第13話 おごりの約束
川沿いの道を三日下った宿場町は、夕方になると川霧の出る町だった。
霧は往来を白く埋め、灯りをにじませ、そのぶん人を早めに酒場へ追い込む。おかげで店は宵の口から埋まっていた。マグダは壁際の卓に陣取って、安酒を舐めながら、耳だけを働かせていた。
仕事だ。呑むのも仕事のうちである。こういう理屈を弟子どもは疑いの目で見るが、酒場というのは、川筋の噂がいちばん早く着く場所なのだ。南の祭りの話、荷の話、役人の話。欲しい話は、頼んで出てくるものではない。呑んで、待つ。
卓の向かいでは、その弟子どもが夕餉の最中だった。レイフは大盛りの三杯目を静かに片づけ、エルドは川魚の煮付けの骨を、行儀よく皿の端にそろえている。旅暮らしが七年になっても、骨の置き方だけは直らない。直せと言ったことも、ないのだが。
その耳に、妙な言葉が引っかかった。
「……なあ。紋ってのは、あとから出るもんかい」
隅の卓だった。若い男がひとり、椀を運んできた小女の袖を掴まえて、震え声で訊いている。歳は二十をいくつか出たところ。日に焼けて、手の節が太い。川普請か荷揚げの人足だろう。その男が、自分の右の袖を肘までまくって、腕の内側を何度もひっくり返して見ているのだ。
小女は困った顔で首を振って逃げていった。男は腕を見て、椀を見て、また腕を見た。飯には手をつけていない。
マグダは、見なかったことにして杯を傾けた。
できたのは、そこまでだった。
「刻限だぜ、兄弟」
戸口から入ってきた二人連れが、まっすぐ男の卓へ行ったからだ。先に立つのは頬に古い傷のある痩せた男で、後ろのずんぐりした連れが、戸口を背にして立った。頬傷の男は、若い男の向かいに断りもなく腰を下ろし、卓に肘を載せて、猫なで声を出した。
「考えてくれたかい。五十枚。安いもんだろ、腕一本の値段としちゃあ」
「お、俺は……そんな銭は」
「おいおい、声が大きい」頬傷は声をひそめて、かえって周りの耳を集めた。「誓いを破ればどうなるか、教えてやったろう。紋が焼けるんだ。じりじりとな。焼け切れりゃ、その腕はもう使いものにならん。人足が腕を失くしてどうやって食う。なあ。五十枚で腕が残るなら、安い買い物だと思うがねえ」
「で、でも、紋なんて、どこにも」
「だから言ったろう。猶予のうちは、紋は肌の下に隠れてるのさ。刻限が来て、破りが決まった途端に浮いて、焼ける。……浮いてからじゃ、遅いんだぜ」
マグダは杯を置いた。
置いて、自分の額を指で揉んだ。関わるまいと思った自分が、我ながらいじらしい。この手の商売を目の前でやられて黙って呑める酒なら、とうの昔にもっと安い人生を送っている。
「ちょいと、いいかい」
声を張ったつもりはなかったが、店の半分が振り向いた。マグダは杯を持ったまま、隅の卓へぶらりと歩み寄った。頬傷が、うるさそうに目を上げる。
「なんだ、姐さん。取り込み中だ」
「みたいだね。……あんた」
マグダは頬傷ではなく、青い顔の人足に顎をしゃくった。
「その二人に、何をどう誓ったって?」
「え、あ……四日前に、賽で。負けが込んで、持ち合わせがなくて。今度おごる、って言ったんです。そしたらこの人が、なら誓え、男だろうって。言われたとおりの文句を、その、唱えて……」
「どんな文句だい」
「つ、月と星にかけて、受けた恩は、四日のうちに、ば、倍にして返すと誓う——って」
「ふうん。月と星、恩は倍、ね」
マグダは繰り返して、それから、こらえきれずに笑い出した。堪える気も、あまりなかった。頬傷の眉間に皺が寄る。
