【第二部 風と鎖】第09話 受け取る場所
朝は、床から来た。
窓の光より先に、石の冷たさが目を覚まさせた。夏の入りの朝でも、白い石は夜のあいだに冷える。エルドは寝台の上で目を開けて、天井の高さに一息のあいだ戸惑った。北の宿の天井は低く、梁が目の上にあった。ここは、見上げても遠い。
戸口の脇に、レイフが座っていた。
ゆうべと同じ形だ。壁に背をつけて、膝に剣を置いて。眠っていたのかどうかは、見ても分からない。目が合うと、レイフは立った。
「おはようございます」
「おはようございます。……寝ましたか」
「はい。少し」
少し、が何刻なのかは訊かずにおいた。
侍従が水と布を運んできて、衣を整えるあいだ、ユリアンに教わった順を頭の中で一度だけ通した。扉から七歩。七歩目で止まる。胸から上を傾ける。膝はつかない。一度聞いて、覚えている。二度目は要らない。
回廊に出ると、靴の音が高い天井まで上がっていった。
◇
謁見の間は、長い部屋だった。
白い石の床が、扉から奥まで一直線に伸びている。両側の高い窓から朝の光が斜めに入って、床の上に明るい四角を幾つも並べていた。幕は無く、壁際は空いている。奥に、椅子が一つ。背の高い、飾りの少ない椅子だ。その椅子に、人が座っていた。
扉の内側で、ユリアンが小さく言った。
「七歩です」
「はい」
エルドは歩いた。足は、七つ目で止まった。
止まって、背筋を伸ばし、胸から上だけを傾けた。膝は折らない。
後ろで、二つの足音が止まった。斜め後ろにヴァルド。真後ろにレイフ。レイフを通したのはユリアンだ。従士殿は若君と共に、と、門で言ったのと同じ言葉で侍従を退けた。
「面を上げよ」
低い声だった。
エルドは顔を上げた。
王ゲオルクは、痩せた人だった。座っていても背の高いのが分かる。髪は白く、短く刈った髭も白い。頬がこけて、目だけが灰色がかった青で、その色はユリアンとヒルデと同じだった。膝の上に置いた右の手の甲に、薄い青の古い紋がある。同じ所に、同じ形。これで三人目だ。ヒルデは椅子の脇に立っていた。ユリアンは、扉の脇に残った。
「エルド=ファーレン」
王は言った。家の名まで、続けて。
「よく来た。……遠かったであろう」
「二十日ほどでした。陛下」
「二十日か」
王は少し黙った。息を整えているようだった。
「そなたを呼んだのは、わたしの口で言うためだ。妹に書かせることも、ユリアンに持たせることもできた。だが、それでは済まぬ」
王は、椅子の肘に手をかけた。
「八年前の冬、宰相府は北の家を逆賊として討った。討った翌日、北の町の辻に触れ書きが貼られた。北の辺境伯家、謀反の企てにより、勅命をもって誅す、と。勅は、王の名で出る。わたしの名だ」
声は低いままだった。
「知らなかった、とは言わぬ。宰相が何を書いたかは、宰相が持ってくるまで知らなかった。それは本当だ。だが、持ってきたものに、わたしは訊かなかった。北の家が何をしたのか。誰が見たのか。誰が調べたのか。訊かずに、名を貸した。何十年も、そうしてきた。そうすることが王の務めだと思っていた者が、この椅子に座っている」
エルドは聞いていた。
訊かなかった、という言葉を、去年の秋からこちら何度も聞いた。代官は訊かずにいた。東の当主も訊かずにいた。宿の亭主は、顔を見ずに済ませた。この国は、訊かないことで回ってきた。回していたのは宰相で、回されていたのは、椅子のこの人も同じだった。同じだった、と言って済ませてよいかどうかは、別の話だ。
「去年の秋も、だ」
王は続けた。
「そなたが王都へ来ると知って、宰相府は網を張った。触れ書きを貼り、門で目の色を見た。王宮は、それを知っていた。知っていて、止めなかった。宰相の書かせた触れ書きに王宮が口を出したことは、今まで一度も無い。……一度も無いことを、しなかった。それだけのことで、そなたは殺されかけた」
王の右の手が、肘掛けを握った。
「北の領のことも言わねばならぬ。七年、王宮は北を宰相府に預けたままにした。山へ兵は上がらず、塚は許されず、家の名は口にされなかった。その七年、わたしは北のことを一度も訊かなかった」
握った手に、力が入るのが見えた。
立とうとしている。侍従が一人、前へ出かけた。ヒルデが、手を上げずに、目だけでそれを止めた。王は、自分の腕の力で立った。時間がかかった。立ちきると、この人は本当に背が高かった。
「そなたの父と、母と、家中の者の死を。七年の領を。そなたを殺そうとしたことを。……アルデンの王として、詫びる」
