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【第二部 風と鎖】第08話 白い王宮


 王都アルディアの門は、去年の秋、何日かのあいだ、通る者の目の色を見た。


 辻の触れ書きに、琥珀(こはく)の目、と書いてあったからだ。触れ書きは、その秋のうちに剥がされた。剥がしたのは、詰所の騎士だ。それから半年以上がたって、門の兵は、荷を見る兵に戻っていた。


 その門を、北の若君がくぐった。


 離宮を出て、六日。王家の供の後ろについて、昼日中に、名を隠さずに。門の兵は、供の持つ白い紙を見て、頭を下げた。エルドの目は、見なかった。


  ◇


 エルドは、石畳(いしだたみ)の上を歩いていた。


 北には無いものだ。土でも砂利でもなく、切った石を並べた道。靴の底が硬い音を立てて、その音が両側の高い壁に当たって返ってくる。壁の影が道の半分を覆って、影の中は涼しく、日の当たる半分は暑い。煙と、人と、それから蜜を焼いたような甘い匂い。北の町では嗅がない匂いだ。


 渡しで川を越え、川の門をくぐって、半刻ほど歩いた。道は、ずっと上りだ。


 前に、高台(たかだい)がある。


 高台の上に、白い王宮が見える。幾つもの屋根が段になって重なり、昼の日を受けて、目に痛いほど白い。その高台の裾に、黒い石の建物が一つ、横に長く伏せている。日はそこにも当たっているのに、白くならない石だ。


 黒い建物の門の前を、道は通っていた。


 門は閉まっている。両脇に、黒い装いの兵が一人ずつ。右の手の甲に、淡い青の古い紋がある。兵は、通る一行を見た。ユリアンを見て、供の白い紙を見て、それから、エルドに目を止めた。一行が通り過ぎるあいだ、その目は動かなかった。


 エルドは、足を止めずに通った。通り過ぎてから、一度だけ振り返った。


 レイフの右の手が、柄に触れている。触れているだけだ。その後ろで、マグダが黒い門を見上げていた。何も言わずに。


「宰相府は、いまも黒いままです」


 ユリアンが、前を向いたまま言った。


「叔母は、黒いままでいい、と言いました。白く塗って済むものではない、と」


  ◇


 王宮の坂の下で、一行は二つに分かれた。


 高台へ上がるのは、エルドとレイフ、ユリアンと供の三人。残りは、それぞれの行き先がある。


「あたしと白いのは、詰所だ」


 マグダが言った。荷を担ぎ直して、高台の東の、聖堂の屋根のほうを顎で示す。


「白い所は、あたしには眩しすぎる。詰所の寝床のほうが、よく眠れるんでね。……ちび、あんたは行っといで。あたしは、去年の秋に触れ書きを剥がした騎士に礼を言ってくる」


「はい」


 セシルが、白い制服の胸の徽章(きしょう)を袖の裏で拭いて、エルドの前へ来た。


「エルドどの。王宮で証文と立会を見ることがあったら、あとで教えてください。……前庭側の用ですので」


「見せられるものなら見せてもらいます。見せられないものなら、話します」


 セシルは、はい、と言って、マグダの後ろへついた。二人は、坂を東へ下りていった。


 ヴァルドは、馬の上から高台を見上げた。


「わしは、東の家の定宿に泊まる。後見は明日、王の前でわしが名乗る。おぬしが立つ所に、東の家が立つ」


「はい」


 オーラフが手綱を引き、二人は坂を西へ下りていった。


  ◇


 王宮の門に、台は無かった。


 門の両脇に、王家の印を胸につけた番人が二人。石の台も、綴(つづ)りも、式官も、無い。番人はユリアンに頭を下げ、エルドに頭を下げ、それから、レイフを見た。


 侍従が、門の内から出てきた。


「北の若君は、こちらへ。……従士の方は控えの間へ」


 レイフは、門の内側に立ったまま、動かない。エルドは、入れとも出ろとも言っていない。言われていないときは動かない男だ。


「従士殿は、若君と共に」


 ユリアンが言った。侍従は、一度ユリアンを見て、頭を下げた。レイフが、エルドの後ろについた。


 門の内は、白かった。


 石が白い。床も、壁も、柱も。天井が高くて、足音がそこまで上がっていく。廊下は長く、窓が大きく、午後の光が床の上に四角く落ちている。人は少ない。侍従が二人、先に立って歩く。誰も喋らない。北の城が焼け跡になる前は、どんな廊下だったのか、自分は知らない。比べるものが無い。


 窓の一つから、下が見えた。


 屋根の海と、その手前に、黒い館の屋根。上から見ると、横に長い黒い板が、白い高台の裾に置いてあるように見える。門の前の兵は、ここからでは見えない。エルドは、窓から離れた。


