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第10話 二十歳の朝


 朝の汁椀に、卵が二つ、落ちていた。


 エルドは匙(さじ)を取りかけた手を止めて、卓の向かいを見た。マグダは素知らぬ顔で自分の椀をすすっている。その隣でレイフが自分の椀を確かめ、エルドの椀を見て、何かに得心(とくしん)したようにうなずいた。


「……二つ、あるのですが」


「あたしの手が滑ったんだろ」


「去年までは、一つでした」


「なら今年は、二回滑ったのさ」


 旅に出てから、誕生日はいつも道の上で来た。祝いといえば、マグダが黙って汁物に卵を一つ落とす。それだけだ。誰が始めたとも誰が頼んだとも言わないまま、いつからか、そうと決まっていた。


 あの雪の夜から、七度目の春が来ていた。つまり、エルドは二十歳になった。


「来年は、三つ滑るのですか」


「調子に乗るんじゃないよ」


「三つは、椀に入りません」


 レイフが横から生真面目に言い、マグダは横を向いて、聞こえよがしに鼻を鳴らした。器の中で卵が二つ、湯気を立てていた。エルドは礼を言うかわりに、行儀よく時間をかけて食べた。この人たちへの礼の言い方なら、六年あまりかけて覚えている。


  ◇


 町は、王国の中部の、市の立つ宿場町だった。


 北の辺境を出てから、三人の旅にはもう型ができている。町に着けば、マグダが顔役を見つけて店番だの顔検(かおあらた)めだのの仕事を請け、レイフは荷運び、エルドは帳付(ちょうつ)けと買い出しを受け持つ。市をいくつか数えたら、顔を覚えられる前に発つ。この町は三つ目の市が近い。つまり、そろそろ潮時だった。


 ただ、この半年は、それに一つ仕事が増えていた。


 聞くことだ。どの町でも酒場と荷継(につ)ぎ場で、同じことにさりげなく耳を立てる。七年近く前に北で大きな仕事をした兵たちの、その後の噂だ。旅の傭兵(ようへい)の世間話にまぎれ込ませて、マグダはそれを聞き集めた。半年で、拾えたものはほとんどなかった。当然だとマグダは言った。国の仕事をした兵の口が軽いはずはない、と。


 その日の昼、エルドはレイフを連れて市へ出た。


 買い出しの途中、広場の井戸端に人だかりができていた。人垣の真ん中で、旅装の男が小さな竪琴(たてごと)を抱えて歌っていた。歌といっても節は半分で、残り半分は語りだ。町から町へ流れて、銅貨と引き換えに物語を聞かせる、歌うたいの類いだった。


「——さても北の果て、雪深きファーレンの城」


 その名が耳に入った瞬間、エルドの足は、ひとりでに止まっていた。


 歌は、よくできていた。


 北の富める辺境伯が王冠に牙を剥いた。密かに兵を蓄え、証しの文が積み上がった。憂いた東の隣家が、忠義ゆえにこれを訴え出た。宰相みずから北へ下り、和睦(わぼく)の宴を装って城に入り、満座(まんざ)の中で証しの文を検めた。動かぬ証し、くだる勅命、一夜の炎。悪しき家は根から絶えて、北にふたたび安寧(あんねい)が来た——。


 節は勇ましく、語りは滑らかで、聞き手は途中で二度笑い、一度どよめいた。最後に歌うたいは声を落とし、こう締めた。


「——されど裔(すえ)はひとり、雪山に消えたと申します。曇りの夜にファーレンの山が青く光るは、その怨みの火とか。……皆々様、曇りの晩の北の空には、ご用心」


 どっと受けて、銅貨が竪琴の袋に飛んだ。人垣が崩れ、聞き手は満足して散っていく。怖い話はちょうどいい土産話の大きさで、誰も本気にしてはいなかった。誰も、本気にしていないのに。


 歌は、酒場の与太話より、よほど筋が通っていた。


 あの与太話は、あと十年もすれば歌になる——去年の冬の手前、エルドはそう言った。十年は要らなかった。七年目には、もう歌になっていた。しかも噂のようにでたらめに膨れたのではない。謀反の証し、忠義の隣家、宴の席の検め、勅命。筋が一本通っている。誰かが最初に、筋を通して書いたからだ。


 レイフが半歩、前へ出た。何気ない立ち位置の直しに見えて、エルドと歌うたいの間に、その広い背中が入る位置だった。


「……行きましょう。買い出しが、まだです」


「ああ」


 エルドは歩き出した。手が冷えているのに気づいて、袖の中で指を握り込む。匙を鳴らして心中(しんちゅう)を知らせた十三歳は、もうどこにもいない。歌の間じゅう、顔色ひとつ変えなかった自信がある。それが成長なのか、別の何かなのかは、考えないことにした。


  ◇


 夜、マグダは遅く戻ってきた。


 宿の部屋に入ってくるなり、外套も脱がずに卓へつき、こう言った。


「引っかかったよ」


 レイフが手入れしていた剣を置き、エルドは帳面を閉じた。


「酒問屋の帳場から、荷主、川運びの人足頭(にんそくがしら)とたどって、三人目の口だ。ここから南へ二日、大きい川に材木の揚げ場がある町でね。そこの夜番に、妙な男がいる」


