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間話 レイフの手記・旅の二年目「痛む日」


 ——夏の終わり。主の脚が、夜に痛む。


 ——マグダさんが、稽古の型を変えた。


  ◇


 木剣(ぼっけん)の先が、空を切った。


 それで三度目だ。マグダは受けの構えを解かないまま、口の端だけで笑った。河原の朝は、夏の終わりにしては涼しく、川霧がまだ膝のあたりに残っている。旅の二年目。北部の街道沿いの、名を覚える気にもならない町の外れだ。


「ちび。あんた、いま、どこを狙った」


「……肩です」


「肩は、ここだよ」


 マグダは自分の左肩を、木剣の先で軽く叩いた。エルドの打ち込みは、その半尺(はんしゃく)ばかり手前で止まっていた。届いていると思って振ったら、届いていなかったのだ。それも、三度。


「昨日は届いてました」


「昨日はね。……あんた、いくつになった」


「十五です。春に」


「十五の春から、夏の終わりまで。その間に、あんたの腕は、あんたの知ってる長さより伸びてる。頭のほうが、まだ春の腕で振ってるのさ」


 エルドが、自分の腕を見た。木剣を握った右腕を、肘から先、まじまじと見た。見たところで長さが分かるものでもないが、見ずにはいられなかったらしい。


「……そういう、ことですか」


「そういうことだよ。剣が届かないんじゃない。腕が余ってるんだ。あんたは、頭で剣を使う。頭の中の身体が、いまの身体より小さい。伸びたぶんを持て余して、手前で止めちまう。……珍しいことじゃないよ。伸びる年頃の子は、みんな一度はやる」


「では、どうすれば」


「振り続けな。頭が追いつくまで。あたしにできるのは、追いつくまでの間、こうやって的になってやることだけさ」


 エルドは何か言いかけ、やめて、また構えた。四度目は、肩に当たった。マグダはわざと避けなかった。痛かった。痛かったが、痛い顔をしてやる義理はない。


「よし。届いた」


「……はい」


「あと千回」


「千回」


「不服かい」


「いえ。……数えやすくて、助かります」


 この減らず口は、去年の春に聞いた。あのときはこちらが吹き出して、こちらの二度目が遅れた。今年は、吹き出さなかった。かわりに、ふん、と鼻を鳴らしてやった。一年で、こちらも慣れた。


  ◇


 レイフの薪割りが、河原の向こうで続いている。


 あの男は、朝の稽古の前に薪を割り、稽古のあとにまた割る。こちらが二人で木剣を振っているあいだ、斧(おの)の音は一定の間で鳴り続ける。あれは、頭で剣を使わない。頭で薪も割らない。手が覚えたとおりに、身体が動く。あの型は、教えて身につくものではなく、あの男の村と、あの男が居た家が、あの男の身体に置いていったものだ。


 ちびの型は、その反対だ。


 頭で覚えて、頭で組んで、頭で振る。だから綺麗で、だから、身体が変わると狂う。


 千回のうち、三百回ほどを数えたあたりで、マグダは気づいた。


 エルドが、左の脚を庇っている。


 踏み込みのたびに、左の膝が、ほんの少しだけ遅れる。庇っているというより、痛いのだ。それを顔に出さないように、顔のほうを先に固めている。固めた顔で、千回振る気でいる。


「ちび」


「はい」


「脚、どうした」


「何も」


「嘘をつくなら、もっとうまくつきな」


 エルドは木剣を下ろさなかった。下ろさないまま、少しだけ目を伏せた。


「……脛(すね)が、夜に痛みます。膝の下の、骨のところが。……昼は、何ともありません」


「いつからだい」


「……ひと月ほど」


 ひと月。マグダは、頭の中で舌打ちをした。ひと月、黙って振っていたわけだ。子ども扱いを嫌う子だから、痛いと言えば休まされると思ったのだろう。休まされるのが、この子には、子ども扱いに見える。


「それはね、伸びる痛みだよ」


 マグダは木剣を肩に担いだ。


「骨が伸びるときに、骨のまわりが引っ張られる。夜に痛むのは、昼に振って、夜に伸びるからさ。あたしも十四のときにやった。ひと月やふた月で終わる。……終わらなかったら、そのときは、あたしに言いな。伸びが止まった痛みだけ、悪い痛みだ」


「では、稽古は」


「休まないよ」


 エルドの顔が、少しだけ動いた。休め、と言われると思っていたらしい。


「休まない。だが、型を変える。痛む日には、痛む日の型がある。踏み込みで膝に乗せない型だ。……いいかい。痛みを隠して、痛くない日の型を振ると、身体のほうが剣を嫌いになる。身体に嫌われた剣士は、長くもたない。痛む日には、痛む日の振り方をしな。それだけのことだよ」


