第12話 失われた一つ
川の町を発って、二日になる。
街道は大きな川に沿って南へ下り、三人はその日、日暮れ前に川べりの草地へ荷を下ろした。町はまだ先だが、急ぐ旅ではない。男から聞き出せたことのうち、これからの道筋に関わるぶんは発つ朝のうちにマグダへ伝えてあった。宰相府の典礼官。儀典と祭の段取りで、王都と中部を行き来する役。糸の次の結び目は、そう遠くない土地のどこかにいる。
夕餉の支度は、いつもの手順で始まった。
レイフは袖をまくって浅瀬に入り、岩陰に手を差し込んで、続けざまに二尾を上げた。三尾目は淀みの際で。焚き火はエルドが組み、マグダは流木に腰を下ろして、木の杯を膝に載せている。
「相変わらず、器用な手だねえ」
マグダが岸から声を投げた。
「網もなしに、ほいほいと。……おい、ちび。あんたも入りな。腕が鈍るよ、素手の川漁」
エルドは焚き火の火加減を見たまま顔を上げた。
「買いかぶりです。素手の川漁なら、レイフの芸でしょう」
「あんたのでもあるだろ。五つ目の岩の若様がさ」
「……なんの話です」
流れの中で、レイフの手が止まった。
エルドの声に、噛み合わない音がした。とぼけたのでも、照れて流したのでもない。本当に分からない者の、丁寧な聞き返しだった。
「なんのって、あんたの初手柄の話だよ」マグダは杯を持ったまま、笑いの残った声で続けた。「網なしでやると言い張って、四つも岩をしくじって、五つ目でようやく一尾。両手で押さえて、水ごとすくい上げた。……あたしが、初日で一尾なら見込みがあると言ってやった、あの」
「マグダ」
エルドは少し困った顔で、火の始末の手を止めずに言った。
「私は素手で魚を獲ったことは一度もありませんが」
川の音だけが、しばらく続いた。
レイフは流れの中に立ったまま、動けなかった。動いたら、何かがこぼれる気がした。手の中では三尾目の魚が跳ねていて、その冷たさだけが妙にはっきりしていた。
あの日のことなら、覚えている。雨上がりの休みの日。網の理屈は見て取った、理屈が正しければ素手でも獲れるはずだ、と言い張って浅瀬に入ったエルド。石を起こす手が空かないから、頼まれる前に自分が上流へ回った。三つの岩で逃げられ、四つ目で指先が魚の腹に触れ、五つ目で——両手で、水ごと。跳ねる魚を胸に抱えて、負けず嫌いの顔のまま岸を見た、あの。
「……そうだったかねえ」
マグダの声は、変わらなかった。
「なら、あたしの勘違いだ。酒の席の手柄話ってのは、よそさまのと混ざるからね。歳はとりたくないもんだよ」
言いながら、マグダの目だけが流れの中のレイフを一度だけ見た。笑っていない目だった。
「歳のせいより、酒のせいでしょう」エルドはようやく火から顔を上げて、薪を一本足した。「素手の川漁は、昔からレイフの持ち場と決まっています。……ほら、冷える。上がってこい、レイフ。三尾あれば足りる」
「…………はい」
レイフは岸へ上がった。
魚を捌く。串を削る。塩を振る。手は、いつもの仕事をいつもの順でこなしていく。マグダに仕込まれた「顔を消す」やり方を、レイフはこの晩、初めて、剣のためでなく使った。
焼き上がった三尾のうち、いちばんよく焼けた一尾は、いつものように火越しにエルドへ差し出され、いつものように押し返されてきた。
「食え。今日は、おまえが三尾とも獲った」
今日は、ではない。
エルドの中では、いつでも、そうなのだ。
◇
その夜、レイフは眠らなかった。
エルドが寝息を立てるのを待って、革袋から帳面を出した。三冊目ではない。いちばん底にしまってある、綴じの歪んだ一冊目だ。表紙は手擦れで柔らかくなり、角は丸くなっている。火に近づけて頁を繰った。
探す頁は、すぐに見つかった。四角い、石垣のような字が、今より下手なぶんだけ力を込めて並んでいた。
——川の日。マグダさんの休み。魚は六つ。俺が五つ、主が一つ。主は初めて、素手で魚を獲った。五つ目の岩で、両手で押さえて、水ごと上げた。マグダさんが、初日で一尾なら見込みがある、と言った。魚は二つずつ食った。主は、八つの年の鷹狩りの話をした。主の父君が、声を立てて笑った話だった。いい休みだった。
書いた晩のことまで、覚えている。河原での書きつけを見て、焼いた魚の数を書いてどうする、と自分でも思いながら、それでも書いておきたくて書いた。誰に読ませるためでもない。ここに本当のことがある、というだけのために。
その本当が、いま、エルドの中にだけ、ない。
火の向こうで、衣擦れの音がした。マグダが半身を起こして、こちらを見ていた。眠っていなかったらしい。焚き火をはさんで、二人ともしばらく黙っていた。
