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【第二部 風と鎖】第10話 南からの使節


 セシルは、詰所の門の内で、隊長の声を聞いていた。


「巡察。今日は、南の門から王宮まで、我々が通りに立つ。王宮の求めだ」


 朝だ。聖堂の脇にある詰所の門は、もう日を受けて白い。夏の半ばの王都は、朝のうちから石が温む。


「使節ですか」


 隊長は、うなずいた。


「昼過ぎに、南の門に入る。正使は、王女だそうだ。おまえは王宮の坂の上だ。……北の若君の連れは、王宮前の広場に並ぶそうだ。おまえが立つ所から見える」


「使節は、門で誓いを立てるのですか」


 訊(き)いた。使いの誓いは、この国では門で立てる。離宮の門には、台と綴(つづ)りがあった。


「立てん。王宮から、台は出すな、と来た」


「では、何をもって使いは使いになるのですか」


「知らん。見てこい。おまえの用は、そういう用だろう」


 隊長は、それ以上言わずに板間(いたま)へ戻った。顎の四角い五十がらみの人だ。この人の言い方は、丘の前庭のホルガーに少し似ている。要ることだけを言って、要らないことを言わない。


 王都に着いて、二十日あまりになる。


 セシルとマグダは、着いた日からこの詰所にいる。隊長は丘の書状と東の家の書状を二枚並べて読んで、前庭側の巡察に部屋を一つ出した。それきり、何も訊かない。そのあいだにセシルは、王都の市で証文と立会を見て回った。王都の立会は、誓約主がいなくなっても一つも減っていない。減ったのは恩赦の願い出だけだ。前庭のホルガーが知りたがった、いままでどおりでない所は、まだ一つも見ていない。


 エルドは三日に一度、高台を下りてくる。王宮の書庫で、北の領の七年ぶんの写しを読んでいるという。読み終えたら継ぐかどうかが分かるのか、と訊いたら、分かりません、と答えた。答えが出ると決まっていないものを、答えが出るまで読める人だ。私なら、先に規程を探す。


 マグダは、板間の帳場の脇に居着いた。戸口と道の見える所だ。夜は同輩の誰かと呑んでいる。詰所の騎士が元審問官と呑んではならぬという決まりは、どこにも無い。


  ◇


 王宮の坂の上は、日を遮るものが無かった。


 石畳の照り返しが、靴の底から上がってくる。白い制服の背中に、日が乗る。汗が、襟の内側を伝った。夏の半ばの王都は、丘の前庭より暑い。前庭には風があった。ここには、石と、日と、人だけがある。


 坂の両側に、白い制服が立った。十二人。丘の前庭の警固と同じ数だ。セシルの隣は、黒い髪を短く切った同輩だった。見習いの寝台の列で二つ隣にいて、去年の秋、王都の板間で最初の触れ書きを剥がした人だ。


「北の若君の従士は、あの背丈だろう」


 同輩が、前を向いたまま言った。


「南の使節が、あれを見にきたって噂だよ。七尺の誓い断ちを」


「七尺は無い、と本人は言っています。私は、測っていません」


「測らないのか、おまえが」


「測る規程がありません」


 同輩は、笑ったらしい。声は出さなかった。


「二十日いて、分かったよ。おまえは丘にいたころより、冗談が言えるようになった」


「冗談ではありません」


「なお悪い」


 坂の下で、鐘が鳴った。聖堂の鐘だ。時を告げる鐘とは、鳴らし方が違う。客を告げる鐘だ。


 坂の下から、旗が上がってきた。


  ◇


 旗は、深い青だった。


 青の地に、白い葦(あし)の穂が五本。四本と一本に分けて、根元で一つに束ねてある。遠目には、指を開いた手にも見える。旗というものは、たいてい獣か、剣か、家の印だ。葦の旗を、セシルは初めて見た。


 旗の下に、騎馬が続いた。


 護衛の兵だ。数は四十。日に焼けて、髪は黒い。装いは、この国の兵より軽い。革の胴着(どうぎ)に、短い外套。剣は腰に、槍は持たない。馬の鞍は前が高く、鐙(あぶみ)の紐が短い。城の下の町で、東の槍のラルスが息を切らせて言ったのと同じ形だ。峠の四騎の鞍だ。あの四騎は、この列の先に走った者たちだったのだろう。


