間話 レイフの手記「十の春」
——主が話した、十の年の春のこと。旅の四年目の冬、宿の火のそばで。
——聞いた話だ。俺の覚えている限りで書く。主は、笑って話した。ところどころ、笑いすぎて先へ進まなかった。
◇
北の春は、雪が消えるより先に、風が来る。
朝、厩の前に立ったエルドの頬を、その風が撫でていった。冷たいのに、冬の冷たさとは違う。土と、水と、どこか遠くの草の匂いがまじっている。中庭の雪はまだ膝の高さに残っているのに、屋根の氷柱は朝日を受けて、ぽたぽたと落ちはじめていた。
今日、エルドは十になった。
北の辺境では、当主の子が十の春を迎えると、自分の馬を与えられ、初めて父の見回りに供をする。領民への顔見せだ。家中の年寄りは「十の春」と呼び、そのために春が来るのだと言わんばかりの顔をする。エルドは五つのころからこの日を数えていた。八つの年に父の鷹狩りへ連れて行ってもらったときも、馬の前に乗せられただけだった。今日からは、自分の馬に、自分で乗る。
厩の奥から、父が出てきた。
辺境伯アルドレッド。手綱を一本、無造作に握っている。手綱の先には、栗毛の馬が一頭ついてきた。北の馬らしく背は低く、脚は太く、たてがみが目にかかるほど伸びている。馬はエルドの前まで来ると、鼻面を突き出して、ふん、と息を吹きかけた。
「おまえのだ」
父は、それだけ言った。
エルドは馬の鼻面に手を伸ばした。温かかった。馬はもう一度、ふん、と鼻を鳴らして、エルドの手袋の匂いを嗅いだ。今朝、母が渡してくれたばかりの手袋だ。革の内側に羊毛を張って、母が自分で縫った。馬にはその羊毛の匂いが気に入ったらしい。
「父上。名は、何と」
「おまえが付けろ」
「では——」
エルドは、この日のために考えておいた名を、口に出そうとした。古い歌に出てくる、風の名だ。三つの音でできていて、響きがよくて、この馬にふさわしいと思っていた。
「——長い名は、やめておきなされ」
横から、厩番が口を挟んだ。腰の曲がった、年寄りの厩番だ。
「馬は、二つか三つの音しか覚えませぬ。長い名を付けると、馬が自分の名だと分からずに、呼んでも来ませんで」
「三つの音だ」
「三つでも、あの歌の名は、音が硬うございます。馬が嫌がりますな」
馬が嫌がるかどうか、なぜ厩番に分かるのか。エルドは訊きたかったが、やめた。厩番は父より馬に詳しい。父も、馬のことで厩番に逆らったことがない。
「……秋までに、決める」
「それがよろしゅうございます」
父が、口の端で笑ったのが見えた。
◇
見回りの一行は、二十騎ほどだった。
先頭に父。その斜め後ろに、エルド。左右と後ろを家中の兵が固め、荷馬と従者がそれに続く。中でも父のすぐ後ろにつく髭の槍兵は、家中でも指折りの手練れで、この春三十半ば。髭の濃い顔で、エルドの馬の歩き方をずっと横目で見ていた。
「若様。手綱を、もう少し緩めなされ」
「緩めると、勝手な方へ行く」
「勝手な方へ行くのは、若様が手綱を握りすぎて、馬が首を振れんからです」
言われたとおりに緩めると、栗毛はまっすぐ歩いた。癪だったが、癪だと顔に出すのも癪なので、エルドは前を向いたまま黙っていた。槍兵が、髭の奥で笑ったのは分かった。
村に入るたび、父は馬を降りた。
降りて、出てきた者の名を呼ぶ。村の長の名。長の息子の名。井戸端の女たちの名。父の馬の前に転がり出てきた子どもの名まで、父は呼んだ。呼ばれた者は皆、驚いたように口を開け、それから、笑った。
「ヨルンの家の、末の子か。去年より、ずいぶん伸びたな」
「へえ。おかげさまで」
「冬の麦は足りたか」
「足りました。足りませんと申しましたら、御館様が二度も荷を回してくださいまして」
「二度目は、東の村の分だ。あちらが足りていたのでな。……おまえたちが、返しておけ」
「へえ、必ず」
エルドは馬の上から、それを見ていた。
