【第二部 風と鎖】第07話 王家の離宮
王家の離宮は、街道を行く者の目には、古い館の一つでしかない。
丘の下の川の町から、街道を南へ一日半。王が総本山へ出向くときに、往きと帰りに泊まる館だ。ここ数十年、王はほとんど出向かず、館は空いていた。空いた館を、宰相が使った。王都と丘のあいだを行き来するのに、ちょうどよい所にあったからだ。王都までは、そこから六日ある。
去年の夏、四人の旅の者がこの門をくぐった。門の脇の台で、三人が客の誓いを立てた。一人は、誓わずに入った。その話は、帳面にある。
◇
一行は、初夏の街道を歩いていた。
夕立の宿場を出て、八日。日は毎日高くなり、外套は荷の上に載せたままになった。汗が、エルドの背中を伝う。宿場ごとに井戸の水を飲んだ。水の味が、宿場ごとに少しずつ違う。北の水は硬くて、南へ下るほど丸くなる。麦は穂を垂れ、道の脇の草が膝の上まで伸びた。
八日目の午後、東に白いものが見えた。
丘だ。低い山の上に、白い建物が幾つも重なっている。街道は丘へは上がらず、丘の下の町へ向かって下っていく。
セシルが、一度だけ足を止めた。
東の丘を見ている。前庭が見えるはずのない距離だ。見えない距離で、しばらく見ていた。それから、何も言わずに歩き出した。エルドも、何も訊かずに歩いた。四十一人を並べたという前庭を、並べた当人が、見えない距離から見ている。
◇
川の町に着いたのは、その日の夕方だった。
川の匂いが、町の手前から来る。冬に嗅いだより、ずっと強い。水と泥の匂いに、日に温まった草の匂いが混じっている。
冬を越した町だ。
去年の初雪から、雪が消えかけるまで、この町にいた。マグダが顔役に仕事を請け、レイフが力仕事をし、自分は帳付けと買い出しをした。宿の亭主も、市の粉屋も、こちらの顔を知っている。
宿の亭主が、戸口で足を止めた。
「……帳付けの」
亭主は言った。エルドの顔を見て、それからレイフを見て、後ろの七頭と、王家の供の三人を見た。
「帳付けの若いのが、ずいぶんな連れで戻ってきなすった」
「戻ってきました。一晩、お願いします」
エルドは言った。北の町では、若様と呼ばれた。覚えていないころの自分の呼び名だ。この町では、帳付けと呼ばれる。こちらは、自分で覚えている。
マグダは荷を下ろすなり、外套を引っかけた。
「顔役に、挨拶してくる。冬に世話になったからね」
帰ってきたのは、夜が更けてからだった。何を話してきたのかは、言わないままだった。
◇
川の町を出て、一日半。
街道は麦の畑を離れ、低い丘にかかった。丘を越えると、道の先に白い壁が見えた。
壁は白く、人の背の倍ほどの高さだ。街道に沿ってしばらく続き、真ん中に門がある。門は開いている。両脇に立っているのは、黒い装いの兵ではなく、王家の印を胸につけた兵が二人。壁の向こうに、屋根の低い建物が幾つか並んで、夕日を受けていた。
ユリアンが、先に立った。
門の脇に、台があった。石の台だ。教会の紋が刻んである。台の上に綴りと燭台、脇に、黒い官服の若い式官が一人。式官は一行を見て、綴りを開いた。
「館の内に入る者は皆、ここで誓いを立てる。王家の客人であっても例外はない」
ユリアンが、台の前に立った。
「下げよ。北の若君に、誓いは不要だ。叔母の勅だ」
「……宰相府の定めでございます、殿下」
「ここは王家の離宮だ。私は、叔母の名で言っている」
式官は、綴りを閉じずにいた。ユリアンを見て、後ろの一行を見て、もう一度ユリアンを見た。
「定めが二つございます。宰相府の定めと、殿下のお言葉と。……どちらに従えばよいのか、私には」
「今日から、こちらだ」
ユリアンは言い切った。式官は、しばらく動かずにいた。それから、綴りを閉じて、両手で持って、台から下りた。
セシルが、台の前へ出た。
台に手を触れて、刻んである紋を見た。教会の紋だ。丘の前庭で見るのと同じ紋が、宰相府の式官の立つ台に刻んである。
「教会の紋の台に、宰相府の式官が立っていました」
セシルは、誰に言うでもなく言った。
「丘の前庭では、教会の台に立つのは教会の者です。ここでは、宰相府の者が立っていました。……書き留めます」
「前に来たときは、ここで一つ立てさせられた」
マグダが、門をくぐりながら言った。
「素通りは、いいもんだね」
「俺は、前もここで誓いませんでした」
レイフが、後ろで言った。マグダが鼻を鳴らした。
エルドは、門をくぐった。
◇
広間は、長い部屋だった。
石の床。高い窓には、まだ幕が下りていない。夕方の光が、床の上に長く落ちている。両側の壁際に、誰も立っていない。奥に机は無く、燭台が幾つか、床の上に並んでいるだけだ。