 マグダは指を三本立てて、一本ずつ折った。


「ひとつ。歳は四十絡み、身体つきと歩き方は兵あがり。けど、どこの家中(かちゅう)の話も傭兵時代の自慢話もしない。ふたつ。年中首に古布を巻いてる。夏でもだ。みっつ——これが本命だよ。酒場で北の大火の話が出ると、席を立つ。逃げそこねた晩には、白目をむいて引きつけを起こした。喉を掻(か)きむしって、泡を吹いて倒れたそうだ。二度もね。以来、あの店じゃ気の毒がって、誰も北の話をしないんだと」


「……引きつけの持病では」


「持病の引きつけは、話の題目を選ばないよ」


 マグダは短く言った。


「言いかけて、止められる。止められて、もがく。……ああいう倒れ方をする人間を、あたしは前に見たことがある。どこで見たかは、訊(き)きっこなしだ」


 部屋が、静かになった。


 炉の火が小さく爆ぜた。あの雪の夜が、狭い部屋の真ん中に、音もなく置かれていた。


「会いに行くよ。もとより、そのつもりで探した相手だ」マグダは外套の前を開いて、卓に肘を載せた。「ただし、その前に済ませとくことがある。……あんたたちの口から、あの夜の話を、あたしは一度も聞いてない」


 エルドは、マグダの目を見た。


 六年あまり、この人は何も訊かなかった。名も、家も、あの夜のことも。詮索しないのがこの人の決まりで、その決まりに二人は何度も救われてきた。


「あたしの決まりを、今夜だけ棚に上げる。……安心おし。あれは誓いじゃない。ただの決まりだ。棚に上げても、紋は焼けやしない」


 誰も笑わなかったが、部屋の空気は少しだけ緩んだ。


「明日からは、嘘の山から本当を拾う仕事になる。なのに肝心のあたしが本当を知らないんじゃ、店が開けないんでね。……聞かせな。あの夜、あんたたちが見たものを。見たままを、順に」


 エルドがうなずくより先に、レイフが背筋を立てた。


「……俺から、話します。俺のほうが、外から見ていましたので」


 レイフの話は、ゆっくりと、順を追って進んだ。


 和睦の宴のこと。入る者みなが立てた、今宵(こよい)この城の内で誰にも刃を向けないという誓いのこと。壇上で成った盟約と、献杯と、あの夜、広間にあった熱のこと。それから——宴も更けたころ、広間の壁際で、立会の護衛たちの紋が、いっぺんにおかしくなったこと。


「おかしく、とは」


「黒く、裏返ったのです。壁際の護衛たちの、あの淡い青の紋が、いっぺんに。墨を流したような黒でした。それから——外れました。外れて、消えました。剣が抜かれたのは、その後です」


「焼けたのかい。薄れたのかい」


「どちらでもありません。焼けたのでも、薄れたのでもない。錠前みたいに外れました。……俺の持ち場は当主卓の末席、エルド様の斜め後ろの三歩です。広間は蝋燭(ろうそく)と暖炉の火で明るくて、壁際まで、よく見えました。あの晩のことは、後になって帳面にも書きました。見たままは、いまも変わりません」


 聞きながら、エルドは膝の上の自分の右手を見ていた。レイフが外れたと言ったあたりから、指先が妙に落ち着かない。熱でも痺(しび)れでもない、名の付けようのない、細かな疼(うず)きだった。袖の中で握り込むと、じきに引いた。気のせいだろう。エルドは小さく頭を振って、話に耳を戻した。


 マグダはそれ以上押さなかった。押すかわりに、指の背で卓を一度、軽く叩いた。先を、という合図だった。


 レイフは先を話した。剣を抜いたのが、昼に着いた立会の護衛兵——あのそろいの黒装備だったこと。斬られたのが、壇の周りと、動けない者たちだったこと。ファーレンの家中は、誰ひとり剣を抜けなかったこと。抜こうとした腕が、止まるのを、この目で見たこと。自分の腕も、止まったこと。楽師席の暗がりに、フードの人影が立っていたこと。エルドを背負って台所口から出たこと。背中で聞いた、勅命であるという宣告のこと。燃えはじめた城のこと。雪のこと。


 語り口は無骨で、飾りがなかった。見なかったことは見なかったと言い、分からないことは分からないと言った。マグダは一度も口を挟まず、瞬きさえ惜しむように聞いていた。


 レイフが話し終えると、エルドは静かに付け足した。


「二つだけ、私からも」


 声は、自分でも意外なほど平らに出た。


「父の手は、剣の柄にあった。最後まで、刃は鞘(さや)から出なかった。出さなかったのではない。出せなかったのだ。誓いが、そうさせなかった。……私の足も、あのとき、一歩も動かなかった」


