第11話 口封じ
川は、南へ行くほど幅を増す。
二日目の夕方に着いたその町で、川はもう、対岸の人の顔が分からないほどの幅になっていた。上流の山から流した材木がここで陸に揚がり、荷車と人足と木の香りが、川べりの一角を埋めている。材木の揚げ場だ。組んだ丸太が岸に沿って何列も浮かび、杭と綱でつながれて、水の速さにゆっくりと軋んでいた。
男はその揚げ場の夜番だという。
「昼のうちに、面は拝んできたよ」
宿で落ち合ったマグダが声を低くして言った。
「飯屋の隅で呑んでた。四十絡み、兵あがりの背中、首に古布。聞いたとおりだ。……酒の呑み方だけ聞いた話と違ったね」
「浴びるほど呑むのでは」
「逆さ。杯を三つと決めて、三つで止めて、勘定を置いて出ていった。あれは酔いたいのに酔えない呑み方だ。酔って口が緩むのが怖いのさ。……緩んだところで、どうせ何も出やしないだろうにね」
マグダは窓の外へ目をやった。日が落ちて、川の上だけがまだ薄明るい。
「夜番は、日暮れから明け方まで。番小屋にひとりだ。会うなら、今夜が早い」
「今夜にする」
エルドは短く答えた。六年半、待った。もうひと晩を惜しむ理由は探せばいくらでもある気がしたが、どれも臆病の別名だった。
◇
夜の揚げ場は、水音と丸太のこすれ合う音ばかりだった。
番小屋は岸の杭列の際にあって、戸口の脇に篝火がひとつ燃えていた。火のそばに男が座っている。膝に棒を立てかけ、綱の鳴る方角へ時おり首を巡らせる。座り方に型が残っていた。長く兵をやった者の、火の番の座り方だった。
三人は、火の明かりの届く手前で足を止めた。先に立ったのはマグダで、両手を空けたまま声だけを先に投げた。
「夜分にすまないね。番人さん、火をちょいと借りるよ」
男が顔を上げた。
旅の者が焚き火に寄るのは、川べりでは珍しくもない。男は黙って顎で火を示し、棒は膝から下ろさなかった。用心深いが、追い払いはしない。その加減にも兵の癖が出ていた。
エルドは火の輪に入り、男の斜向かいに膝を折った。
近くで見ると、思ったより老けていた。四十絡みのはずが、こめかみの白髪と目の下の弛みは十も上に見える。首の古布は聞いたとおりだった。春の夜にはもう暑いはずのものが、喉仏の下まできっちり巻かれている。
「番人どの。夜番の邪魔をして、申し訳ない」
エルドは静かに切り出した。
「七年近く前の冬、北の果てで城がひとつ燃えた。……あの夜の話をしに来た」
男の顔から、表情がこぼれ落ちた。
棒が倒れた。男は跳ねるように立った。目が退路を探して闇を走り——その先に、黙って立つレイフの影を見つけた。川を背にして、男はゆっくりと座り直した。観念したというより、膝が立っていられなくなったのだと、遅れて分かった。
「あんたを縛りに来たのでも、突き出しに来たのでもない」
エルドは動かず、声だけを男に置いた。
「聞きたいだけだ。あの夜、あの広間で何があったのか。あんたたちが誰に、何を命じられていたのか」
男はエルドの顔を見た。
篝火の明かりで、初めてまともに目と目が合った。男の目が、見開かれたまま動かなくなる。何かを思い出そうとする目ではなかった。思い出したくないものが勝手に戻ってくるのを、止められない目だった。
男の口が、開いた。
「……わ」
声は、そこで潰れた。
わ、の次が出ない。男の喉仏が上下し、顎が震え、息だけがひゅうと抜けた。男は自分の喉を掴んだ。掴んで、絞り出そうとして、身体がぐっと前へ折れた。咳の形をしているのに、咳の音がしない。
「無理をするんじゃないよ」
マグダが火の向こうから言った。声は低く、平らだった。
「あんたのそれ、引きつけの持病ってことになってるらしいね。……違うだろ。喉の布を見せてみな」
男は荒い息のまま、しばらく動かなかった。それから震える指で首の古布をほどいた。
喉仏のすぐ下に、紋があった。
薄青い、小さな誓紋だ。組紐を結んだような形をしている。ただ、その縁がところどころ黒ずんでいた。焼け焦げのごく古いのを幾度も重ねたような黒ずみだった。