父が、村の者の名を覚えていることは知っていた。家中の者の名も、その子どもの名も、父は全部覚えている。知ってはいたが、こうして目の前で、村を三つ回るあいだに幾十もの名が父の口から出てくるのを見ると、それが当たり前ではないことが分かった。エルドは名を覚えようとした。ヨルン。その末の子。井戸端の、赤い頭巾の女。三つ目の村に着くころには、最初の村の名が、もう半分こぼれていた。
三つ目の村の長は、腰の曲がった老婆だった。
老婆は父の前で長い辞儀をして、それから、馬上のエルドを見上げた。皺の中の目が、じっとエルドの顔を見て、細くなった。
「御館様。若様は、目の色が、御館様と同じでいらっしゃる」
「うむ」
「琥珀の目は、ファーレンの目でございますなあ。わしの婆様の代から、そう申します」
父は何も言わなかった。老婆に軽くうなずいて、次の村へ馬を向けた。エルドは自分の目の色を、自分では見たことがない。鏡は母の部屋にあるが、鏡を覗く用が、十の子どもにはない。ただ、父の目と同じ色なのだ、ということを、その日、初めて知った。
三つ目の村を出ると、道は川へ向かって下りになった。
雪解けの水が道の低いところに集まって、泥になっている。先頭の父の馬は、泥の縁の硬いところを選んで渡った。エルドの栗毛も、後ろについて渡った。渡れなかったのは、荷馬だった。荷の重みで前脚を泥に取られ、腹まで沈んで、暴れて、もっと沈んだ。
従者が二人がかりで手綱を引いた。動かない。
「退きなされ」
髭の槍兵が馬を降りた。槍を従者に預け、泥の中へ、膝まで入っていく。荷馬の胸の下に肩を差し入れて、胸帯を両手で掴んだ。
息をひとつ吐いて、持ち上げた。
泥が、音を立てて剥がれた。荷馬の前脚が、荷ごと、泥の上に出た。槍兵はそのまま馬を押して、一歩、二歩、硬い地面まで運んでから、手を離した。荷馬は震えながら、自分の脚で立っていた。
エルドは、馬の上から見ていた。
槍兵は膝から下が泥だらけで、髭の奥で笑いながら、従者から槍を受け取った。その右の手の甲に、古い紋がひとつ、薄青く据わっている。紋の脇から手首へ、赤いものが一筋、伝っていた。胸帯の鉄の環で切ったらしい。槍兵は気にもせず、手の甲を腿で拭いた。
「若様。参りますよ」
槍兵が馬に戻った。父は、先頭で一度だけ振り返り、荷馬が立っているのを見て、また前を向いた。
◇
昼をだいぶ回って、一行は東の関に着いた。
関といっても、砦ではない。街道の上に木の門をひとつ据え、その脇に兵の詰める小屋と、荷を検める台があるだけだ。門の向こうは、河原だった。
境の川。
エルドは馬を止めて、それを見た。
広かった。河原が広くて、水が広くて、そのぶん浅い。中ほどに砂の中洲がいくつも顔を出していて、その上を鳥が歩いている。対岸まで、矢なら届きそうだった。向こう岸にも、こちらと同じような木の門と、同じような小屋があって、同じような兵が立っている。
「……取り合うほどの川に、見えません」
小さな声で言ったつもりだったが、槍兵に聞こえた。槍兵は、これはまたはっきりと笑った。
「若様。そいつは、家中の誰もが、初めてここへ来た日に思うことです。口に出す者は少のうございますがね」
「では、なぜ取り合う」
「川のせいじゃありませんよ。川は、ただ流れとります。取り合っておるのは、川じゃなくて、面子です」
向こう岸の兵が、こちらに気づいた。
気づいて、そして、見なかった顔をした。こちらの関の兵も、向こうを見ていない。見ないふりを、双方が、たいそう真面目にしている。
「向こうも、見ないふりをするのが仕事なんですよ」
槍兵が、髭の奥で言った。
「あの右端の若いのは、この冬、こっちの詰所へ薪を借りに来ました。雪で薪が届かなかったそうで。……借りたことも、貸したことも、両方の家では、なかったことになっとります」
エルドは、右端の若い兵を見た。若い兵は、川の中洲の鳥を熱心に見ていた。
◇
父は関の小屋で、兵の長と何か話していた。