 白い石は、冷たかった。


 手を壁につけると、冷たさが指の腹に来る。夏の入りの午後に、この石は冬の温度を残している。


  ◇


 部屋は、書き物の部屋だった。


 広くはない。机が一つ、机の上に文の山が三つ、壁に棚。窓が一つ。その机の向こうに、女の人が座って、文を読んでいた。


 五十代の後半だろう。髪に白が多く、後ろで一つに束ねてある。灰色がかった青い目。ユリアンと同じ色だ。読み終えた文を右手で置いて、その手で、次の文を取った。右の手の甲に、薄青の古い紋がある。ユリアンの手と、同じ所に。


 エルドは、それを見た。訊(き)かない。初対面の相手に手の甲の紋を訊く作法は無い、と村で決めた。


 女の人は、文を置いて、立ち上がった。


「エルド=ファーレン殿」


 声は、低くも高くもない。揺れが無い。よく通る。


「ヒルデです。王の妹で、いまは王宮のことを執っています。……エルド殿、と呼びます。若君、と呼べば、北の家を継ぐ人と決めて呼ぶことになります。決めるのは、あなたです」


 エルドは、背筋を伸ばして、胸から上だけを傾けた。膝は折らない。背筋は、言われるより先に伸びていた。この人の前では、そうなるらしい。


「エルド=ファーレンです。お招きに、参りました」


「お顔を上げてください。……ユリアン。ご苦労でした」


「はい、叔母上」


 ユリアンが、後ろで言った。ヒルデは甥を見て、少しだけ目元を緩め、すぐにエルドへ戻した。


 侍女が、茶を運んできた。


 白い椀に、薄い色の茶。ヒルデの前に一つ、エルドの前に一つ。ユリアンの前にも一つ。それから、戸口に立つレイフの前に、当たり前のように四つ目が置かれた。レイフは、椀を両手で受けた。


 茶は、ほのかに甘い香りがした。


「あなたのことは、代官の早馬で聞いています。初雪までに決める、と。それから、旗の無い四騎のことも」


 エルドは、顔を上げた。


「四騎は、十日前に王都を通って南へ下りました。門の兵が、目の色ではなく言葉を聞いた。……南の言葉でした」


 南の言葉。


 街道の脇で、樽を積んだ荷車の男が使っていた言葉だ。同じ南の言葉が、四騎の口からも出ていた。エルドはそれを、頭の中に置いた。訊きたいことは幾つかある。訊いても、この人は、いま言うと決めたことしか言わない。それが分かる声だった。


「もう一つ。南の使節が夏の半ばに着きます。約束より早い。……ユリアンから聞かれましたね」


「はい」


「では、それはいま話しません」


 ヒルデは、机の上の文を一つ、脇へ寄せた。それから、エルドを見た。


「一つだけ伺います。あなたは、誓いを断つ手を去年の秋からまだ試しておられないと聞きました」


「はい」


「試すつもりは」


「いまは、ありません」


 ヒルデは、うなずいた。声は、少しも変わらない。


「いまは、を、覚えておきます」


 自分の言った、いまは、を、この人は文の山の一つに載せた。そういう言い方だった。載せられて、初めて、自分の言葉が重さを持った気がした。


 ヒルデは、茶を一口飲んだ。それから、机の向こうで背筋を伸ばした。


「王が、あなたに自分の口で言うと決めていることがあります。わたしからは言いません。王の言葉ですので。……明日の朝、王が会われます。今日はお休みください」


「はい」


 エルドは、もう一度、胸から上を傾けた。戻したとき、ヒルデはまだこちらを見ていた。戸口を出て、戸が閉まるまで。紙の音がしたのは、戸が閉まってからだった。


  ◇


 侍従に通された客の部屋は、白かった。


 寝台と、机と、水差し。窓から、下の町の屋根が見える。屋根の海の向こうに、川が光っている。日が傾いて、白い壁が、少しだけ黄色くなった。


 レイフは、戸口の脇に座った。


 壁に背をつけて、膝に剣を置いて。見張りの背中だ。座る前に、部屋の中を一度見回した。窓と、戸と、寝台の位置。それだけ確かめて、座った。


「王宮でも、座るのですか」


「座ります」


「戸の外に、番人がいます」


「番人は、番人の主のものです」


 レイフは言った。そう言って、壁に背を戻した。エルドは、机に四冊目を開いた。


 夕方、ユリアンが来た。


 供を連れずに、一人で。戸口のレイフに、従士殿、と言って、中へ入ってきた。


「明日の朝です」


 ユリアンは言った。


「扉から七歩。胸から上を傾ける。膝はつかない」


「一度で、覚えました」


「知っています。……確かめに来ただけです。父は今夜、早く休むそうです。明日の朝のために、と、自分で言って」


 ユリアンは、少し笑って、出ていった。


 エルドは、窓の外を見た。


 下の町に、灯りが一つずつ増えていく。高台の裾の黒い館だけが、灯りをつけない。去年の秋もそうだった、と帳面にある。読んで知っていたものを、いま、自分の目で見ている。


 右手を、机の上に置いた。


 試すつもりは、いまは無い。いまは、を、ヒルデは覚えておくと言った。


 明日の朝、扉から七歩。その先に立つ人の顔を、自分はまだ知らない。


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