「口の誓いだ」マグダが息を吐いた。「誓いの紋ってのは、誓いの住む場所に浮かぶ。剣の誓いなら剣の手に、口の誓いなら喉に。……縁のその黒ずみは、あんた、幾度も破ろうとしたね。破れるもんならとっくに破ってる。そういう顔だ」
男は答えなかった。答えられなかった。かわりに、何かを堪える顔のまま火を見た。その目の縁が赤かった。
その紋から、エルドは目が離せなかった。見ているだけなのに、右手の指先がまた、あの晩のように細かく疼いた。今度は、袖の中で握り込んでも引かない。理由を探しかけて、やめた。いまは、この男の話が先だ。
エルドは懐から、折り畳んだ布と炭の欠片を出した。旅の帳付けに使う道具だ。布を開いて男の膝の前に置き、炭を差し出す。
「声が駄目なら、字でいい。書けるだけで」
男は炭を受け取った。受け取って、布の上に構えて——手が、止まった。
止まった、というのは正しくない。男の手は震えながら布の三寸上にあって、そこから下りないのだった。男は左手で右の手首を掴み、押し下ろそうとした。腕ぜんたいが石になったように動かない。息が荒くなり、額に汗が浮き、喉の紋の縁が篝火の色とは別の赤みを帯びはじめた。
「もういい」
エルドは言った。男の手から力が抜けた。炭が布の上に転がって、黒い点をひとつ付けた。
「では、問いに首だけで答えられるか。是なら、うなずくだけで」
男はエルドを見て、うなずこうとした。
首が、動かなかった。
顎が小刻みに震えたきり、上にも下にも振れない。うなずきひとつが誓いに触れるのだ。あの夜のことを、どんな形でも明かさない——おそらくは、そういう文言で。声も、字も、首の縦振りも、みんな「どんな形」の内側だった。
男の目から、涙がこぼれた。
泣き方すら、静かだった。声を立てれば、その声がまた誓いに触れるとでもいうように、男は歯を食いしばったまま、目だけで泣いた。四十を過ぎた兵あがりの男が、旅の若造の前で恥も忘れて泣いていた。言いたいのだ、と分かった。この男は七年、言いたくて言えなかったのだ。
誓いは、破れない。
橋守の爺様の足を、四十年、大水の晩の橋へ運ばせたのと同じ力が、いま目の前でひとりの男の喉を締めている。あの夜の真実ごと、締めている。
マグダが立ち上がった。
「……あたしは、風を見てくるよ」
外套の裾を払って、火の輪の外へ出る。すれ違いざま、エルドの肩の後ろで声だけが低く降ってきた。
「三人で囲んじゃ、出るものも出ない。あとは、あんたの家の話だ。——でかいのは、置いてく」
足音が、水音にまぎれて消えた。
◇
火が、小さくなっていた。
レイフが黙って薪を足した。炎が持ち直して、男の濡れた顔を照らした。男はまだ布の上の炭の点を見ていた。
「番人どの」
エルドは男の正面に膝を進めた。右手の疼きは、まだ引いていない。それどころか、身体の芯のほうから、何かが急かしてくる。何をしろと言うのかは、自分でも分からない。ただ、この手をあの紋に近づければ分かる——理屈より先に、そう思っている自分がいた。確かめずに背を向ければ、この先ずっと、この手を疑いながら生きることになる気がした。
「もう一度だけ、試したいことがある。……動くな」
男が顔を上げるのと、エルドの手が伸びるのが、同時だった。
指先が、喉元の紋に触れた。
触れた、と言うのとは、少し違うのかもしれない。指の腹に、引っかかったのだ。目に見えない、張りつめた、細い糸のようなもの。指を近づけるだけで分かるほどそれは硬く張っていて、男の息に合わせてかすかに震えていた。
——我らの血は。
父の声が、耳の奥で甦った。雪の夜に途切れた、あの言葉の、途切れたところまで。
エルドは、それを掴んだ。
どうやって掴んだのかは、自分でも説明がつかない。指が、手が、掴み方を知っていた。教わった覚えのない口上を諳んじるように、手が勝手に動いた。掴んで、引いた。いや——断った。
ぷつり、と。
音はしなかったはずだ。なのに、確かにそう聞こえた。