エルドは河原に降りて、栗毛に水を飲ませていた。馬が水を飲む音は、思ったより大きい。栗毛は長いこと飲んで、それから顔を上げ、濡れた鼻面をエルドの胸に押しつけてきた。手袋の羊毛の匂いが、気に入ってしかたがないらしい。
少し下手の岸で、髭の槍兵が、泥の付いた脛を洗っていた。
洗い終えて、両手を水に浸した。エルドは、その右の手の甲を見た。赤い筋は、もう無かった。切れたところが、細い赤い線になって、閉じかけている。荷馬を引き上げたのは、昼より前だ。
「……もう、塞がるのか」
「紋のおかげですよ、若様」
槍兵は、濡れた手を振って、手の甲の薄青い紋をエルドに向けた。
「誓いを守っとる間は、こいつが力を貸してくれる。馬の一頭くらいは持ち上がるし、この程度の切り傷なら、日暮れには塞がっとります。……そのかわり、守れん誓いは、立てられませんがね」
誓紋。誓いを守っているかぎり、紋はその者に力を貸す。教え役から、幼いころに習ったことだ。習ったことが、泥を洗ったばかりの手の甲の上に、いま、あった。
そこへ、上流の街道から、一騎が駆けてきた。
家中の若い者だった。文使いだ。馬も人も泥だらけで、門を入るなり馬から滑り降り、父の前に膝をついた。
「申し訳ございません」
若者は、懐から一通の文を出した。封が、切られていない。
「グレンツの門で、お受け取りいただけませんでした。……門前で、三日待ちました。三日目に、門番から、持ち帰れと」
小屋の前が、静かになった。
父は文を受け取った。封の無事を確かめるように、指の腹で一度なぞった。それから、膝をついたままの若者の肩に、手を置いた。
「三日、よく待った」
「……はい」
「顔を上げろ。門前払いは、おまえの落ち度ではない。おまえは文を運んだ。運ばれた文を受け取らぬのは、向こうの勝手だ。……飯を食え。馬を休ませろ」
若者は、顔を上げた。泣きそうな顔をしていた。三日、門の前で待って、雨に打たれたのだろう。父は若者を立たせ、兵の長に飯の支度を言いつけ、それから、封を切られていない文を、自分の懐にしまった。
しまうときの父の顔を、エルドは見た。
怒ってはいなかった。がっかりした顔でも、なかった。ただ、遠くを見る目で、川の向こうを一度だけ見た。それだけだ。それだけなのに、その横顔は、村で名を呼んでいたときの父より、ずっと年を取って見えた。
◇
父が河原へ降りてきたのは、日が傾きはじめてからだった。
栗毛の隣に立って、父は川を見た。エルドも並んで川を見た。しばらく、水の音だけがした。
「父上」
「うむ」
「あの文は、何度目ですか」
「数えていない」
父は、川を見たまま答えた。
「数えると、送るのが惜しくなる。惜しくなると、書く文が卑しくなる。……だから、数えない」
「……取り合っているのは、面子だと聞きました」
「誰が言った」
「髭の」
「あいつは、正直すぎる」父は、少しだけ笑った。「そのとおりだ。あの川に、争うほどの値打ちはない。値打ちがないものを、幾代も取り合ってきた。取り合ううちに、取り合うこと自体が、両家の面子になった。……面子というのは、厄介でな。川より深い」
エルドは、川を見た。広くて、浅い。
「では、なぜ、誓いで結ぼうとなさるのですか。面子ならば、いっそ——」
言いかけて、止まった。いっそ、の先を、十の子どもが口にしていいものかどうか、分からなかったからだ。父は、その先を言わせなかった。
「戦えば取れる、と言いたいのか」
「……はい」
「取れるだろうな。あの川ひとつなら」
父の声は、静かだった。
「だが、川を取るために、人が死ぬ。こちらの者も、向こうの者も。ヨルンの家の末の子も、あの右端の若い兵も、十年後には槍を持っている。向こうの兵も、髭と同じ紋を持っている。今日、泥の中で荷馬を持ち上げた腕が、川の向こうにもあるということだ。誓いで力を得た者どうしが戦えば、どちらかが倒れるまで終わらん。傷の塞がる者は、倒れるまで立つ。……川は取れる。取った川は、また取り返される。取り返した者も、死ぬ。一度始めれば、それが幾代も続く。私は、この取り合いを、ここで終わらせたい。誓いで結べば、二度と戻らない。誓いは、破れないからだ」
