↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/123

【第二部 風と鎖】第12話 それは、主従といえぬな


 縁談の席から二日後の朝、エルドは王宮の坂を下りていた。


 石は、まだ冷めている。夏の半ばの王都で石が冷たいのは、朝の一刻(いっとき)だけだ。その一刻のうちに、高台を下りて、詰所へ寄って、上がってくる。使節が来てから、そういう日が二度あった。今日で三度目になる。


 レイフは、後ろを歩いている。


 あの席から、レイフは前より少し口数が減った。もともと多くはない。減ったのが分かるのは、朝の挨拶のあとに何も足さなくなったからだ。四皿目と五皿目を食べたことは、その夜のうちに自分で四冊目に書いていた。五皿、とだけ。姫君の絵のことは、書かずにおいたらしい。


  ◇


 詰所の板間(いたま)には、朝の日がまだ届いていない。


 マグダは帳場の脇に、セシルは戸口の脇の机にいた。二人とも、こちらを見た。


「ちび。おとといは、いい見ものだったね」


 マグダが、先に言った。


「はい」


「お付きの方、ときたか。あんたが壁に立たされてるのを、あたしは一生忘れないよ」


「忘れてください」


「忘れないね。……でかいの。あんたは何か言うことは無いのかい」


「ありません」


 レイフは、戸口の内側で言った。マグダは鼻を鳴らして、それ以上はからかわずにおいた。からかう種は、あの席で十分に拾ったらしい。


 セシルが、帳面を開いたまま言った。


「エルドどの。使節の方が右の手を差し出してこられたら、同じ形で返してください。王宮前の広場で、王妹(おうまい)殿下がそうなさっていました。あちらの挨拶です」


「副使殿がしていた形ですね。見よう見まねですが、合っているか、見てもらえますか」


 エルドは、右の手のひらを上に向けて差し出し、左の手を手首の下に添えた。セシルは、その手を見た。前から見て、横から見た。


「合っています。……左の手を、もう少しだけ深く。紙を支える形だそうですので」


「こうですか」


「はい。それで、王妹殿下と同じです」


 エルドは、自分の右の手を見た。何も無い手だ。隠すものも、無い。


 戸口に、影が差した。


 王宮の侍従だった。坂を下りてきたらしく、息が少し上がっている。侍従はエルドの前で頭を下げて、言った。


「北の若君。メリディアの王女殿下が、庭でお目にかかりたいと。……王妹殿下のお許しは、いただいております」


 マグダが、帳場から言った。


「行っといで。あんたの顔を見たがってる人が、向こうにもいるってことだ」


  ◇


 王宮の庭は、白い建物に囲まれていた。


 四方を回廊が囲み、真ん中に水盤がある。石の水盤だ。細い水が、上の口から落ちて、音を立てている。水盤の周りに木が幾本か植わっていて、その木陰だけが、夏の昼の日を遮っていた。日の当たる所と、木陰と。石の色が、そこで二つに分かれている。


 木陰の石の腰掛けに、王女が座っていた。


 白い麻を重ねた衣に、襟と袖口の深い青の縫い取り。広場で見たのと同じ装いだ。胸元の青い石が、木陰で暗い。黒い髪は、後ろで一つに束ねずに、まっすぐ背に流してある。侍女が一人、回廊の柱の所に立っていた。声の届かない所だ。


 エルドは、木陰の手前で足を止めた。


 胸から上を傾けた。膝は折らない。


「エルド=ファーレンです。お召しにより、参りました」


「よく来た」


 王女は言った。


 落ち着いた声だった。低くはない。よく通る。耳に心地よい声で、そのくせ、少しだけ、こちらの背筋を伸ばさせるものが混じっている。


 それから、右の手のひらを上に向けてこちらへ差し出し、左の手を添えた。エルドは、同じ形で返した。左の手は、少しだけ深く。何も載せない手のひらが、木陰で向かい合った。王女は、小さくうなずいた。


「断ち手殿。座られよ。……そなたの後ろの男は、立っていてよい。立っているほうが、その男は落ち着くであろう」


 レイフは、後ろで動かなかった。エルドは、腰掛けの端に座った。王女との間に、人一人ぶんの空きを置いて。


 王女は、それを見て、少しだけ口の端を上げた。


「近くはならぬのだな」


「客の距離です」


「客か。……そうだな。わたしも客だ。客と客が、王宮の庭で話している。誰にも咎められぬ」


 水盤の音が、続いていた。


  ◇


「そなたが、断ち手であろう」


 王女は、前置き無しに言った。


「副使は、後ろの男だと思っている。あの男は、思ったことを板に書く。書いたことを、疑わぬ。……そなたは、副使に知らせぬままでよいか」


 エルドは、少し考えてから答えた。


「私は、去年の秋より前を覚えていません。王都で何かを断った、と帳面にあります。読んで、知っています。断ったことも、断てることも。……ですから、自分が断ち手だと自分の口で言うのは、少し順が違う気がしています」