「何がおかしい」
「いや、悪いね。仕事の出来がさ」マグダは笑いを口の端に残したまま、人足の卓に杯を置いた。「兄さん。安心おし。あんたは何ひとつ誓っちゃいない」
「で、でも、唱えました。誓うって、言いました」
「言っただけさ。いいかい、ひとつずつ行くよ」
マグダは指を一本立てた。
「まず、紋だ。誓いってのはね、成ったその瞬間に、紋が浮く。あんた、宴だの叙任だのを遠目にでも見たことがあるなら知ってるだろう。唱え終わった端から、すうっと出る。肌の下に隠れて猶予がどうのなんて紋は、この世のどこにもない。誓いは端から成っちゃいないんだよ」
人足が、自分の腕を見た。紋は無い。何度見ても無い。
「ふたつ。文句だ。誓いの口上ってのは、世に決まった型がある。教会が代々預かってる、由緒のある文句だ。あたしも耳にたこができるほど聞いたけどね、月と星にかけて、なんて節はどの口上にもない。だいたい、恩を倍にして返すなんて欲得ずくの文句が、誓いの言葉であるもんかい。あれは高利貸しの証文の文句だよ」
店のどこかで、噴き出す音がした。頬傷の顔色が変わりはじめる。
「みっつ。作法だ。誓約ってのはね、口上のほかに、決まった作法が要る。手を交わすなり、証の品を立てるなり。それに、まっとうな誓いなら立会人を置いて、教会に届けて帳面に載せる。手間も費えもかかる。だから世間じゃ、叙任だの婚姻だの盟約だの、よほどの約束にしか使わないんだ。……酒場の賽の負けに、そんな大層な支度をするかい。おごるの一言を誓約にしようなんて酔狂は、王様だってやらないよ」
「て、てめえ、さっきから聞いてりゃ」
頬傷が腰を浮かせた。浮かせたところで、マグダはようやくそちらへ顔を向けた。
「おや。続きを聞くかい。よっつ目は、あんたの話だよ」
声は、笑ったままだった。目だけが笑っていなかった。
「成ってもいない誓いを盾に、紋が焼けるの腕が落ちるのと脅して銭を毟る。……こういうのを、誓いを騙るって言うんだ。誓約絡みの罪ってのはね、賽のいかさまとは重さが違う。教会が本職の追っ手を飼ってるのは、知ってるかい。白い制服の、誓約騎士団。あれの仕事の三分の一は、あんたみたいなのを縛ることだよ」
頬傷の喉が、上下した。
「は、はったりだ。女ひとりが、何を」
「はったりかどうか、試すかい。この町の登録の役人を呼んで、いま聞いた文句をそっくり検めてもらおうじゃないか。月と星にかけて、恩は倍。あんたの節回しは、あたしがぜんぶ覚えてる」
頬傷は連れに目をやった。ずんぐりした連れは、とうに戸口のほうへ半身を向けていた。そして、その戸口の脇に、いつの間にかレイフが立っていた。
別に、腕を組んで凄んでいるわけではない。ただ、大男が壁のように静かに立って、丁寧にこう言っただけだ。
「出口は、こちらです」
親切のつもりで言っている。それがマグダには分かるし、分かるだけに始末が悪かった。案内された二人の顔から、血の気が引いた。
「その前に」
マグダは掌を上に向けて、頬傷へ突き出した。
「手付けだか何だか知らないけど、この兄さんから先に取った分。置いていきな」
頬傷は歯を軋らせ、それでも懐から小袋を出して卓に叩きつけた。銅貨八枚。人足の、なけなしの有り金だろう。二人は肩を怒らせて戸口へ向かい、レイフの脇を通るときだけ借りてきた猫のようになって、川霧の中へ消えた。
店じゅうが、どっと沸いた。
沸いてから、誰も彼もが手を叩いて笑い、亭主に酒の追加を叫びはじめた。亭主は嬉しい悲鳴を上げながら、マグダのそばを通りしなに、揉み手で囁いていった。