執事が、一行を迎えた。
離宮を預かる、老いた男だった。王家の印を胸につけて、膝を折らずに、胸から上を傾けた。
「北の若君を、王の客としてお迎えいたします」
声は低くて、丁寧だった。
エルドは、部屋の真ん中で足を止めた。理由は無い。長い部屋の真ん中が、足を止める所に見えた。
レイフが、後ろについた。
いつもの距離ではない。近い。人前の距離より、ずっと近い。エルドは、振り向かずに訊いた。
「ここでしたか」
「はい」
レイフは言った。少し置いて、足した。
「……ここでした」
石の床を、エルドは見た。
読んだ頁だ。奥に机があって、その向こうに誓約主が座っていて、壁際に二十の兵がいた。自分は、この床の上で剣の柄に手を伸ばし、途中で止められた。そう書いてある。書いてあるとおりの部屋に、いま立っている。
床は、冷たくも温かくもない。胸のどこも痛まない。痛まないことにも慣れた。そう思うことが、少しだけ後ろめたかった。
マグダが、壁際に立った。
奥の、机の無い所を見ている。
「あの手が上がるのを、ここで見た」
マグダは言った。誰にでもなく。
「三度目だった」
それきり、口を閉じた。エルドは、マグダのほうを見ずにいた。マグダは四度見た、と帳面にある。三度目が、この部屋だ。
◇
膳は、王家の膳だった。
白いパン。焼いた鳥。それから、煮込み。煮込みは赤みがかっていて、匂いが強い。
エルドは、匙を取った。一口、食べた。
匙が、止まった。
舌より先に、鼻の奥へ来る辛さだ。胡椒です、とレイフが隣で短く言った。
向かいで、ユリアンの匙も止まっていた。
止まったまま、ユリアンは煮込みの椀を見て、それから、エルドの椀を見た。同じ所で止まった匙が、机の上に二つある。
「……エルド殿も、ですか」
「辛いものは、駄目です」
「私もです。父も兄たちも平気で食べます。叔母は、辛いものを好みます。王宮の膳もこれです」
執事が、二つの椀を見て、近づいてきた。
「北の若君のお口に、合いませんでしたか」
「合わないのは私の舌です。膳は、よい膳です」
執事は頭を下げて、二つの椀を下げ、少しして、辛くない汁の椀を二つ運んできた。ユリアンが、少し赤くなった。王の子が王家の膳を残すのを、この執事は前にも見ているらしい。レイフは、自分の椀を黙って空にした。
◇
夜の回廊に、虫の音がしていた。
北ではまだ聞かない音だ。低い声が、庭の草の中から幾つも重なって聞こえる。エルドは、回廊の柱に背をつけて、それを聞いていた。
ユリアンが、来た。
供を連れずに、一人で。柱の隣に立って、しばらく同じ音を聞いていた。それから、庭を見たまま言った。
「エルド殿。一つだけ、叔母から聞いたことがあります」
「伺います」
「私が北へ発つ前の晩です。叔母は、あなたを渡せない、と言いました」
渡せない。
「誰に、とは言いませんでした。なぜ、とも。……言っておくべきだと思いました。王宮で叔母の口から聞くより、先に」
「誰に、渡さないのですか」
エルドは訊いた。ユリアンは、首を振った。
「私も、そう訊きました。叔母は、それには答えませんでした。二度言わせると、怒られますので」
ユリアンは、そこで少し笑って、すぐに引っ込めた。
「ありがとうございます」
エルドは言った。
渡せない、は、物に言う言葉だ。誰に渡さないのかは、言った当人が知っている。その人に、六日で会う。
虫の音は、途切れずに続いていた。
◇
夜半に、蹄の音が門で止まった。
エルドは、まだ回廊にいた。一騎だ。執事の声と、若い男の声がして、それから回廊を、足音が急いで来た。ユリアンの供のゲルトだった。ユリアンを起こしに行く足だ。エルドは、柱の脇で待った。
ユリアンが、白い紙を持って回廊へ出てきた。燭台の脇で読んで、一度、読み返した。それから、顔を上げた。
「南の使節が、夏の半ばに着く、と」
ユリアンは言った。
「約束は、夏の終わりでした。……早い」
「南の、使節」
「メリディアの使節です。南の境を越えた先の国の。誓いで人を縛らない国です。約束は、紙と証人で結ぶ。……証文の国、と叔母は呼びます。去年の秋のことを、向こうも聞いています。聞いて、使いを寄越すと春に言ってきました。夏の終わりに、と」
夏の半ば。
いまは、初夏だ。夏の半ばまで、ひと月も無い。王都までは、六日。
ユリアンは、文を畳んでエルドを見た。灰色がかった青い目が、燭台の火で明るい。
「叔母が、夏の終わりまでに、と書いた訳が、これかもしれません」
エルドは、答えずに、右手を見た。王妹が自分を渡せない、と言った。南から来る使節がその相手だと、決まったわけではない。決まっていないのに、右手が、少し重かった。




