第14話 二つの村
祭りの町までの本道は、二日目の昼に、川普請で塞がっていた。
先の大水で崩れた土手を積み直しているのだという。荷車の列が延び、人足が石を運び、迂回するなら山側の枝道を行けと、普請の親方が面倒くさそうに指を振った。枝道は沢沿いに山あいを抜けて、半日余計にかかるらしい。
「急ぐ旅でなし。……いや、急ぐんだったかね」
「急ぎますが、道が無いものは仕方ありません」
エルドが答えると、マグダは笑って荷を担ぎ直した。祭りまでは、まだ日がある。段取りの役人が町に入るのは祭りの前のはずで、祭りは月が替わってからだ。半日の回り道で消える機会なら、初めから機会と呼べない。
そう踏んで枝道に入った三人は、その日の夕方、思いも寄らない村に行き合うことになった。
◇
沢が二股に分かれるあたりに、村は二つあった。
沢の上手に一つ、下手に一つ。棚田と畑が斜面に段を刻み、屋根から夕餉の煙が立っている。見た目は、どこにでもある山あいの村だった。ただ、道から見下ろす田の色が、妙だった。上の村の田も、下の村の田も、水が薄い。乾きかけている段さえある。沢の水音はこんなに近いのに、だ。
そして、沢の二股の根元に、人だかりがあった。
石積みの古い堰だった。二股の分かれ目に据えられ、水を左右の村へ取り分ける要の堰——のはずが、真ん中から大きく崩れて、水のほとんどが片側の沢筋へ流れ落ちている。人だかりは、その崩れた堰を遠巻きにして、誰も手を出さずに、ただ睨んでいた。
「……妙だね」
マグダが小声で言った。
「堰が壊れて、村が二つ、揃って干上がりかけてる。なのに誰も直してない。石はそこに積んであるのにさ」
言われてエルドも気づいた。堰のたもとに、新しい石と杭がきちんと山に積んである。支度はできているのだ。できていて、誰も手を付けていない。
宿を頼むつもりで人だかりに近づくと、話は向こうから聞こえてきた。若い衆が二人、腕を組んで言い合っている。
「だから、待ってても水は増えん。夏が来る前に打たんと、上も下も、今年の米はしまいだぞ」
「打てるもんなら、とっくに打っとるわ。……初杭は、どうする。誰が打つ」
「若いもんだけで打てば」
「馬鹿を言え。長が二人そろって打たん杭は、勝手普請だ。あとで水の取り分の話になったとき、言い分が立たん。それこそ、爺様たちの二の舞だぞ」
初杭。長。勝手普請。
エルドは、その三つの言葉を胸に留めて、一歩踏み込んだ。
「旅の者です。今夜、軒先をお借りしたい。……ついでに、伺っても。その堰は、なぜ直らないのです」
◇
軒を貸してくれたのは、上の村の長の家だった。
長は、腰の曲がりかけた年寄りだった。歳は七十に近いだろう。囲炉裏の火を挟んで、旅の三人に麦の粥を振る舞い、それから、隠すでもなく話してくれた。
「あの堰はな、わしと、下の長の——わしら二人の、若気の至りよ」
五十年近く前になる。当時まだ若かった二人の長は、堰の修繕の費えと水の取り分を巡って大喧嘩をした。殴り合いになり、親族を巻き込み、仲裁が三度潰れた。そして意地の張り合いの果てに、二人して町へ出て教会の立会を頼み、本式の誓いを立てたのだという。
「わしは誓った。——あの堰には、この手で二度と、手を入れぬ、とな」
長は、自分の右手の甲を火にかざした。
そこに、古い誓紋があった。小さな、楔を並べたような形の紋だ。五十年ものあいだ肌にあったせいか、色は落ち着いて、皺の中に馴染んでいる。
「下の奴はな、わしへの当てつけに、もっと質の悪いのを誓った。——あの堰の普請は、二度と、許さぬ。……分かるかね、旅の人。あれの誓いはな、わしの村が堰を直そうとしたら、あれの身体が止めに来る、という誓いなのよ」
「……止めに、来る」
「来る。あれが憎くて来るのではないよ。誓いが、あれの足を連れてくるのよ。三年前に小直しを試みたときは、夜通し、抜かれた。打ったそばから、あれが杭を抜きに来る。七十の年寄りがな、雨の中、一本ずつ。……わしはわしで、手伝うことも、止めることもできん。あの堰に手を入れられん身体でな」
囲炉裏の火が、爆ぜた。
エルドは橋守の爺様を思い出していた。大水の晩、四十年前の誓いに足を引かれて橋へ向かった年寄り。あのときは村じゅうが角灯を持って付き添った。誓いと人が、辛うじて折り合っていた。この村では誓いと誓いが正面からぶつかって、間に挟まれた水が涸れていく。