「……もう一つは」


「勅命である、という声を、私も聞いた。あれは叫びではない。式の口上のような、儀式ばった大声だった。……あの声だけは、いまも耳にある」


 マグダは腕を組んで、しばらく黙った。それから独り言のように、触れ書きの文句をそらんじた。北の辺境伯家、謀反の企てにより、勅命をもって誅(ちゅう)す。証しの品は宴の席にて立会の宰相これを検め。東の隣家は勅に従いてこれを助く。——顔検めの請負なんぞやってると、その手の触れは嫌でも頭に残るのさ、と言い添えて。


「では、訊くよ。触れと、あんたたちの見たものと、どこが食い違う」


「ほとんど、すべてが」


 エルドは、一つずつ順に挙げていった。


「まず、検めなどなかった。詮議(せんぎ)も、問答も、縄もない。文書の一枚も卓に出ていない。宴の最中(さなか)に、いきなり刃が出た。……次に、東の隣家が勅を助けたという件。レイフ」


「グレンツ家の供の人らが、斬られて倒れるのを見ました。二人か、三人。……勅を助けた家の供が、なぜ斬られたのか、俺には分かりません」


「最後に、謀反そのものだ。謀反を企てる家が、何年も頭を下げて和睦を願うか。宰相を、わざわざ立会に城へ招くか。城の武具蔵より、宴の酒蔵を先に開けるか。……あの夜の城の何もかもが、謀反の企てとは繋がらない」


「触れと合ってるのは」


「勅命、という言葉だけだ」


 エルドはそこで一度、口を閉じた。閉じてから、この半年胸の中で組み直してきた理屈を初めて声に出した。


「沙汰が下って、布告が書かれたのではない。布告が先に書かれていて、あの夜が、その筋書きのとおりに行われた。……昼の歌を聞いたろう、レイフ。あの歌に、綻(ほころ)びが一つもなかったのはなぜだ。最初に、書いた者がいるからだ」


「筋書きを書いたのは、誰だと思う」


 マグダの問いは、静かだった。試す声ではなかった。足元を確かめさせる声だった。エルドは、首を横に振った。


「決めない」


「ほう」


「北の田舎に、勅の布告を書ける者はいない。王都の側の誰かだ。そこまでは決めていい。……だが、その先を急げば、見たいものしか見なくなる。刃を持っていたのは立会の護衛兵。命じられて動いた者が、あの中に生きている。なら、届く糸から手繰(たぐ)る。的を決めるのは、知ってからだ」


 マグダは何も言わずに、エルドの顔をしばらく眺めていた。目の奥で何かを量り直すような間があって、それが済むと、口元だけがわずかに緩んだ。


「……よくもまあ、そんなものを抱えて、涼しい顔で値切りなんぞ覚えてたもんだね」


 それだけ言って、立ち上がり、荷物から酒壺と杯を出した。


「言っとくけど、縛られた口ってのは、こじ開けるもんじゃないよ。縛り目のまわりの、こぼれ物を拾うんだ。何の話を避けるか。どこで黙るか。……黙り方ってのは、あんたが思うより、ずっと雄弁なのさ」


「こぼれ物で、足りるでしょうか」


「足りなくても、拾う。それが探し物の作法だ」マグダは杯を三つ、卓に並べた。「それとね、ちび。あんたの人相書きは、十三の子供のまんまだ。六年半前のね。いまのあんたと重ねて見る目は、まずない。——ただし、目の色だけは変わらない。北の話が出る場じゃ、伏せ目の癖を忘れるんじゃないよ」


  ◇


 三つの杯に、酒が注がれた。


「二十歳の祝いってのは、卵だけじゃ足りないんでね」


 マグダはそう言って、真ん中の杯をエルドの前へ押した。


 エルドは杯を見下ろした。いつかの峠下の宿で、白髪の老人に「いける口かね」と笑われた夜を思い出す。いえ、私はまだ——あのときの答えの「まだ」が、今夜で終わる。誰も、何に、とは言わなかった。言わないまま、三つの杯が卓の上で軽く触れた。


 ひと口、含んだ。


「…………苦いな」


「そりゃ、安酒だからね」


「酒とは、こういうものか」


「いい酒ってのは、もっとうまいよ。悪い酒は、もっとまずい。世の中と同じさ」マグダはくつくつ笑って、手酌(てじゃく)で注ぎ足した。「いつか、いいのを呑ませてやるよ。今日のところは、それで我慢おし」


 レイフは自分の杯を両手で包むように持って、ひと口ずつ時間をかけて呑んでいた。呑みながら、エルドの顔と卓の上とを順に見る。酒より、主の初めての晩のほうを味わっている顔だった。


 やがてマグダが寝支度を始め、レイフが灯りを一つ落とした。


 エルドは窓辺に立った。


 窓の外、春の夜気の底を、街道が南へ延びている。月はなく、道は闇に溶けて、それでもどちらへ延びているかは身体が覚えていた。


 二日歩けば、大きな川に出る。


 その川辺の町で、あの夜の中にいた男が——生きて、今夜も夜番の火を焚いている。


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