【第二部 風と鎖】第06話 あんたの言い分
レイフは、井戸の縁で桶を上げていた。
朝だ。宿場の井戸は深い。上がってきた水は、手を入れると、川の水よりずっと冷たい。馬が七頭ぶん、それに人が十人ぶん。桶で幾つ要るかは、ゆうべのうちに数えてある。
エルドは、買い出しに出ている。パンと塩と、油。籠を提げて、市のほうへ歩いていった。買い出しはエルドの受け持ちだ。マグダは宿の戸口に立って、道を見ている。道と戸口の見える所に、マグダはいつも立つ。セシルは馬の脇で、鞍の紐を確かめている。ヴァルドとオーラフ、ユリアンと供の三人は、少し離れた厩の前で、馬の支度をしていた。馬の汗と、干し草の匂いが、朝の湿った空気に混じっている。
桶を四つ目まで上げたとき、足音が一つ、近づいてきた。
ゆうべの声だ。
窓の下で、七尺の誓い断ちに頼めばいい、と言っていた声。顔は見ていないが、声は覚えている。三十半ばの男だった。背は低くないのに、レイフの前に立つと、顔を上げないと目が合わない。右の手の甲に、古い薄青の紋がある。臣従の紋だ。
「……あんたが」
男は、見上げたまま言った。
「七尺の、誓い断ちか」
レイフは桶を置いた。男を見る。嘘を言いに来た男ではなさそうだった。
「断てません」
レイフは言った。
男の口が、少し開いて、閉じた。それから言った。
「そう言うんだろうと思った。噂でもそう言うって話だ。言ってから断つんだと」
「断ちません。断てないので」
「……手を、見せてくれ」
男は、レイフの右の手を見た。桶の縁を掴んだ手だ。レイフはその手を桶から離して、男のほうへ向けた。
紋は無い。傷と、剣だこと、あかぎれの痕がある。棒を握った跡と、荷の縄の跡と、この春に沢で石を積んだ跡。それだけの手だ。
「ただの手です。……無いのは紋だけではありません。断つ力も、ありません」
男は、その手をしばらく見て、それから自分の右の手を見た。薄青の紋が、朝の光で見える。男はその手を、握った。
「うちの旦那は、丘二つ向こうの館の主でね。俺は二十年、その家の者だ」
声が低くなった。
「去年の秋から、上を見るようになった。隣の畑を買った。その払いに、うちの者の給金を止めた。二十年いる者も、去年入った者も、頭数で数える。……それまでは、そういう人じゃなかった。出ていきたい。出ていこうとすると、足が戻る」
レイフは聞いていた。聞いてから、訊いた。
「離れたいのですか」
「離れたい。……離れたら、俺は何になる。二十年あの家の者だった」
男は、自分の紋を握った手を、開かない。
レイフは、少し考えた。出てきたのは、自分のことだった。
「俺は、誓っていません」
男が、顔を上げた。
「誓わずに、毎朝離れないと決めています。八年です。……あなたにも、決められることが一つはあります」
「何を」
「仕える誓いは、行いを縛ります。口は、縛りません。あなたはその旦那に仕えると誓った。給金を止められて黙っている、とは誓っていないでしょう」
男は、答えるまでに、少しかかった。
「……誓っていない」
「なら、言えます」
「言って、どうなる。旦那は聞かん。聞かん人に言って、あとは、同じ屋根の下だ」
レイフは、それには答えられなかった。答えられることではない。同じ屋根の下にいるのは、この男だ。
男は、袖で額を拭った。拭って、何も言わずに背を向けた。宿場の道を、来たほうへ戻っていく。レイフは、その背中を見送った。
七尺、と呼ばれるたびに、背中に何かが載る。
載せているのは噂だ。噂がエルドのしたことをレイフの背丈に着せて、着せられた者が、いいえ、と答える。去年の秋、渡しの岸で、行商の女に答えた。今朝も答えた。
桶を、五つ目に上げた。水は、冷たいままだった。
◇
戸口から、マグダが来た。セシルが、馬の脇から、その後ろについてきた。
マグダは、男の消えた先を一度見て、それからレイフを見た。
「でかいの。あの男は、本気だよ」
「はい」
「額を拭ったとき、袖が上がった。袖口がほつれてた。二十年の家の者の袖じゃない。給金を止められてるってのは、本当だ」
レイフは、男の袖を思い出そうとした。見ていない。男の顔と、右の手しか見ていない。マグダは、道を見ながら、それを見ていた。
「またかい、頼まれるのは」
「はい」
「断ち手じゃないって返事だけは、もう言い慣れたね」
マグダは鼻を鳴らして、少し声を落とした。
「言えます、ってのはあんたの言い分だ。あの男が言えるかどうかは、あの男が決める。……悪い言い分じゃないよ」
