賊たちは転がるように木立へ消え、あとには棍棒が一本と山刀が一本、道に残った。


 マグダは、最初から最後まで、荷車に腰かけたままだった。


「……出てくださいませんでしたね」


「出る幕がないんだよ」


 マグダは笑って、それから、笑いを消さないまま言った。


「でかいの。あんた、もうあたしより強いよ」


「いえ」


「剣の師匠ってのはね、弟子に抜かれた日の言い方だけは、前もって決めてあるんだ。……言わせな」


 レイフは何と返していいか分からず、頭を下げた。下げてから、エルドの手が小さく震えているのに気づいた。初めて人へ本気で剣を向けた手だ。エルドは自分でもそれを見下ろし、握り込み、何も言わなかった。マグダはその手を見て、見なかった顔をして、荷車を降りた。


「言っとくけどね、ちび。それは恥じゃないよ。……それが震えなくなった日のほうが、よっぽど怖いんだ。覚えときな」


「……はい」


 その夜のエルドは、焚き火の薪を、いつもより丁寧に組んでいた。


  ◇


 そしてその年の冬の手前、あの夜の話を、久しぶりに他人の口から聞いた。


 中部の、大きな宿場の酒場だった。隅の卓で商人たちが酒を回しながら、誰かの持ち出した昔話に興じていた。


「——もう六年も前になるかね。北の果てで、お偉い辺境伯の家がまるごと燃えた夜の話よ」


 知っている、とレイフは思った。匙(さじ)を持つ手は、止めなかった。


「謀反さ。王様に弓引こうとして、勅命で誅(ちゅう)されたんだと。何百人も賊を飼ってたって話だぜ」


「馬鹿言え、賊じゃなくて北の蛮族と通じてたのよ」


「どっちでもいいがね、燃える城から金銀抱えて逃げた家来が、いまも北の山にいるらしいぜ。祟(たた)りで山が青く光るんだと」


 どっと笑いが起きた。誰も、本気で話してはいなかった。六年経った悲劇は、酒の肴(さかな)になるちょうどいい大きさの、他人事だった。商人たちの語りの中では、あの城は倍の高さになり、御館様(おやかたさま)は影のある悪相の大男になり、雪の夜はなぜか嵐の夜になっていた。


 何ひとつ、合っていなかった。


 レイフは横目で、隣の卓を見た。エルドは手元の椀に目を落として、静かに食べ続けていた。その横顔からは、何も読めなかった。読めないことが、答えのようなものだった。マグダは商人たちに背を向けたまま、いつもより少しだけ早く杯を重ねていた。


 その晩、宿の部屋で、エルドは窓辺に立った。


 二人に背を向けたまま、しばらく夜の街道を見て、それから振り向いた。灯りはひとつきりで、顔の半分は影の中にあった。


「決めていたことを、言う」


 声は、静かだった。


「あの与太話は、あと十年もすれば歌になる。二十年もすれば、あれが本当の話になる。父が何を成そうとした人か、母がどんな人だったか、あの夜、本当は何が起きたのか——知る者から死んでいって、嘘だけが残る。……それを、許さない」


 エルドは息をひとつ置いて、言い切った。


「真実を知る。責を負う者に、報いを」


 沈黙は、短かった。


 マグダが杯を置き、指の背で軽く卓を叩いた。


「六年、待った口だね。それだけ待てたなら、上等だよ」


「止めないのですか」


「あたしは師匠だからね。弟子の行き先を決める権利はないよ。……ただし、道々の仕込みは、明日から仕上げに入る。生半可なまま北の話に首を突っ込まれたら、あたしの寝覚めが悪い」


「……礼は、言わない。言えば、あなたたちは怒る」


「分かってきたじゃないか」


 マグダは笑って、杯の残りを干した。レイフは何も言わず、焚き付けの薪を組み直した。言うことは、何もなかった。この日が来ることは、一冊目の帳面の頃から、決まっていたようなものだったから。


 その晩の頁は、一行だけだった。


  ◇


 仕上げの月日は、瞬く間に過ぎた。


 稽古は実戦の形になり、エルドの帳付けは絵図と人の名を覚える稽古に変わり、マグダの説教は、酒場での聞き耳の立て方だの、追われながら追う者の作法だのという、剣呑(けんのん)な題目が増えた。三冊目に入った帳面は、それでも夜ごと、同じ調子で進んだ。


 雪が解け、街道の脇の水音が高くなった。


 行き先は、変わらず南だ。あの夜のすべては北で起きた。だが、あの夜を「勅命」と呼んだ声の出どころは南——王都のある方角だ。責を負う者の顔は、まだ見えない。それでも、辿るべき糸の端がどちらに垂れているかは、疑いようがなかった。


 南へ向かう三人の息が、もう白くない。春が来れば、あの雪の夜から七度目の春が来れば——エルドは、二十歳になる。



【改稿履歴】

2026/09/25 一部の表現を変更(→角灯)

2026/09/22 一部の表現を変更(→四角い字のまま、綺麗に並ぶようになってきた)

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