「若気の至りなら」マグダが粥の椀を置いた。「歳月で、腹の虫も収まってるんじゃないのかい」
「とうに収まっておるよ」
長は、あっさり言った。
「あれとは去年、孫の祝いで同じ席に着いた。酒も酌んだ。……のう、旅の人。誓いというものはな、心が変わっても、消えてはくれんのよ。憎しみで立てた誓いだけが、憎しみの消えたあとも、律儀に働き続ける。わしらはもう、喧嘩などしておらん。なのに、わしらの誓いだけが、いまだに喧嘩をやめておらんのよ」
エルドは粥の椀の底を見た。五十年前の若造が二人、意地を張った。それだけだ。責を負わせるべき悪意は、この村のどこを探してもない。ないのに、田は乾いていく。誓いはただ誓いとして、まっすぐに働いているだけで。
責を負う者を探して、南へ下ってきた。
その目に、責を負う者のいない苦しみが映っている。これは誰に報いを向ければ終わる苦しみなのか。……向ける先など、初めから無いのだ。あるのは、断つか、解くか、涸れるのを待つか。それだけだった。
◇
翌朝、エルドは堰を見に行った。
朝の光の中で見ると、壊れ方がよく分かった。堰の中ほどの石積みが崩れ、取り分けの水口ごと流されている。直すなら、両岸から同時に杭を打ち、崩れた真ん中を挟み込むしかない。片岸だけの小直しで済む壊れ方では、もう、なかった。
堰のたもとで、レイフが積んである杭を検めていた。持ち上げ、木口を見て、また戻す。
「打てるか」
「杭は、いいものです。人手が要ります。両の岸から、息を合わせて」
「そうか」
エルドは堰の上流と下流をゆっくり歩いた。歩きながら、ゆうべ長から聞き取った誓いの言葉を胸の中でもう一度、一言一句並べ直した。
——あの堰には、この手で二度と、手を入れぬ。
——あの堰の普請は、二度と、許さぬ。
どちらの誓いにも、同じ言葉が入っている。あの堰、だ。
エルドは足を止めた。二股の根元から少し上流に、沢幅の狭まった岩場がある。両岸が岩で、流れが締まって、深い。ゆうべから目の端に引っかかっていた場所だった。
「レイフ」
「はい」
「堰というものは、あの場所にしか、架からないものか」
レイフは岩場を見た。それから崩れた堰を見て、もう一度岩場を見た。この男の目測は、魚を獲るときも杭を打つときも、外れたことがない。
「架かります。むしろ、岩の間のほうが、杭が利きます。……ですが」
「ですが?」
「あそこに新しく架けるなら、いまの堰は、捨てることになります。二つは、要りませんので」
「それでいい」
エルドは言った。言いながら、指の先が覚えのある感触を思い出しかけて、それを握り込んだ。断てば、早い。下の村の長に会いに行って、紋に指をかければ、今日のうちに水は戻る。——そのかわり、何かを持っていかれる。何を持っていかれるかは選べないのだから。
断つのは、最後だ。値切れるものなら、値切る。
この払いは、値切れる。
◇
その日の昼、二つの村の寄り合いが、堰のたもとで開かれた。
上の長と、下の長が、沢を挟んで立った。並んではいない。並べないのだ。間に立ったのは、旅の若造だった。
「確かめます。お二人が誓ったのは、あの堰に手を入れぬこと。あの堰の普請を許さぬこと。……新しい堰を、別の場所に架けることは、どちらの誓いの言葉にも、入っていません」
ざわめきが走った。最初に声を上げたのは、下の村の長だった。上の長より小柄で、目つきの鋭い年寄りだ。
「待て、若いの。……わしは五十年、堰の普請と聞けば足が勝手に動く身体でな。新しい堰とて、普請は普請。わしの足が黙っておらんのではないか」
「では、伺います。三年前、上の村が小直しを試みた夜、あなたの足は堰へ向かった。——その前の年、下の村で水車小屋を建て直したときは、どうでした」
「……どうも、せんな。あれは水車で、堰ではないからの」
「誓いは、言葉の通りにしか働きません。あなたの誓いが縛っているのは、あの堰の普請です。あの堰でないものの普請は、あなたの誓いの外にある。……新しい堰は、あの堰ではありません。名も、場所も、石も、別のものです」
下の長は口を開けかけ、閉じた。閉じて、隣の岩場と崩れた堰とを何度も見比べた。五十年、この村の誰もが、堰とはあの場所のことだと思って生きてきたのだ。堰を直すか、涸れるか。その二つしかなかった。