「姐さん、うちで用心棒をやる気はないかね」
「あいにく、連れがあるんでね」
◇
人足は、まだ卓で放心していた。
銅貨の小袋を握りしめ、右腕と、マグダの顔とを見比べている。恐怖の抜けたあとに、今度は別のものが追いついてきたらしい。目のふちが、少し赤い。
「あ、あの。じゃ、俺は、破っても、腕は」
「焼けないよ。焼ける紋が、そもそもないんだから」
「……よ、よかった……いや、でも、待ってくれ。それじゃ、おごるって約束は、どうなるんです。誓いじゃないなら、俺は、破っていいんですか」
いい質問だね、とマグダが思ったとき、横から生真面目な声が入った。
「破っていい、というのとは、少し違う」
エルドだった。いつの間にか椅子ごと寄ってきて、人足の卓に着いている。この子はこういうとき、他人の講釈を座って聞いていられない質なのだ。
「よいか。誓約と、ただの約束は、別のものだ。誓約は、正式の口上と作法を踏んで初めて成る。成れば紋が浮き、破ることは誰にもできない。一方、口上も作法も踏まぬ日々の約束は、誓約ではないから、破ろうと思えば破れる。……ここまでは、いいか」
「は、はい」
「そこでだ。破れる約束を守ることには、破れない誓約を守るのとは別の値打ちがある。なぜなら誓約の履行は拘束によって担保されるが、約束の履行は当人の……」
「ちび」
マグダは口を挟んだ。人足の目が、二つ目の理屈のあたりから、ゆっくり泳ぎはじめていたからだ。
「あんたの講義は銭が取れるよ。取れるけど、いまこの兄さんに要るのは、もっと短いやつだ」
「……短く、ですか」
エルドは心外そうな顔で、少し考えた。考えて、居住まいを正して、言い直した。
「おごりの約束は、破っても紋は焼けない。破れば、義理が欠けるだけだ。……破れるのに守るから、約束には値打ちがある。誓いで縛られて果たすのではなく、自分で決めて果たすのだから」
人足は、ぽかんとした。それから何度もうなずいて、握っていた小袋の口を開け、銅貨を一枚つまみ出した。
「ね、姐さん。じゃあ俺、姐さんに一杯おごります。誓わずに」
店が、また沸いた。
マグダは杯を受けた。安酒の一杯だが、今夜いちばんの酒だった。人足は残りの七枚をしっかり懐にしまい込み、何度も頭を下げて、飯の残りを掻き込みはじめた。ようやく味がするようになったらしい。
卓に戻ると、レイフが自分の杯を手に、ぽつりと言った。
「マグダ。俺にも、いつか分からなくなったら、いまの短いやつを言ってください」
「あんたには要らないよ」
この男は、誓いのひとつもなしに、あの子の隣にい続けている男だ。破れる約束を守り続けることの値打ちなら、この街道の誰よりも知っている。もっとも、当人にそれを言ってやる義理は、師匠にもない。
「……ときにマグダ」
エルドが声を低くした。さっきの講釈の顔ではなく、値切りの顔でもない、もうひとつの顔になっていた。
「さっきの、誓いを騙る手口。ああいう輩は、多いのですか」
「珍しかないね。誓いは破れない、紋は恐ろしい——世間のその思い込みだけで飯が食える商売だから、性根の曲がったのが後を絶たない。定石はいまの通りさ。誓いに縁のない堅気を選んで、出鱈目の文句を唱えさせて、あとから脅す。……ただ」
マグダは杯を回した。
「あの頬傷、手際が板についてた。文句の節も、脅しの順序もね。一見の思いつきじゃない、あちこちで同じ商売をしてきた口だ。ああいうのは、締め上げたところで、また次の町で同じことをやるよ。人の怖がり方ってのは、どこの町でも同じだからね」