「順、か」


「はい。……訂正は、しません」


 王女の目は、レイフへは行かずに、エルドの上にとどまった。


「では、副使には大男を見せておこう。そのほうが、そなたと静かに話せる」


 言い方に、迷いが無かった。この人は、副使の取り違えを、自分の都合で使うと決めている。それを隠しもしない。


「後ろの男は、何を誓っておる」


「誓っていません」


「給金は」


「払っていません」


「血は」


「違います。レイフは北の村の生まれで、私は北の家の生まれです」


 王女は、うなずいた。うなずいて、水盤のほうを見た。


「では、主従とは呼べぬのではないか」


 声は、変わらなかった。


「わたしの国では、人が人に仕える形は二つしかない。血か、雇いか。家の者として生まれるか、証文で給金を決めて、年限を切って雇われるか。……誓いは、そなたの国の形だ。わが国は、誓いで人を縛らぬ。生きたまま質(しち)に入るようなものだからな。それでも、誓いで結ぶ主従があることは、知っている。三つ目の形だ」


 王女は、エルドを見た。


「そなたと後ろの男には、三つのどれも無い。誓いも、血も、給金も無い従いを、わたしの国は知らぬ。……それは、主従といえぬな」


 主従といえぬ。


 言葉は、静かに置かれた。腹を立てて言った声とは違う。試す声でもない。ただ、自分の国の言葉でこちらを量って、その物差しに無い所を、無い、と言った声だった。


 エルドは、答えを探した。


 探して、最初に出てきたのは、自分の言葉ではなかった。


「レイフは、毎朝決めています。今日も仕えるかどうかを。八年、毎朝決めて、毎朝、同じ答えだと」


「それはあの男の言い分であろう」


 王女は、即座に言った。


「そなたに訊(き)いている。従う側の言い分ではなく、主の側の言い分をだ。そなたは、何をもってあの男の主なのだ」


 水盤の音が、急に大きく聞こえた。


  ◇


 何をもって、主なのだ。


 エルドは、自分の右の手を見た。何も無い手だ。この手が去年の秋に何かを断って、レイフが自分を穴から背負って出た。それより前の十年も、四冊の中にある。だが、王女が訊いているのは、四冊の中のことではなく、去年の秋からの一年に足りないぶんの自分が、レイフの何なのか、だ。


 順に、置いた。


「私は、一年に足りないぶんしか、自分を知りません」


 声は、思ったより普通に出た。


「そのあいだ、レイフは隣にいました。魚を焼きました。読みやすい字を、教えてくれています。私の抜けている所を、覚えています。私が忘れた分を、レイフが持っている。……私は、レイフに給金を払っていません。レイフは私に、誓っていません」


 言いながら、分かってきた。


「私が主だと言えるものが、私の中に、まだ無いのです。レイフが私を主と呼ぶのは、レイフが決めたことです。私の側には、決めたものが、まだ何も」


 そこで、止めた。


 止めて、言い切った。


「足りません。あなたの国の言葉では、答えになっていない」


 王女は、しばらく黙っていた。


 水盤の水が、上の口から落ち続けている。木陰の縁で、日の色が少しだけ動いた。


「なっておらぬな」


 王女は言った。


「だが、足りぬと自分で言う者は、嫌いではない。足りぬまま足りている顔をする者を、わたしは幾人も見た。そなたは、それをしなかった」


 褒められたのかどうかは分からないまま、はい、と答えた。


  ◇


「一つ、教えておこう」


 王女は、腰掛けの上で少し身体の向きを変えた。


「去年の秋、黒い館の地の底から、大男が細いほうを背負って上がってきた。……そう聞いている」


 エルドは、王女を見た。


 背負われて出た。三冊目の終わりに、そう書いてある。書いたのは背負った当人で、その場にいたのは、宰相府の兵と詰所の騎士だけのはずだった。誰から聞いたのかは、訊かずにおいた。訊いても、この人は言わないだろう。


「だから、わたしは取り違えぬ。背負われたほうが、断ち手だ。背負ったほうは、七尺でも六尺半でもよいが、断ち手ではない」


 王女は、そこで初めて、レイフのほうを見た。一度だけ。それから、エルドに戻した。


「もう一つ、訊いておく。そなたの祖は、われらにも約束をした。知らぬか」


 祖。


 始祖のことだと、少し遅れて分かった。アルデンの名の元になった人だ。その人がした約束のことは、丘の壁の字にも、地の底の石にもあった、と読んだ。だが、南の国と、という話は、どこにも無い。


「知りません」


「覚えていないのか。知らぬのか」


「知りません」


 王女は、うなずいた。


「では、それは追い追いだ。今日は、そなたが知らぬ、と分かれば足りる」


 追い追い、と言った。言った以上、この人はいつか言うつもりでいる。いつ言うかは、この人が決める。エルドは、それ以上訊かなかった。


  ◇


「エルド=ファーレン、と呼んでよいか」


 王女は言った。


「断ち手、では、そなたの手にしか用の無い者のようだ。わたしは、手だけを見に来たのではない」


 エルドは、少し考えた。


 名は、自分のものだ。自分が忘れた自分の名を、覚えている人が呼ぶ。呼ばれるたびに、少しずつ自分のものになってきた。呼ぶ人が一人増える。増えることに、いまのところ、困る理由は無い。


「名は、私のものです。……お呼びください」


「では、エルド=ファーレン。そなたも、リヴィアと呼べ」


「王女殿下、と呼びます」


「固いな」


 王女は、口の端を上げた。今日、二度目だった。


「まあよい。固いままで、しばらく見ていよう」


 王女は立ち上がった。女性としては背が高い。白い裾が、木陰の石の上で揺れた。


 行くのかと思った。王女は二歩、歩いて、水盤の縁で止まった。細い水が落ちる音の脇で、振り返らずに言った。


「断ち手殿。……いや、エルド=ファーレン」


 言い直した。


「そなたに、頼みがある」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。