「だがな……取り分は、どうする。新しい堰となれば、水口も新しい。上と下で、また揉めるぞ。揉めた果てが、わしらのこの誓いよ」
「そのために、これを」
エルドは懐から炭と旅の帳付けの布を出した。ゆうべのうちに聞き取って、書き付けてある。上の村の田の段数、下の村の田の段数、飲み水の井戸の数、水車の有無、五十年前の取り分の言い分——双方の。
「田は上が三十六段、下が四十一段。ただし下には水車があり、上には二つ目の井戸がない。……水口の幅は上に七、下に九の割りで切り、そのかわり日照りの年は七日ごとに板を入れ替えて均す。数字なら、意地の入りようがありません。数字で決めて、あとで検められるように、割りの寸法は板に彫って、堰の袂に立てる」
沢を挟んだ二人の長が、同じ顔で黙った。
やがて上の長が、囁くほどの声で言った。
「……五十年前に、あんたが村にいてくれたらのう」
「五十年前には、生まれておりません」
エルドが生真面目に答え、寄り合いがどっと笑った。笑いの中で、下の長が「七と九の根拠をもういっぺん言え」と食い下がり、エルドがまた布を広げ、マグダが「ほら始まった」と年寄り連中に酒を回しはじめた。
◇
新しい堰の初杭は、三日後の朝に打たれた。
岩場の両岸に、村じゅうが出た。杭を担いだのはレイフと村の若い衆で、レイフが最初のひと打ちの見本を見せると、若い衆から歓声とも溜め息ともつかない声が上がった。
そして、儀式の初杭。
両岸に、二人の長が立った。上の長が右岸、下の長が左岸。掛け声を合わせて、同時に杭へ槌を振り下ろす——五十年ぶりに、二人の長が、同じ普請に立った。
誰の足も、止まらなかった。
誰の手も、止まらなかった。
槌の音が二つ、岩場に重なって響いて、水しぶきが上がった。それだけのことだった。それだけのことを、この村は五十年、できなかったのだ。両岸で、年寄り連中が声を上げて泣くのを、若い衆が笑いながら支えていた。
エルドは、少し離れた岸から、それを見ていた。
断たなかった。指一本、触れなかった。誓いは二つとも、まだあの爺様たちの肌にある。それでも水は、夏が来る前に戻る。
値切れた、と思う。
思ってから、可笑しくなった。人の五十年の難儀を前に、値切れたはないだろう。だが、ほかに言いようもなかった。何も失わずに、済んだのだ。誰の記憶も。自分の、どの記憶も。
◇
村を発つ朝、上の村の長が、沢の水音の中でこう言った。
「古い堰はな、次の出水が持っていくだろうよ。誰も手を入れんまま、川が仕舞いをつけてくれる。……そうしたらな、旅の人。わしらの誓いは、どうなると思うね」
「前提が消えます。あの堰、そのものが」
「うむ。町の司祭さまに文を書いてな。返事が、ゆうべ届いた。あの堰が流れて消えたら、わしらの紋は、焼けもせんで、静かに薄れて消えるそうな。……五十年つき合った紋でな。消えたら消えたで、寂しかろうかの」
長は笑って、それから、皺の中の目を細めた。
「消えた朝には、下の奴と、また喧嘩をしてみるつもりよ。今度は誓いなしの、ただの喧嘩でな。破れる喧嘩なら、何度やっても、あとに残らん」
◇
枝道が本道へ戻る手前の坂で、前から、白いものが上がってきた。
騎士だった。それも、一人ではない。白い制服に軽鎧を重ねた騎士が三騎、街道を北へ、隊列を組んで登ってくる。先頭の鞍には、教会の紋章を染めた小旗が結んであった。
三人は道の端に寄って、荷持ちの旅人の顔で、道を譲った。
馬蹄の音が、近づいて、すれ違っていく。
その一瞬だった。二騎目の騎士が、ふと、こちらへ顔を向けた。編んで束ねた淡い金の髪が、兜の下から覗いている。若い騎士だった。その目が、旅人の顔を順になぞり——エルドの腰の剣のあたりで、一拍だけ、止まった。
止まって、離れた。
馬蹄の音は、そのまま坂の上へ遠ざかっていった。振り返りもしない。ただ、通り過ぎただけだ。行きずりの騎士が、旅の者を見た。それだけのことだった。
それだけのことのはずなのに、エルドの胸の奥で何かが小さく音を立てた。あの目は、人の顔を見る目ではなかった。数える目だ。顔と、得物と、人数を。……どこかで、覚えのある種類の目だった。
「……ちび。祭りの町は、もうすぐだよ」
マグダの声で、エルドは前に向き直った。
坂の下に、本道が見えている。川沿いの道は南へ、荷車と旅人の列が、祭りのほうへ流れていた。
【改稿履歴】
2026/09/25 一部の表現を変更(→角灯)