「……はい」
「文を、送る。断られても、送る。門前で三日待たせて、それでも送る。……いつか、向こうの当主が、封を切る日が来る。私は、そう思っている」
父は、それきり黙った。
エルドは、父の横顔を見上げた。日が傾いて、父の亜麻色の髪が金色に見えた。彫りの深い顔に、川の光が揺れていた。この人が、川を見て、人の名を呼び、文を送り続けている。それが、当主というものなのだと思った。
思ったら、口から出ていた。
「父上。私は、父上のような当主になると、誓います」
父が、こちらを向いた。
「誓えぬことを軽々しく口にするな」
声は、大きくなかった。だが、河原の空気が、一段締まった。栗毛が、耳を後ろに倒した。エルドは、何を叱られたのか分からないまま、首をすくめた。父の口癖だとは知っていた。家中の者が、しくじった約束の言い訳をするたびに、父はこの言葉を使う。だが、自分に向けて言われたのは、初めてだった。
「……申し訳、ございません」
「分からぬ顔をしているな」
「……はい」
父は、河原の石の上に、片膝をついた。エルドの目の高さまで、顔を下ろした。近くで見る父の目は、あの老婆の言ったとおり、自分と同じ色をしているのだろう。
「エルド。誓いというものは、口にした瞬間に、おまえの身体の外へ出て、おまえを縛る。おまえが変わっても、誓いは変わらない。おまえが老いても、誓いは老いない。……私のような当主になる、と誓ったとする。私が、もし、間違っていたら、どうする」
「父上が、間違うことは」
「ある」
父は、はっきり言った。
「今日の文も、間違いかもしれん。あの川を誓いで結ぶことが、正しいかどうか、私にも分からん。分からんことを、誓いで縛ってはならん。誓いは、分かっていることにだけ、立てるものだ」
「……はい」
「それに、な」
父は、そこで少しだけ、言葉を選んだ。川の音が、その間を埋めた。
「ファーレンの子は、誓う前に、ほかの家の子より、一度多く考えねばならん。この家は、誓いというものと、ほかの家とは少し違う付き合いをしてきた。……理由は、いずれ話す。十では、早い」
「いつなら、早くありませんか」
「その日が来れば、分かる」
父は立ち上がって、エルドの頭に手を置いた。大きな手だった。ごつごつとして、それでも温かいのは、父が手袋をしていないからだ。
「来ぬほうが、よい日だ」
それだけ言って、父は馬のほうへ歩いていった。
エルドは、河原に立ったまま、父の背中を見ていた。来ぬほうがよい日。それが、いつなのか、どんな日なのか、十のエルドには見当もつかなかった。ただ、その日には、父が何かを話してくれる。それだけは、分かった。楽しみなような、そうでないような、変な気持ちだった。
栗毛が、鼻面でエルドの背中を押した。帰ろう、と言っているらしかった。
◇
城に戻ったのは、日暮れだった。
大広間ではなく、家族の使う小広間に、膳が並んでいた。父と、母と、エルド。壁際には家中の主だった者が立ち、料理長は自分の膳を自分で運んできて、エルドの前に置いた。
「若様。十の春の膳でございます」
北の春の膳は、冬の蔵の底からできている。塩漬けの猪の肉を、乾燥させた豆と一緒に煮たもの。冬を越した根菜の焼きもの。黒いパン。鹿の肉を、香りの実で煮たもの——北の祝いの膳には必ず出る、辛い煮込みだ。そして、料理長が胸を張って置いた最後の一皿は、干した果実を蜂蜜で煮て、麦の粉の皮で包んで焼いたものだった。北では、春にしか蜂蜜を使わない。冬のあいだ、蜂蜜は薬だからだ。
「これは、若様がお生まれの春に、御館様が、十の春には必ず、と申しつけられたものでございます。十年、蜂蜜を取り置いてまいりました」
「十年、同じ蜂蜜か」