 マグダは、河原の石の上で、踏み込みの浅い型を見せた。膝を使わず、腰と腕で間合いを詰める型だ。エルドは、それを一度見ただけで、そっくり真似た。頭で剣を使う子の、これは長所だった。


「痛みはね、ちび」


 三度目の型を見ながら、マグダは言った。


「数えるもんじゃないよ。数えると、痛みが増える。数えるなら、日を数えな。ひと月、ふた月。伸びる痛みは、日が数えてくれる」


「……はい」


「それと、隠すな。隠すと、型が嘘になる。嘘の型は、あたしには見える。あんたは、隠すのが下手だからね」


 エルドは何も言わなかった。言わないまま、痛む日の型で、残りの七百回を振った。


  ◇


 宿は、町の荷継(につ)ぎ場の裏の、納屋の二階だった。


 荷継ぎ場の番と帳場の見張りを請け負って、部屋代を浮かせている。夜は、下の荷継ぎ場から、荷車の軋(きし)む音と、馬の鼻息が上がってくる。三人分の寝床は、藁(わら)の上に毛布を敷いただけのものだ。


 その晩、マグダは、最後の一杯を手酌(てじゃく)でやってから、横になった。


 この時刻の一杯は、味がしない。分かっていて、毎晩注ぐ。旅に出てからも、それは変わらなかった。変わったのは、杯の数を数えられるようになったことと、寝る前に、二人の寝息を確かめる癖がついたことくらいだ。


 寝息は、二つあった。


 レイフのは、深い。この男は、寝ると決めたら寝る。エルドのは、今夜は浅い。いつもは静かで深いのに、たまに、こういう晩がある。


 夜半(やはん)に、目が覚めた。


 何かの音で、というのではない。長年の癖だ。眠りの底に、一枚だけ、薄い板が張ってある。板の上を、何かが通ると、目が開く。


 通ったのは、息の音だった。


 エルドの寝床から、押し殺した息が聞こえていた。声を出すまいとして、喉の奥で止めている息だ。毛布の中で、何かを握りしめる音がした。毛布の端だろう。あの子は、寝ながら、いつも何かを握る。拾ってからずっと、そうだった。最初のころは、レイフの上着の裾だった。


 夢を、見ているのだ。


 何の夢かは、訊(き)くまでもなかった。


 名も、素性(すじょう)も、訊いていない。あの男が一度だけ口を滑らせた「様」の一字も、聞こえなかったことにしている。聞こえなくても、分かることは分かる。拾った年の春に、市で北の荷主が話していた、城がひとつ丸ごと焼けたという噂。熱のある頭で言った、貴人の礼の言い方。あの男の、寝ていても主のほうを向いている背中。……それだけ揃えば、この二人がどこから来て、何から逃げているかは、見立てるまでもない。


 見立てない、と決めたのは、拾った晩だ。訊けば、この子は答えなければならなくなる。答えれば、この子は、あたしの前で、ちびではなく、逃げてきた誰かになる。あたしの前では、ちびは、ちびでいい。それが、大人が子どもにしてやれる、数少ないことのひとつだ。


 マグダは、起き上がらなかった。


 起き上がって、声をかけて、起こしてやる。それは簡単だ。簡単だが、それをやると、この子は明日の朝、あたしの顔を見られなくなる。夜に見た夢を、朝の師匠に知られている——そういうのが、この子には、いちばん堪(こた)える。子ども扱いされるより、堪える。


 だから、マグダは目だけを開けて、暗がりを見ていた。


 暗がりの中で、影がひとつ、起き上がった。


 レイフだった。


 起き上がって、毛布を払って、エルドの寝床のそばへ膝でにじり寄った。触れなかった。声もかけなかった。ただ、エルドと戸口の間に、身体を置いた。壁を背にして、座った。


 それきり、動かない。


 押し殺した息は、しばらく続いた。毛布を握る音も、続いた。レイフは、座っていた。眠っているのではないことは、背中の据わり方で分かる。あれは、見張りの背中だ。何を見張っているのか。戸口か。それとも、夢の側か。