「……あんた、思い違いなんかじゃ、ないんだろ」
「はい」
「その帳面にも、あるのかい」
「あります」
マグダは息を長く吐いて、髪をかき上げた。夜目にも、その横顔からいつもの減らず口が抜け落ちているのが分かった。
「あの晩の、あの喉のことかもしれないね。……決めつけはしないよ。ただ、あれからこっち、変わったことといえば、あれくらいしか思い当たらない」
「……俺も、同じことを考えていました」
「言うのかい。あの子に」
レイフは、帳面を見た。
言わない、という道も、あるにはあるのだ。黙っていれば、エルドは何も欠けていない顔で、明日も飯を食い、剣を振り、南へ歩く。失くしたことにすら気づかないものは、失くしたうちに入らないのかもしれない。誰も痛くない。何も壊れない。
だが、この先も断つ日が来る。あの喉のような口封じが、この先の道にいくつ転がっているか分からない。値を知らずに払い続けさせるのは——。
「……言います」
「そうかい」
マグダはそれだけ言って、身体を横に戻した。止めもせず、勧めもしない、いつもの距離だった。ただ、横になってから独り言のようにひとつ付け足した。
「夜に言うんじゃないよ。夜の話は、倍の重さで刺さるからね。……朝、日のあるうちにしな。番はあたしが立つ。あんたは寝ときな」
「はい」
寝ろと言われて寝られる晩ではなかったが、レイフは横になった。目を閉じると、瞼の裏で五つ目の岩の水しぶきが、いつまでも上がり続けていた。
◇
朝、マグダは伸びをひとつして荷物から空の革袋を取った。
「ちょいと村まで行ってくる。塩を切らした」
「塩なら、まだ袋に半分あります」
「切らしたんだよ」
マグダは真面目に答えたレイフの脇を通り抜け、ついでのようにその背中を掌でひとつ叩いていった。街道の方へ遠ざかる足音が消えるまで、レイフは火のそばで湯を沸かしていた。
エルドは川べりの石の上で、朝の稽古の型を終えたところだった。剣を鞘へ戻し、汗を拭いて戻ってくる。
「レイフ。今日は発たないのか」
「その前に……見ていただきたいものが、あります」
レイフは焚き火の前に膝をそろえて座り、革袋から一冊目の帳面を出した。
エルドの目が、帳面に留まった。何年ものあいだ、何を書いているのかと訊かれ続け、数を、と答え続けてきた、あの帳面だ。見せろと言われたことは一度もない。見せたことも、一度もない。
「前に……焼いた魚の数を書いている、と言いました」
レイフは自分の声が思ったより落ち着いているのを聞いた。
「嘘では、ありませんでした。ただ、ぜんぶでも、ありませんでした」
最初の頁を開いて、朝の光の届く向きにして差し出した。
エルドは受け取って、目を落とした。最初の一行を、声には出さずに読んだのが、唇の動きで分かった。主は、俺より三つ下で、俺より字がうまい。エルドは短く鼻から息を抜いた。笑いの手前のような音だった。
「……字は、いまも俺のほうがうまいな」
「はい。ですが、見ていただきたいのは、そこではなく」
レイフは手を伸ばして、あの頁を開いた。
エルドは、読んだ。
読み終えるのに、長くはかからない。短い頁だ。なのにエルドは、長いこと目を上げなかった。読み直しているのだと、視線の往復で分かった。一度。二度。三度目の途中で、頁を持つ指に力がこもった。紙が、かすかに鳴った。
「……これは、私か」
「はい」
「おまえが書いたのか。その日のうちに」
「その晩にです。……マグダの言った五つ目の岩も、両手で押さえたのも、俺がこの目で見ました。石を起こしたのは、俺です。頼まれる前に、俺が上流へ回りました。あなたはあの日、確かにご自分の手で一尾獲ったのです」
エルドは頁から目を上げなかった。
「河原で魚を食った覚えは、ある」
声は、平らだった。平らに、しすぎていた。
「あの日のことも、ある。焚き火と、魚の味と……鷹狩りの話をしたことも、覚えている。この頁の、そこは合っている。だが……私が川に入った覚えが、ない。石も、岩も、手の中で跳ねた魚も、ない。訊かれれば、六つともおまえが獲ったと答えていた。そう覚えているのでは、ない。私の中に川へ入った私がいない以上——そうとしか、考えようがないからだ」
エルドはようやく顔を上げて、川を見た。
朝の川は静かに流れていて、岩は、どれも同じような顔で水を割っていた。
「レイフ。ほかには」
「……分かりません。俺に見えているあなたは、何も変わっていません。ただ」
「ただ?」
「欠けたものは、欠けたことが分からないのだと思います。あなたにも。……俺にも、あなたの中の何が欠けたかは、外から数えるほかありません」
エルドはしばらく黙った。