喉元の紋が、内側から赤く透けた。薄青い組紐の線が、燃え差しの藁のように端から赤らみ、黒ずみ、細かな灰になって崩れていく。焦げた藁に似た匂いがひと筋立った。男の肌に火ぶくれひとつ残さず、紋の線だけが焼き切れて消えた。あとには古い傷痕のような細い白い線が、紋の形の名残をとどめているだけだった。
一瞬、目の奥が翳った。
疲れか、と思う間に戻った。それだけだった。
男が大きく息を吸った。溺れた者が水面に出たような、長い、震える息だった。吸って、吐いて、その息に初めて声がまじった。
「——……壇の、子か」
嗄れた、低い声だった。七年ぶんの錆のついた声だった。男は自分の喉を掴み、それから自分の手を見て、掌で口を覆った。
「声が。……出る。おい。出て、いいのか。……あんた」
男はエルドを見た。畏れと、混乱と、その底に隠しようのない安堵があった。
「何を、した」
「分からない」
エルドは正直に答えた。掴んだ指先にはまだ、糸の切れた感触が残っている。それが何なのかは、本当に分からなかった。分からないまま、耳の奥では途切れた父の声だけが繰り返されていた。我らの血は——。その先を、いまは考えない。考えるのは、この男の話を聞いてからだ。
「あんたは、話せる。……話してくれ。あの夜のことを。最初から」
男は、長いこと黙っていた。
声が出るようになったのに、黙っていた。七年、頭の中で幾万回も唱えた言葉たちを、どこから出せばいいのか分からなくなった者の沈黙だった。やがて男は火に向かって、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「……俺は、宰相府の護衛兵だった。若い時分から、ずっとだ。……北へ発つ前に、上から達しがあった。北の辺境伯家に、謀反の企てあり。勅命をもって誅する。宴の席で、合図がある。……合図があれば、おまえたちの誓いは、解いていただける、と」
「誓いを、解く」
「城に入る者はみんな、あの誓いを立てるだろう。刃を向けん、というやつだ。俺たちも立てた。立てさせられた、んじゃない。立てた。あれを立てなきゃ、そもそも城に入れん。……で、宴の途中で、それが解ける。解けたら、抜け。壇の周りと家中の者を討て。……達しは、それだけだ」
「合図は、何だった」
「合図なんぞ、要らなかった」
男は自分の右手の甲を見た。何もない、節くれ立った手の甲を。
「手の甲が、ふっと軽くなった。見たら——紋が、黒くなっていた。黒くなって、焼けもせんで、剥がれるように外れて、消えた。……あんな消え方は、見たことがない。臣従の紋が主の死で消えるのは、薄れて消える。破ろうと足掻けば、焼ける。どっちも、務めの中で見てきた。だがあれは、どっちでもなかった」
レイフが火の向こうで、身じろぎもせずに聞いていた。
「誰が解いたのか、見たか」
「……楽師席の脇の、暗がりだ。フードの男が立っていた。俺たちの隊の者じゃない。そいつが手を上げたのと、紋が外れたのが同時だった。顔は、見とらん」
「それから」
「それから……」
男の声が、初めて誓い以外のもので途切れた。ただの、人間の途切れ方だった。
「……抜いた。動けん者を、斬った。誓いに縛られて、剣も抜けん、逃げもできん者らを。……壇の近くが俺の持ち場だった。あんたの口上を、聞いていた。献杯の口上だ。子供がひとつもつかえずに言い切るのを、いい口上だと思って聞いていた。その晩のうちに、俺は……」
男は言い切らなかった。エルドもその先を求めなかった。火が爆ぜて、水音が急に大きく聞こえた。
「……城に火が回って、退けの下知が出た。戻る道中、街道の宿でひとりずつ別間に呼ばれた。典礼官さまの前で、誓わされた。……いや。違うな。誓えと言われて、誓った。あの夜のことは、生涯、誰にも、どんな形でも明かさない、と。式の言葉は、典礼官さまが読み上げなすった」
「断れば」
「断った者が、どうなったかは知らん。……いや、これも違う。断れる気が、せんかった。誓いってのは、心にもないままじゃ成らんそうだな。……成ったよ。俺は、心の底から生きたかった。あの夜を見たあとでも。あの夜を見たあとだから、かもしれん」
男は乾いた声で、少しだけ笑った。笑いの形をした、別のものだった。