「……追わないのですか」
「あたしらの獲物じゃない。ああいうのを追いかけるのは、白い制服の仕事だ」
言ってから、口の中で付け足した。昔取った何とやら、というやつが、つい癖で手順を数えたがる。何とやらの中身は、数えない決まりだが。
◇
夜が更けて、客がまばらになったころ、その話は向こうからやってきた。
川下から来たという行商の男が、亭主相手に、声高に荷の自慢をしていたのだ。染めた紐だの、飾り釦だの、細々した華やかものばかり仕入れている。売り先を訊かれて、行商は胸を張った。
「祭りだよ、祭り。ここから川沿いに三日下った町でね、夏越しの祭りがあるんだ。川開きと、橋の渡り初めが重なってね、今年は例年の倍の人出になるって話だ」
「へえ。景気のいいことで」
「何しろ今年は、お上の検めが入る祭りだからね。宰相府から、儀典のお役人がじきじきに下ってきなさるんだと。式次第の検めだの、誓いの立会の段取りだの、お偉いさんの座る順だの……祭りってのは存外、書き物とお作法の塊なのさ。で、役人が来るとなりゃ町は掃除をする、飾りを新しくする、あたしらの紐が売れる」
行商は上機嫌に笑い、亭主が調子を合わせた。
マグダは、杯を口に運ぶ手を止めなかった。止めなかったが、卓の向かいで、弟子ふたりの気配が変わったのは分かった。レイフは手入れしていた革紐から顔を上げず、ただ手だけが止まっている。エルドは水差しの水を椀に注ぎ、何でもない顔で行商のほうへ半分だけ耳を向けている。二人とも、上出来だった。七年は伊達ではない。
宰相府の、儀典の役人。祭と式の段取り。
誓いの文句と帳面を預かるのは、教会だ。届け出も、検めも、騙りを縛る白い騎士団も、教会の側。王都の宰相府は、盟約だの祭りの式だの、大きな誓いの立会と段取りを仕切って、達しを出す側だ。誓いのことでは、どちらも誓約主の下にいる。王様は、誓いには口を出さない。
この半年、酒場と荷継ぎ場で拾い集めてきた糸の先に、久しぶりに手応えのある結び目が触れた。マグダは残りの酒をゆっくり干して、胸の内でだけ、値踏みをした。当たりかどうかは、行ってみるまで分からない。だが、当たりを引くまで籤を引き続けるのが、探し物の作法というものだ。
「亭主。その祭りの町ってのは、宿は取りやすいのかい」
「今からじゃ、どうかねえ。何しろ倍の人出だ」
「そりゃいい。人が多いほうが、こっちも商売がしやすい」
どんな商売だい、と亭主が笑い、人捜しだよ、とマグダは本当のことを言った。本当のことほど、酒場では嘘に聞こえる。
◇
翌朝の川霧は、ゆうべより薄かった。
発ち支度を整えて宿を出ると、川沿いの道が南へ、霧の切れ目へと延びていた。三日先の祭りの町。倍の人出。そして、王都から下ってくる、段取りの役人。
「三日だね」
マグダが言うと、エルドは短くうなずいた。ゆうべから、余計なことは何も言わない。訊きたいことが山ほどある顔で、そのどれも口にしないまま、まっすぐ前を見ている。レイフが最後に宿の戸を閉め、荷を担ぎ直して、二人の斜め後ろについた。
霧の奥で、川音がしていた。
道は、下るほどに人が増えるだろう。祭りに向かう荷車、紐売りの行商、掏摸に、騙りに、白い制服。人が集まる場所には、何もかもが集まってくる。
今まで噂ひとつ掴ませなかった糸の先が、祭り囃子のほうへ、静かに垂れている。
マグダは外套の襟を立てて、歩き出した。