セシルが、マグダの脇で言った。
「臣従の誓いは、主が死ぬか家が解けるまで解けません」
声は、いつもの高さだった。
「教本の、三十七頁です。……父の手を、思い出しました」
父の手のことは、石の前で一度、セシルが自分で言った。父も、三日でした、と。前提が消えて、静かに薄れた手。あの男の手は、前提が消えていない。消えないまま、二十年目を数えている。
三人とも、それ以上は言わずに、エルドの帰りを待った。
◇
エルドが、籠を提げて戻ってきた。
パンと、塩と、油の壺。パンは布で包んで、包みの端が揃えてある。籠を馬の脇に置いて、それから、道の先を見た。男の背中は、もう小さい。小さいが、まだ見える。
「……何か、頼まれたのですか」
「臣従の紋を、と」
レイフは言った。
「断てない、と言いました。それから、仕える誓いは口を縛らない、と」
エルドは、しばらく黙って、男の背中が角を曲がるまで見ていた。それから、こちらを向いた。
「訂正は、しないのですね」
「しません。頼まれるのは、俺でいい」
エルドは、レイフを見た。それから、自分の右の手を見た。
「レイフ。次に頼まれたら、私を呼んでください」
「呼んで、どうするのですか」
「私が、断ります」
言ってから、エルドは口を閉じた。少し置いて、続けた。
「あなたが頼まれて、私が黙っている。それでは、あなたがまた頼まれることになります。……頼みの向く先は私です」
「呼びます」
レイフは言った。
「……呼んでも、俺が先に言います」
エルドは、少し笑った。籠を取って、それから厩のほうを見た。ヴァルドが、馬に上がるところだった。
オーラフが手綱を取っている。ヴァルドは鞍の上から、宿場の道の先を一度見て、レイフを見下ろした。
「大男。あの男に、言えます、と言ったそうだな」
「はい」
仏頂面は、動かない。
「わしの家中にも、口を縛られたと思っておる者がおる。誓いではない。わしの顔でな」
ヴァルドは、馬を前へ出した。エルドが、その背中を見送って、レイフを見た。何も言わずに、少しだけ目を細めた。ヴァルドが自分の顔のことを言うのを、レイフは初めて聞いた。エルドも、たぶんそうだ。
◇
昼の街道は、暑かった。
日が真上にある。土埃が、荷車のたびに上がる。麦の匂いが、朝より濃い。南の空の端に、白い雲が高く立っていて、その下が少しだけ暗い。遠くで、雷が一度鳴った。夕立の走りだ。
ユリアンが、レイフの隣に来た。
馬を引いて、歩く速さを合わせる。
「レイフ。王宮では、あなたを何と呼べばよいですか」
「レイフ、で」
「……従士殿、と呼びます。王宮では」
ユリアンは、自分で訊いて、自分で決めた。決めると、前へ戻っていった。従士殿。呼ばれたことのない呼び方だ。悪くはない。
雷が二度目に鳴ったころ、街道の脇に荷車が一台、止まっていた。
樽を四つ積んでいる。葡萄の酒の樽だ。車輪の一つがぐらついて、荷車の主が軸に楔を打っていた。小柄な男だ。日に焼けて、髪が黒い。着ているものの襟が、この国の仕立てと違う。宿場の亭主が言った四人と、同じ色をしている。
十人と七頭が、脇を通った。
男が顔を上げて、レイフを見た。見上げる目が、レイフの足から頭まで、一度上がった。棒の長さを測るときの目だ。
「失礼」
男は言った。言葉の尻が、少し違う。南の訛りだ。
「背丈は、七尺あるかね」
「六尺と、半分です」
レイフは答えた。
男は、うなずいた。懐から小さな板と炭を出して、何かを書き留める。この国の者は、宿場で人の背丈を書き留めたりしない。男は板をしまい、楔を打ち終え、荷車を街道へ出した。
南へ。
レイフは、その背中を見ていた。荷車の樽が四つ、揺れながら小さくなっていく。エルドが、隣に来た。何も言わずに、同じ背中を見た。
測られた、とレイフは思った。
夕立が、来た。
最初の一粒が首に当たって、それから、道の白い土が一息に黒くなった。麦の匂いが、雨で立った。レイフは荷の口を締めて、エルドの籠に自分の外套の裾をかぶせた。街道の脇の楢の下に、十人と七頭が寄った。雨は長くはもたない。夕立の走りはそういうものだと、この土地の荷運びが言っていた。
雨の音の中で、レイフは自分の右の手を見た。
何も無い手だ。今朝は、それを見て頼んだ男がいた。昼には、それを見ずに背丈を書き留めた男がいた。
◇
——宿場で、頼まれた。臣従の紋。断てない、と言った。
——次は呼べ、と主に言われた。呼ぶ。呼んでも、先に言う。
——南の言葉の男に、背丈を書き留められた。夕立。