王は、頭を下げた。
胸から上だけの礼ではなく、腰から、深く。白い髪が、床の光の四角の中で、下を向いた。
長い部屋が、静かだった。
◇
自分は、何を返せばいいのだろう。
詫びを受け取る、と言うのは簡単だ。受け取らない、と言うのも、たぶん簡単だ。どちらも、口から出なかった。出ない訳が、順に分かった。父の顔を知らない。母の声を知らない。六十余りの名は四冊目に写してあるだけで、その人たちが自分に何をしてくれたのかを、一つも覚えていなかった。殺されかけた去年の秋のことは、目を開けたあとの分しか無い。この詫びが向けられている当人の中に、詫びを受け取る場所が無い。
無いなら、無いと言うほかない。
「陛下。お顔を、お上げください」
王は、上げた。上げるのにも、時間がかかった。
「私は、覚えていません」
エルドは言った。言ってから、なぜそう言えるのかを、一つずつ足した。
「父の顔も、母の声も、家中の者のことも、去年の秋の触れ書きも。王都の夜明けより前を、私は何一つ覚えていません。ですから、陛下のお詫びを、受け取るとも、受け取らないとも、私には申し上げられません。受け取る場所が、私の中に無いのです」
王の目は、動かなかった。
「受け取るのは、私ではありません。石の下の六十余りの名と、北の町で生き残った者たちと。……それから」
息を、一つ入れた。
「覚えている者が、後ろにいます」
言って、一歩、右へ寄った。
真後ろに立っていたレイフが、王の正面に出た。出ても、そこに立ったままでいる。名を呼ばれるまで、この男は動かない。
「レイフ」
名を呼んだ。レイフは、はい、と言って、王を見た。膝はつかない。いつもの礼をした。頭を下げて、上げた。
「俺は、覚えています」
レイフは言った。
「あの夜の広間も。その前の晩に、御館様が、明日は終始エルド様のそばにいろ、と言われたことも。……全部、覚えています」
王は、レイフを見た。それから、もう一度、頭を下げた。今度は胸から上だけだった。それが、この人の身体にできる二度目なのだと分かった。
「そなたにも、詫びる」
「はい」
レイフはそう言った。受け取ったとも、受け取らないとも言わない、はい、だった。
◇
ヴァルドが、前へ出た。
斜め後ろから、エルドの隣へ。仏頂面のまま、膝は折らずに頭を下げた。
「グレンツのヴァルドでございます。北の家には、いま後ろに立つ者がおりませぬ。北の若君の後見を、東のグレンツが務めます。……お許しを」
「許す」
王は言った。即座に。
「東の家には、借りがある。そなたの書状で、北の家の名は戻った。宰相の筋書きを、王宮はようやく破れた」
「借りは、わしのほうにございます」
ヴァルドはそう言って、元の所へ下がった。
王は、椅子に戻った。座るときに、咳が出た。二つ。三つ。侍従が水を運び、王は一口飲んで、それから、エルドを見た。
「話は、妹がする。わたしは、ここまでだ。エルド=ファーレン」
「はい」
「そなたの父を、わたしは一度だけ見た。若い頃、王都の宴でだ。言葉は交わしておらぬ。背の高い、静かな男だった。知っているのは、それだけだ。知らぬまま、名を貸した。それを、覚えておいてくれ」
エルドは、頭を下げた。
王は侍従に支えられて、奥の戸から出ていった。背の高い人が、戸をくぐるときに少し屈んだ。
◇
ヒルデは、椅子の脇に立ったままだった。
「座る所を用意していません。長くはなりませんので」
声は、きのうと同じだった。揺れが無い。
「勅に期限を書かなかった理由は、いずれお話しします。今日ではありません」
「はい」
「もう一つ、先に申し上げておきます。初雪までにお答えが無ければ、北の領は、代官の預かりをもう一年延ばします。その先は、別の家に預けます。王宮は、領を空けたままにはしておけません」
冷たいと言う者がいる、とユリアンは街道で言った。冷たいのではなく、先に決めているだけだ、とも。この人はいま、自分が決めなかったときに何が起きるかを、先に言った。言われてみれば当たり前のことだった。その当たり前を、去年の秋からこちら、誰も口にしなかった。
「初雪までに、申し上げます」
「はい」
ヒルデは、侍従が持ってきた油紙の包みから、一枚を抜いた。
「代官から、写しに添えて一枚。七年のあいだに、いたさなかったことの一覧、と題があります」
受け取った。細かい字だ。一行が上から下まで同じ太さで揃っている。帳簿と同じ手だ。
——山へ、兵を出さず。