 セシルは、兵の手を見た。


 四十の兵が二列で通り過ぎるあいだ、手綱を握る右の手が、四十、目の前を過ぎる。過ぎる手を、目は勝手に数える。数えているうちに、気づいた。


 紋が、一つも無い。


 四十人の兵の、四十の右手に、紋が無い。この国の兵なら、臣従の紋が無い手のほうが珍しい。あの兵たちは、誓っていない。誓わずに、剣を提(さ)げている。


 護衛のあとに、馬車が二両。それから、馬に乗った男が一人。


 小太りの男だった。黒い薄い髪が汗で額に貼りついている。馬の上で、膝に小さな板を載せて、炭で何か書いている。書きながら馬に乗れるものかと思ったが、乗れている。馬のほうが、慣れているのだろう。男は坂の上を見て、王宮の門を見て、また板に書いた。書く手が、速い。


 その後ろに、女が一人、馬に乗っていた。


 女性としては、背が高い。馬上でも分かる。髪が黒い。長くて、まっすぐで、濡れた鴉(からす)の羽のように光っている。白い麻を重ねた衣に、襟と袖口の深い青の縫い取り。胸元に、親指の先ほどの深い青の石が一つ。列の中で石を着けているのは、その人だけだ。正使は王女だ、と隊長は言った。あれが、そうだ。まっすぐ前を見て、坂を上ってくる。


 馬が、セシルの前を通った。


 女の目は、黒かった。黒い目が、坂の上の王宮の門を見ている。


 手綱を握る右の手が、目の前を過ぎた。


 手の甲に、輪があった。


 薄い青の、古い輪だ。二つが絡み合って、皮膚に馴染(なじ)んでいる。剣を執る側の手の、同じ所。ユリアンの手にあるものと、同じ所に。


 セシルは、目を戻した。前を向いた。制服の背中に、汗が一筋流れた。


 誓わない国の、王女の手に、紋がある。


  ◇


 王宮の門は、開いていた。


 坂の上に立つ警固の列からは、門の内の広場が見える。白い石の広場に、王宮の者が並んでいる。ヒルデが中央に立ち、その斜め後ろにユリアン。侍従が幾人か。それから、少し離れた所に、三人。


 エルドと、その後ろのレイフと、隣のヴァルドだ。


 王宮の客として、並べてある。並べたのはヒルデだろう。北の若君が王宮の客であることを、使節の目に最初に入れる並べ方だった。エルドは、王宮の仕立ての礼装を着ている。背筋は伸びている。あの人は、並べられている側に立つのが、まだ得意ではない。得意でない人が、動かずに立っている。


 行列が、門の内へ入った。


 旗が止まり、護衛が二列に分かれ、馬車が止まった。小太りの男が馬を下りて、板を懐にしまい、汗を拭いた。それから、女の馬の脇へ回った。女は自分で馬を下りた。


 広場が静かになった。


 小太りの男が、前へ出た。右の手のひらを上に向けてヒルデへ差し出し、左の手を右の手首の下に添える。紙を渡すときの手の形だ。手には、何も載っていない。それから、懐から紙を出して、読み上げた。


 声が、思ったより通った。早口だが、通る。


「メリディアの王、証人三名の名において、第一の王女リヴィアを正使とし、アルデンの王のもとへ遣わす。これを、信任の証文とする。証人、一。……」


 名が三つ、続いた。読み終えると、男は紙を両手で持って、ヒルデに差し出した。ヒルデは受け取って、開いて、目を通した。


 それだけだった。


 口上は無い。作法も無い。誓いも無い。紙と、紙に名を書いた三人の証人と、それを読み上げる声だけで、王の使いが王の使いになった。この国なら、使いの誓いを立てさせる。宰相府の式官が綴りを掲げて、先導する。それが無い。無くて、成っている。


 ホルガーがセシルに見てこいと言ったのは、これだ。誓約主のいなくなった国で、誓いに頼らない約束がどう成るか。目の前で、誓いも口上も無しに、王の使いが王の使いになった。前庭で口上を並べている者にとって、これは他人事ではない。


 セシルは、それを見ていた。見たことのない成り方だった。書き留めたい。


 ヒルデが、言葉を返した。声はここまで届かない。届かなくても、揺れの無い声だと分かる立ち方だった。


 王女が、前へ出た。


 ヒルデより高い。並ぶと、ユリアンよりは少し低いくらいだ。王女は、右の手のひらを上に向けてヒルデへ差し出し、左の手を添えた。ヒルデの右の手が、同じ形に出た。何も載せない二つの手のひらが、広場の真ん中で、向かい合った。