それから自分の右手を開いて、見下ろした。あの晩、男の喉の紋を掴んだ手だ。
「思い当たることは、一つしかない」
開いた手を見つめたまま、エルドは順に言葉を置いた。
「あの晩、私は人の誓いを断った。断ったとき、一瞬、目の前が翳った。疲れだと思って、忘れていた。……その晩から、この頁の中身が、私にだけない。熱は出ていない。ほかの日々は繋がっている。なら、理屈は一つに絞られる」
エルドは手を握って、静かに言い切った。
「断てば、忘れる。……そういう、払いなのだ」
川の音の中で、その言葉は妙にあっさりと据わった。大声も、震えもなかった。ただ、続けてこぼれた一言だけが、少し掠れた。
「値も知らずに、払っていたわけか。……買い出しなら、マグダに叱られている」
「エルド様」
「怖くないと言えば、嘘になる」
エルドは帳面を閉じて、両手で膝の上に置いた。壊れ物を扱う手つきだった。
「痛みなら、堪えられる。傷なら、数えられる。だがこれは……どこを失ったか、自分では数えられない。帳面を見るまで、失ったことにすら気づかなかった。それが、思ったより、怖い」
レイフは、何も言わなかった。慰めの言葉を探したが、探した端から、どれも軽すぎて捨てた。かわりに、ずっと考えていたことを言った。
「もう、断たなければ、と思います」
「そうだな」
エルドはあっさりうなずいた。
「断たずに済む道があるなら、必ずそちらを取る。値切れるものなら、値切る。……だが、レイフ。この先の道は、あの喉のように、誓いに隠されている。誰かが縛った口を、開けねば届かない本当が、この先にいくつもある。そのたびに引き返すなら、私は父と母とあの家のみなを、嘘の中に置き去りにすることになる」
エルドは帳面をレイフの手へ返した。
「だから、進む」
その声に、力みはなかった。去年、真実を知ると言い切った晩と同じ、静かな声だった。ただあのときと違って、いまのエルドは払いの値を知ってから言っている。レイフにはそれが誇らしくて、同じだけ苦しかった。
「なら……俺から、一つだけ」
レイフは返された帳面を両手で受けた。
「あなたが忘れた分は、俺が覚えときます」
言ってしまえば、たったそれだけのことだった。最初の頁を書いた晩から、たぶんずっと決まっていたことを初めて声に出しただけだ。
「今日から、書き方を変えます。数と天気だけじゃなく、ぜんぶです。あなたが何を獲って、何に笑ったか。誰と、何を約束したか。……忘れたら、俺に訊いてください。何度でも、話します」
エルドはレイフの顔を見た。
それから、ふ、と目元を緩めた。十三のころの名残が、そこにだけ出た。
「……荷物が、重くなるな」
「力なら、あります」
「そうだったな」
エルドは立ち上がって、外套の裾を払った。それから思い出したように付け足した。
「レイフ。あの日の魚の話を、あとでもう一度、聞かせてくれ。……歩きながらでいい」
「はい。何度でも」
◇
昼前に戻ったマグダは、革袋から本当に塩の包みを出してみせた。
それから二人の顔を順に見て、何も訊かずに包みを放ってよこした。
「飯にするよ。……話は、済んだかい」
「済みました」
「そうかい。なら、歩きながら聞くよ。あたしが聞いていい分だけでいいからね」
その日の道は、川沿いを南へ、ゆるゆると下った。レイフは歩きながら、五つ目の岩の話をした。エルドは初めて聞く話を聞く顔で——事実、そうなのだ——時おり問いを挟みながら、最後まで聞いた。四つ目の岩で指先が触れて逃げられたくだりでは、マグダが横から口を出して、水音の真似までしてみせた。
「……その岩の数え方は、正確なのか」
「正確です。数えたのは、あなたなので」
「私は、幾つと言って数えていた」
「一つ目、と声に出して。……二つ目からは、口の中で」
「負けず嫌いだな、それは」
「はい」
エルドは前を向いたまま、少しだけ笑った。話の中の自分を、遠い誰かの逸話のように笑う横顔を、レイフは見ないふりで見ていた。
その夜の頁は、旅に出てからいちばん長くなった。
焚き火のそばで、レイフは炭を削り、覚えているかぎりを書いた。今日の道のり。塩の包み。歩きながら話した、五つ目の岩の顛末。エルドが挟んだ問い。マグダの水音の真似。書き終えて頁を繰り、最後に一行を足した。
——主が忘れた分は、俺が覚えておく。主は、俺より三つ下で、俺より字がうまい。それは、変わらない。
書いてから、レイフは帳面を閉じた。
三冊目は、まだ半分も白い。
白い頁が、たくさん残っていてよかったと——そんなことを思ったのは、初めてだった。
【改稿履歴】
2026/09/24 表現を一部修正しました。(当時より→今より/私→俺)