——塚のこと、訊かず。
——北の家の名、町に呼ばせず。
——城の焼け跡、検めず。
——山の村へ、一度も上がらず。
行は、その下にまだ続いていた。十を超えていた。理由は、一行も無い。
「理由は一つも書いてありません」
ヒルデが言った。
「書けなかったのだと思います」
エルドは言った。北の町の宿の広間で、止まった口を見た。止まった口が、紙の上では止まらずに、しなかったことだけを書き並べた。書けることだけを、書けるだけ書いた一覧だ。
ヒルデは、少しのあいだ何も言わずにエルドを見た。それから、うなずいた。
「代官は七年、いたしませんでした、という報告を書き続けた者です。一度も、いたしました、と嘘を書いていません。……それは、覚えておいてよいことです」
「はい」
「あなたは、王宮の客です。部屋はそのままお使いなさい。北の領の写しは、書庫に置かせます。読みたければ、お読みなさい」
ヒルデは、そう言って、油紙の包みを侍従に戻した。
◇
午後、エルドは高台を下りた。
レイフと二人で。ユリアンが供をつけると言ったのを、要りません、と言って出た。詰所までの道は、レイフが知っている。
王宮の坂は、昼の日で焼けていた。石畳の照り返しが下から顔に来る。王宮の石は、朝も昼も冷たかった。同じ王都の石が、坂ではこんなに熱を持つ。外套は部屋に置いてきて正解だった。
坂の下で、聖堂の鐘が一つ鳴った。
詰所は、その聖堂の脇にあった。白い壁の、低い建物だ。門の脇に、黒い髪を短く切った女の騎士が立っていた。エルドを見て、後ろのレイフを見て、それから中へ声をかけた。
「セシル。客だ」
板間の隅の帳場に、マグダがいた。
壁を背にして、戸口と道の見える所に座っている。手に椀。中身は訊かないことにした。セシルはその隣の机で帳面を開いていて、エルドが入ると、炭を持ったまま顔を上げた。
「王様は、頭を下げたかい」
マグダが、椀を置いて言った。
「下げました。腰から」
「病人だって聞いたよ。立てたのかい」
「立ちました。……時間は、かかりましたが」
「どんな顔だった」
エルドは、少し考えた。
「病の人の顔でした」
「嘘は」
「無いと思います。……マグダなら、分かったでしょうが」
マグダは、鼻を鳴らした。
「あたしはいなかった。あんたが見たんだ。あんたの目で足りるよ」
それから、エルドの手の一覧を顎で指した。ヒルデから受け取ったまま、坂を下りてきた一枚だ。渡すと、マグダは読んだ。
「……しなかったことの一覧、ときたか」
マグダは、一覧を返してよこした。
「あの男らしいね。理由の無い紙だ。誰の味方もしない。……珍しいよ、そういう紙は」
セシルが、炭を置いた。
「エルドどの。王の言葉に、立会はいましたか」
「ヴァルド殿と、王妹殿下と、ユリアン殿と。それから、レイフが」
「証文は」
「ありません。陛下は、口で言われました」
セシルは、少しのあいだ黙っていた。それから、帳面に戻って、何か書いた。短かった。
「書き留めました。この国の王が、誓いも証文も無しに、口で言った言葉です。……前庭の用に、要ります」
レイフは、戸口の内側に立っていた。板間の壁際に、白い制服が幾人か座っている。その誰もが、一度はレイフの背丈を見上げた。見上げるだけで、何も言わない。
◇
坂を上るころには、日が傾いていた。
石の熱は、まだ残っている。昼より、少しだけ柔らかい。高台の裾の黒い館の前を通った。門は閉まっていて、黒い装いの兵が二人、きのうと同じ所に立っている。きのう十人と七頭を見た目が、今日は二人を見た。
後ろから、蹄の音が来た。
一騎だった。坂を駆け上がってくる。エルドとレイフは道の端へ寄った。馬が脇を抜けていった。日に焼けた男が、前屈みに乗っている。黒い髪。鐙の紐が短い。鞍の前が、高い。
馬は、王宮の門の前で止まった。
門の兵が、男から何かを受け取った。男は馬を下りて、門の内へ引かれていった。エルドは、その背中を見送った。
門の脇に、ユリアンが立っていた。待っていたらしい。エルドが門まで上がると、白い紙を持ったまま言った。
「使節の先触れです。夏の半ばに、王都に入ると。日にちも書いてあります」
「はい」
「それと」
ユリアンは、そこで一度、紙を見た。
「正使は、王女だそうです。メリディアの、第一の王女」
エルドは、門の内の馬を見た。兵に引かれて、厩のほうへ行く。前の高い鞍に、短い鐙の紐。北の村でラルスが見て、街道の宿場で亭主が言った形と、同じだった。