 息が、ふいに止まった。


 止まって、ひとつ、大きく吸われた。エルドが目を開けたのが、暗がりでも分かった。身体を起こす気配。それから、戸口のほうに座っている影に気づいて、短い沈黙。


「……レイフ」


「はい」


「……なんでもない」


「はい」


 それだけだった。エルドは、また横になった。毛布を引き上げる音。しばらくして、息が、ゆっくりと深くなっていった。


 レイフは、動かなかった。


 エルドの息が、完全に寝息に戻るまで——マグダが数えて、たっぷり五百は数えたあとまで——あの男は壁を背にして座っていた。それから、音もなく自分の寝床へ戻った。戻る途中で、一度だけ、こちらを見た気がした。


 暗くて、分からない。マグダも、目を閉じた。


 目を閉じたまま、思った。あの男が座っていた場所は、あたしが座る場所ではない。あたしの場所は、朝だ。朝の河原で、痛む日の型を見せてやることだ。それでいい。それが、あたしの受け持つ分だ。


 二人の寝息が、また二つになった。


 マグダは、自分の分の眠りを、そのあと少しだけ、取った。


  ◇


 朝は、いつもの顔だった。


 エルドは、いつもの時刻に起きて、いつものように顔を洗い、いつものように木剣を担いだ。目の下が、いつもより少し暗い。それだけだ。マグダは、それについて何も言わなかった。


 言わないかわりに、こう言った。


「今日は、稽古は休みだ」


「……脚は、大丈夫です」


「脚の話じゃないよ。市の日だ。あんたの靴を買ってきな。あんたの足に合う靴を、あんたの値切りで」


 エルドが、自分の足を見た。去年の秋に買った古靴だ。爪先が、革を押し上げて、そこだけ色が変わっている。春から、そうだった。本人は気づいていないふりをして、マグダは気づかないふりをしてやっていた。今日で、そのふりは終わりだ。


「……銭が」


「あたしが出すよ。旅の決まりだ。靴と飯は、抜かない」


「決まりは、三つでした」


「四つ目ができたんだよ、たったいま」


 エルドは、少しだけ口の端を上げた。それから、行儀よく頭を下げて、木剣を置き、財布を受け取って出ていった。出ていく背中が、春より、確かに高い。


 レイフが、薪を抱えて戸口に立っていた。


「でかいの」


「はい」


「あんた、寝てないだろ」


「寝ました」


「嘘が下手だね」


 レイフは、薪を抱えたまま、少し考える顔をした。考えて、結局、はい、とだけ言った。それが、この男の精一杯の白状だった。


「……今日は、薪を割ったら、昼まで寝な。あたしが帳場を見とく」


「はい」


「それと」


 マグダは、言うかどうか、一瞬だけ迷った。迷って、言った。


「あんたの座る場所は、あんたのものだ。……あたしは、朝の分だけもらうよ」


 レイフは、こちらを見た。何を言われたのか分からない顔だった。分からないまま、はい、と言った。分からなくていい。あれは、あたしが自分に言ったのだから。


  ◇


 昼過ぎ、エルドは新しい靴を履いて戻ってきた。


 値切りの首尾を、聞きもしないのに報告した。言い値から三割。最後の一枚は、向こうに勝たせた。店主は上機嫌で、次に来たら踵(かかと)を直してやると言った。次に来ることは、たぶん、ない。


「……よく買えたね」


「靴は、値切りにくい品です。足に合うかどうかを、向こうが握っているので。……ですが、合わない靴を売れば、店の評判が落ちる。そこを、話しました」


「話した、ね」


 マグダは、新しい靴を見た。革が硬くて、まだ足に馴染(なじ)んでいない。ひと月もすれば、この子の足の形になるだろう。ひと月もすれば、伸びる痛みも、たぶん終わる。ひと月もすれば、秋だ。


 河原で、エルドが痛む日の型を振っている。


 マグダは、荷継ぎ場の帳場から、それを見ていた。振り上げた木剣の先が、去年より、明らかに高いところで止まる。頭が、少しずつ、伸びた腕に追いついてきている。


 秋には、と思った。


 秋には、あの子の目の高さが、あたしと並ぶ。並んで、たぶん、越える。師匠が弟子に背丈で抜かれる日というのは、剣で抜かれる日より、ずっと早く来る。来たときに、何と言ってやるか。それは、まだ決めていない。


 決めていないまま、マグダは杯を——白湯だ、昼だから——口に運んだ。


 夏の終わりの川の音が、河原の木剣の音と、同じ調子で続いていた。


  ◇


 ——主は、夢を見た。何の夢かは、訊いていない。朝は、いつもの顔だった。


 ——マグダさんが、靴を買ってこいと言った。主は、値切って、買った。言い値から、三割。


 ——夜、主が息を殺していた。俺は、戸口のほうに座った。


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