 セシルは、息を一つ吐いた。


 それから、王女の目が動いた。


 ヒルデから、その斜め後ろのユリアンへ。ユリアンから、少し離れた三人へ。三人のうち、いちばん背の高い者ではなく、その前に立つ者へ。


 止まった。


 エルドを、見ている。レイフではなく。


 小太りの男のほうは、レイフを見ていた。見上げて、目が上まで行って、それから懐の板を出して、また何か書いた。書いて、しまって、もう一度見上げた。噂の男を、目で測っている。噂は半尺、高い。半尺の分を、あの男はいま、板に書いたのだろう。


 王女は、書かない。


 エルドを見たまま、動かない。長くはない。息を三つか四つのあいだだ。エルドは、動かずにいる。見られている側に、立ったままでいる。


 王女の目が、離れた。


 ヒルデに戻って、何か言った。ヒルデがうなずいて、広場の奥へ歩き出した。行列が、それに続いた。門の内が動きはじめて、警固の列にも、隊長の声が来た。


「散れ」


  ◇


 解けたあと、セシルは門の脇に残った。


 残る理由は無い。無いが、足が動かなかった。同輩が、坂を下りかけて振り向いた。


「行かないのか」


「……もう少し」


 同輩は、それ以上言わずに下りていった。


 坂の途中に、マグダが立っていた。


 いつから見ていたのかは分からない。道の見える所に、いつのまにか立っている人だ。セシルが下りていくと、マグダは広場のほうを顎で指した。


「白いの。見たかい、あの小太り」


「見ました」


「でかいのを見て、何か書いたね。二度」


「二度、書きました」


「上を見て、書いた。あの手は、寸法を書いた手だよ」


 マグダは言った。


「それから、あの黒いのは、書かなかった。書かないで、ちびを見てた」


「はい」


 セシルは言った。


「王女殿下の右の手に、紋がありました。ユリアン殿と、同じ所に」


 マグダは、しばらく黙っていた。それから、鼻を鳴らした。


「あんた、それを見てたのかい」


「手を、数えていましたので」


「数えて、どうだった」


「護衛の四十人に、紋は一つもありませんでした。……王女殿下の手に、一つ」


 マグダは、広場のほうを見た。行列はもう、王宮の建物の陰に入っていた。旗だけが、白い壁の向こうに見えている。


「証文の国から来て、証文の国の王女だけが、紋を持ってる」


 マグダは言った。


「面白いね」


  ◇


 日が傾いてから、王宮の門が開いた。


 セシルは、まだ坂にいた。マグダと二人で、石の上に座っていた。日はもう坂の反対側に回って、石は冷めはじめている。座っていられる熱さになった。


 門から、人が出てきた。


 エルドだった。レイフが後ろにいる。二人は坂を下りかけて、セシルとマグダを見つけて、足を止めた。エルドは、少し疲れているように見えた。並べられていた時間の分だけ。


「見えましたか」


 エルドが、坂の下の二人に言った。


「見えました。坂の上から、全部」


 セシルは立ち上がった。


「並べられるのは、疲れます」


 エルドは言った。言ってから、少しだけ笑った。マグダが、石の上から見上げた。


「顔に出てたよ、ちび。坂の上からでも分かった」


「隠せないので」


「隠さなくていい。あの黒いのは、隠してない顔を見にきてる」


「エルドどの。その王女殿下の——」


 言いかけて、止めた。門の内から、もう一人、出てきたからだ。


 小太りの男だった。


 汗を拭きながら、坂を下りてくる。王宮の侍従が一人、後ろについている。男はエルドを見て、レイフを見て、レイフの所で足を止めた。見上げた。目が、上まで行った。


 それから男は、右の手のひらを上に向けてレイフへ差し出し、左の手を添えた。広場で、ヒルデにしたのと同じ形だった。


「断ち手殿」


 男は言った。


「メリディアの使節の副使、ドナートと申します。……断ち手殿に、ご縁組のお話がございます。わが国の、王家に連なるさる家の姫君との」


 縁組。


 レイフは、動かなかった。


 エルドが、口を開きかけた。開きかけて、レイフを見た。レイフは、男を見下ろしたまま、何も言わない。訂正もしない。エルドの口が、閉じた。マグダが、石の上で、声を出さずに笑いはじめた。


 セシルは、坂の途中で、それを見ていた。


 誓わない国の使いが、誓わない従士に、何も載せない手のひらを差し出していた。載せる気なのは、縁組らしかった。


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