「都に戻ると、役目を解かれた。褒美も咎めもなし。口は縛って、身体は放り出す。……手間のかからん始末よ。あとは、見てのとおりだ。流れて、流れて、丸太の番人だ」
エルドは最後の問いを置いた。
「命じたのは、誰だ」
「俺たちに、って意味なら、典礼官さまだ。宴の段取りも、持ち場割りも、あとの口封じも、みんなあの方の指図だった。宰相府の儀典を取り仕切る役だ。祭だの式だのの段取りで、王都と中部を行ったり来たりしておられた」
「その典礼官の、上は」
「知らん。下っ端の知れることじゃない。……ただ」
男は少しためらってから続けた。
「あの方も始終、誰かの顔色をうかがってなさるふうだった。段取りの人だ。自分で描いた絵じゃあ、あるまいよ」
◇
話が終わると、男は空になった。
そうとしか言いようのない座り方だった。七年、抱え続けたものを吐き出して、男の中にはそれを抱えていた場所だけが、がらんと残ったように見えた。
「……言えば、軽くなると思っていた」
男は火を見たまま言った。
「ならんな。……何も、変わらん」
そうだろう、とエルドは思った。この男から出ていったのは、言葉だけだ。あの夜も、斬った手応えも、七年も、何ひとつこの男から出てはいかない。
男がふいに膝を回して、エルドに正面から向き直った。座ったまま、腰の小刀を鞘ごと抜いて、両手でエルドの前へ差し出す。
「……殺すなら、いまだ。夜番の男がひとり、川に浮いたところで誰も騒がん」
エルドは小刀を見て、男の顔を見た。
この男を、恨んでいる。それは確かめるまでもなかった。壇の近くが持ち場だったという言葉を聞いた瞬間から、腹の底には冷たいものが据わっている。この男の剣が、あの夜、誰の上に振り下ろされたのか。訊けば、答えるだろう。訊かなかった。訊けば、この手が何をするか自分でも分からなかったからだ。
それでも。
「……私が報いを向けるのは、責を負う者だ」
声は思ったより静かに出た。
「命じられて動いた剣より先に、命じた者。筋書きを書いた者。あんたはその生き証人だ。……死なせない。生きろとも言わない。ただ——忘れるな。あんたが今夜話したことを、ぜんぶ、覚えていろ。それが、あんたの責任だ」
男は差し出した小刀を、長いこと宙に浮かせていた。
やがて力の抜けた手で引き戻し、腰に差し直した。うなだれた首が、今度は止められることなく縦に動いた。うなずけるようになった首で、男はうなずいた。それを見て、なぜか胸の奥が軋んだ。
火の外からマグダの声がした。話が終わるのを、離れたところで待っていたらしい。闇と水音のあいだに、外套の輪郭だけが立っていた。
「番人さん。ひとつ、ただで教えといてやるよ」
声は、いつもの調子だった。
「その喉、人に見せるんじゃないよ。紋の焼き切れた痕なんてのは、見る奴が見れば、めしの種か厄介の種だ。布はこれからも巻いときな。……夏でもね」
男はのろのろと古布を拾い、喉に巻き直した。その手つきだけは七年ぶんの慣れで、迷いがなかった。
◇
帰り道は、川沿いの土手だった。
夜明けにはまだ遠く、月が出て、川面の広いところだけが鈍く光っていた。マグダは少し先を歩いている。聞かなかったことを、聞かなかったままにしておく歩き方だった。
「エルド様」
隣のレイフが低く言った。
「お加減は」
「何ともない」
答えてから、エルドは自分の右手を開いて月明かりにかざした。指先には、もう何の感触も残っていない。糸の切れたあの感じも、焦げた匂いも消えている。ただ、父の声だけがまだ耳の奥にいた。我らの血は——。あの続きに、何の言葉が来るはずだったのか。今夜、その手前まで確かに近づいた気がする。
「本当に、何ともない」
もう一度言うと、レイフは、はい、と短く答えた。答えたわりに、その目はもうひと呼吸ぶんだけ長く、こちらの横顔に残っていた。
得たものを、頭の中で並べる。
達しの筋道。解かれた誓い。フードの影。そして、典礼官という役目の名。糸はつながった。次の結び目の在り処も分かった。
失ったものは、何もない。
エルドは、そう思うことに、何の疑問も抱かなかった。