「まさか。毎年、新しいのを取り置き、古いのを薬に回しております。十年、続けたということでございます」
料理長は真面目な顔でそう言って、それから、自分で少し笑った。壁際の槍兵が、髭の奥で笑った。教え役の年寄りが、咳払いをした。
エルドは、鹿の煮込みを一口だけ食べて、行儀よく脇へ寄せた。誰も、何も言わなかった。それから、蜂蜜の菓子を、行儀よく食べた。
甘かった。北の春の、たったひとつの甘さだった。
「よく食べますね」
母が、向かいから言った。母は自分の膳にはほとんど手をつけず、エルドの食べるところばかり見ている。今朝、手袋を渡してくれたときも、そうだった。
「今日は、どこまで行ったのですか」
「東の関まで。……境の川を、見ました」
「まあ。遠くまで」
「広くて、浅い川でした。取り合うほどの川には、見えませんでした」
壁際で、槍兵が、今度は声を出しかけて、慌てて咳にした。父が、髭の槍兵をじろりと見て、それから、何も言わずに杯を口へ運んだ。母は、くすくすと笑った。
「あなたのお父様も、初めてあの川を見た日に、同じことを言ったそうですよ。お義父様から、聞きました」
「父上が」
「十の春に。あなたと、同じ日に」
エルドは父を見た。父は杯を持ったまま、天井の梁を見ていた。梁に、何か面白いものがあるらしかった。
母が手を伸ばして、エルドの髪を撫でつけた。風でくしゃくしゃになった、亜麻色の髪だ。母の手は温かくて、蜂蜜の匂いがした。エルドはされるがままになっていた。家中の者が見ているのだから、本当は嫌だったが、嫌だと言うと母が笑うので、嫌だと言えなかった。
「大きくなりましたね」
「……今日、十になりました」
「知っていますよ。産んだのは、私です」
壁際が、どっと笑った。
教え役の年寄りが、そのあとで、一歩前へ出た。教え役は、この家の書庫の主で、エルドに字を教えた人だ。年寄りの割に背が高く、いつも書物の匂いがする。
「若様。十になられましたので、明日から、古い言葉をお教えいたします」
「古い言葉」
「口上や、歌に残っている、昔の言い回しでございます。当主の子は、十から習うのが、この家の決まりでして。……ただし、退屈でございますぞ。わしが習ったときは、三日で逃げ出しました」
「逃げません」
「その意気でございます」
教え役は真面目な顔で下がった。父が、ようやく梁から目を戻して、短く言った。
「教え役の言うことを、よく聞け。古い言葉は、古いだけで、意味がないわけではない」
「はい」
「……それから、馬の名は、秋までに決めろ。馬に、呼ばれる名がないのは、気の毒だ」
「はい」
膳が下がり、家中の者が下がり、小広間に火の音だけが残った。父は火を見ていた。母は、父の横顔を見ていた。エルドは、二人を順に見て、それから、自分の手袋を見た。羊毛の匂いが、蜂蜜の匂いにまじっていた。
◇
その夜、エルドはなかなか寝つけなかった。
馬の名を、考えていた。三つの音で、硬くなくて、馬が嫌がらない名。歌の名は駄目だと言われた。では、風の名でなく、川の名はどうだろう。あの、広くて浅い川の名——と考えて、あの川には名がないことに気づいた。境の川、と皆が呼ぶだけだ。取り合ってきた川に、両家のどちらも、名を付けなかったのだ。
変な話だ、とエルドは思った。
それから、父の言葉を思い出した。来ぬほうがよい日。父が、何かを話してくれる日。ファーレンの子は、誓う前に、一度多く考える。なぜ一度多くなのか。ほかの家の子は、何度考えるのか。考えているうちに、考えが、寝床の中で溶けていった。
最後に残ったのは、父が名を呼ぶ声だった。ヨルン。末の子。赤い頭巾の女。三つ目の村の、老婆。
全部、覚えておこう。
そう思ったところで、エルドは眠った。
◇
——馬の名は、秋までに決まらなかったそうだ。冬にも。主は、そこで笑いすぎて、先を話さなかった。
——いずれ話す、と御館様は言ったそうだ。主は、その続きを聞いていない。




